第48話:残された村は、壊して運ぶことになった
夜が明けても、村の空気はまだ少しだけ固かった。
ゴブリンたちの襲撃は退けた。
キングゴブリンも倒した。
捕まっていたトムたちも助け出した。
それでも、朝になったからといって、全部が綺麗に終わるわけではない。
村人たちは家から出てくるたび、まず森の方を見た。
畑へ向かう男も。
井戸へ水を汲みに行く女も。
眠そうな顔で外へ出た子どもも。
一度だけ、森を見る。
そこから何も来ないことを確かめてから、ようやく息を吐く。
ソータも同じだった。
酒場の前に置かれた椅子へ腰を下ろし、ぼんやりと森の方を見ている。
(終わった……わけじゃないよな。)
肩が重い。
足も重い。
昨日の夜に《車体爆裂突進》を使ったせいか、体の奥に妙なだるさが残っている。
魔力はない。
スキルの使用回数にも限界はない。
そのはずなのに、精神的な疲れは普通に来るらしい。
(そりゃそうか。)
(俺の白いトラックで、キングゴブリンを吹っ飛ばしたんだもんな。)
(慣れたくないな、あれ。)
ソータは自分の手を見る。
昨日、その手で荷物を出し、道具を出し、人を助けた。
そして、魔物を倒した。
前世では配送業だった。
荷物を運ぶ仕事だった。
それが今では、村の命に関わっている。
何度考えても、変な話だ。
「ソータ。」
声をかけられて顔を上げる。
ミレイユが立っていた。
昨日ほどの緊張はない。
だが、目元には疲れが見える。
それでも背筋は伸びていて、金色の髪もきちんと整えられている。
こういうところが、いかにもミレイユらしい。
「おはよう、ミレイユ。」
「ええ、おはよう。」
ミレイユはソータの隣に立ち、同じように森を見た。
少しの間、二人とも黙っていた。
朝の森は静かだった。
鳥の声が聞こえる。
風が木の葉を揺らしている。
昨日の夜、あの奥で命のやり取りをしていたなんて、嘘みたいだった。
「顔色が悪いわ。」
「そうか?」
「ええ。」
「ミレイユも少し疲れてる。」
「私は平気よ。」
「俺も平気。」
「嘘が下手ね。」
「そっちもな。」
ミレイユが少しだけ目を細める。
「私に言い返す元気はあるのね。」
「そこは、まあ。」
「なら大丈夫そうね。」
そう言いながら、ミレイユはほんの一瞬だけソータの腕に触れた。
村人の目があるから、本当に一瞬だけ。
けれど、そこに込められた気持ちはちゃんと伝わった。
心配している。
怒っている。
そして、無事でいてくれて安堵している。
ソータは小さく笑った。
「何?」
「いや、ミレイユも分かりやすくなったなって。」
「……後で叱るわよ。」
「昨日も聞いたな、それ。」
「まだ叱っていないもの。」
「予約が溜まってる。」
「当然でしょう。あなたは叱られることをしすぎなの。」
(恋人って、こういうものだったっけ。)
(いや、前世で恋人いなかったから分からないんだけど。)
ソータが妙な納得をしていると、村長とマルタ、ガルドたち護衛四人が酒場の方へやって来た。
村長は杖をついている。
マルタは腕を組み、いつもの豪快な顔をしている。
ガルドは無口に周囲を見ていた。
エルザは弓を背負い、レオンはまだ少し眠そうだ。
バルクは朝からやたら元気そうだった。
「ソータ殿。ミレイユ様。」
村長が頭を下げる。
「おはようございます。」
「おはようございます、村長。」
ミレイユも丁寧に返した。
マルタがソータをじろりと見る。
「あんた、ちゃんと寝たのかい?」
「少しは。」
「少しねえ。」
マルタは分かりやすくため息を吐いた。
「若いからって、体を雑に扱うんじゃないよ。」
(中身は四十歳なんだよな。)
(でも、見た目は若いから説得力がない。)
「気をつけます。」
「その返事、信用していいんだろうね?」
「努力します。」
「そこは、はいって言いな。」
「はい。」
マルタは呆れたように笑った。
そのやり取りで、集まっていた村人たちの表情が少しだけ緩む。
重い話をする前に、ほんの少し笑いが戻った。
それだけで、朝の空気は少し軽くなる。
◇
「トムからも、少し話を聞けました。」
酒場の中に場所を移して、村長がそう切り出した。
トムと年配の男は、まだ奥で休んでいる。
命に別状はない。
だが、長く捕らえられていた疲労は大きい。
詳しい話は、もう少し回復してからの方がいい。
それでも、昨夜から今朝にかけて、分かったことはあった。
「ゴブリンの集落ですが、残っていた者たちは移動した可能性が高いようです。」
「移動?」
ソータが聞くと、レオンが頷いた。
「夜明け前に、近くまで見てきました。」
「え、行ったのか?」
「さすがに中までは入ってないっすよ。外縁だけです。」
レオンは少し得意げに言った。
「足跡がかなり散ってました。北の方、東の方、あと森のもっと奥。まとまって襲撃準備って感じじゃなくて、逃げた感じですね。」
エルザも続ける。
「小さい足跡も混じっていたわ。荷物を引きずった跡もある。キングゴブリンを失って、集落を維持できなくなったのかもしれないわね。」
酒場の中に、静かなざわめきが広がった。
村人たちが顔を見合わせる。
「じゃあ、もう襲ってこないのか?」
「全部いなくなったのか?」
「分からん。でも、すぐに大勢で来るって感じじゃないんだな?」
不安と安堵が混じった声だった。
ガルドが低く言う。
「油断はできん。だが、組織的な再襲撃の可能性は下がったと見ていい。」
その言葉で、村人たちの肩が少し下がった。
マルタも深く息を吐く。
「そうかい……。」
それは、心の底から出た声だった。
ソータも同じ気持ちだった。
(よかった。)
(って、言っていいのかは分からないけど。)
ゴブリンは敵だった。
村を襲い、人を捕まえ、トムたちを檻に閉じ込めた。
キングゴブリンは明確な脅威だった。
だから倒した。
そこに後悔はない。
けれど、ゴブリンの集落には女や子どものゴブリンもいた。
全部を追いかけて殺す。
そういう話にならなかったことに、ソータはほっとしていた。
自分が甘いのかもしれない。
この世界では危険な考えかもしれない。
それでも、ほっとしてしまうものは仕方ない。
ふと横を見ると、ミレイユも目を伏せていた。
彼女も、たぶん同じことを思っている。
商人としては危険を排除すべきだと判断できる。
でも、だからといって、何も感じないわけではない。
「……助かったわね。」
ミレイユが小さく言った。
ソータにだけ聞こえるくらいの声だった。
「ああ。」
「もちろん、安心しきるわけではないけれど。」
「うん。」
「でも。」
ミレイユは一度、言葉を切った。
「皆殺しにしなければならない状況にならなくて、よかったわ。」
ソータは少し驚いてミレイユを見た。
ミレイユは前を向いたままだった。
耳がほんの少し赤い。
「何?」
「いや、俺も同じこと考えてた。」
「そう。」
「ミレイユも、そう思うんだなって。」
「当然でしょう。」
ミレイユは少しだけ眉を寄せた。
「私は商人よ。危険を計算する。損得も考える。でも、何も感じないわけではないの。」
「うん。」
「それに。」
「それに?」
「あなたがそういう顔をすると思ったから。」
「俺?」
「ええ。全部殺すことになったら、あなたはきっと平気な顔をしないわ。」
ソータは返事に困った。
たぶん、その通りだった。
(本当に、よく見てるな。)
(怖いくらいに。)
「怖いくらいに見てるなって顔ね。」
「声に出てた?」
「出ていないけど、顔に出ていたわ。」
「それはもう読心術では?」
「あなたが分かりやすすぎるだけよ。」
ミレイユは少しだけ得意そうだった。
ソータは苦笑する。
重い話をしているはずなのに、こういうやり取りがあるだけで息がしやすくなる。
けれど、村長の表情はまだ厳しかった。
「ただし。」
その一言で、酒場の空気がまた締まる。
「集落そのものを残すわけにはいきません。」
村人たちも黙った。
それは誰もが分かっていることだった。
ゴブリンたちが移動したとしても、あの場所が残っていればまた使われる。
戻ってくるかもしれない。
別の魔物が住みつくかもしれない。
人を閉じ込める檻も、見張り台も、柵も、武器も。
そのままにはできない。
ミレイユが頷く。
「放置は危険です。再利用できる拠点があるというだけで、森の脅威は残り続けます。」
ガルドも短く言った。
「壊すべきだ。」
バルクが腕を鳴らす。
「やるなら徹底的にだな。」
レオンが少し顔をしかめる。
「でも、普通に壊すとなると大変っすよ。森の奥で、柵とか見張り台とか檻とか。村人総出でも何日かかるか。」
「火をつけるのは危険ね。」
エルザが即座に言った。
「森に燃え移ったら、ゴブリンより厄介よ。」
酒場の中に、また不安が広がる。
村人だけで行くには危険すぎる。
護衛だけで壊すにも時間がかかる。
何より、重い資材をどうするかという問題がある。
そこで、皆の視線が自然とソータへ向いた。
「……俺ですね。」
ソータが言うと、ミレイユが小さく頷いた。
「あなたね。」
「ですよね。」
「ええ。」
(まあ、こうなるよな。)
ソータは椅子から立ち上がった。
「俺の《神速積載庫》を使います。」
村人たちが静かになる。
「柵とか檻とか、武器とか、食料とか。危ないものは回収します。使える木材や金具は村の防衛に回せるかもしれない。使えないものは処分します。」
「そんなことまでできるのかい?」
村人の一人が驚いた声を出した。
「たぶんできます。」
「たぶん?」
「いや、大きさによりますけど。分解すればいけると思います。」
ミレイユがすぐに補足する。
「ソータの収納能力は、通常の収納魔法とは比較になりません。解体さえできれば、敵拠点の撤去には非常に有効です。」
エルザが感心したように息を吐いた。
「本当に嫌な能力ね。」
「え?」
「褒めているのよ。」
「そうかな。」
「敵からしたら最悪よ。せっかく作った拠点が、気づいたら倉庫整理みたいに消えるんだから。」
レオンが笑いをこらえる。
「ゴブリンもびっくりっすね。帰ってきたら村がない。」
「それはそれで少し申し訳ないな。」
「そこ申し訳なく思うんすか?」
「いや、敵なんだけどさ。」
バルクが豪快に笑った。
「お前は変なところで優しいな。」
「変なところですか。」
「普通は敵の拠点を片づける時に、相手の帰宅後の気持ちまでは考えねえ。」
(帰宅後って。)
(いや、たしかに帰宅後かもしれないけど。)
ミレイユが横から小さく言う。
「そういうところは嫌いではないわ。」
「え?」
「何でもない。」
聞き返した時には、もうミレイユは商人の顔に戻っていた。
切り替えが早い。
ソータは少しだけ置いていかれた気分になった。
◇
方針は決まった。
ゴブリンの集落跡へ向かい、危険な施設を撤去する。
残党がいた場合は無理に追わない。
女や子どものゴブリンを見つけた場合も、村へ向かってくる危険がない限り、深追いはしない。
ただし、檻、武器庫、見張り台、柵、罠、保存食は残さない。
再利用できるものは持ち帰る。
危険なものは処分する。
そう決めると、村人たちの顔に少しだけ安心が戻った。
皆殺しにする話ではない。
けれど、危険は残さない。
その線引きが、今の村には必要だった。
ソータにも、それが一番納得できた。
(敵を逃がすのは甘いのかもしれない。)
(でも、危険な拠点を壊すなら、村は守れる。)
(今の俺にできるのは、たぶんそれだ。)
「同行者は、俺と護衛のみなさんでいいですか?」
ソータが言うと、ガルドが頷いた。
「俺たちは行く。」
「当然ね。」
エルザも軽く弓を叩く。
「撤去中が一番危ないわ。作業している時は周囲が見えにくくなる。」
「俺が先行して足跡見るっす。」
レオンが言う。
「俺は後ろを守る。」
バルクも頷いた。
そこでミレイユが一歩前に出た。
「私も行くわ。」
酒場の中が止まった。
ソータも止まった。
「ミレイユ?」
「何?」
「何って、危ないだろ。」
「分かっているわ。」
「分かってるなら……。」
「だから行くのよ。」
ミレイユの声は落ち着いていた。
けれど、まったく引く気がない声だった。
ソータは困る。
かなり困る。
「いや、森の中だし、残党がいるかもしれないし、ゴブリン村だぞ。」
「ええ。」
「ええ、じゃなくて。」
「私はクラウゼン商会の会頭代理よ。」
ミレイユはまっすぐ言った。
「この村と商会が今後つながるなら、危険の場所も、道も、資材も、この目で確認しておく必要があるわ。」
「でも。」
「それに。」
ミレイユは少しだけ声を落とした。
「あなたが何を壊して、何を持ち帰るのか。隣で見ておきたいの。」
ソータは言葉を詰まらせた。
ただの好奇心ではない。
商人としての責任。
そして、恋人としての気持ち。
両方が混じっている。
ミレイユは強い。
強気で、計算高くて、少し怖い。
けれど、こういう時に絶対に逃げない。
ソータが重いものを背負う場面で、自分だけ安全な場所にいることを良しとしない。
「足手まといにはならないわ。」
「そういう心配じゃない。」
「なら、何?」
「心配なんだよ。」
言ってから、ソータは少し照れた。
ミレイユも一瞬だけ目を丸くする。
それから、耳が赤くなった。
「……そういう言い方は、ずるいわ。」
「え?」
「何でもない。」
ミレイユは咳払いをした。
「でも、心配されるだけの女でいるつもりはないの。」
「ミレイユ。」
「危険なら下がる。あなたや護衛たちの指示にも従う。だから連れて行きなさい。」
命令形だった。
完全に命令形だった。
(お願いじゃないんだよな。)
(こういうところ、すごくミレイユだ。)
村長が困ったように二人を見る。
マルタはにやにやしている。
エルザは面白そうに見ている。
レオンは明らかに笑いをこらえている。
バルクはもう笑っている。
ガルドは無表情だが、なぜか少しだけ視線を逸らしている。
ソータは観念した。
「……分かった。」
ミレイユの表情が少しだけ明るくなる。
「そう。」
「ただし、危ないと思ったらすぐ下がること。」
「ええ。」
「俺が撤退って言ったら撤退。」
「分かったわ。」
「本当に危なかったら、俺が抱えてでも逃げるからな。」
言ってから、酒場の空気が微妙に変わった。
ミレイユの顔が赤くなる。
ソータも遅れて気づく。
(あれ。)
(今の、なんか変な言い方だったか?)
エルザがにっこり笑った。
「抱えて逃げるのね。」
「いや、緊急時の話です。」
レオンが頷く。
「大事っすよね。お姫様抱っこ撤退。」
「誰もお姫様抱っことは言ってない。」
バルクが笑う。
「ソータならやりそうだな。」
「やらないとは言えないけど。」
ミレイユが小さな声で言った。
「……緊急時なら、許すわ。」
「許すのかい。」
マルタが笑った。
「いや、今のはそういう意味ではなくて。」
ミレイユはさらに赤くなる。
「作戦上の話です。」
「はいはい。作戦上ね。」
「マルタさん。」
「照れると分かりやすいねえ。」
「……。」
ミレイユが黙った。
強い商人が、村の肝っ玉母さんに完全に押されている。
(マルタさん、強い。)
ソータは心の中で深く頷いた。
◇
出発の準備はすぐに始まった。
ソータは《神速積載庫》の中身を確認する。
水。
食料。
薬。
縄。
布。
工具。
斧。
シャベル。
松明。
予備の槍。
木札と紐。
ミレイユがそれを見て、少し首を傾げる。
「木札?」
「分類用。」
「分類?」
「危険物、資材、証拠品、処分品って分けておいた方が、あとで出す時に楽だから。」
ミレイユの目が一瞬で商人の目になった。
「なるほど。」
「前の仕事でも、降ろす順番を間違えると地獄を見るんだ。」
「地獄?」
「一番最初に降ろす荷物が、一番奥にある時とか。」
「それは嫌ね。」
「嫌なんだよ。」
ソータは妙に実感を込めて頷いた。
「だから、収納できるからって適当に入れると後が大変なんだ。入れる時に分ける。出す順番も考える。危ないものは混ぜない。」
ミレイユが感心したように見てくる。
「本当に、あなたは荷物の話になると頼もしいわね。」
「他の時は?」
「危なっかしいわ。」
「即答だった。」
「でも、そこも嫌いではないわ。」
ミレイユはさらりと言った。
ソータは一瞬、返事に詰まる。
「……それ、ここで言う?」
「何か問題が?」
「いや、ないです。」
「ならいいでしょう。」
(この人、照れる時と照れない時の差が分からない。)
(俺だけが振り回されてる気がする。)
そんなことを思っていると、リーナが酒場の奥から出てきた。
手には小さな包みを持っている。
銀色の髪が朝の光を受けて、淡く光っていた。
「ソータさん。」
「リーナ。」
リーナは少し緊張した顔で近づいてきた。
そして、包みを差し出す。
「傷薬と、疲れた時に噛む薬草です。あと、ミレイユさんの分も。」
ミレイユが少し驚いた顔をする。
「私の分も?」
「はい。森へ行くなら、必要かと思って。」
リーナは少しだけ視線を伏せた。
ミレイユとの間に、まだ微妙な距離はある。
ソータを巡る感情が、何もなかったことにはならない。
けれど、今のリーナの顔にあるのは、対抗心よりも心配だった。
ミレイユはその包みを丁寧に受け取った。
「ありがとう。大切に使わせてもらうわ。」
「はい。」
リーナの顔が少しだけ柔らかくなった。
ソータも包みを受け取る。
「ありがとう、助かる。」
「無理しないでくださいね。」
「分かってる。」
リーナはじっとソータを見る。
「本当に?」
「……努力する。」
「そこは、分かってるって言ってください。」
「分かってます。」
マルタが横で笑った。
「あんた、朝から何人に同じこと言われてるんだい。」
「かなり言われてます。」
「つまり信用がないってことだね。」
「信用がないというか、心配されてるというか。」
「同じようなもんだよ。」
(否定できない。)
リーナは少しだけ笑った。
でも、その笑顔はすぐに揺れた。
彼女の視線は、森の方へ向く。
ゴブリン村。
その奥。
北の深い森。
父の手掛かりがあるかもしれない場所。
リーナが行きたいと思っていることは、ソータにも分かっていた。
でも、今は連れていけない。
ゴブリン村の撤去だけでも危険だ。
北の森へ行くなら、もっと準備がいる。
リーナ自身も、それを分かっているから何も言わない。
その我慢が、余計に胸に刺さる。
「何か見つけたら、必ず持って帰る。」
ソータが言うと、リーナの目が揺れた。
「……お願いします。」
「トムさんの話も、あとで詳しく聞こう。北の森のことも、ちゃんと整理する。」
「はい。」
リーナは深く頭を下げた。
ソータは少し困って、ただ頷く。
ミレイユはその横顔を静かに見ていた。
嫉妬がないわけではない。
たぶん、ある。
けれど今は、リーナの気持ちを茶化さなかった。
ミレイユはミレイユで、リーナの痛みを見ているのだ。
ソータはそう感じた。
◇
村の入口で、村人たちが見送ってくれた。
同行するのは、ソータ、ミレイユ、ガルド、エルザ、レオン、バルク。
村人は連れて行かない。
危険を減らすためだ。
村長が杖をつきながら言う。
「ソータ殿。くれぐれも、無理はなさらぬよう。」
「はい。」
「危険なものを残さぬことは大事ですが、命を賭けすぎる必要はありません。」
「分かっています。」
村長はミレイユにも頭を下げた。
「ミレイユ様も、どうかお気をつけて。」
「ええ。必ず戻ります。」
マルタが腕を組む。
「ソータ。」
「はい。」
「ミレイユ嬢ちゃんに怪我させたら、承知しないよ。」
「はい。」
「でも、あんたも怪我するんじゃないよ。」
「はい。」
「返事が軽いね。」
「重くします。はい。」
「そういう意味じゃない。」
マルタが呆れて笑う。
ミレイユも小さく笑った。
その笑いが見られただけで、ソータは少し安心した。
森へ入る前に、リーナがもう一度だけ言った。
「行ってらっしゃい。」
「行ってくる。」
「ちゃんと、帰ってきてください。」
「ああ。」
ソータは頷いた。
そして、森へ向かって歩き出す。
朝の森は静かだった。
昨日の夜の騒ぎが嘘のように、鳥が鳴いている。
木々の間から光が差し、葉の露がきらきら光っていた。
だが、少し進むとすぐに痕跡が見えてくる。
折れた枝。
踏み荒らされた草。
泥に残った足跡。
引きずられた跡。
昨夜、ゴブリンたちが移動した証拠だ。
レオンが前方で膝をつき、地面を確認する。
「やっぱり、かなり散ってますね。」
エルザが周囲を見ながら言う。
「待ち伏せの気配は薄いわ。でも油断しないで。」
ガルドが短く頷く。
「進む。」
バルクは後ろで盾を構え、ソータとミレイユを守る位置にいる。
ミレイユは緊張した顔をしていた。
それでも足取りはしっかりしている。
「大丈夫か?」
ソータが小声で聞くと、ミレイユは前を向いたまま答えた。
「大丈夫よ。」
「怖くない?」
「怖いわ。」
即答だった。
ソータは少し驚いた。
「怖いのか。」
「当然でしょう。」
ミレイユは小さく息を吐いた。
「でも、怖いから見ないという選択はしたくないの。」
「……そっか。」
「それに。」
「それに?」
「あなたが隣にいるでしょう。」
今度はソータが黙った。
ミレイユは自分で言っておきながら、耳を赤くしている。
「今のは、護衛対象として安心という意味よ。」
「そうなのか?」
「そうよ。」
「恋人的な意味は?」
「……少しあるわ。」
(正直。)
(そして可愛い。)
ソータがにやけそうになった瞬間、ミレイユが横目で睨んできた。
「何か失礼なことを考えたでしょう。」
「考えてません。」
「嘘ね。」
「本当に、ちょっとしか。」
「考えたのね。」
エルザが前方で小さく笑った。
「後ろでいちゃつく余裕があるなら大丈夫そうね。」
「いちゃついてない。」
「いちゃついていません。」
二人の声が重なった。
レオンが振り返らずに言う。
「息ぴったりっすね。」
「レオン。」
「はい、前見ます。」
◇
やがて、木々の向こうに粗末な柵が見えてきた。
ゴブリン村。
昨日の夜、命を賭けて近づいた場所。
今は不気味なほど静かだった。
見張り台には誰もいない。
柵の一部は壊れ、入口近くには粗末な槍が転がっている。
地面には無数の足跡が残っていた。
小さい足跡。
大きい足跡。
荷物を引きずった跡。
慌てて出ていったのだと分かる。
「本当に、移動したみたいね。」
ミレイユが低く言った。
「ああ。」
ソータは集落を見た。
敵の拠点。
人間を閉じ込めていた場所。
そう分かっているのに、胸の奥が少し重くなる。
粗末な小屋。
火を焚いた跡。
割れた器。
小さな寝床らしきもの。
そこには、生活の跡があった。
(敵なんだよな。)
(村を襲ったやつらなんだよな。)
(でも……。)
そこで、視線が檻に止まった。
木と骨のような材料で組まれた、粗末な檻。
トムたちが閉じ込められていた場所だ。
内側には引っかき傷があり、縄の切れ端も落ちていた。
ソータの胸の重さが、別のものに変わる。
(これは駄目だ。)
(これは、残しちゃいけない。)
ミレイユも同じものを見ていた。
彼女の顔から、迷いが消える。
「ソータ。」
「うん。」
「壊しましょう。」
「ああ。」
ガルドが周囲を確認する。
「残党なし。だが警戒は続ける。」
エルザが弓を構えたまま頷く。
「いつでも動けるわ。」
レオンは奥の道を見ている。
バルクが檻の前へ進んだ。
「まずこれか。」
「お願いします。」
ソータは檻に手を触れた。
意識を集中する。
《神速積載庫》が開く感覚がある。
目に見える扉はない。
けれど、自分の内側に巨大な荷台が広がる。
あの感覚だ。
「……入れ。」
檻の一部が消えかけた。
だが、すぐに止まる。
地面に固定されている杭が引っかかっているらしい。
「バルクさん、この杭を抜けますか?」
「任せろ。」
バルクが杭を掴み、力を込める。
ぎしぎしと木が鳴った。
ガルドが斧で接合部を叩き切る。
ばきり、と音がして檻が歪む。
「今ならいけるか。」
ソータがもう一度意識すると、檻の一部がすっと消えた。
ミレイユが息を呑む。
「何度見ても、とんでもないわね。」
「入れてるだけなんだけどな。」
「普通は檻を入れないのよ。」
「それはそう。」
ソータは次々に部材を収納していく。
危険物は危険物。
資材は資材。
証拠になりそうなものは証拠品。
頭の中で分類しながら収納する。
(積み荷管理、大事。)
(ゴブリン村でも、積み荷管理。)
(何やってるんだろうな、俺。)
エルザが呆れたように言う。
「敵の拠点が、本当に倉庫整理みたいに消えていくわ。」
レオンも頷く。
「これ、相手からしたら怖いっすよ。戻ってきたら、家財道具ごと消えてるんすよ。」
「家財道具って言うと、ちょっと罪悪感が増すからやめてくれ。」
「でも実際。」
「やめてくれ。」
ミレイユが横から言う。
「レオン。ソータは変なところで気にするから、その言い方は控えなさい。」
「了解っす。」
「ミレイユ。」
「何?」
「フォローなのか、それ。」
「フォローよ。」
「変なところって言った。」
「事実でしょう。」
「はい。」
ソータは素直に頷いた。
ミレイユは少しだけ笑う。
檻が消える。
武器庫らしき小屋から、粗末な槍や棍棒を回収する。
見張り台の梯子を外し、支柱を切る。
柵の一部を崩し、再利用できそうな木材を収納する。
保存食は別にする。
食べられるかどうかは分からない。
だが、そのまま残せば戻ってきた者の糧になる。
罠に使われそうな縄や骨片も回収した。
ミレイユは一つ一つを見ながら指示を出す。
「その金具は別にして。加工すれば村の柵に使えるわ。」
「了解。」
「そちらの布は汚れがひどいわね。証拠品以外は処分でいいと思う。」
「分かった。」
「保存食は混ぜないで。匂いが強いものがあるわ。」
「それ大事だな。」
「ええ。倉庫管理でも匂い移りは問題でしょう?」
「ミレイユ、だんだん配送業の人みたいになってきたな。」
「あなたのせいよ。」
「俺のせいか。」
「ええ。」
そう言いながら、ミレイユの表情は少し楽しそうだった。
緊張はある。
不快感もある。
だが、仕事として段取りが見えてくると、彼女は強い。
ソータが運ぶ。
ミレイユが仕分ける。
護衛たちが守る。
村ではなくなりつつあるゴブリン村の中で、不思議なほど役割が噛み合っていた。
◇
作業が進むほど、集落は形を失っていった。
見張り台は倒れた。
檻は消えた。
武器庫は空になった。
柵は何か所も途切れ、拠点としては使い物にならない。
全部を完全に更地にしたわけではない。
だが、ここへ戻ってきても、すぐに村として使うことはできないだろう。
ソータは額の汗を拭いた。
「思ったより、進んだな。」
バルクが笑う。
「普通なら三日はかかるぞ。」
「三日か。」
「少なく見てもだ。木材を運び出すだけで大仕事だからな。」
エルザが周囲を見回す。
「本当に戦い方が嫌らしいわね。戦う前は準備で勝って、戦った後は拠点を消す。」
「消すっていうか、撤去です。」
「言い方を優しくしても、やっていることは同じよ。」
レオンがうんうんと頷く。
「ソータさん、敵に回したくないっす。」
「俺も、自分みたいなやつ敵に回したくないな。」
「自覚あるんすね。」
「最近、少し。」
ガルドが短く言う。
「良いことだ。」
「良いことなんですか。」
「自覚のない強者ほど危うい。」
ソータは少しだけ真面目な顔になった。
自分が強者。
そう言われることには、まだ慣れない。
剣が強いわけではない。
魔法が使えるわけでもない。
でも、このスキルでできることは大きすぎる。
運ぶこと。
隠すこと。
出すこと。
片づけること。
それだけで、戦いの形が変わる。
(ちゃんと考えて使わないとな。)
そう思った時だった。
「ソータ。」
ミレイユが近くに来た。
少しだけ顔色が悪い。
「大丈夫か?」
「ええ。ただ、思ったより堪えるわね。」
ミレイユは壊れていく集落を見た。
「敵の拠点を壊すことに、迷いはないわ。あの檻を見たら、なおさら。」
「うん。」
「でも、ここに生活の跡があったことも、見てしまった。」
ソータは黙って頷いた。
ミレイユは小さく息を吐く。
「見てよかったわ。」
「そうなのか?」
「ええ。見なければ、私はもっと簡単に言っていたと思うもの。壊しなさい。処分しなさい。危険だから当然でしょう、と。」
「……。」
「でも、見た上で言えるわ。」
ミレイユはソータを見る。
「壊すべきよ。」
その声は震えていなかった。
「この場所は、人を閉じ込める場所だった。村を襲うための足場だった。戻ってきた者がまた同じことをしないためにも、壊すべきよ。」
「うん。」
「でも、追わなくていい。」
ミレイユの声が少しだけ柔らかくなる。
「逃げた者を、今すぐ追いかけて殺す必要はない。少なくとも、今の私たちの目的はそれではないわ。」
ソータは胸の奥が軽くなるのを感じた。
「ミレイユがそう言ってくれると、助かる。」
「あなたは、そういう線引きを一人で抱えすぎるのよ。」
「そうかな。」
「そうよ。」
ミレイユは少しだけ眉を寄せた。
「あなたは優しい。でも、優しさだけで全部背負うと壊れるわ。」
「壊れるほど立派なものじゃないよ。」
「そういうところ。」
「え?」
「自分を軽く扱うところが、よくないと言っているの。」
ミレイユは少し怒っていた。
だが、その怒りは温かかった。
ソータは素直に頷く。
「気をつける。」
「本当に?」
「努力する。」
「また努力。」
「分かりました。気をつけます。」
「よろしい。」
(完全に管理されてる。)
(でも、嫌じゃないんだよな。)
ソータがそんなことを考えていると、レオンが奥から声を上げた。
「ソータさん。ちょっと来てください。」
全員の空気が変わる。
レオンがいたのは、集落の奥だった。
北へ続く獣道の入口。
そこに、いくつもの足跡が残っていた。
新しいもの。
古いもの。
大きいもの。
小さいもの。
そして、荷物を引きずったような跡。
「こっちは、北の森方面っすね。」
レオンが言う。
「古い跡も混じってる。最近だけじゃないっす。」
ガルドがしゃがみ込み、地面を見る。
「何度も使われている道だな。」
エルザが周囲を警戒する。
「ゴブリンだけの道とは限らないわね。」
ソータは獣道の奥を見る。
木々が深い。
朝の光が入っているはずなのに、その先は妙に暗く見えた。
(北の森。)
(リーナのお父さんが向かったかもしれない場所。)
その時、ミレイユが足元にしゃがんだ。
「待って。」
「何かあった?」
「これ。」
ミレイユが拾い上げたのは小さな金属片だった。
泥に汚れている。
ソータが布で拭うと、青みがかった石の欠片が見えた。
ほんの小さな欠片。
それでも、青い光をかすかに返していた。
全員が黙った。
「青い石……。」
ミレイユが呟く。
ソータは トムの話を思い出す。
リーナの父。
青い石の腕輪。
ゴブリンの小屋の奥で見たかもしれないという証言。
(これがそうだって、決まったわけじゃない。)
(でも。)
無視できない。
ソータは慎重に布で包んだ。
「証拠品として持ち帰る。」
ガルドが頷いた。
「今日は深入りしない。」
「分かってます。」
ソータは北へ続く道を見た。
行かなければならない。
そう思った。
だが、今ではない。
今は村へ戻り、報告し、トムからもっと詳しく聞く必要がある。
準備もいる。
リーナにも説明しなければならない。
そして、この森へ入るなら、半端な気持ちでは駄目だ。
「戻ろう。」
ソータが言うと、ミレイユが頷いた。
「ええ。今日持ち帰るべきものは、もう十分にあるわ。」
◇
村へ戻る頃には、昼に近くなっていた。
村人たちは入口で待っていた。
ソータたちの姿を見ると、ほっとしたような声が広がる。
リーナもいた。
マルタの隣で、両手を胸の前で握っている。
「ソータさん!」
「ただいま。」
ソータが言うと、リーナの表情が少しだけ緩んだ。
ミレイユも村人たちへ頷く。
「無事です。」
村長が杖をつきながら前へ出た。
「状況は?」
ソータは簡潔に説明した。
ゴブリンの残党はほとんど移動していたこと。
集落は拠点として使えないようにしたこと。
檻や武器、見張り台の一部、危険物を撤去したこと。
使えそうな資材は持ち帰ったこと。
村人たちはそれを聞き、深く息を吐いた。
「そうか……。」
「これで少しは安心できる。」
「全部殺しに行かずに済んだんだな。」
誰かがそう言った。
その言葉に、何人かが頷いた。
ソータは少しだけ胸が温かくなる。
村人たちも同じだったのだ。
ゴブリンは怖い。
憎い。
でも、逃げた者まで追って殺し尽くすことに、何も感じないわけではない。
マルタが腕を組んだまま言う。
「村を守るには、あの場所を壊すしかない。でも、余計な血を流さずに済んだなら、それでいいさ。」
村長も深く頷いた。
「ええ。必要な処置でした。」
ミレイユが静かに言う。
「拠点としては、もうすぐには使えません。残った資材は、村の柵や見張り台の補強に回せるでしょう。」
その言葉に、村人たちの目が変わった。
ただ壊しただけではない。
持ち帰った。
使える。
守りに変えられる。
それが分かったからだ。
「ソータ殿。」
村長が深く頭を下げる。
「また村は、あなたに助けられました。」
「いや、俺だけじゃないです。みんなでやったことです。」
「それでも、です。」
村長は顔を上げた。
「あなたがいなければ、あの場所は残ったままだったでしょう。」
ソータは少し困る。
褒められるのは、まだ苦手だ。
横を見ると、ミレイユが少し得意そうな顔をしていた。
「受け取りなさい。」
「何を?」
「感謝よ。」
「そう言われても。」
「荷物は素直に受け取るのに、感謝は受け取り下手なのね。」
「感謝は積み方が分からないからな。」
ミレイユが一瞬きょとんとした。
それから、小さく笑った。
「では、私が積み方を教えてあげるわ。」
「感謝の積み方?」
「ええ。まずは否定せずに、ありがとうございますと言うの。」
「あ、はい。」
ソータは村長へ向き直った。
「ありがとうございます。」
村長は満足そうに頷いた。
マルタが笑う。
「完全に尻に敷かれてるねえ。」
「敷いていません。」
ミレイユが即座に言った。
「まだね。」
エルザが小さく付け加えた。
ミレイユが振り向く。
「エルザ?」
「何でもありません。」
レオンは口元を押さえていた。
バルクは普通に笑っていた。
ガルドだけは真顔だった。
たぶん、あえて真顔でいる。
(護衛の人たちも、だいぶ遠慮なくなってきたな。)
ソータはそんなことを思った。
その時、リーナが一歩前に出た。
「あの……何か、見つかりましたか?」
空気が少し変わる。
ソータは慎重に頷いた。
「まだ、確かなことは言えない。」
「はい。」
「でも、北の方へ続く道があった。何度も使われてる感じだった。」
リーナの手に力が入る。
「それと。」
ソータは布に包んだ小さな欠片を取り出した。
青みがかった石の欠片。
それを見た瞬間、リーナの目が見開かれた。
「青い石……。」
マルタも表情を変える。
「それは。」
「腕輪の一部かは分かりません。似ているだけかもしれない。」
ソータは先に言った。
希望だけを膨らませて、違った時に傷つけたくなかった。
「でも、無関係とも思えない。だから持ち帰った。」
リーナは震える手で、その欠片を見つめた。
触れようとして、少し迷う。
ソータは布ごと差し出した。
「確認してくれるか?」
「……はい。」
リーナは両手で受け取った。
じっと見る。
青い石の欠片を。
その小さな光を。
「お父さんの腕輪の石に……似ています。」
声が震えていた。
マルタが娘の肩を抱く。
リーナは泣かなかった。
泣きそうだった。
でも、こらえていた。
「ソータさん。」
「うん。」
「トムさんから、もっと詳しく聞いてください。」
「ああ。」
「北の森のことも。」
「聞く。」
「お願いします。」
ソータは頷いた。
「ちゃんと準備して、探索に行く。」
リーナの目が揺れる。
きっと、自分も行きたい。
そう思っている。
けれど、彼女は言わなかった。
今はまだ、言わなかった。
その代わり、まっすぐにソータを見た。
「帰ってきてください。」
「ああ。」
「手掛かりも、ソータさんたちも。」
「持って帰る。」
ソータはそう答えた。
それは約束だった。
簡単な約束ではない。
それでも、言わなければ始まらない。
ミレイユはそのやり取りを、静かに見ていた。
少しだけ胸が痛む。
でも、今はそれを押し込める。
リーナの願いは本物だ。
ソータの優しさも本物だ。
なら、自分がするべきことは嫉妬ではない。
段取りだ。
ミレイユは一歩前に出た。
「まず、今日中に撤去した資材を確認しましょう。」
皆の視線が集まる。
「使えるものは村の防衛に回す。危険なものは処分。証拠品は分けて保管。さらに、村の名産品を街へ運ぶ準備も進めます。」
ソータが思わず見る。
「今から?」
「今からよ。」
「忙しくないか?」
「忙しい時ほど、段取りが必要なの。」
ミレイユはきっぱり言った。
「ゴブリン村の危険は一つ片づいた。でも、北の森へ向かうなら、村には備えがいる。備えには物と金と流れがいる。」
村長が深く頷いた。
「その通りですな。」
マルタも笑う。
「やっぱりこの嬢ちゃん、頼りになるねえ。」
「ありがとうございます。」
ミレイユは少し誇らしげに返した。
そして、ちらりとソータを見る。
「あなたにも働いてもらうわよ、運送屋さん。」
「はいはい。」
「返事が軽いわ。」
「はい。」
「よろしい。」
(完全に仕事が増えた。)
(でも、不思議と嫌じゃない。)
ソータは村を見回した。
不安はまだある。
北の森の謎もある。
リーナの父のことも分からない。
けれど、村の中には少しずつ前へ進む空気が戻っていた。
ゴブリン村は壊した。
危険は一つ運び去った。
そして次は、村の名産品を街へ運ぶ。
人を助けるために。
村を守るために。
未来をつなぐために。
(やっぱり、俺は運ぶんだな。)
ソータは小さく笑った。
その横で、ミレイユが当然のように言う。
「さあ、次の荷物を決めるわよ。」
「休憩は?」
「後で。」
「ですよね。」
村人たちの間に、少しだけ笑いが起こる。
救出の夜は終わった。
ゴブリン村も、もう拠点ではなくなった。
けれど、物語はまだ止まらない。
北の深い森へ向かう前に。
村と街をつなぐための、新しい荷造りが始まろうとしていた。




