第62話:砦の倉庫は、運送屋の心を折りにきた
翌朝。
ソータは、寝台の上で目を開けた。
最初に見えたのは、木の天井だった。
グランデリアの屋敷の天井でも、リーナの家の天井でもない。
アマゾネスの砦。
オルドアイの隣の客室。
その事実を思い出した瞬間、ソータはゆっくり息を吐いた。
(夢じゃなかったか。)
(いや、夢だったらよかったかと言われると、それも微妙だけど。)
壁の穴には、昨夜かけた布がそのまま垂れている。
向こうから鼻歌は聞こえない。
ひとまず静かだ。
ソータは体を起こし、寝台の端に座った。
昨夜のことを思い出す。
壁を切ってできた小窓。
赤いシルクの部屋着。
踊るオルドアイ。
見てしまった自分。
そして、その後の食事と会話。
ソータは両手で顔を覆った。
(見てしまった。)
(事故だ。)
(事故だけど、見とれたのも事実だ。)
(ミレイユに言うべきか?)
(いや、言わない方がいいのか?)
(でも隠すともっとまずい気がする。)
ミレイユの顔が頭に浮かぶ。
冷たい笑顔。
静かな声。
説明してもらえるかしら、という言葉。
ソータは背筋を震わせた。
(正直に言おう。)
(なるべく早めに。)
(怒られるとしても、後で大きくなるよりましだ。)
そう決めたところで、壁の向こうから声がした。
「起きたか、ソータ。」
オルドアイだった。
声は近い。
布一枚と壁一枚を隔てた向こうにいる。
「起きました。」
「よく眠れたか?」
「まあ、それなりに。」
「夢は見たか?」
嫌な聞き方だった。
ソータは一瞬だけ答えに詰まる。
その沈黙で、向こうの姫はすべてを察したらしい。
低く楽しそうに笑った。
「見たようだな。」
「ノーコメントで。」
「赤い夢か?」
「ノーコメントで。」
「分かりやすい男だ。」
ソータは額を押さえた。
朝からこれである。
だが、オルドアイの声には昨夜ほどの熱っぽさはなかった。
からかいはある。
しかし、その奥に別の硬さもある。
姫としての時間が始まっているのだろう。
「朝食の後、砦を案内する。」
「倉庫も?」
「もちろんだ。」
「……覚悟しておきます。」
「何を想像しているか知らぬが、たぶんその想像は甘いぞ。」
「やめてください。朝から怖いこと言わないでください。」
オルドアイは笑った。
「楽しみだ。」
「俺は不安です。」
「なら、なおさらよい。」
そう言って、隣の気配が遠ざかる。
ソータは小さく息を吐いた。
今日からが本番だ。
形見を手に入れるために、婿入り以外の道を探す。
そのためには、この砦が何に困っているのかを見なければならない。
そしてもし、ソータの力で解決できるなら、それを交渉材料にする。
(よし。)
(仕事だ。)
(これは仕事。)
(運送屋としての仕事だ。)
そう考えると、少し気持ちが落ち着いた。
恋愛や誘惑では頭が混乱する。
だが、荷物や倉庫なら、まだ戦える。
そう思っていた。
この時までは。
◆◇◆
朝食は、昨日と同じように部屋へ運ばれてきた。
ただし、運んできた女戦士は昨夜とは違った。
背が高く、短く切った黒髪の女で、ソータを見るなりにやりと笑う。
「姫の隣で一晩無事だったか。」
「無事です。」
「本当に?」
「本当に。」
「姫がつまらなそうにしていたぞ。」
「それは俺の責任じゃないと思います。」
女戦士は声を立てて笑い、食事を置いた。
「今日は倉庫を見るらしいな。」
「はい。」
「倒れるなよ。」
「そんなにですか?」
「見れば分かる。」
その一言を残して、女戦士は出ていった。
ソータは木皿を見つめる。
朝食はしっかりしていた。
焼いた肉。
根菜の煮物。
固めのパン。
温かい汁物。
味は悪くない。
むしろ、かなりうまい。
少なくとも食材は豊かだ。
(食事はちゃんとしてる。)
(倉庫がやばいと言っても、食料不足って感じではないのか?)
(いや、食事がうまいのと倉庫が整理されているのは別問題だ。)
ソータは前世の記憶を思い出した。
料理のうまい店でも、裏の倉庫が地獄みたいなことはある。
使う人間が経験で把握しているから回っているだけで、仕組みとしては危うい場所。
それに似ている可能性がある。
朝食を終えると、扉が叩かれた。
開けると、オルドアイが立っていた。
昨夜の赤い部屋着ではない。
革と布を組み合わせた戦士の装い。
肩や腕は動きやすいように露出しているが、いやらしさよりも機能美が強い。
弓を背負い、腰には昨夜壁を切ったと思われる三日月形の小刀。
髪は高く結われ、装飾も控えめになっている。
確かに、姫としての姿だった。
ソータは少しだけ見入った。
オルドアイが目を細める。
「今の目は、昨夜とは違うな。」
「え?」
「少し尊敬が混じっていた。」
「……そうかもしれません。」
「正直でよい。」
オルドアイは満足そうに笑う。
「来い。まずは砦を見せる。」
「はい。」
ソータは立ち上がる。
部屋を出ると、廊下の先にガルド、レオン、バルクがそれぞれ別方向から現れた。
全員、無事だった。
ただし、レオンは少し疲れた顔をしている。
「レオン、大丈夫か?」
「寝不足っす。」
「何かあった?」
「食事運んできた人が、ずっと話しかけてきて……。距離が近いんすよ。あと、腕触ってくるんすよ。斥候の腕つきがどうとか言って。」
「それは大変だったな。」
「ソータさんほどではないと思うっすけど。」
余計な一言だった。
オルドアイが楽しそうに笑う。
ガルドは無表情だが、少し目元に疲れがある。
「ガルドさんは?」
「問題ない。」
「本当に?」
「部屋の前で女が酒を勧めてきた。」
「それ、問題では?」
「断った。」
「強い。」
バルクは妙に満足そうだった。
「飯がうまかった。」
「バルクさんは平常運転ですね。」
「女たちもよく食う。話が合ったぞ。」
「誘惑されませんでした?」
「されたかもしれんが、飯の話をしてたら終わった。」
これはこれで強い。
ソータは少し安心した。
そこへエルザも現れた。
彼女は女戦士たちの大部屋から来たようで、表情は落ち着いている。
「エルザさん、どうでした?」
「興味深かったわ。女たちは警戒心が強いけれど、話し出すと隠し事は少ないのね。」
「何か分かりました?」
「この砦は強い。でも、管理は荒い。」
短い言葉だった。
ソータはその時点で少し嫌な予感が強くなった。
「倉庫、やっぱり?」
「見れば分かるわ。」
「みんなそれ言う。」
オルドアイが笑う。
「では、見に行くぞ。」
◆◇◆
砦の中は、朝から活気に満ちていた。
広場では女戦士たちが訓練している。
弓を射る者。
槍を振る者。
丸太を担いで走る者。
木材を加工する者。
火のそばで食事の支度をする者。
子どもたちもいるが、彼女たちも小さな弓を持って練習していた。
ソータは歩きながら周囲を見る。
砦はただの軍事拠点ではない。
生活の場でもある。
女たちはここで暮らし、訓練し、狩りをし、砦を守っている。
半年に一度しか男たちが来ないという話も、昨日より少し現実味を持って感じられた。
オルドアイは先頭を歩きながら説明する。
「ここは訓練場。奥が弓場。あちらが皮をなめす場所。食事場は向こうだ。」
「かなり大きいですね。」
「砦だからな。」
「人数は?」
「外へ出ている者も含めれば百を超える。子どももいる。」
「それだけいるなら、物資管理は大変そうですね。」
「だから見せる。」
ソータは一瞬、足を止めそうになった。
やはりそういう話らしい。
ガルドが低く言う。
「砦としては強い。」
「ええ。」
エルザが頷く。
「防衛はかなり整っているわ。見張りの位置も悪くない。」
レオンも周囲を見ながら言う。
「隠し通路っぽいものもありますね。あと、高い場所からの射線がうまいっす。」
バルクは訓練場を見て笑う。
「正面から攻めたくねえ砦だ。」
オルドアイは少し誇らしげだった。
「当然だ。我らは弱くない。」
「それは分かります。」
ソータは素直に言った。
オルドアイがちらりと見る。
「褒めているのか?」
「褒めてます。」
「ならよい。」
彼女は少しだけ嬉しそうに前を向いた。
誘惑してくる時とは違う顔だった。
自分の砦を誇る姫の顔。
それを見て、ソータは少しだけ印象を改める。
彼女はただソータをからかっているだけではない。
この場所を背負っている。
だからこそ、ソータの力を欲しがっているのだろう。
◆◇◆
倉庫は砦の奥側にあった。
大きな建物だった。
外から見れば、頑丈そうだ。
太い柱。
厚い扉。
雨を避けるための大きな屋根。
壁には換気のためらしい隙間もある。
ここまでは悪くない。
ソータは少しだけ安心した。
だが、扉が開いた瞬間。
その安心は吹き飛んだ。
「……。」
ソータは無言になった。
倉庫の中は、物で溢れていた。
食料の袋。
干し肉の束。
獣皮。
薬草の束。
矢。
弓の予備部品。
槍の柄。
壊れた盾。
鍋。
布。
縄。
青い石の入った箱。
用途不明の木箱。
古い道具。
新しい道具。
まだ使えるもの。
もう使えないもの。
それらが、広い倉庫の中に、雑然と積まれていた。
ただし、完全なゴミ山ではない。
場所ごとに何となく分けられてはいる。
食料らしき場所。
武器らしき場所。
布らしき場所。
獣皮らしき場所。
だが、その境界が曖昧で、物が少しずつ侵食し合っている。
食料の横に油の壺。
薬草の近くに湿った獣皮。
矢の束の下に布袋。
壊れた道具の奥に新しい縄。
青い石の箱の隣に干し肉。
ソータは額に手を当てた。
(これは。)
(これは駄目だ。)
(前世の倉庫でも普通に怒られるやつだ。)
レオンが小声で言う。
「ソータさん、顔が死んでるっす。」
「生きてる。」
「でも目が。」
「目は少し死んだかもしれない。」
エルザは倉庫内を見て、静かに言った。
「昨夜、女たちが言っていた通りね。」
「何て言ってたんですか?」
「必要なものは誰かが覚えているから大丈夫、と。」
「一番危ないやつだ。」
ソータは思わず言った。
オルドアイが首を傾げる。
「何が危ない?」
「誰かが覚えているから大丈夫、は、その誰かがいない時に終わります。」
倉庫内にいた数人の女戦士たちが顔を見合わせた。
オルドアイは少し驚いたようにソータを見る。
「そういうものか?」
「そういうものです。」
ソータは倉庫の入口から中を見渡す。
まず動線が悪い。
入口近くに重いものが積まれていて、中へ入りにくい。
よく使うものと、ほとんど使わないものが混ざっている。
湿気に弱いものの置き場も悪い。
食料と薬草の管理も危うい。
武器類はまだましだが、矢の保管はかなり不安だ。
「これ、冬前に困りませんか?」
ソータが聞くと、倉庫番らしい女が目を見開いた。
「なぜ分かった?」
「分かります。」
「毎年、冬前になると足りぬものが見つかる。」
「でしょうね。」
「あと、多すぎるものも見つかる。」
「でしょうね。」
「なぜ分かる?」
「見れば分かります。」
今度はソータがその言葉を返した。
オルドアイが吹き出す。
「なるほど。これが、お前が見ると分かるものか。」
「笑いごとではないです。」
「怒っているのか?」
「怒ってはいません。ただ、ものすごく整理したいです。」
その言葉に、倉庫内の女たちがざわついた。
オルドアイの目が鋭く光る。
「できるのか?」
「できます。」
即答だった。
ソータ自身も驚くほど、はっきり言った。
これはできる。
剣で勝てと言われたら困る。
オルドアイを口説き落とせと言われても困る。
だが、倉庫を整理しろと言われたら、できる。
しかも、この砦にとって大きな価値がある。
(見つけた。)
(交渉材料。)
ソータは胸の奥でそう思った。
◆◇◆
ヤンガルドアイは、いつの間にか倉庫の入口に立っていた。
大きな体。
鋭い目。
彼女はソータを見ていた。
「できると言ったな。」
「はい。」
「この倉庫を整えられるか。」
「整えられます。ただし、勝手に全部を動かすと混乱します。まず、何がどれだけあるか確認する必要があります。」
「時間は?」
「規模によります。一日で完璧には無理です。でも、危険な置き方を直して、よく使うものを出しやすくし、食料と薬草を分けるくらいなら今日からできます。」
ヤンガルドアイの目が細くなる。
「それで砦は強くなるか。」
「なります。」
ソータははっきり答えた。
「武器を取りに行くのが早くなる。食料の残りが見える。傷むものを減らせる。足りないものが分かる。冬前に慌てなくて済む。怪我人が出た時に薬を探す時間も減る。」
倉庫内が静かになった。
女戦士たちの顔が変わっていく。
ただ整理する、という言葉では響かなかったかもしれない。
だが、砦が強くなると言えば違う。
戦士たちには、それが分かる。
ヤンガルドアイは低く笑った。
「戦わずに砦を強くする男か。」
オルドアイが隣で嬉しそうに言った。
「だから面白いと言っただろう、母上。」
「ああ。面白い。」
ヤンガルドアイはソータへ一歩近づく。
「やってみせろ。」
「はい。」
「ただし、我らの女たちも使え。お前一人で抱えるな。」
「その方が助かります。実際に使う人が分かっていないと、整理しても続きませんから。」
「続く形にする、か。」
ヤンガルドアイは少しだけ感心したように言った。
「商人の女が好みそうな言葉だな。」
「ミレイユもたぶん同じことを言います。」
「その女、ますます見たくなった。」
「できれば穏便にお願いします。」
オルドアイが笑う。
「では、まずは倉庫整理だな。」
ソータは頷いた。
そして、倉庫の中へ足を踏み入れた。
じめっとした空気。
混ざった匂い。
雑然と積まれた物資。
見れば見るほど、直したい場所が増える。
だが、不思議と気持ちは落ち着いていた。
これはソータの領域だ。
荷物。
配置。
動線。
在庫。
必要なものを必要な時に取り出せる形にする。
それは、前世から体に染みついた仕事だった。
「まず、入口を空けます。」
ソータは言った。
「よく使うもの、重いもの、傷みやすいもの、危険なもの。大きく四つに分けます。細かい分類はその後です。」
倉庫番の女たちが頷く。
ガルドたちも自然に動き出した。
レオンはすばしこく軽いものを運び、バルクは重い箱を軽々と持つ。
ガルドは壊れた武器と使える武器を見分け、エルザは矢や弓の保管場所を確認する。
オルドアイは腕を組んで見ていたが、すぐに自分も動き始めた。
「私は何をすればいい。」
ソータは一瞬驚いた。
だが、すぐに答える。
「倉庫でよく使うものを教えてください。戦士たちが何を一番取りに来るか。」
「分かった。」
オルドアイの顔が真面目になる。
昨夜の赤い絹の姫ではない。
砦の物資を把握しようとする姫の顔だった。
ソータは小さく頷く。
(よし。)
(ここからだ。)
形見を取り戻す交渉の第一歩。
それは、剣でも魔法でもなく。
倉庫の入口を空けることから始まった。




