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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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52/193

第52話:仕事の後で、恋人の時間が始まった

 机の上に広げられていた紙が、ようやく一つの束にまとめられた。


 村の品の検品結果。

 薬草軟膏の容器案。

 干し肉の販売先。

 蜂蜜の扱い。

 木工品の改善点。

 北の森探索に必要な物資。

 撤退時刻。

 護衛四人の役割。

 そして、村へ戻る時に持っていく説明書き。


 その全部に目を通し終えた時、ミレイユは小さく息を吐いた。


「……ひとまず、今夜できる仕事はここまでね。」


 その言葉を聞いた瞬間、ソータの肩から力が抜けた。


「終わった……。」


「全部ではないわよ。」


「分かってる。でも、今夜の分は終わったんだろ?」


「ええ。」


「なら、終わった。」


 ソータは椅子の背にもたれた。

 思った以上に疲れていた。

 ゴブリン村を壊した疲れ。

 村の品を選んだ疲れ。

 街まで戻ってきた疲れ。

 商会で検品に付き合った疲れ。

 そして、北の森の話を考え続けた疲れ。

 体よりも、頭と心が重い。


(運送屋って、荷物だけ運んでればいいわけじゃないんだよな。)


(いや、前世でもそうだったけど。)


(異世界だと、荷物の横に村の未来とか、人の願いとか、恋人の不安とかが積まれてくる。)


(積載量、足りるかな。)


 そう思ったところで、ミレイユがじっとこちらを見ていることに気づいた。


「何?」


「今、また妙なことを考えていたでしょう。」


「考えてない。」


「嘘ね。」


「少しだけ。」


「何を?」


「積載量、足りるかなって。」


 ミレイユは少しだけ瞬きをした。

 それから、呆れたように笑った。


「あなたらしいわね。」


「俺らしいのか。」


「ええ。人の願いまで荷物扱いするところが。」


「悪い意味?」


「悪くはないわ。」


 ミレイユは紙束をそっと横へ寄せた。


「あなたにとって、荷物は雑に扱うものではないでしょう?」


「まあ、それはそうだな。」


「なら、いいのよ。」


 ミレイユはそう言って、椅子から立ち上がった。


 夜の屋敷は静かだった。

 廊下の向こうでは、使用人たちの足音もほとんどしない。

 護衛たちはもう部屋へ戻っている。


 アルベールも、必要な用事を済ませた後は姿を消していた。

 あの執事が本当に姿を消したのか、どこかで全部把握しているのかは分からない。

 たぶん後者だ。


(あの人、絶対どこかで気配を消してる気がする。)


 ソータがそんなことを考えていると、ミレイユが言った。


「ソータ。」


「うん?」


「私の部屋へ来なさい。」


 静かな声だった。

 だが、そこに迷いはなかった。

 ソータは一瞬、言葉を失った。


「……え?」


「聞こえなかった?」


「いや、聞こえた。」


「なら、来なさい。」


「命令形なんだな。」


「今さらでしょう。」


 ミレイユは少しだけ頬を赤くした。

 それでも、目は逸らさない。


「仕事の時間は終わったわ。」


「うん。」


「ここからは、恋人の時間よ。」


 ソータの胸が、どくんと鳴った。

 ミレイユは、その音まで聞こえたかのように小さく微笑む。


「何を固まっているの?」


「いや……。」


「嫌?」


「嫌なわけない。」


 即答だった。

 ミレイユの耳が赤くなる。


「そう。」


「うん。」


「なら、来て。」


 そう言って、ミレイユは先に歩き出した。

 ソータは立ち上がり、その後を追う。


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 廊下に出ると、夜の空気が少しひんやりしていた。

 壁にかかった灯りが、金色の揺らめきを床に落としている。

 ミレイユの髪が、その光を受けて柔らかく輝いていた。

 仕事をしている時の彼女は鋭い。

 商会の中心として、誰よりも早く判断する。


 けれど今、廊下を歩く彼女の背中には、少しだけ違うものがあった。

 強さの奥にある、甘さ。

 誰にも見せない不安。

 そして、ソータだけに向けられた期待。


(まずい。)


(すでに心臓がうるさい。)


(俺、四十歳だったはずなんだけどな。)


(若返ると、心まで若返るのか?)


 そんなことを考えていると、ミレイユが振り返らずに言った。


「変なことを考えているなら、部屋に入る前に捨てておきなさい。」


「まだ何も言ってない。」


「背中に視線が刺さっているわ。」


「それは……すみません。」


「謝るところなの?」


「いや、どう答えたらいいか分からなくて。」


 ミレイユは足を止めた。

 そして、少しだけ振り返る。

 頬が赤い。

 けれど、口元は笑っていた。


「見たいなら、見てもいいわ。」


 ソータは完全に黙った。

 ミレイユはすぐに前を向いた。


「ただし、他の女には向けないこと。」


「向けません。」


「返事が早いわね。」


「大事なところだから。」


「……そう。」


 ミレイユの声が少しだけ甘くなった。


 廊下の先。

 彼女の部屋の前で、二人は止まった。

 ミレイユは扉に手をかける。

 その指先が、ほんの少し震えているのをソータは見た。

 さっきまであれほど強気だったのに。

 部屋へ入る直前、彼女も緊張している。

 そう分かった瞬間、ソータの胸の奥に温かいものが広がった。


「ミレイユ。」


「何?」


「俺も、緊張してる。」


 ミレイユは振り返った。

 少し驚いた顔をしている。


「なぜそれを今言うの?」


「ミレイユも緊張してるように見えたから。」


 ミレイユの顔が一気に赤くなった。


「……あなた、本当に時々ずるいわ。」


「ずるいのか。」


「ええ。」


「でも、本当だから。」


「知っているわ。」


 ミレイユは小さく息を吸った。

 そして、扉を開けた。


     ◇


 部屋の中は、柔らかな灯りに満たされていた。

 派手ではない。

 けれど、どこを見ても整っている。


 書き物机。

 寝台。

 淡い色のカーテン。

 小さな花瓶。

 香りの良い茶葉が置かれた棚。


 仕事をするための部屋でありながら、確かにミレイユの私室だった。

 彼女の気配がある。

 商人としての整然とした顔と、年頃の女性らしい柔らかさが同居している。


 ソータは部屋に入った瞬間、少しだけ息を止めた。


(ミレイユの部屋だ。)


(いや、前にも来たことはあるけど。)


(こういう気持ちで入ると、全然違うな。)


 扉が静かに閉まる。

 その音が、外の世界との境界線のように聞こえた。


 仕事の話。

 商会の視線。

 村の期待。

 北の森の不安。

 それらが完全に消えたわけではない。


 でも、この部屋の中では少し遠くなる。

 ここにいるのは、会頭代理と重要協力者ではない。

 ミレイユとソータだった。


 ミレイユは少しだけ歩いて、寝台の近くで足を止めた。

 そして、こちらを見る。


「座って。」


「うん。」


 ソータは椅子へ座ろうとした。

 すると、ミレイユが眉を寄せた。


「そっちではないわ。」


「え?」


「こっち。」


 彼女が示したのは、寝台の端だった。

 ソータは少し固まる。


「……はい。」


「なぜ敬語?」


「いや、なんとなく。」


「変な人ね。」


 ミレイユはそう言いながら、自分も隣へ座った。

 近い。

 肩が触れそうな距離だった。

 部屋の静けさの中で、互いの呼吸がよく分かる。


 ソータは何を言えばいいのか分からなくなった。

 仕事の話ならできる。

 荷物の話ならできる。

 段取りの話ならできる。 

 でも、恋人の時間となると、急に言葉が難しくなる。


(四十年生きて、何を学んできたんだ俺は。)


(いや、前世は恋愛経験ほぼないんだから仕方ない。)


(仕方ないけど、今それを言い訳にしていい場面じゃない。)


 隣でミレイユが小さく笑った。


「また頭の中で忙しそうね。」


「分かる?」


「分かるわ。」


「顔か?」


「ええ。あなたの顔は、私にはかなり読めるもの。」


「便利だな。」


「便利よ。」


 ミレイユはそう言って、そっとソータの手に触れた。

 指先が重なる。

 さっき談話室で触れた時より、ずっと近い。

 ソータはその手を握り返した。

 ミレイユの手は温かかった。 

 少しだけ震えている。


「ミレイユ。」


「何?」


「無理してないか?」


 ミレイユは一瞬だけ黙った。

 それから、小さく息を吐く。


「しているわ。」


「え?」


「少しは。」


 彼女は正直に言った。


「会頭代理としては、無理をしていない。仕事は予定通り。村の品も悪くない。北の森の準備も、できる限り進める。」


「うん。」


「でも、恋人としては無理をしている。」


 ミレイユの手に、少し力が入る。


「あなたが北の森へ行くと考えるだけで、不安になるわ。」


 ソータは黙って聞いた。


「リーナのために行くのは分かっている。村のためでもある。あなたがそういう人だから、私は好きになったの。」


 好き。

 その言葉が、静かに胸へ落ちた。


 何度聞いても慣れない。

 けれど、そのたびに嬉しい。


「でも。」


 ミレイユは顔を伏せた。


「分かっていることと、不安にならないことは別なの。」


 ソータは彼女の手を握り直した。


「うん。」


「リーナがあなたに約束を求めるのも分かる。彼女にとって、あなたは希望だから。」


「希望ってほどじゃ……。」


「そこ。」


 ミレイユが顔を上げて睨んだ。


「自分を軽く扱わない。」


「はい。」


「あなたは、あの子にとって希望よ。村にとっても。商会にとっても。」


「ミレイユにとっては?」


 口にしてから、ソータは自分で少し驚いた。


 ミレイユも目を見開く。

 すぐに頬が赤くなった。


「……聞くの?」


「聞きたい。」


 ミレイユは困ったように唇を結んだ。


 いつもの彼女なら、強気に返してくる。

 だが、今は少し違った。


 素直になるまでに、ほんの少し時間がかかる。

 その間すら、甘かった。


「私にとっては。」


 ミレイユはゆっくり言った。


「帰ってきてほしい人。」


 ソータの胸がきゅっと締まる。


「それだけ?」


「それだけではないわ。」


「うん。」


「一緒に仕事をしたい人。隣に立ってほしい人。私を、ただの商人ではなく一人の女にしてしまう人。」


 ミレイユの声が震える。


「そして……誰にも渡したくない人。」


 最後の一言は、ほとんど吐息みたいだった。


 ソータはたまらなくなって、ミレイユを抱き寄せた。

 彼女は抵抗しなかった。

 むしろ、待っていたように胸へ身を預けてくる。


 柔らかな髪が頬に触れる。

 甘い香りがする。

 ソータは腕に力を込めすぎないように気をつけながら、彼女を抱きしめた。


「帰ってくる。」


「ええ。」


「北の森へ行っても、絶対帰ってくる。」


「ええ。」


「帰ってきたら、最初にミレイユに会う。」


 ミレイユの肩が少し震えた。


「本当に?」


「本当に。」


「リーナより?」


 声が小さい。

 少しだけ拗ねたような、でも怖がるような声だった。

 ソータは正直に答えた。


「リーナには手掛かりを持っていく。約束したから。」


「……ええ。」


「でも、帰ってきて最初に顔を見せるのはミレイユにする。」


 ミレイユが息を呑んだ。

 抱きしめている腕の中で、彼女が少しだけ顔を上げる。


「いいの?」


「いいっていうか、俺がそうしたい。」


 ミレイユの瞳が揺れた。

 灯りを映して、金色に近い色が濡れたように見える。


「ソータ。」


「うん。」


「そういうことを言うと、私、本当に調子に乗るわよ。」


「いいよ。」


「独占したくなるわ。」


「……もうしてる気がする。」


「足りないわ。」


 ミレイユはそう言って、ソータの胸元を掴んだ。

 強くはない。

 けれど、逃がさないという意思ははっきりしていた。


「もっと、私のものだと思いたくなる。」


 ソータは息を吸った。


 甘い。

 重い。

 でも、不思議と怖くない。


 ミレイユの独占欲は、鎖のようでいて、温かい毛布のようでもあった。


 誰かに必要とされる。

 誰かに帰ってきてほしいと思われる。

 前世のソータには、ほとんどなかった感覚だ。


(俺、こんなふうに求められることに慣れてないんだな。)


(でも。)


(嬉しい。)


 ソータはミレイユの頬に手を添えた。

 彼女の顔が近い。

 赤く染まった頬。

 潤んだ目。

 強気な口元が、今だけ少し頼りなく見える。


「ミレイユ。」


「何?」


「俺も、ミレイユに会いたいと思って帰ってくる。」


 その瞬間、ミレイユの目が大きく揺れた。

 次の言葉はなかった。

 代わりに、彼女の方から唇を重ねてきた。


     ◇


 最初の口づけは、静かだった。

 確かめるように。

 探るように。

 仕事の後に残っていた張り詰めた空気が、少しずつほどけていく。


 ミレイユの指が、ソータの服を掴む。

 ソータは彼女の背中へ手を回した。

 柔らかい。

 温かい。

 呼吸が近い。

 唇が離れると、ミレイユは少し息を乱していた。

 それでも、目は逸らさない。


「ソータ。」


「うん。」


「今夜は、仕事の話をしないで。」


「うん。」


「北の森の話も。」


「うん。」


「村の品の話も。」


「うん。」


「リーナの話も。」


 最後だけ、ほんの少し声が強かった。

 ソータは頷いた。


「分かった。」


「今夜だけは、私だけ見て。」


「見てる。」


「もっと。」


 ミレイユが小さく言った。


「もっと、ちゃんと。」


 その言葉に、ソータの胸が熱くなる。


 彼女はいつも強い。

 人前では、弱さを見せない。

 商会では、誰よりも先に立つ。

 村でも、的確に判断する。

 けれど今夜の彼女は、ただ恋人だった。


 不安で。

 独占したくて。

 甘えたくて。

 それでも、そう言うことに慣れていなくて。


 ソータはゆっくり、ミレイユの髪に触れた。


「綺麗だ。」


 ミレイユの顔が真っ赤になった。


「急に何を。」


「今、そう思ったから。」


「あなたは……本当に……。」


「嫌だった?」


「嫌なわけないでしょう。」


 ミレイユは少し怒ったように言った。

 だが、声は震えている。


「むしろ、普段からもっと言いなさい。」


「命令なんだ。」


「そうよ。」


「綺麗だよ、ミレイユ。」


「……。」


「仕事してる時もすごく綺麗だけど、今はもっと。」


「……もう少し、言い方を考えなさい。」


「駄目だった?」


「良すぎるのよ。」


 ミレイユは両手で顔を隠した。

 耳まで赤い。


 ソータはその姿を見て、思わず笑いそうになる。

 でも、笑わなかった。

 今笑ったら、この甘い空気が少し壊れてしまう気がした。


 代わりに、そっと彼女の手を取る。

 顔を隠していた手を、ゆっくり下ろす。

 ミレイユは目を伏せていた。


「こっち見て。」


「……命令しないで。」


「お願い。」


 ミレイユは少しだけ視線を上げた。

 目が合う。

 その瞬間、彼女は観念したように息を吐いた。


「ずるいわ。」


「また?」


「ええ。あなた、お願いの仕方がずるい。」


「普通に言っただけなんだけど。」


「だからよ。」


 ミレイユはそう言って、今度は自分からソータの首に腕を回した。

 距離がなくなる。

 胸元に、彼女の温もりが重なる。

 ソータは息を止めた。


「緊張しているの?」


「してる。」


「正直ね。」


「嘘ついても分かるだろ。」


「ええ。」


 ミレイユは少し嬉しそうに笑った。


「でも、私もしているわ。」


「知ってる。」


「そこは知らないふりをしなさい。」


「ごめん。」


「いいわ。」


 彼女はソータの耳元へ顔を寄せた。


「でも、緊張していても、嫌じゃないの。」


 甘い声だった。

 ソータの背中に、ぞくりとしたものが走る。


「私、あなたに触れられるのは好きよ。」


 その言葉で、ソータの理性が少し揺れた。

 けれど、乱暴にはしたくない。

 大切にしたい。

 抱きしめる腕に、自然と力が入る。


「俺も。」


「何が?」


「ミレイユに触れるの、好きだ。」


 ミレイユは息を呑んだ。

 それから、少しだけ潤んだ目でソータを見る。


「本当に、あなたは……。」


「またずるい?」


「ええ。」


「今日、何回言われたかな。」


「これからも言うわ。」


「それは楽しみだ。」


「調子に乗らないで。」


「はい。」


 ミレイユはくすっと笑った。

 そして、その笑いが消える前に、もう一度唇を重ねてきた。

 今度は、さっきより深かった。

 言葉の代わりに、気持ちを伝えるような口づけだった。


 ソータはミレイユを抱きしめる。

 彼女の指が、背中に回る。

 互いの呼吸が溶けていく。

 灯りが揺れる。

 外の夜が遠くなる。

 

 仕事も、危険も、約束も。

 すべてが消えるわけではない。

 ただ、今だけは二人の外側に置かれる。


 この部屋の中には、ミレイユとソータだけがいた。


     ◇


 衣擦れの音が、静かな部屋に小さく響いた。

 灯りは落とされ、窓から差し込む月明かりが二人を淡く照らしている。

 互いの肌に触れた時、ミレイユは少しだけ身を震わせた。


「寒い?」


 ソータが聞くと、彼女は首を振った。


「違うわ。」


「じゃあ?」


「……あなたに触れられると、少し落ち着かなくなるだけ。」


 その言葉が、ソータの胸を甘く締めつけた。


「俺もだよ。」


「あなたも?」


「うん。すごく。」


 ミレイユは少しだけ笑った。


「それなら、同じね。」


 ソータは彼女を寝台へそっと導いた。

 柔らかな寝具が沈み、二人の距離がさらに近づく。

 裸の肌が触れ合うと、言葉では伝えきれない温度が互いに流れ込んできた。


 ミレイユの髪が枕に広がる。

 月明かりに照らされたその横顔は、息を呑むほど綺麗だった。


「綺麗だ。」


 思わず言うと、ミレイユは目を細めた。


「またそういうことを言う。」


「だって、本当にそう思ったから。」


「……恥ずかしいわ。」


 そう言いながら、彼女は逃げなかった。

 むしろ、ソータの首へ腕を回し、自分から近づいてくる。


「もっと抱きしめて。」


「うん。」


 ソータはミレイユを強く抱きしめた。


 彼女の鼓動が伝わる。

 自分の鼓動も、きっと伝わっている。

 早くて、熱くて、少し不器用な鼓動。


 二人は何度も口づけを交わした。

 短く。

 深く。

 甘く。

 言葉が途切れるたび、代わりに触れ合う指先が想いを伝えた。


 ミレイユは時折、ソータの名前を呼んだ。

 その声は、普段よりずっと柔らかく、少しだけ甘えているように聞こえた。

 ソータはそのたびに、胸の奥が溶けるような気持ちになった。


「ここにいるよ。」


 そう囁くと、ミレイユは目を閉じて頷いた。


「離れないで。」


「離れない。」


「今夜だけは、ずっと。」


「うん。」


 それ以上の言葉は必要なかった。

 互いの温もりを確かめるように、二人はゆっくりと重なり合った。

 ミレイユの口から洩れる甘い喘ぎ声がソータの脳を熱く燃やす。

 いつ果てるともなく二人の影は繋がったままだった。



 外の夜は静かで、商会の喧騒も届かない。

 北の森の不安も、明日の仕事も、しばらく遠くへ押しやられていた。


 この部屋にあるのは、互いを求める気持ちと、帰る場所を確かめ合うような優しい熱だけだった。


     ◇


 どれくらい時間が経ったのか、ソータには分からなかった。

 気づけば、ミレイユはソータの腕の中にいた。


 寝台の上で、互いの温もりを確かめるように寄り添っている。

 部屋の灯りは少し落とされていた。

 カーテンの隙間から、月明かりが細く差し込んでいる。

 ミレイユの髪が、枕の上に金色の波のように広がっていた。


 彼女は目を閉じている。

 眠っているのかと思ったが、ソータの指にそっと触れてきた。


「起きてるのか。」


「ええ。」


「眠くない?」


「少し。」


「寝ていいよ。」


「嫌。」


 即答だった。


 ソータは少し笑う。


「嫌なのか。」


「今寝たら、もったいないわ。」


「もったいない?」


「ええ。」


 ミレイユは目を開けた。

 先ほどまでの熱が残っている。

 でも、そこに穏やかさもあった。


「あなたがここにいる時間を、少しでも長く覚えていたいの。」


 ソータは胸が詰まった。

 ミレイユは指先で、ソータの手の甲をなぞる。


「明日になれば、また仕事の時間になるわ。村の品、北の森、商会の調整、護衛の準備。」


「うん。」


「あなたはまた、忙しそうな顔をする。」


「そんな顔してる?」


「しているわ。頼まれた荷物を断れない運送屋の顔。」


「それは、だいぶ正しいな。」


「でしょうね。」


 ミレイユは小さく笑った。

 そして、少しだけ体を寄せてくる。


「でも今は、私の恋人の顔をして。」


「どういう顔?」


「私だけを見ている顔。」


 ソータはミレイユを見た。


 月明かりの中で、彼女の頬がまた少し赤くなる。


「これでいい?」


「……少し照れるわ。」


「自分で言ったのに。」


「言うのと、実際にされるのは違うの。」


「そういうものか。」


「そういうものよ。」


 ミレイユは小さく息を吐いた。

 そして、急に少し真面目な顔になる。


「ソータ。」


「うん。」


「私は、たぶん欲張りよ。」


「うん。」


「商会も大事。村との取引も大事。王都のことも、これからの流通も、全部考えている。」


「うん。」


「でも、それだけではなくなった。」


 ミレイユの指が、ソータの胸元に触れる。


「あなたが大事になった。」


 静かな言葉だった。

 重い。

 けれど、甘い。


「仕事で必要だからではないわ。能力が欲しいからでもない。もちろん、それも大事だけれど。」


「うん。」


「それ以上に、あなたがいないと嫌なの。」


 ソータは何も言えなかった。


 ミレイユは続ける。


「だから、リーナがあなたを見ていると、胸が苦しくなる。」


「……。」


「彼女の気持ちが本物だと分かるから、余計に。」


 声が少しだけ震えた。


「分かるのよ。あなたを好きになる理由が。」


 ソータはミレイユの背中に手を回した。

 彼女は素直に寄りかかってくる。


「でも、譲りたくない。」


「ミレイユ。」


「私、嫌な女かしら。」


「違う。」


 ソータはすぐに言った。


「違うよ。」


「本当に?」


「本当に。」


「だって、彼女は父親のことで苦しんでいるのに。私はその横で、あなたを取られたくないなんて思っているのよ。」


「それは、嫌なことじゃないと思う。」


「そう?」


「うん。ミレイユが俺を大事に思ってくれてるってことだろ。」


 ミレイユは黙った。


「俺は、リーナのことも大事だ。助けたい。お父さんの手掛かりも探したい。」


「ええ。」


「でも、ミレイユのことも大事だ。」


「……。」


「今夜ここにいるのは、ミレイユといたいからだ。」


 ミレイユの目が揺れた。

 ソータは少し照れたが、言葉を続ける。


「誰かに言われたからじゃない。流れで来たわけでもない。俺が、ミレイユと一緒にいたかった。」


「ソータ……。」


「だから、嫌な女じゃない。」


 ミレイユはしばらくソータを見つめていた。

 そして、ゆっくり顔を寄せてくる。

 唇が触れる直前、彼女が小さく言った。


「あなた、今夜は本当にずるいわ。」


「褒め言葉?」


「ええ。」


 口づけが落ちた。

 さっきよりも穏やかな、でも深く甘い口づけだった。


     ◇


 夜は、静かに更けていった。

 言葉を交わし。

 触れ合い。

 時々、どちらともなく笑い。 

 また求め合う。


 ミレイユはいつものような強い口調でソータをからかったかと思えば、次の瞬間には甘えるように胸へ顔を埋めた。

 ソータはそのたびに、どうしていいか少し迷いながら、それでも彼女を離さなかった。


 不器用でも。

 慣れていなくても。

 大切にしたいという気持ちだけは、迷わなかった。


 ミレイユが囁く。


「ねえ、ソータ。」


「うん。」


「私、あなたを甘やかすのも好きだけれど。」


「うん。」


「甘やかされるのも、悪くないわね。」


「そうか。」


「ええ。」


 彼女は少しだけ顔を上げる。


「だから、もっと。」


「何を?」


「考えなさい。」


「また難しいことを。」


「恋人でしょう?」


「恋人って大変だな。」


「今さら?」


 ミレイユが笑う。

 ソータも笑った。

 それから、彼女の髪をそっと撫でる。


「ミレイユは、よく頑張ってる。」


 ミレイユの笑みが止まった。


「仕事も、村のことも、商会のことも。俺のことも。」


「……。」


「すごいと思う。でも、無理してるのも分かる。」


「ソータ。」


「だから、今くらいは力抜いていいよ。」


 ミレイユの目が潤んだ。


 彼女は何か言おうとして、結局言わずにソータの胸へ顔を埋めた。

 小さな声が聞こえる。


「……そういうの、本当に駄目。」


「駄目?」


「泣きそうになる。」


「泣いてもいいんじゃないか。」


「嫌よ。せっかくの甘い夜なのに。」


「泣いても甘いと思うけど。」


「あなた、時々本当に危険なことを言うわね。」


「危険?」


「ええ。もっと好きになってしまうでしょう。」


 ソータの心臓が跳ねた。


 ミレイユは胸に顔を埋めたまま、くすりと笑う。


「今、動揺したわね。」


「した。」


「正直。」


「もう隠せないからな。」


「良いことよ。」


 ミレイユはそう言って、ソータの胸元に頬を寄せた。

 その仕草があまりにも自然で、ソータは胸がいっぱいになる。


(俺のところに、こんなふうに寄りかかる人がいるんだな。)


 前世では、家に帰っても一人だった。

 仕事が終われば、疲れた体で部屋に戻るだけ。

 誰かが待っていることもない。

 誰かに触れることもない。

 誰かの不安を受け止めることも、自分の帰りを望まれることもなかった。


 今は違う。

 ミレイユがいる。

 リーナがいる。

 村の人たちがいる。

 運ぶものがある。

 帰る場所がある。


(帰ってこないとな。)


 そう思った。

 強く。


 ミレイユが顔を上げる。


「また、帰ってこようって考えたでしょう。」


「分かるのか。」


「分かるわ。」


「すごいな。」


「恋人だから。」


 ミレイユはそう言って、少し誇らしげに笑った。


     ◇


 夜明けにはまだ早い時間。

 部屋の灯りはほとんど消えていた。


 ソータは、うとうとしかけていた。

 腕の中では、ミレイユが静かに目を閉じている。

 今度こそ眠っているのかと思ったが、彼女の指がソータの服を軽く掴んでいた。

 離したくない。

 そんな気持ちが、指先から伝わってくる。


 ソータはその手に自分の手を重ねた。

 ミレイユが小さく動く。


「眠ったのかと思った。」


「少しだけ。」


「寝ていいよ。」


「あなたが先に寝たら。」


「子どもみたいだな。」


「恋人の前では、少しくらい子どもでもいいでしょう。」


「いいよ。」


 ミレイユは目を閉じたまま、少し笑った。


「なら、そうするわ。」


「うん。」


「ソータ。」


「何?」


「明日からまた、私は会頭代理に戻るわ。」


「うん。」


「あなたも、運送屋に戻る。」


「うん。」


「でも今夜のこと、忘れないで。」


「忘れない。」


「本当に?」


「本当に。」


「私が不安になったら、思い出させて。」


「分かった。」


 ミレイユは満足そうに息を吐いた。

 それから、ほとんど眠りに落ちる直前の声で言った。


「あなたは、私の運送屋さんよ。」


 ソータは少し笑った。


「独占欲強いな。」


「当然……。」


 返事はそこで途切れた。

 ミレイユはそのまま静かに眠りに落ちた。


 ソータは彼女の寝顔を見つめる。

 強くて、綺麗で、少し怖くて、でもこんなにも可愛い人。

 商会を背負い、村の未来を見て、ソータのことまで抱え込もうとする人。

 その人が今、自分の腕の中で安心したように眠っている。


(守りたいな。)


 自然にそう思った。

 村を守る。

 リーナの願いを運ぶ。

 北の森へ向かう。

 やることは多い。

 でも、その全部の先に、ここへ帰ってくる理由がある。


 ソータはミレイユの髪にそっと触れた。

 起こさないように、静かに。


「帰ってくるよ。」


 小さく呟いた。


「ちゃんと、ミレイユのところへ。」


 夜明け前の部屋に、その言葉だけが静かに落ちた。

 ミレイユは眠ったまま、少しだけソータの服を握る指に力を込めた。

 聞こえていたのかもしれない。

 聞こえていなかったのかもしれない。

 どちらでもよかった。


 ソータはその手を包み込む。

 そして、目を閉じた。


 仕事の夜は終わった。

 甘い夜も、やがて朝へ変わる。

 けれど、その温もりは確かに胸に残った。

 北の森へ向かう前に。


 ソータはまた一つ、帰る理由を積み込んだ。

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