第35話:グランデリアの朝には、家族ではなく曲者の執事がいた
朝。
最初に目を覚ましたのは、ソータだった。
柔らかな寝具。
高い天井。
淡い光。
そして、すぐ隣にあるぬくもり。
「……。」
ゆっくり顔を動かす。
そこにはミレイユがいた。
昨夜の熱が嘘みたいに静かな寝顔。
金髪が枕に広がり、少しだけ唇がやわらかく開いている。
起きている時の鋭さはなくて、ただきれいで、ただ愛おしい。
(夢じゃなかったんだな……。)
そう思った瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。
ソータは思わず少しだけ笑った。
「……何で笑うの。」
目を閉じたまま、ミレイユが言った。
「起きてたの?」
「今、起きたわ。」
ゆっくりと青い目が開く。
目が合う。
少しだけ照れくさいのに、逸らしたくはない。
「おはよう、ミレイユ。」
「……おはよう、ソータ。」
名前を呼ぶだけで、昨日までと世界の温度が少し違う気がした。
「よく眠れた?」
ソータが聞く。
「ええ。」
ミレイユが少しだけ目を細める。
「すごく、よく眠れたわ。」
「それならよかった。」
「ソータは?」
「俺も。」
そこでミレイユが、ほんの少しだけ体を寄せた。
朝の光の中だと、昨夜よりずっと照れる。
でも、嫌じゃない。
むしろ嬉しい。
「……ねえ。」
「うん?」
「後悔してない?」
声が小さい。
昨日までのミレイユなら、たぶんこんな聞き方はしなかった。
「してないよ。」
ソータはすぐに答えた。
「全然。」
ミレイユの肩から、少しだけ力が抜ける。
「よかった。」
「ミレイユは?」
「……してるように見える?」
「見えない。」
「なら、してない。」
その言い方が可愛くて、ソータはまた少し笑ってしまった。
ミレイユが唇を尖らせる。
「また笑った。」
「ごめん。」
「ごめんじゃ済ませないわ。」
「じゃあどうすれば。」
ミレイユは一瞬だけ考え、きっぱり言った。
「浮気は絶対に許さないから。」
「……はい?」
朝一番でそれが来るとは思わなかった。
ソータが目を瞬かせる。
ミレイユはものすごく真面目だった。
「絶対に。」
「いや、しないけど。」
「本当に?」
「本当に。」
「グランデリアでも、王都でも、村でも。」
「うん。」
「変な女について行ったりしない?」
まだそこを引っ張るのか。
ソータは苦笑しつつ頷いた。
「もうしない。」
「“もう”って何。」
「すみません。」
「反省して。」
「してる。」
そこでようやく、ミレイユが少しだけ満足そうに笑った。
その顔を見ているだけで、ソータの胸はまた勝手にやわらかくなる。
◇
身支度を整えて部屋を出ると、グランデリアの屋敷は静かだった。
王都の本邸と違って、ここに家族はいない。
いるのは使用人たちと、ミレイユ専属の執事だけだ。
その執事が、廊下の先で待っていた。
年齢は五十前後だろうか。
灰色の髪をきっちり撫でつけ、黒い執事服を寸分の乱れもなく着こなしている。
細身だが、立ち方に無駄がない。
普通の執事には見えない空気をまとっていた。
「おはようございます、お嬢様。」
「おはよう、アルベール。」
アルベール。
それが執事の名らしい。
彼は次にソータへ目を向けた。
穏やかな笑み。
だが、その奥に何か得体の知れないものがある。
(何だろう、この人。)
(執事なんだけど、執事じゃない感じがする。)
(目が、妙に落ち着きすぎてるな。)
ソータがそんなことを思っている間に、アルベールはミレイユへほんの少しだけ身を寄せた。
その声は小さかった。
でもソータの耳には、意外とちゃんと聞こえてしまった。
「昨夜は、うまくいきましたな?」
ぴたり、と空気が止まる。
ミレイユは一瞬だけ固まった。
だが、すぐに小さく咳払いする。
「えぇ、ありがとう。」
さらっと返した。
さらっと返したが、耳は赤かった。
ソータは目を瞬かせる。
(何だ今の。)
(不穏だな!?)
(何にありがとうなんだ!?)
(うまくいくように何か仕組んでたのかこの執事!?)
一方のアルベールは、何事もなかったかのように一礼した。
(よろしい。)
(お嬢様もようやく腹を括られたか。)
(やはり、押すべき時に押さねば物事は進みません。)
(多少の演出は必要だったでしょうな。)
どうやらかなり曲者らしい。
しかも、ただの曲者ではない。
ミレイユがぼそりとソータへ言った。
「……気にしないで。」
「いや気になるよ。」
「気にしないで。」
「すごく強く言うね。」
「今は。」
「今は?」
「今は、気にしなくていいの。」
その“今は”が、すでにだいぶ怪しかった。
しかもアルベールは、それを聞いても微笑んでいるだけだ。
(この人、絶対何かあるな。)
(しかもただの執事じゃない。)
ソータがそう感じたのは、勘ではなかった。
アルベールの身のこなしには、戦う人間の癖があったからだ。
実は元冒険者で、しかもかなりレベルの高い魔法使い。
――という真相は、まだソータは知らない。
ただ、この執事はただ者ではない。
それだけは朝の数分で十分すぎるほど伝わっていた。
◇
朝食は、王都の本邸ほど賑やかではなかった。
使用人たちが静かに給仕をし、ミレイユとソータが向かい合って座る。
そのぶん、妙に二人きり感が強い。
「……こういうの、少し照れるね。」
ソータが言う。
「何が?」
ミレイユが聞く。
「朝から普通に向かい合ってるの。」
ミレイユは一瞬だけ視線を泳がせ、それから平然を装った。
「昨日の夜の方が、よほど普通ではなかったでしょう。」
「それはそうだけど。」
「なら、今さらです。」
「強いなあ。」
「そうでもないわ。」
そう言いながら、ミレイユはパンをちぎる手つきがほんの少しだけぎこちない。
ソータはそれに気づいて、少しだけ笑った。
「何。」
「いや、可愛いなと思って。」
ミレイユの手が止まる。
「……朝からそういうことを言うのね。」
「思ったから。」
「……。」
返事がない。
だが耳はまた赤くなっていた。
アルベールが横で静かに紅茶を注ぐ。
表情は変わらない。
だが内心は少し面白がっているのが、何となく気配でわかる。
(よろしい。)
(お嬢様がここまで素直になられるとは。)
(やはり、男は押して動かし、女は覚悟させて動かすものですな。)
(ただしソータ様は少々、いやかなり鈍い。)
(今後も多少の補助は必要かもしれません。)
補助。
という言葉が似合わないくらい、不穏だった。
◇
集合した護衛たちも、ソータとミレイユの空気を見て、だいたい察したらしかった。
大剣使いの男は何も言わない。
弓使いの女はにやにやしている。
斥候役の青年は妙に目を輝かせている。
盾役の男は満足そうに何度も頷いていた。
(ああ、まとまったんだな。)
(そりゃあの空気ならな。)
(お嬢様、わかりやすいなあ。)
ミレイユはそんな視線を無視して、仕事の声を出した。
「馬車は二台。」
「一台は私とソータ。」
「もう一台に護衛四名。」
「荷台には武器、防具、それから村向けの土産も積んであります。」
昨日までと違って、ソータもその呼び方に自然に反応する。
「了解。」
それだけで、ミレイユの口元が少しだけやわらかくなる。
護衛たちの内心はさらに盛り上がった。
(もう夫婦でいいのでは?)
(呼吸が自然すぎる。)
ソータはそこまで読めないが、前よりは少しだけわかってきていた。
(たぶん今、いろいろ思われてるな。)
(でも、もう別にいいか。)
(ミレイユと一緒って思われるの、嫌じゃないし。)
そう考えた自分に、少しだけ驚く。
でも、それが本音だった。
こうして馬車はグランデリアを発った。
◇
街道をしばらく進み、渓谷を抜けたあたりで、斥候役の青年が前方から合図を送ってきた。
「魔物です!」
馬車が減速する。
茂みの向こうから飛び出してきたのは、中型の魔物の群れだった。
犬より大きく、狼よりごつい。
灰色の毛。
長い牙。
「前へ!」
盾役の男が叫ぶ。
護衛たちが素早く散る。
大剣使いが正面を止め、弓使いの女が横から矢を撃ち込む。
軽装の青年が死角へ回り、盾役が体ごと押し返す。
速い。
無駄がない。
「すごいな。」
ソータが思わず呟いた。
「でしょう。」
ミレイユが少しだけ誇らしげに言う。
戦いはあっという間だった。
数分もせず、魔物の群れは地面へ転がっていた。
そこでソータは馬車から降りた。
「何をするのです?」
弓使いの女が聞く。
「素材にします。」
ソータが答える。
「もったいないので。」
そして死体へ触れる。
ふっと。
六体まとめて消えた。
「……は?」
護衛たちがそろって固まる。
「今、何をした!?」
盾役の男が目を剥く。
「収納です。」
「収納!?」
「はい。」
「そんな量を!?」
斥候の青年が叫ぶ。
「一応、そういうの得意で。」
「得意とかそういう話なのか!?」
弓使いの女が、ぽかんとしたあとミレイユを見る。
「……お嬢様。」
「何。」
ミレイユは涼しい顔をしていた。
「聞いていた以上ですね。」
「でしょう。」
その返事が妙に得意げだった。
一方、ミレイユの内心は少し違う意味でも満たされていた。
(驚くわよね。)
(そうでしょうそうでしょう、ソータはすごいのよ。)
(……“うちの”ってつけそうになったわね、今。)
(危ない危ない。)
ソータが収納を終えて振り向くと、護衛たちはまだ呆然としていた。
「あとで解体します?」
ソータが聞く。
「いや。」
弓使いの女が苦笑する。
「まずはあなたのことを整理したいわ。」
「そんなにですか。」
「そんなによ。」
その返しに、ソータは少しだけ困ったように笑った。
ミレイユはその横顔を見て、また少し胸がやわらかくなる。
(やっぱり。)
(この人は、村へ返すだけじゃ終わらない。)
(でもまずは村ね。)
(リーナさんもいるし……。)
そこまで考えて、ミレイユは少しだけ口を引き結んだ。
(負けるつもりはないわ。)
戦いのあとも、馬車はまた村へ向かって進み出した。
街道の先。
森の向こう。
そこに、ソータの帰る場所がある。
そして今のミレイユは、その帰る場所の中に自分も入っていくつもりでいた。
かなり本気で。




