第60話:形見の代償は、婿入りだった
広間の空気は、さっきまでの笑いを少しだけ残しながらも、確かに重くなっていた。
ヤンガルドアイは奥の席に戻り、肘掛けに片腕を置いてソータを見ている。
その視線は強い。
値踏みする目でもあり、獲物を見る目でもあり、長として外の者を測る目でもあった。
オルドアイは相変わらずソータの近くにいる。
近い。
かなり近い。
腰に手を当て、どこか楽しそうにこちらを見ている。
ソータの後ろには、ガルド、エルザ、レオン、バルクが並んでいた。
誰も気を抜いていない。
砦の女戦士たちも、壁際や柱の近くに立ち、こちらを見ている。
敵意は薄い。
だが、逃がす気もない。
そんな空気だった。
(すごい場所に来たな。)
(迷いの霧を抜けたと思ったら、女戦士だらけの砦。)
(しかも、婿になれとか言われてる。)
(ミレイユ、俺は本当に何もしてない。)
(本当に。)
ソータは心の中で必死に言い訳をした。
もちろん、ミレイユはここにいない。
でも、いないからこそ怖い。
帰った時、どう説明すればいいのか。
今から胃が少し痛かった。
ヤンガルドアイが口を開いた。
「青い石を持つ男の話だったな。」
ソータはすぐに背筋を伸ばした。
「はい。」
リーナの父。
それが、ここへ来た本当の目的だ。
どれだけオルドアイが距離を詰めてこようと、ヤンガルドアイが婿入りを迫ってこようと、この話だけは外せない。
ソータは《神速積載庫》から布に包んだ青い石の欠片を取り出した。
ゴブリン村の奥、北へ続く道の近くで拾ったものだ。
それを広げると、広間の女戦士たちの視線が一斉に集まった。
小さな欠片。
だが、青白い光をほんのわずかに宿している。
ヤンガルドアイの目が細くなった。
「霧導きの石だな。」
「やっぱり、ここにある石なんですか?」
「この森の奥で採れる。砦の霧を扱うためにも使う。外の者が持つことは少ない。」
ソータの胸がどくりと鳴った。
外の者が持つことは少ない。
つまり、リーナの父は、この砦か、この森の奥と何らかの関わりを持っていた可能性が高い。
「数年前。」
ヤンガルドアイはゆっくり語り始めた。
「ゴブリンに追われてきた男たちが、数名、この砦の前で倒れていた。」
ソータは息を止めた。
リーナの父だけではない。
数名。
トムの話とも繋がる。
「彼らは傷だらけだった。血を流し、息も細く、霧の外側で倒れていた。普通なら、外の者は砦に入れぬ。だが、その中の一人が霧導きの石を持っていた。」
「青い石の腕輪を?」
「腕輪だったか、首にかけていたかまでは覚えておらぬ。だが、青い石は確かにあった。」
リーナの父だ。
そう断言したくなった。
だが、ソータは口を閉じた。
まだ確定ではない。
でも、胸の奥ではほとんど分かっていた。
「その人たちは……どうなったんですか?」
声が少し掠れた。
ヤンガルドアイは、ほんの少しだけ目を伏せた。
意外なほど静かな表情だった。
「砦で数日看病した。」
広間が静まる。
「薬も使った。傷も縫った。熱も下げようとした。だが、全員死んだ。」
ソータの胸が重く沈んだ。
リーナの顔が浮かぶ。
待つと決めた時の顔。
薬包を渡した時の震える手。
お父さんが生きていたら、と言って入れてくれた弱った人用の薬。
それを思い出すと、喉の奥が詰まった。
(どう伝えればいい。)
(まだ、リーナのお父さんだと決まったわけじゃない。)
(でも……。)
ガルドたちも黙っていた。
エルザは目を伏せている。
レオンは唇を噛んでいた。
バルクも珍しく何も言わない。
ヤンガルドアイは続ける。
「我らは外の者を好んで受け入れる部族ではない。だが、死にかけた者を放るほど、獣でもない。」
「ありがとうございます。」
ソータは頭を下げた。
リーナの父かもしれない男たちを、少なくとも看病してくれた。
そのことには礼を言わなければいけないと思った。
ヤンガルドアイは少しだけ眉を上げた。
「礼を言うのか。」
「はい。助けようとしてくれたんですよね。」
「助からなかった。」
「それでもです。」
ヤンガルドアイはしばらくソータを見た。
そして、少しだけ笑う。
「不思議な男だ。」
「最近よく言われます。」
「だろうな。」
オルドアイも隣で小さく笑った。
だが、さっきまでのからかうような笑いとは違っていた。
少しだけ、真面目な色があった。
◆◇◆
ヤンガルドアイは近くにいた女戦士へ視線を送った。
「奥の箱を持ってこい。」
「はい。」
女戦士がすぐに広間の奥へ消える。
しばらくして、古びた小さな木箱を持って戻ってきた。
箱は丁寧に保管されていたようだった。
埃は少ない。
だが、時間が経っているのは分かる。
ヤンガルドアイは箱を受け取り、ソータの前に置いた。
「死んだ男たちの形見だ。」
ソータは息を呑んだ。
「形見……。」
「名も家も分からぬ者たちだった。だが、持ち物をすべて捨てるのも後味が悪かったのでな。残しておいた。」
箱の蓋が開けられる。
中には、いくつかの小さな品が入っていた。
錆びかけた金具。
古い布。
割れた腕輪の一部らしきもの。
小さな木札。
そして、青い石の欠片がはまっていたと思われる細い輪。
ソータの胸が強く鳴った。
(腕輪……。)
リーナの言っていた、青い石の腕輪。
完全な形ではない。
石も欠けている。
だが、これがそうなのかもしれない。
ソータは手を伸ばしかけて、止めた。
勝手に触れていいものではない気がした。
ヤンガルドアイが言う。
「欲しいならくれてやる。」
「いいんですか?」
「ああ。」
ソータは思わず頭を下げかけた。
だが、ヤンガルドアイは続けた。
「ただし。」
嫌な予感がした。
ものすごく嫌な予感がした。
オルドアイが隣でにやりと笑った。
ソータの背中に冷たい汗が流れる。
「ソータ。お前はオルドアイの婿になれ。」
広間が静かになった。
そして、何人かの女戦士が楽しそうに笑った。
ソータは固まった。
「……はい?」
「形見が欲しいのだろう。」
「それと婿入りがどう繋がるんですか。」
「この砦を知った。」
ヤンガルドアイの目が鋭くなる。
「迷いの霧を抜け、砦の中へ入り、我らの姿を見た。外へ戻って、誰にも話さぬとどう保証する?」
「話しません。」
「言葉だけでは足りぬ。」
声が重くなった。
「この砦を知った外の男には、道は二つだ。」
ソータは喉を鳴らした。
「身内になるか、殺されるか。」
広間の空気が一段冷えた。
冗談ではない。
ソータにも分かった。
さっきまで豪快に笑っていた女王が、今は砦の長として話している。
この砦は隠された場所だ。
霧で守り、魔物を狩り、外の者を遠ざけている。
その秘密を知った者を、簡単に帰すわけにはいかない。
理屈は分かる。
分かるが、内容が重すぎる。
「母上。」
オルドアイが口を挟んだ。
「殺すには惜しい。」
「だから婿にしろと言っている。」
「それは賛成だ。」
「賛成しないでください。」
ソータは思わず言った。
オルドアイは楽しそうに笑う。
そして、急にソータへ近づいた。
近い。
また近い。
彼女は肩にかけていた獣皮の外套を少しだけずらした。
鍛えられた肩と、しなやかな腕が露わになる。
褐色の肌が焚き火の光を受けて艶を帯びていた。
胸元の装飾も少し緩められ、肌がいつもより多く見える。
動きは堂々としていて、恥じらいなどない。
むしろ、自分の体を武器として使うことに慣れている。
ソータは反射的に視線を逸らした。
「見るなとは言っていないぞ。」
「見たら問題になります。」
「誰に?」
「俺の恋人に。」
「その商人の女か。」
「はい。」
オルドアイはさらに近づき、ソータの腕に自分の腕を絡めるようにした。
柔らかさと、鍛えられた筋肉の両方が伝わってくる。
ソータは完全に固まった。
(これは駄目だ。)
(これは本当に駄目なやつだ。)
(ミレイユ、俺は今、石像になって耐えています。)
(本当に何もしていません。)
オルドアイは耳元に顔を寄せる。
「私では不満か?」
「そういう問題ではないです。」
「では、私を女として見られぬか?」
「見られないわけではないです。」
言ってから、ソータは自分の口を呪った。
正直に答えすぎた。
オルドアイの笑みが深くなる。
「なら、問題は少ないな。」
「大問題です。」
「恋人がいるからか?」
「はい。」
「なら、その恋人も連れてくればいい。」
「話を広げないでください。」
広間の女戦士たちが面白そうに見ている。
完全に娯楽になっていた。
レオンが後ろで小声で言う。
「ソータさん、すごい状況っすね。」
「助けてくれ。」
「無理っす。」
エルザが冷静に言った。
「ソータ、今は下手に抵抗しすぎない方がいいわ。でも流されても駄目。」
「難しすぎる。」
バルクが腕を組んで唸る。
「俺なら殴り合いの方が楽だな。」
「俺も今そう思ってます。」
ガルドはヤンガルドアイを見ていた。
「客人と言いながら、脅しか。」
ヤンガルドアイは笑った。
「脅しではない。砦の掟だ。」
「なら我々は?」
「お前たちも砦を知った。」
ヤンガルドアイの視線が、ガルド、レオン、バルクへ向く。
最後にエルザへ。
「だが、女は別だ。女は我らと同じ大部屋で過ごせばよい。男たちは監視付きの小部屋だ。」
「監視付きですか。」
レオンが引きつった笑いを浮かべる。
「当然だ。」
ヤンガルドアイはあっさり言った。
「だが、今すぐ殺すつもりはない。お前たちは客人として扱う。」
「客人という言葉の幅が広いですね。」
ソータが言うと、ヤンガルドアイは豪快に笑った。
「生かして飯を食わせ、寝床を与える。十分に客人だろう。」
「そう言われると否定しづらい。」
オルドアイが絡めた腕に少し力を込める。
「ソータは私の隣の客室だ。」
「隣?」
「私の部屋の隣だ。」
「なぜ?」
「逃げられては困る。」
「正直すぎる。」
「それに、近くにいれば口説きやすい。」
「それは言わなくていいです。」
オルドアイは楽しそうだった。
ソータは全然楽しくなかった。
いや、正確には混乱していた。
オルドアイは美しい。
強く、野性的で、魅力がある。
それは否定できない。
だが、ソータにはミレイユがいる。
そして今は、リーナの父の形見が目の前にある。
命の問題も絡んでいる。
あまりにも情報量が多すぎた。
(積載オーバーだ。)
(精神の積載量がオーバーしてる。)
◆◇◆
ソータは何とかオルドアイの腕から自分の腕を抜こうとした。
だが、彼女はするりと力を緩め、逆に自然な動きで隣に並ぶ。
逃がしたようで、逃がしていない。
本当に狩りの上手い獣みたいだった。
「ヤンガルドアイさん。」
ソータは女王を見る。
「俺たちは、形見をリーナ……探している人の家族に届けたいんです。」
「その娘か。父を待つ娘。」
「はい。」
「憐れではある。」
ヤンガルドアイはそう言った。
「だが、情だけで砦の掟は曲げられぬ。」
「……。」
「形見は渡す。だが、お前が我らの身内になるなら、だ。」
ソータは黙った。
ヤンガルドアイは続ける。
「考える時間をやる。」
「時間?」
「二、三日だ。」
ヤンガルドアイは指を立てた。
「その間、お前たちは客人として扱う。砦の中を見てもよい。飯も出す。寝床も与える。だが、逃げようとすれば殺す。」
「分かりやすいですね。」
「分かりやすい方がよいだろう。」
確かに分かりやすい。
ただし、とても困る。
レオンが小声で言った。
「二、三日考えるって言われても、答え一つしかないっすよね。」
「俺の中では断る一択なんだけど。」
「向こうの選択肢が、婿か死っす。」
「最悪だ。」
エルザが静かに言う。
「まずは時間を得たと考えましょう。情報を集める必要があるわ。」
ガルドも頷いた。
「今は従う。」
「はい。」
バルクが小さく言う。
「飯も出るらしいしな。」
「バルクさん、状況分かってます?」
「分かってる。だが腹は減る。」
強い。
ある意味、一番強いかもしれない。
◆◇◆
ヤンガルドアイは手を叩いた。
女戦士たちが動き出す。
「客人を部屋へ案内しろ。」
「はい。」
「女は大部屋だ。エルザと言ったな。」
エルザが一歩前へ出る。
「はい。」
「お前は女たちと同じ大部屋の一室を使え。武器は預からぬ。だが、無駄に構えるな。」
「承知しました。」
エルザは冷静だった。
女だけの大部屋ということで、警戒はしつつもまだ受け入れられるようだ。
ヤンガルドアイの視線がガルド、レオン、バルクへ移る。
「男たちは、男が来た時用の小部屋へ。それぞれ別だ。」
「別?」
レオンが少し不安そうに聞く。
「集めておくと企むだろう。」
「まあ、否定はできないっす。」
「素直でよい。」
ヤンガルドアイは笑う。
「食事は部屋へ運ばせる。外へ出る時は、女戦士をつける。」
「監視ですね。」
ガルドが言う。
「護衛とも言う。」
「便利な言葉だ。」
ヤンガルドアイは特に気にした様子もなく頷いた。
そして最後に、ソータを見る。
「ソータはオルドアイの隣の客室だ。」
「やっぱりそこなんですね。」
「当然だ。」
オルドアイが肩を寄せてくる。
「安心しろ。私が近くにいる。」
「それが一番安心できないんですけど。」
「正直だな。」
「もう取り繕う余裕がないです。」
オルドアイは愉快そうに笑った。
その笑みを見て、ソータはまたミレイユを思い出す。
ミレイユならこの状況で何と言うだろう。
おそらく、最初に冷たい笑顔を浮かべる。
次に、ソータへ
「説明してもらえるかしら。」
と言う。
そして、その後でオルドアイとヤンガルドアイを相手に、商人として交渉を始める気がする。
(ミレイユなら、何とかするのかな。)
(いや、俺が何とかしないと。)
(帰るって約束したんだから。)
◆◇◆
その頃、広間の端では、数人のアマゾネスたちが小声で話していた。
視線は、ガルド、レオン、バルクへ向いている。
「あの大きい男、よく食いそうだな。」
「盾持ちか。力はありそうだ。」
「若い方はすばしこそうだ。」
「無口な剣士も悪くない。」
「姫はソータを狙っているから、他は私たちでもよいだろう。」
レオンの耳がぴくりと動いた。
「……今、すごく不穏なこと言われませんでした?」
バルクが聞こえていないふりをしていた。
たぶん聞こえている。
ガルドは無表情だが、目だけが少し鋭くなった。
ヤンガルドアイはその様子を見て、面白そうに笑う。
「我らの女たちも、客人をもてなしたがっているようだ。」
「もてなし?」
ソータは嫌な予感がした。
「食事を運ばせる。気に入った男には、少しばかり話し相手も務めるだろう。」
「話し相手だけですか?」
レオンの声が少し裏返った。
ヤンガルドアイは堂々と言った。
「それで終わるかは、男の器量と女の気分次第だ。」
「怖いっす。」
レオンが小さく呟いた。
バルクは腕を組んだまま言う。
「飯がうまいなら、話くらいはする。」
「バルクさん、強い。」
ガルドは短く言った。
「油断するな。」
「はい。」
ソータは額を押さえた。
自分だけではない。
護衛の男たちまで、なぜかアマゾネスたちに興味を持たれている。
エルザは女性なので大部屋。
ある意味、一番安全かもしれない。
いや、女戦士たちに囲まれるので、それはそれで大変かもしれない。
「エルザさん、大丈夫ですか?」
ソータが聞くと、エルザは軽く肩をすくめた。
「あなたたちよりは安全そうね。」
「否定できない。」
「でも、情報は集めてみるわ。女同士なら聞けることもあるでしょう。」
「お願いします。」
エルザは少しだけ表情を和らげた。
「あなたは、とにかく流されないこと。」
「はい。」
「ミレイユ様を思い出しなさい。」
「ずっと思い出してます。」
「なら大丈夫……と言いたいけれど、不安ね。」
「俺も不安です。」
◆◇◆
広間での話は、そこで一旦終わった。
形見の箱は、ヤンガルドアイが一度預かることになった。
完全に渡すのは、ソータの返事を聞いてから。
そう告げられた。
ソータは悔しかった。
目の前にリーナの父の形見かもしれないものがあったのに、持ち帰れない。
だが、今ここで無理に奪えば、全員が危険になる。
それはできない。
(リーナ、ごめん。)
(でも、必ず持って帰る。)
心の中でそう誓う。
オルドアイが隣から覗き込んできた。
「難しい顔をしているな。」
「しますよ。」
「形見が欲しいか?」
「欲しいです。」
「なら婿になればよい。」
「そこで戻るんですね。」
「最も簡単な道だ。」
「俺には全然簡単じゃないです。」
オルドアイは笑い、ソータの肩に手を置いた。
熱い手だった。
「二、三日ある。私をよく見て考えろ。」
「見せる気満々ですね。」
「もちろんだ。」
彼女は外套を少しだけ直しながら、わざと肌を見せるように動いた。
ソータは即座に目を逸らした。
砦の女たちが笑う。
「真面目だな。」
オルドアイが言う。
「そこは褒めてください。」
「褒めている。」
「そうですか。」
「だが、私から目を逸らし続けられるか、試してやる。」
「やめてください。」
「嫌だ。」
この姫、本当に遠慮がない。
ソータは深く息を吐いた。
(ミレイユ。)
(俺、帰ったら本当に最初に会いに行く。)
(それで、めちゃくちゃ怒られる前に全部話す。)
(たぶん怒られるけど。)
(でも、忘れてないから。)
その言葉だけが、今のソータの支えだった。
◆◇◆
部屋割りはすぐに決まった。
エルザは、砦の女たちが使う大部屋の一角へ案内された。
大部屋といっても、布で仕切られた寝床がいくつも並ぶ場所らしい。
エルザは女戦士たちに囲まれながらも、平然と歩いていった。
むしろ、情報を集める気満々の顔だった。
ガルド、レオン、バルクは、それぞれ別の小部屋へ連れて行かれる。
男が半年に一度来る時に使う部屋だと説明された。
二つの月が満月になる夜。
半年に一度だけ、さらに北の部族村から男たちがこの砦へ来るらしい。
オルドアイの父も、他の男たちも、その部族村にいる。
普段は別々に暮らしている。
この砦は女たちの拠点。
男たちは北の村で暮らし、決められた時だけ霧を越えて会いに来る。
ただ、その道は危険だった。
霧の導きがあっても、魔物や自然の危険は残る。
ヤンガルドアイは、ソータがいればその移動が安全になると考えているらしい。
食料も水も寝床も持ち運べる男。
怪我人を助け、群れを疲れさせずに運べる男。
半年に一度の男たちの移動すら、安定させられるかもしれない。
そこに、彼女は価値を見ていた。
(完全に補給線として見られてる。)
(いや、婿としても見られてる。)
(どっちも困る。)
ソータは、自分の部屋へ案内されながら考えた。
部屋は思ったより整っていた。
木の床。
簡素な寝台。
獣皮の敷物。
小さな机。
水差し。
窓はないが、壁には青い石の小さな飾りが埋め込まれている。
そして、隣の扉の向こうがオルドアイの部屋らしい。
近すぎる。
本当に近すぎる。
案内役の女戦士が言った。
「姫の隣だ。逃げるなよ。」
「逃げ道、あります?」
「ない。」
「ですよね。」
女戦士は笑って出ていった。
扉が閉まる。
ソータは一人になった。
ようやく。
いや、一人なのかも怪しい。
隣にはオルドアイがいる。
外には女戦士がいる。
砦全体が監視網みたいなものだ。
ソータは寝台に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「どうしよう。」
声に出た。
答えは返ってこない。
だが、頭の中にはいくつものことが渦巻いていた。
リーナの父は、おそらく死んでいる。
形見はある。
でも、渡してもらう条件は婿入り。
砦を知ったからには、身内になるか殺されるか。
二、三日で返事。
オルドアイは誘惑してくる。
ヤンガルドアイは本気でソータを砦に欲しがっている。
ガルドたちは別室。
エルザも大部屋。
食事はそれぞれの部屋へ。
そして、男たちにはアマゾネスたちが食事を運びながら誘惑する可能性あり。
(情報が多い。)
(本当に多い。)
(配送伝票なら仕分け不能で戻したいくらい多い。)
ソータは頭を抱えた。
その時、隣の壁の向こうから、軽く叩く音がした。
こんこん。
続いて、オルドアイの声。
「ソータ。」
ソータの背筋が伸びた。
「はい。」
「逃げていないな?」
「逃げられません。」
「よろしい。」
声が楽しそうだ。
「後で食事を運ばせる。私が持っていってもいいぞ。」
「普通の係の方でお願いします。」
「つれないな。」
「安全第一です。」
「お前は面白い。」
隣で笑う気配がした。
「二、三日ある。たっぷり考えろ。」
「考えます。」
「私のこともな。」
「……はい。」
「返事が弱いぞ。」
「考えます。」
「よろしい。」
足音が離れていく。
ソータは胸を押さえた。
(心臓に悪い。)
(ミレイユ、これは本当に心臓に悪い。)
そう思った時だった。
廊下の向こうから、レオンの小さな悲鳴のような声が聞こえた。
「いや、だから食事はありがたいっすけど、近いっす!」
別の方向から、バルクの豪快な声。
「飯はうまそうだな!」
さらに遠くで、ガルドの低い声。
「下がれ。」
そして、女たちの楽しそうな笑い声。
どうやら、男たちの部屋にも早速何かが始まっているらしい。
ソータは天井を見上げた。
「……全員、無事に帰れるかな。」
わりと本気の呟きだった。
北の森の魔物より。
迷いの霧より。
この砦の女たちの方が、ある意味よほど危険かもしれない。
ソータは深く息を吐き、心の中でまた一つ約束を確認した。
(帰る。)
(形見を持って帰る。)
(みんなを連れて帰る。)
(そして、最初にミレイユに会う。)
その約束だけは、霧よりも、誘惑よりも、強く胸に残っていた。




