第47話:生きて帰った男たちが、北の森への道を残した
酒場の中は、宴会の時とはまるで違う熱を帯びていた。
笑い声の代わりに、小さな話し声と、鍋の煮える音と、負傷者の息づかいがある。
トムと、もう一人の年配の男は、酒場の奥へ寝かされていた。
村の年寄りが湿布のような薬草を貼り、リーナが湯を運び、マルタが食べられそうなものを次々に用意している。
ソータは入口近くの椅子へ腰を下ろし、ようやく大きく息を吐いた。
(帰ってきた。)
(ほんとに、帰ってきたな。)
腕も脚も重い。
《車体爆裂突進》を使った後の、体の芯が少し抜けるような感覚もまだ残っている。
だが、今は倒れるわけにはいかない。
聞かなければならない話がある。
そして、伝えなければならないこともある。
「ソータ。」
隣にミレイユが来た。
もうさっきみたいな般若の顔ではない。
ただ、かなり真剣な顔ではある。
「何。」
「無事でよかったわ。」
「……うん。」
真正面からそう言われると、少し照れる。
ソータが頭をかくと、ミレイユは少しだけ眉を寄せた。
「でも。」
「でも?」
「キングゴブリンなんて聞いてない。」
「俺も会うまで知らなかったよ。」
「そういう問題ではないの。」
声は静かだが、かなり本気で怒っている。
それでもソータには、そこに混じる安堵がわかった。
だから、少しだけ笑ってしまう。
「何。」
ミレイユがまた聞く。
「怒ってるけど、安心してるなって。」
「……後で本当に叱るわよ。」
「はい。」
素直に頷くと、ミレイユは少しだけ息を吐いた。
それから、そっとソータの腕に触れる。
人目のある場所なので、ほんの一瞬だけ。
でも、その一瞬で十分だった。
そこへ、トムのかすれた声が聞こえた。
「ソータさん……。」
ソータはすぐに立ち上がる。
奥へ行くと、トムは枕を少し高くされて横になっていた。
顔色はまだ悪い。
だが、意識はさっきよりずっとはっきりしている。
隣では年配の男も目を覚ましていた。
村長とマルタ、リーナ、それに護衛たちも自然と集まってくる。
酒場の空気がまた静まった。
トムはゆっくりとソータを見た。
「……助けてくれて、ありがとな。」
「礼は元気になってからでいいって言ったろ。」
「いや……今、言っときたい。」
その言葉は弱かったが、まっすぐだった。
「お前が来なきゃ、俺らはあそこで終わってた。」
その一言で、村人たちの視線が一斉にソータへ集まった。
ソータは少し困った。
「俺一人じゃないよ。」
「いや。」
トムは首を横に振る。
「村の外から護衛も連れてきて、道具も持って、あんな化け物までぶっ飛ばして。」
「化け物って。」
「白い箱みたいなやつ。」
エルザが吹き出しそうになる。
レオンは口元を押さえている。
バルクはもう顔が笑っていた。
ガルドだけは真顔だったが、目の奥が少し面白そうだった。
ミレイユがすっとソータを見る。
「白い箱?」
「あとで説明する。」
「絶対よ。」
「はい。」
トムは少しだけ笑ってから、真顔に戻った。
「……それで、だ。」
リーナの顔が引き締まる。
マルタも腕を組んだ。
村長も、一歩前へ出る。
誰もが知っている。
ここから先が、本題だ。
「おじさんのこと、聞きたいんだろ。」
トムがリーナを見る。
リーナはぎゅっと膝の上で手を握って、頷いた。
「うん。」
「全部は見てねえ。」
「うん。」
「でも、最後に見た。」
その瞬間、酒場の中の空気が凍るみたいに張った。
トムは一度目を閉じ、苦しそうに息を吐いてから続けた。
「二年前、魔猪を追って森に入った。」
「はい。」
リーナが小さく答える。
「奥で、数が多いゴブリンに当たった。」
「……。」
「俺たちは、最初は何とかなると思った。」
その言い方に、ソータは少しだけ胸が重くなる。
わかる。
森で魔物に慣れている者ほど、最初の判断を誤ることがある。
数の怖さを、飲み込まれるまで軽く見る。
トムは唇を湿らせてから続けた。
「でも駄目だった。」
「……。」
「向こう、ただの群れじゃなかった。」
ミレイユがそこで目を細める。
「ただの群れじゃない?」
「見張りもいた。」
トムが答える。
「待ち伏せみたいに、左右から出てきた。」
ガルドが低く唸った。
「やはり統率があったか。」
「キングゴブリンだな。」
バルクが言う。
トムは頷いた。
「でかいのがいた。」
「それが、お父さんを見た最後なの?」
リーナが震える声で聞く。
「いや。」
トムは首を振る。
「もっと後だ。」
皆が黙る。
「捕まる前、おじさんが叫んだんだ。」
「……何て?」
「“お前らは村へ戻れ”って。」
リーナの目に、また涙が溜まる。
マルタの顔が強張る。
トムは続けた。
「でも戻れなかった。」
「うん……。」
「そしたら、おじさんだけ反対側へ走った。」
村人たちの誰かが、小さく息を呑んだ。
「ゴブリンの大きいのと、何体かを引きつけて。」
「……。」
「北の深い森の方へ、わざと。」
リーナは声を出せなかった。
ただ、涙がぽろぽろ落ちていく。
マルタは隣で娘の肩を抱いた。
強く。
けれど顔は前を向いたまま。
「生きてると思うかい。」
マルタが低く聞いた。
トムは苦しそうに目を伏せた。
「……わからねえ。」
正直な答えだった。
「でも。」
その一言に、全員がまた顔を上げる。
「すぐ死んだ感じじゃなかった。」
酒場の中へ、その言葉がゆっくり落ちた。
すぐ死んだ感じじゃなかった。
それは確かな生存証明ではない。
でも、完全な絶望でもない。
リーナは泣きながら、何度も頷いた。
「生きてるかもしれない……。」
「かもしれねえ。」
トムも頷く。
「北の森の方は、もっと深い。」
「深い?」
ソータが聞く。
「俺らでも、あんまり入らねえ場所だ。」
「魔物が強いのか。」
エルザが聞く。
「強いし、地形も悪い。」
トムは答えた。
「沢も多いし、洞穴もある。」
ミレイユはそこで、すっと目を細めた。
(北の森。)
(ゴブリン集落のさらに先。)
(つまり、この村の問題はまだ終わらない。)
ソータも同じことを考えていた。
ゴブリン集落は片づけなければならない。
だが、本命はその先かもしれない。
リーナの父がいるなら。
あるいは、いたなら。
北の森へ行くしかない。
トムはそこで少しだけ呼吸を整え、さらに言った。
「あと一つ。」
「何?」
ソータが聞く。
「おじさん、腕輪してたろ。」
「青い石のやつ。」
リーナがすぐに言う。
「そう、それ。」
「見たの?」
「……ゴブリンの小屋の奥で、一回だけ。」
リーナの目が見開かれる。
「ほんとに!?」
「たぶん、間違いねえ。」
ソータは昼間に集落で見た小屋を思い出す。
檻とは別の、奥の方。
まだちゃんと調べ切れていない場所があった。
(あそこだ。)
(次に行くなら、もっと奥まで見る必要がある。)
村長が深く息を吐いた。
「では、やることははっきりしたな。」
その声に、皆が少しずつ現実へ戻る。
「まずゴブリン集落を完全に制圧する。」
「うん。」
ソータが頷く。
「その上で、北の森への手掛かりを探す。」
「そうなる。」
ガルドも短く言った。
マルタは娘の肩を抱いたまま、低く笑った。
「忙しくなるねえ。」
「はい。」
ソータは答えた。
そして、そのままリーナを見た。
「探しに行く。」
リーナは涙で濡れた顔のまま、ソータを見返した。
「……うん。」
「今度は、ちゃんと連れて帰る。」
それは約束だった。
軽く言うつもりはない。
でも、言葉にしないと届かないこともある。
リーナは何度も頷いた。
「お願いします……。」
ミレイユはそのやり取りを静かに見ていた。
胸の奥に、少しだけちくりとするものがある。
でも今は、それを口にする場面ではない。
今は同じ方向を見なければならない。
ソータを中心に。
村を中心に。
そして、この先の北の森を中心に。
だからミレイユは静かに言った。
「まずは仮契約をまとめるわ。」
「え?」
ソータがそちらを見る。
「え、じゃないの。」
ミレイユはきっぱり言う。
「村の物を運ぶ話は進める。」
「今?」
「今よ。」
「でも大変な時に。」
「大変な時だからこそ。」
ミレイユは一歩も引かない。
「この村に、これから必要なのは金と流れと備えよ。」
村長が深く頷いた。
「その通りですな。」
マルタも、ふっと笑う。
「やっぱりこの別嬪さん、顔だけじゃないねえ。」
「昨日も聞いた気がする。」
ミレイユが言う。
「何度でも言うさ。」
マルタはにやりとした。
酒場の中に、ようやく少しだけ笑いが戻る。
重い話だった。
まだ涙も残っている。
でも、その中で前へ進む話ができるのは、悪いことじゃない。
ソータは椅子へ腰を下ろしながら思った。
(ゴブリン集落。)
(北の森。)
(村の契約。)
(やること、増えたな……。)
だが、不思議と嫌ではなかった。
運ぶべきものが増えた。
繋ぐべき場所が増えた。
守りたい相手も増えた。
運送屋としては、たぶん忙しい方が性に合っている。
その時。
ミレイユがすっと顔を近づけて、小さな声で言った。
「それと。」
「うん?」
「帰ってきたから、今日のところは許すけど。」
「けど?」
「次にキングゴブリン級を相手にする時は、先に相談しなさい。」
「そんな相談の余裕あるかな……。」
「作りなさい。」
その言い方が妙に真顔で、ソータは思わず笑ってしまった。
ミレイユは少しだけ不満そうだったが、口元はほんの少しだけ緩んでいた。
こうして。
救出の夜は終わりきらないまま、次の話へ繋がっていった。
ゴブリン集落の制圧。
北の深い森。
そして村と街を結ぶ新しい流れ。
物語は、もう一段階大きくなる準備を始めていた。




