第61話:隣室の姫は、壁を切って罠を仕掛けた
ソータは、与えられた客室を一通り見回していた。
木の床。
獣皮の敷かれた寝台。
小さな机。
水差し。
壁に埋め込まれた青い石。
部屋そのものは簡素だが、不潔ではない。
むしろ、砦の暮らしに必要なものだけを残した、実用的な部屋だった。
ただ一つ問題があるとすれば、隣がオルドアイの部屋だということだった。
(近いな。)
(監視としては合理的なんだろうけど、こっちの心臓には悪い。)
ソータは壁際へ近づき、青い石を眺めた。
淡い青色の石は、灯りの加減でわずかに光っているように見える。
リーナの父の形見かもしれない腕輪。
ゴブリン村で拾った欠片。
この砦の柱や壁に埋め込まれていた石。
すべてが、少しずつ一本の線になってきていた。
だが、その線の先には、リーナに伝えなければならない残酷な事実がある。
数年前、ゴブリンに追われてきた男たち。
砦の前で倒れていた彼ら。
看病されたが、全員死んだという話。
リーナの父だと決まったわけではない。
だが、青い石の腕輪が形見として残っている以上、可能性は限りなく高い。
(形見は持って帰る。)
(そのために、何とか条件を変えないといけない。)
ソータは眉間を押さえた。
ヤンガルドアイの条件は乱暴だった。
身内になるか、殺されるか。
形見が欲しければ、オルドアイの婿になれ。
理屈としては砦の秘密を守るためだと分かる。
けれど、受け入れられる話ではない。
ソータにはミレイユがいる。
帰る場所がある。
約束がある。
(とにかく、時間はもらった。)
(二、三日の間に、交渉できる材料を探す。)
部屋を調べるのは、そのためでもあった。
この砦が何を大事にしているのか。
何に困っているのか。
ソータの力で何を提供できるのか。
婿入り以外の形で、身内に近い信用を得る方法はないか。
そう考えながら壁や机を確認していた、その時だった。
「なんだお前は! どこから入ってきた!」
隣室から、オルドアイの鋭い声が響いた。
ソータの体が反射的に強張る。
「オルドアイ!?」
何かあったのかと壁へ向き直った直後。
すぱっ、と軽い音がした。
隣との壁に、細い切れ目が走る。
続いて、すぱすぱすぱっと三度。
三日月形の小刀らしき刃が、木の壁をまるで布でも裂くように走った。
切り口は驚くほど滑らかで、雑に壊したというより、最初からそこに小窓を作るつもりだったような正確さだった。
最後に、四角とも丸ともつかない小さな木片が、ころんとソータの部屋側へ落ちた。
壁に、小さな窓枠のような穴が開いた。
ソータはしばらく、その穴を見つめることしかできなかった。
「……え?」
穴の向こうから、オルドアイの声がした。
「何やら虫がいたようだ。」
「虫?」
「ああ。逃げた。」
「そ、そうなのか。」
ソータは落ちた木片を見る。
綺麗に切り抜かれた壁。
こちらを覗ける程度の穴。
虫を追い払うには、あまりにも不自然な作業だった。
「虫を追い払うために壁を切ったのか?」
「必要だった。」
「本当に?」
「必要だった。」
同じ答えを、少し強めに返された。
ソータはそれ以上、追及するのをやめた。
この砦の常識かもしれない。
いや、たぶん違う。
違うが、今はそういうことにしておいた方がいい。
すると、隣から妙に明るい声がした。
「さて、部屋着にでも着替えるか。」
ソータは嫌な予感がした。
かなり強い予感だった。
「おいおい、何してるんだ?」
「着替えると言った。」
「いや、壁に穴が開いてるんだけど。」
「虫を追い払った穴だ。」
「その穴、こっちから見えるんだけど。」
「なら見なければいい。」
「正論みたいに言うな。」
ソータは即座に壁へ背を向けた。
見るな。
絶対に見るな。
これは罠だ。
しかも、かなり分かりやすい罠だ。
けれど、分かりやすいからといって安全とは限らない。
金属の留め具が外れる音がした。
革が擦れる音。
装飾が机に置かれる音。
そして、オルドアイの鼻歌。
ソータは部屋の反対側まで歩いた。
(落ち着け。)
(これは危険物だ。)
(触るな、覗くな、開けるな。)
(ミレイユを思い出せ。)
思い出すまでもなかった。
商会の前で自分を見送ったミレイユの顔。
私のことを少しでも忘れたら許さないわ、と言った声。
あれが頭の中に強く残っている。
だからこそ、ここで振り向くわけにはいかない。
「ソータ。」
穴の向こうから、オルドアイが呼んだ。
「はい。」
「見ていないのか?」
「見ません。」
「なぜだ。」
「恋人がいるので。」
「その商人の女か。」
「はい。」
「律儀だな。」
「大事なので。」
少しの沈黙。
それから、楽しそうな笑い声。
「なら、なおさら見せたくなる。」
「やめてください。」
「嫌だ。」
布がさらりと揺れる音がした。
それだけで、ソータの意識が壁の方へ引っ張られる。
視界には入れていない。
だが、音だけで十分に危険だった。
オルドアイは強い。
剣や弓の強さだけではない。
自分の魅力を理解し、それをまっすぐ武器として使ってくる。
ミレイユが言葉で距離を詰める人なら、オルドアイは体温と視線で退路を塞いでくる人だった。
「着替えたぞ。」
やがて隣から声がした。
「そうですか。」
「見ないのか?」
「見ません。」
「つまらぬ。」
「つまらなくていいです。」
「では、こちらから見せるか。」
「何を言って……。」
ソータは思わず振り返りかけて、ぎりぎりで止まった。
視界の端に赤が揺れた。
深い赤。
夜の灯りを吸うような、薄く滑らかな布。
それが壁の穴の向こうで、ふわりと動いた。
「オルドアイ。」
「何だ。」
「それ、本当に部屋着なのか?」
「そうだ。」
「薄くないか?」
「涼しい。」
「別の目的があるだろ。」
「ある。」
「言い切ったな。」
オルドアイの笑い声が、穴を通って近く聞こえた。
彼女は隠す気がまったくない。
むしろ、隠さないことそのものを楽しんでいる。
◆◇◆
隣室で、オルドアイが鼻歌を歌い始めた。
低く甘い旋律だった。
床板がかすかに鳴る。
ゆっくりとした足音。
布の揺れる音。
どうやら本当に踊っているらしい。
「何してるんだ?」
「踊っている。」
「なぜ?」
「部屋着の着心地を確かめている。」
「嘘が雑だ。」
「ついでに、お前を口説いている。」
「ついでが重い。」
ソータは片手で顔を覆った。
だが、耳は塞げない。
想像するなと言われても、音だけで想像してしまう。
赤い薄絹。
褐色の肌。
鍛えられたしなやかな体。
野性味のある美貌。
戦士でありながら、自分の女としての魅力を隠そうとしない姿。
(見るな。)
(見るなよ、俺。)
(ここで見たら負けだ。)
そう思えば思うほど、意識は壁の小さな穴へ向かった。
ミレイユに申し訳ない気持ちと、男としてのどうしようもない好奇心がぶつかる。
ソータは木目を数えることにした。
一。
二。
三。
隣で布が揺れる。
四。
五。
オルドアイが小さく笑う。
六。
七。
足音が近づく。
八。
(無理だ。)
気づけば、ソータはほんの少しだけ視線を動かしていた。
完全に振り向いたわけではない。
そう言い訳したかった。
けれど、小さな穴の向こうにいるオルドアイの姿は、視界に入ってしまった。
赤いシルクの部屋着は、薄く、軽く、彼女の動きに合わせてなまめかしく揺れていた。
透ける布の奥に見える輪郭は、戦士として鍛えられた強さと、女としての柔らかさを同時に持っている。
腕を上げ、腰をひねり、髪を流す。
獣のような鋭さと、舞姫のような艶やかさが一つになっていた。
ソータは、見とれてしまった。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬で、オルドアイは十分だったらしい。
彼女は顔だけこちらへ向け、勝ち誇ったように笑った。
「見たな。」
ソータはすぐに目を逸らした。
「見てない。」
「見た。」
「視界に入っただけだ。」
「それを見たと言う。」
「事故です。」
「なら、もう一度事故を起こすか?」
「起こさないでください。」
オルドアイは喉を鳴らして笑った。
「お前、面白いな。恋人がいると言いながら、私を見て固まる。」
「それは……。」
「私が美しいからか?」
直球だった。
否定すれば嘘になる。
肯定すればさらに追い込まれる。
ソータが黙ると、オルドアイは満足そうに笑った。
「沈黙は肯定だな。」
「ずるい。」
「狩りはずるい方が勝つ。」
「俺、狩られてるのか。」
「今はな。」
ソータは天井を見上げた。
(ミレイユ。)
(ごめん。)
(俺は何もしてない。)
(でも、見てしまった。)
(これは事故です。)
心の中の言い訳は、あまりにも弱かった。
◆◇◆
廊下の方から、レオンの声が聞こえた。
「いや、食事はありがたいっすけど、近いっす!」
どうやら、彼の部屋にもアマゾネスの女が食事を運んできたらしい。
続いて、どこか遠くからバルクの声。
「うまいな、この肉!」
こちらは順応が早い。
さらに低い声で、ガルドが言う。
「そこに置け。」
その後、女の笑い声。
男たちの部屋も、それぞれ大変なことになっているようだった。
ソータは少しだけ気が抜けた。
全員、生きてはいる。
精神的に無事かは分からないが。
「お前の仲間も歓迎されているようだな。」
オルドアイが言う。
「歓迎の意味が広すぎる。」
「飯を運び、言葉を交わす。立派な歓迎だ。」
「それ以上も狙ってるだろ。」
「気に入れば当然だ。」
「この砦、怖いな。」
「強い女が多いからな。」
オルドアイは悪びれない。
その堂々とした態度に、ソータは少しだけ感心してしまう。
価値観が違う。
生き方が違う。
だが、彼女たちは彼女たちなりの掟と誇りで動いている。
だから厄介だ。
ただの悪人ではない。
ただの敵でもない。
交渉しなければならない相手だ。
しかも、そのうち一人が自分を誘惑してくる。
「ソータ。」
オルドアイの声が、少しだけ変わった。
からかいの色が薄れ、別の熱が混じる。
「本当に、私の婿になる気はないのか?」
「ありません。」
ソータははっきり答えた。
「即答か。」
「曖昧にしたら失礼なので。」
「私にか?」
「オルドアイにも。ミレイユにも。」
穴の向こうが少し静かになる。
ソータは壁を見たまま続けた。
「形見は欲しいです。リーナに届けたい。お父さんのことを、ちゃんと伝えたい。」
「ああ。」
「でも、そのために自分の約束を捨てることはできません。」
「殺されるかもしれぬぞ。」
「それはかなり困ります。」
オルドアイが小さく笑った。
「かなり困る、か。」
「本気で困ります。」
「怖くはないのか?」
「怖いです。」
「なら、なぜ譲らぬ。」
ソータは少し考えた。
怖い。
当然怖い。
この砦の女たちは強い。
ヤンガルドアイも本気なら、こちらを逃がさないだろう。
でも、怖いからといってミレイユとの約束を捨てれば、ソータは自分で自分を信じられなくなる。
「帰るって約束したからです。」
ソータは静かに言った。
「待っている人がいる。俺が持って帰らなきゃいけない荷物がある。だから、ここに残るとは言えません。」
オルドアイは黙った。
やがて、布の揺れる音が近づく。
彼女は穴の近くに座ったらしい。
「お前は欲で動く男ではないのだな。」
「欲がないわけではないです。」
「私を見て固まったしな。」
「それは言わないでください。」
「だが、線は譲らぬ。」
オルドアイの声が、少し楽しそうに戻る。
「ますます欲しくなった。」
「逆効果だった。」
「良い男を口説くには、手間がかかる方が面白い。」
「俺は全然面白くないです。」
◆◇◆
しばらくすると、ソータの部屋にも食事が運ばれてきた。
運んできたのは若いアマゾネスが二人。
木皿に盛られた肉料理。
香草の効いたスープ。
焼いた根菜。
果実。
量は多いが、香りは良い。
ただ、二人の女戦士は食事を置いた後も、興味深そうにソータを見ていた。
「姫が気に入った男か。」
「確かに細い。」
「だが、目が逃げるな。」
「逃げる?」
ソータが聞き返すと、二人は笑った。
「女慣れしていない目だ。」
「姫が喜びそうだ。」
「本人の前で言わないでください。」
隣の穴の向こうから、オルドアイの声が飛んだ。
「その男は私が口説いている。手を出すなよ。」
女戦士たちはさらに笑う。
「姫、壁越しに見張りですか。」
「逃げると困るからな。」
「さすがです。」
「さすがじゃない。」
ソータの抗議は当然のように流された。
二人が出ていくと、部屋に食事の香りと、妙な疲労だけが残った。
ソータは木皿を手に取り、まず肉を一口食べた。
うまい。
悔しいが、うまい。
香草の使い方がしっかりしていて、肉の臭みも少ない。
バルクが喜んでいた理由が分かった。
「うまい。」
「だろう。」
オルドアイの声が、どこか誇らしげに聞こえる。
「我らは狩りも料理もできる。」
「それはすごい。」
「なら婿に来い。」
「話を戻さない。」
ソータは食事を進めながら、頭の中を整理した。
形見はまだヤンガルドアイの手元。
砦の秘密を知った以上、ただ帰ることは難しい。
だが、二、三日の猶予がある。
その間に、婿入り以外の解決策を探す。
必要なのは、砦にとってソータを殺すより、帰した方が得だと思わせる材料だ。
(この砦が困っていること。)
(俺が解決できること。)
(それを見つける。)
その時、オルドアイが言った。
「明日、砦を案内してやる。」
「いいんですか?」
「母上も、お前に見せたいものがあるはずだ。」
「見せたいもの?」
「この砦の暮らしだ。」
オルドアイの声は、少し真面目だった。
「お前が本当に群れを生かす男なら、見れば分かるものがあるだろう。」
ソータは食事の手を止める。
見れば分かるもの。
砦の暮らし。
物資。
倉庫。
備蓄。
その言葉だけで、前世の経験が反応した。
乱れた在庫。
使いにくい動線。
置いた本人しか分からない荷物。
湿気で傷む食料。
壊れた道具と使える道具が混ざった棚。
そういう嫌な光景が頭に浮かぶ。
「……倉庫、ありますよね。」
「ある。」
「もしかして、荒れてます?」
隣で、オルドアイが少し黙った。
それから、低く笑った。
「明日、自分の目で見ろ。」
「怖い。」
「私は楽しみだ。」
ソータは深く息を吐いた。
どうやら、この砦でソータにできることは、思ったより早く見つかるかもしれない。
ただし、それが婿入り回避に繋がるかどうかは、まだ分からない。
◆◇◆
食事を終えた後、ソータは壁の穴に布をかけた。
完全に塞げるわけではないが、何もしないよりはましだ。
すぐに向こうから声がする。
「塞いだな。」
「塞ぎました。」
「つまらぬ。」
「こっちは安心です。」
「私を見たくないのか?」
「見たくないわけではないです。」
「ほう。」
「でも、見たら困るので塞ぎました。」
「正直だな。」
「もう正直にいくことにしました。」
オルドアイはしばらく黙った後、小さく笑った。
「明日も口説く。」
「宣言しないでください。」
「心構えができるだろう。」
「できても困ります。」
「そして、私の真面目な姿も見せてやる。」
「姫としての?」
「ああ。私はこの砦の姫だからな。」
その声には、誇りがあった。
ソータは布越しの小さな穴を見つめる。
オルドアイは誘惑してくる危険な女性だ。
けれど、それだけではない。
霧を操り、砦を守り、仲間を率いる姫でもある。
明日見るのは、そういう彼女なのだろう。
(そこを見誤ったら駄目だな。)
ソータは寝台に横になった。
疲れているはずなのに、すぐには眠れそうになかった。
隣にはオルドアイ。
砦の奥には形見。
別室には仲間たち。
遠くの村にはリーナ。
さらに遠くの街にはミレイユ。
(積み荷、多すぎる。)
それでも、落とせない。
どれも大事な荷物だった。
隣の部屋から、オルドアイの鼻歌が微かに聞こえる。
甘く、危険で、耳に残る歌だった。
ソータは毛布をかぶり、ミレイユの顔を思い浮かべながら目を閉じた。
その夜、夢の中で赤い絹が揺れたことは、絶対に誰にも言えなかった。




