第53話:朝の熱は、執事だけが少し余計だった
朝の光が、薄いカーテン越しに部屋へ差し込んでいた。
白い光ではない。
少し金色が混じった、柔らかい朝の光だ。
ソータは、その光をまぶたの裏に感じながら、ゆっくり目を開けた。
最初に見えたのは、見慣れない天井だった。
いや、まったく見慣れないわけではない。
この屋敷の部屋には何度か入っている。
だが、朝目覚めてこの天井を見るのは、少し意味が違った。
(……あれ。)
(ここ、ミレイユの部屋だよな。)
頭がぼんやりしている。
体は重い。
だが、嫌な疲れではなかった。
むしろ、体の芯に甘い余韻のようなものが残っている。
そこで、ソータはようやく自分の腕の中に温もりがあることに気づいた。
ミレイユだった。
金色の髪が枕の上に柔らかく広がっている。
いつも仕事の時はきっちり整えられている髪が、今は少し乱れていた。
それが妙に艶っぽくて、ソータは一瞬、息を止めた。
ミレイユはまだ眠っている。
長いまつ毛が伏せられ、唇は少しだけ開いている。
普段の強気な会頭代理の顔ではない。
恋人として、安心して眠っている顔だった。
(……綺麗だな。)
そう思った直後、昨夜の記憶が少しずつ戻ってきた。
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仕事の話が終わったこと。
ミレイユに部屋へ誘われたこと。
仕事ではなく恋人の時間だと言われたこと。
抱きしめたこと。
口づけたこと。
ミレイユが不安を吐き出したこと。
そして、その先の甘く熱い時間。
ソータは顔が熱くなった。
(いや。)
(待て。)
(俺って、そんなに精力あったっけ?)
変なところで冷静な疑問が浮かんだ。
もちろん、転移前のソータには比べるほどの経験などない。
四十年生きてきたとはいえ、恋愛経験はかなり寂しい。
だから、自分が本来どの程度なのかなど、正直分からない。
分からないのだが。
(それにしても……。)
(昨日の俺、何度もミレイユを求めすぎじゃなかったか?)
(若返ったから?)
(異世界の体だから?)
(それとも、ミレイユが魅力的すぎたから?)
最後の可能性はかなり高かった。
というより、それが一番しっくりくる。
ミレイユは綺麗だ。
強い。
可愛い。
恥ずかしがる顔も、甘える声も、独占欲を隠せないところも、全部ソータの胸をおかしくした。
だから、求めてしまった。
それは分かる。
分かるが。
(でも、あれは俺にしては積極的すぎたような……。)
ソータが真剣に悩んでいると、腕の中でミレイユが小さく動いた。
「……ん。」
かすかな声。
それだけで、ソータの心臓が跳ねる。
ミレイユはゆっくり目を開けた。
寝起きの潤んだ瞳が、ぼんやりとソータを映す。
数秒。
ミレイユは何も言わなかった。
それから、自分がソータの腕の中にいることを思い出したように、頬を赤くした。
「……おはよう。」
「お、おはよう。」
ソータもなぜかどもった。
朝の挨拶だけなのに、妙に照れる。
ミレイユは目を伏せたまま、少しだけ体を寄せてきた。
「起きていたの?」
「今起きたところ。」
「そう。」
短い会話。
それだけなのに、部屋の空気が甘い。
ミレイユの指が、ソータの服を掴んでいる。
昨夜眠る前と同じように。
まるで、離したくないとでも言うように。
ソータはその手に気づいて、胸が少し温かくなった。
「ミレイユ。」
「何?」
「俺、昨日ちょっと変じゃなかったか?」
ミレイユの肩がびくっと跳ねた。
かなり分かりやすく。
ソータは目を瞬かせた。
「え?」
「な、何が?」
「いや、昨日の俺。」
「昨日のあなた?」
「その……なんか、妙に元気だったというか。」
ミレイユの顔が一気に赤くなった。
耳まで赤い。
彼女は視線を泳がせた。
「へ、変ではなかったわ。」
「本当に?」
「本当よ。」
「でも俺、なんか……。」
「問題なかったわ。」
ミレイユはきっぱり言った。
ただし、声が少し上ずっている。
「問題なかったって、評価なのか。」
「恋人としては、問題なかったという意味よ。」
「それは褒められてる?」
「……それ以上言わせないで。」
ミレイユは布団を少し引き上げて、口元を隠した。
その仕草が可愛くて、ソータはまた胸が変になる。
(いや、やっぱりミレイユが魅力的すぎるだけでは?)
(これは仕方ないのでは?)
ソータが妙な納得をしかけた時、ミレイユは目を逸らしたまま、昨夜の夕食を思い出していた。
◇
昨夜。
食事の席で、アルベールはいつものように静かに茶を注いでいた。
何も変わったところはなかった。
少なくとも、ソータにはそう見えていた。
だが、ミレイユは見ていた。
アルベールが、ソータの杯へほんの少しだけ何かを落としたことを。
色も変わらない。
香りもほとんどない。
体を害する毒ではない。
むしろ、疲労を取り、血の巡りを良くし、気分を高める薬。
ただし、恋人同士が同じ夜を過ごすには、少々効き目が強い。
ミレイユはその瞬間、目でアルベールに問いただした。
アルベールは、まるで何もしていないような顔で微笑んだだけだった。
そして、ほんのわずかに頭を下げた。
あの顔は、こう言っていた。
(今夜は大事な夜でございましょう?)
ミレイユは内心で叫んだ。
(余計なことをしないでちょうだい!)
だが、止めるには遅かった。
ソータは普通に飲んだ。
何も知らずに。
そして、結果として。
昨夜は、非常に熱い夜になった。
ミレイユは今でも思う。
(アルベール……効きすぎよ。)
そして、もう一つ思う。
(でも、悪くなかったなんて、絶対に言えないわ。)
言えるはずがない。
ソータに言えば、彼は絶対に真面目な顔で悩む。
アルベールを問い詰めようとするかもしれない。
いや、ソータならまず自分の責任を考えそうだ。
それは困る。
ミレイユにとって昨夜は、確かに薬の後押しがあったとしても、嫌なものではなかった。
むしろ、ソータの熱を真正面から受け止めてしまった。
自分も求めた。
抱きしめ返した。
名前を呼んだ。
だから、あれを全部薬のせいにするのも違う。
ただ。
(アルベールには、後で絶対に話をするわ。)
(厳重に。)
(かなり厳重に。)
◇
「ミレイユ?」
ソータの声で、ミレイユは現実に戻った。
「何?」
「いや、すごく考え込んでたから。」
「何でもないわ。」
「本当に?」
「本当よ。」
「怪しい。」
「あなたに言われたくないわ。」
ミレイユはそう言って、少しだけソータの胸を押した。
弱い力だった。
拒むためではなく、照れ隠しのようなものだ。
ソータはその手をそっと包む。
ミレイユは少しだけ目を伏せた。
朝の光の中で見る彼女は、昨夜とはまた違っていた。
熱の残る顔。
眠たげな目。
でも、その奥にもう仕事へ戻ろうとする意志がある。
ミレイユ・クラウゼンは、甘いだけの女性ではない。
恋人であると同時に、商会の会頭代理だ。
「今日からまた忙しいな。」
ソータが言うと、ミレイユは頷いた。
「ええ。」
「村の品の準備。」
「薬草軟膏の容器確認。干し肉の販売先調整。蜂蜜の取引先選定。木工品の改善点の文書化。」
「北の森の準備。」
「食料、水、簡易テント、防水布、薬、縄、松明、目印布、地図板、予備武器、防寒具、担架。」
「多いな。」
「あなたが運べるから増やしているのよ。」
「俺のせいか。」
「あなたのおかげよ。」
ミレイユはそう言って、少しだけ笑った。
ソータはその笑顔を見て、胸の奥が温かくなる。
昨夜の熱とは違う。
もっと静かな温かさだった。
「それと、村長へ渡す契約書も作るわ。」
「契約書?」
「仮契約書よ。村の名産品をクラウゼン商会が試験的に扱うためのもの。」
ミレイユはすでに仕事の顔へ戻り始めていた。
だが、ソータの服を掴む指はまだ離れていない。
「ソータに預けるわ。あなたが村へ戻った時に、村長へ渡して。」
「俺が?」
「ええ。」
「ミレイユが直接渡さなくていいのか?」
「本当は直接説明したいけれど、私は商会側の準備があるわ。容器職人、薬草担当、食品担当、販路の確認。全部を今日中に進める必要がある。」
「そっか。」
「それに。」
「それに?」
「あなたが運ぶ意味があるの。」
ミレイユはソータを見た。
「品物だけではなく、契約も、信用も、約束も。あなたが村へ届けるのよ。」
ソータは少し黙った。
その言葉は、すっと胸に入ってきた。
荷物。
契約書。
薬包。
約束。
全部、形は違う。
でも、運ぶものだ。
誰かから誰かへ。
必要な場所へ。
(そうか。)
(俺が運ぶんだな。)
ソータは頷いた。
「分かった。ちゃんと村長へ渡す。」
「お願い。」
「任せてくれ。」
ミレイユは少し安心したように息を吐いた。
そして、またソータの胸へ額を寄せた。
「もう少しだけ。」
「うん。」
「もう少しだけ、このままでいさせて。」
「いいよ。」
二人はしばらく黙っていた。
朝の光が少しずつ強くなる。
外では使用人たちが動き始めている気配がした。
どこか遠くで扉の開く音がする。
屋敷が一日を始めようとしていた。
それでも、ミレイユはしばらく動かなかった。
ソータも動かなかった。
この時間がもうすぐ終わることを、二人とも分かっていたからだ。
◇
やがて、ミレイユが小さく息を吸った。
「……起きるわ。」
「うん。」
「仕事に戻らないと。」
「うん。」
「あなたも、運送屋に戻るのよ。」
「恋人から?」
「恋人はやめないわ。」
即答だった。
ソータは思わず笑った。
「そこは大事なんだな。」
「当然でしょう。」
ミレイユは顔を上げた。
寝起きの甘さはまだ残っている。
だが、目にはいつもの強さが戻っている。
「仕事をしていても、商会にいても、村に行っても、北の森へ入っても。」
「うん。」
「私のことを少しでも忘れたら許さないわ。」
言葉は静かだった。
けれど、ものすごく強かった。
ソータは正面からその目を見た。
「忘れない。」
「本当に?」
「本当に。」
「リーナのことを考えている時も?」
少しだけ拗ねたような声。
でも、試すような響きもある。
ソータは少し考えた。
ここで軽く答えると、たぶん駄目だ。
ミレイユはそういうところを見逃さない。
「リーナのことは考える。お父さんの手掛かりを探しに行くから。」
「……ええ。」
「村のことも考える。商会のことも、荷物のことも、北の森のことも考える。」
「ええ。」
「でも、その中にミレイユがいなくなることはない。」
ミレイユの目が揺れた。
「……そう。」
「帰ってきたら、最初にミレイユに会う約束も忘れてない。」
「よろしい。」
そう言いながら、ミレイユは少しだけ目を伏せた。
嬉しそうだった。
それを隠そうとしているのが、さらに分かりやすい。
「何か?」
「いや、可愛いなって。」
言ってから、ソータは自分で驚いた。
朝だからか。
昨夜の余韻が残っているからか。
言葉が妙に素直に出る。
ミレイユは固まった。
それから、みるみる赤くなった。
「……あなた。」
「はい。」
「朝からそういうことを言うのは、危険よ。」
「危険?」
「仕事に戻れなくなるわ。」
「それは困るな。」
「困るわ。」
ミレイユはそう言いながら、なぜかソータの服をもう一度掴んだ。
離す気配がない。
「ミレイユ?」
「あと少しだけ。」
「仕事は?」
「あと少しだけなら、誤差よ。」
「商人が誤差って言った。」
「今は会頭代理ではなく恋人だからいいの。」
ソータは笑った。
ミレイユも少し笑った。
二人はもう一度だけ、軽く口づけた。
昨夜のような熱いものではない。
朝の始まりに交わす、優しい口づけだった。
◇
その後、二人は何とか起き上がった。
何とか、というのは本当に何とかだった。
ミレイユは最初こそ名残惜しそうだったが、着替えを始めると一気に会頭代理の顔へ戻っていった。
ソータはその切り替えの早さに感心する。
(すごいな。)
(さっきまであんなに甘かったのに。)
(いや、思い出すな。)
(顔に出る。)
案の定、ミレイユがこちらを見た。
「今、昨夜のことを思い出したでしょう。」
「読まないでくれ。」
「顔に出ていたわ。」
「俺の顔、信用できないな。」
「私は信用しているわよ。読みやすいから。」
「それは信用なのか。」
ミレイユは髪を整えながら、鏡越しに小さく笑った。
「ソータ。」
「うん?」
「今日、アルベールと会ったら、余計なことを聞かないで。」
「アルベールさん?」
ソータは首を傾げた。
「何かあるのか?」
「何もないわ。」
「今の言い方で何もないは無理がある。」
「何もないの。」
ミレイユの声が少し強くなる。
ソータはそれ以上聞くのをやめた。
(何かあるな。)
(でも、今聞くと怒られるやつだ。)
(あとでアルベールさんにも何か聞いてみるか。)
そう思った瞬間、ミレイユが振り返った。
「聞かないで。」
「まだ何も言ってない。」
「顔が言っていたわ。」
「もう怖い。」
ミレイユは満足そうに頷いた。
「よろしい。」
そこへ、控えめなノックの音がした。
「ミレイユ様。お目覚めでしょうか。」
アルベールの声だった。
完璧なタイミング。
完璧すぎるタイミング。
ソータは少し固まる。
ミレイユの表情も一瞬だけ固まった。
「……入って。」
扉が静かに開く。
アルベールはいつものように整った姿で入ってきた。
まるで何も知らない顔。
いや、知っているのだろう。
絶対に知っている。
だが、その顔には一切出ていない。
「おはようございます、ミレイユ様。ソータ様。」
「お、おはようございます。」
「おはよう、アルベール。」
ミレイユの声は少し硬い。
アルベールは柔らかく微笑む。
「昨夜はよくお休みになれましたかな?」
ミレイユの耳が赤くなった。
ソータは首を傾げる。
「よく休んだというか……。」
「ソータ。」
ミレイユが即座に遮った。
「何?」
「何でもないわ。」
アルベールは微笑みを深めた。
「それは何よりでございます。」
「アルベール。」
ミレイユの声が低くなる。
「はい。」
「あとで、少し話があります。」
「承知いたしました。」
アルベールはまったく動じなかった。
むしろ、それも予定通りという顔だった。
(何だろう。)
(やっぱり何かある。)
(でも聞くなって顔をされている。)
ミレイユがまさにその顔でこちらを見ていた。
ソータは口を閉じた。
命を守る判断だった。
アルベールは机の上へ今日の予定が書かれた紙を置く。
「容器職人は午前の二つ鐘に到着予定です。薬草担当、食品担当も商会へ揃っております。北の森探索用の物資は、倉庫一番にまとめてあります。」
「ありがとう。」
「また、村長へお渡しする仮契約書の下書きも整えてございます。ミレイユ様の確認後、封をいたします。」
「分かったわ。」
「それから。」
アルベールはソータを見た。
「ソータ様用に、朝食は少し栄養のあるものをご用意しております。」
「ありがとうございます。」
「昨夜はお疲れでしょうから。」
ソータは一瞬、返事に詰まった。
ミレイユが真っ赤になった。
「アルベール。」
「体調管理は重要でございます。」
「言い方。」
「失礼いたしました。」
絶対に失礼したと思っていない。
ソータにも分かった。
(この人、やっぱり強い。)
ミレイユはこめかみを押さえた。
「後で、本当に話があります。」
「はい。お時間をいただきます。」
アルベールは優雅に一礼し、何事もなかったように部屋を出ていった。
扉が閉まる。
沈黙。
ソータはミレイユを見る。
ミレイユは目を逸らした。
「……聞かないで。」
「まだ何も。」
「聞かないで。」
「はい。」
今度も、命を守る判断だった。
◇
朝食の席では、護衛四人も揃っていた。
ガルドはいつも通り無口。
エルザは少しだけ楽しそう。
レオンは明らかに何か言いたそう。
バルクは純粋に料理を見て嬉しそうだった。
ソータとミレイユが席に着くと、エルザが微笑んだ。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
ミレイユの手が止まる。
ソータも止まる。
レオンが咳払いした。
バルクはパンを持ったまま固まった。
ガルドだけは黙ってスープを飲んでいた。
「ええ。」
ミレイユが静かに答えた。
「よく眠れたわ。」
声は落ち着いている。
ただし、耳が赤い。
エルザはそれ以上追及しなかった。
ただ、目が笑っている。
ソータは黙って朝食に集中することにした。
料理は確かに栄養がありそうだった。
温かいスープ。
香草入りの卵料理。
焼きたてのパン。
肉と豆の煮込み。
果物。
そして、少し甘い飲み物。
ソータは飲み物を見た。
少し警戒した。
(いや、何を警戒してるんだ俺は。)
(アルベールさんの飲み物はうまい。)
(でも、なんかミレイユがさっき変だったしな。)
ミレイユが小声で言った。
「それは普通の果実水よ。」
「声に出てた?」
「顔に出ていたわ。」
「俺の顔、もう駄目だな。」
「大丈夫。私には便利よ。」
ソータは複雑な気持ちで果実水を飲んだ。
普通に美味しかった。
ミレイユはその様子を見て、少しだけほっとしたような顔をした。
その反応で、ソータはますます気になったが、聞かないことにした。
今日の予定は詰まっている。
朝から謎を増やしている場合ではない。
食事の後、ミレイユはすぐに仕事の顔へ戻った。
「まず商会へ行くわ。容器の見本確認、販売文句の草案、契約書の確認。ソータはその後、北の森用の物資積み込みをお願い。」
「了解。」
「ガルドたちは装備確認を。レオンは地図と目印布の数。エルザは遠距離用の矢と予備弦。バルクは野営時の防衛具。」
全員が頷く。
ミレイユの指示は淀みない。
昨夜の甘い彼女を知っているソータからすると、その切り替えが少し不思議で、少し誇らしかった。
(やっぱりすごいな。)
そう思うと、ミレイユがこちらを見た。
「何?」
「いや、やっぱりミレイユはすごいなって。」
また素直に言ってしまった。
ミレイユは一瞬だけ表情を崩しそうになった。
だが、護衛たちの前なので踏みとどまる。
「……仕事中に不意打ちはやめなさい。」
「褒めたんだけど。」
「分かっているわ。」
エルザが小さく笑う。
「朝から仲がよろしいですね。」
「仕事の話よ。」
ミレイユが即答する。
レオンがぼそっと言った。
「仕事の話で耳赤くなるんすね。」
「レオン。」
「はい、装備確認してきます。」
レオンは素早く逃げた。
バルクが笑う。
ガルドは無言でスープを飲み干した。
◇
商会へ向かう馬車の中で、ミレイユは封筒をソータへ渡した。
まだ封はされていない。
中には仮契約書の下書きが入っている。
「今日、私が内容を確認して正式に封をするわ。」
「うん。」
「明日か明後日、村へ戻った時に村長へ渡して。」
「分かった。」
「これはただの紙ではないわ。」
ミレイユの声が真剣になる。
「村とクラウゼン商会をつなぐ最初の形よ。」
ソータは封筒を両手で受け取った。
自然と背筋が伸びる。
「ちゃんと運ぶ。」
「お願い。」
「荷物としても、約束としても。」
ミレイユは少しだけ目を細めた。
「そういう言い方、いいわね。」
「そうか?」
「ええ。」
彼女は少しだけ身を寄せ、小声で言った。
「でも、一番大事な約束も忘れないで。」
「ミレイユのことを忘れない。」
「そう。」
「帰ってきたら最初に会う。」
「よろしい。」
ミレイユは満足そうに頷いた。
そして、さらに小声で付け加える。
「昨夜のことも。」
ソータの顔が熱くなる。
「それは忘れようがない。」
「ならいいわ。」
「ミレイユは?」
「私も忘れないわ。」
彼女は視線を逸らしながら言った。
「忘れられるわけがないでしょう。」
馬車の中が一瞬だけ甘くなる。
しかし、すぐにミレイユは咳払いした。
「仕事に戻るわ。」
「はい。」
「返事が素直ね。」
「今、逆らう理由がない。」
「よろしい。」
ソータは封筒を見た。
契約書。
村の未来につながる紙。
これを運ぶ。
そして、北の森へ向かうための物資も運ぶ。
リーナの薬も運ぶ。
ミレイユとの約束も運ぶ。
(今日も積み荷が多いな。)
でも、不思議と嫌ではない。
むしろ、胸の中に一本の道が通っていくような感覚があった。
運ぶべきものがある。
届ける場所がある。
帰る場所もある。
それだけで、ソータは前へ進める気がした。
馬車が商会の前で止まる。
ミレイユは先に降りた。
いつもの会頭代理の顔で。
だが、ソータが続いて降りる時、彼女はほんの一瞬だけ手を差し出した。
人目がある。
だから、恋人のように長く触れることはできない。
それでもソータは、その手を取った。
短く。
確かに。
ミレイユは小さく微笑む。
「行くわよ、ソータ。」
「はい。」
「今日は山ほど働いてもらうわ。」
「ですよね。」
「当然よ。私の運送屋さん。」
その言葉に、ソータの胸がまた少し熱くなった。
朝の甘さは、仕事の時間へ溶けていく。
だが、消えたわけではない。
ソータの中に、しっかり積み込まれていた。
村へ届ける契約書と同じように。
北の森へ持っていく荷物と同じように。
ミレイユの言葉もまた、落とせない荷物になっていた。




