第31話:朝になったら、さすがにこれは距離が近すぎた
朝。
田島壮太――ではなく、今はもうすっかりソータは、何だか妙に落ち着くぬくもりの中で目を覚ました。
柔らかい。
あたたかい。
そして、背中に何かが軽く触れている。
「……ん。」
半分寝たまま、その感触へ少しだけ身を預ける。
(ああ。 何かこう、安心するな。)
(この感じ、前にも……。)
そこで、脳がようやく追いついた。
前にもあった。
しかも、つい昨夜。
「……あ。」
ソータは、ゆっくり目を開けた。
見慣れない天井。
高い。
豪華。
王都のクラウゼン家の客間。
そして、背中に触れるぬくもり。
(待て。)
(ある。)
(これは、ある。)
(完全に人の気配がある。)
昨夜と同じように。
いや、昨夜よりもさらに確信を持って。
ソータはおそるおそる振り返った。
いた。
ミレイユが。
薄いピンクシルクのネグリジェのまま。
昨夜よりずっと近く。
というか、ほとんど背中へ引っつく形で眠っていた。
金髪が枕に広がり、細い腕が布団の上にかかっている。
寝顔はやっぱり無防備で、でも昨夜よりずっと近いせいで破壊力が増している。
「……。」
ソータはしばらく完全に停止した。
(何で!?)
(いや、何でって言うほどでもないのか!?)
(昨日の流れからすると、来そうではあった。)
(いや普通は来ないだろ!)
(でも来た!)
(しかも、かなり自然に後ろへ収まってる!)
心臓が一気に騒ぎ出す。
だが、そこで下手に跳ねるわけにもいかない。
起こしたらまずい。
何がまずいのか全部はわからないが、とにかくまずい。
(落ち着け。)
(落ち着けソータ。)
(この状況で慌てて飛び起きたら、絶対に変な方向へ転ぶ。)
(静かに。 とにかく静かに。)
そう思った瞬間。
「……ん。」
ミレイユが少しだけ眉を寄せた。
ソータの心臓がさらに跳ねる。
ゆっくりと、青い目が開いた。
数秒。
目の前にソータの顔。
近い。
だいぶ近い。
ミレイユも、そこで一瞬だけ止まった。
「……おはよう。」
先に言ったのはミレイユだった。
声は少し眠たげなのに、妙に自然だ。
まるでこれが当然みたいに。
「お、おはようございます。」
ソータは見事に声が裏返った。
ミレイユはそこでようやく、今の距離と体勢を改めて認識したらしい。
耳がじわじわ赤くなる。
だが逃げない。 そこはさすがだった。
「……よく眠れた?」
「はい。」
「そう。」
「ミレイユは。」
呼んだ。
自然に。
昨夜言われた通り。
それだけで、ミレイユの目がほんの少しだけやわらかくなる。
「ええ。 よく眠れたわ。」
その返事が妙に優しくて、ソータは一瞬だけ余計に困った。
(呼べたな。)
(いや、呼べたのはいいんだけど。)
(状況がよくない。)
(いや、よくないというか、心臓に悪い。)
ミレイユの方も、内心は全然平然ではなかった。
(呼んだ。)
(ちゃんとミレイユって呼んだ。)
(……それだけで、どうしてこんなに嬉しいのかしら。)
(だめね。 思っていた以上に重症だわ、私。)
だが、そこへさらに厄介な問題が加わる。
廊下の向こうから、軽い足音が近づいてきたのだ。
こんこん。
扉がノックされる。
「ミレイユ?」
母オリヴィアの声だった。
「朝食の時間よ。」
ベッドの上の二人が同時に固まる。
「……。」
「……。」
また見つめ合う。
当然、心の中は噛み合っていない。
(終わった。)
(これは終わった。)
(お母様に完全にばれる。)
(いや、ばれるも何も、もうばれている気もする。)
(どうしよう。)
(落ち着きなさい。)
(落ち着いている場合ではないけれど、今さら隠してもたぶん意味がない。)
(でもやっぱりちょっと恥ずかしい。)
ミレイユは小さく息を吸った。
「起きてるわ。」
「まあ。」
扉の向こうでオリヴィアが少し嬉しそうな声を出す。
「じゃあ一緒に来るのね。」
「……ええ。」
去っていく足音が、妙に弾んでいた。
ソータは天井を仰ぎたくなった。
「今の、絶対にわかってましたよね。」
「ええ、たぶん。」 ミレイユが答える。
「たぶんじゃない気がします。」
「そうかもしれないわね。」
そこで、ミレイユはようやく体を起こした。
ピンクシルクがさらりと滑って、朝の光を拾う。
ソータは反射的に視線を逸らした。
「何で逸らすの。」
「逸らしますよ!」
「昨夜は見ていたでしょう。」
「昨夜は不可抗力です!」
「今も不可抗力みたいなものでは?」
「どういう理屈ですかそれ!」
ミレイユはそこで、くすっと笑った。
寝起きのせいか、いつもより笑い方が柔らかい。
「ほんとに、面白いわね。」
「面白くされてるのはこっちです。」
結局、二人は別々に身支度を整えてから食堂へ向かった。
だがもちろん。
クラウゼン家の人々がそれを普通に迎えるはずもなかった。
食堂へ入った瞬間、姉二人の視線が飛んでくる。
父エドワードは朝の新聞みたいな書類を読んでいたが、口元だけ少し動いた。
母オリヴィアに至っては、にこにこしすぎてほとんど隠していない。
「おはよう。」
オリヴィアが言う。
「二人とも、よく眠れたみたいで何よりだわ。」
ソータの動きが止まる。
ミレイユは顔を赤くしながらも、席へ着いた。
「お、おはようございます。」
ソータがぎこちなく頭を下げる。
「おはようございます、ソータさん。」
上の姉が言う。
「おはよう。」
下の姉は完全に面白がっていた。
「朝から爽やかねえ。」
(爽やかにしないとやっていけないんだよ!)
ソータは内心で叫びながら、どうにか平静を装った。
だがエドワードは、そんなことより次の話へ進めた。
「さて。」
声が変わる。
当主の声だ。
「ゴブリン討伐の件だが。」
その一言で、食卓の空気が少し引き締まる。
ミレイユも、今度はちゃんと仕事の顔になった。
ソータはそこで少し安心した。
少なくとも今は、昨夜の話題から逃げられる。
エドワードは続けた。
「護衛は四名出す。」
「四名。」
ソータが聞き返す。
「少数だが、街道の護衛ではなく、実戦経験のある者を選ぶ。」
「ありがとうございます。」
「感謝は結果を出してからでいい。」
その物言いが、いかにもこの人らしい。
計算高く、現実的だ。
「現地の状況次第では、追加の支援も考える。」
「はい。」
「ただし。」
そこでエドワードは、ちらりとミレイユを見た。
「ミレイユの安全は最優先だ。」
「わかっています。」
ソータは素直に答えた。
その返事を聞いて、姉二人がまた妙な顔で目を合わせた。
オリヴィアは何だか嬉しそうだった。
ミレイユは耳まで赤い。
だがソータだけは、相変わらず別方向だった。
(なるほど。)
(仕事として、ミレイユを守れってことだな。)
(まあ当然だ。)
(商会の偉い人だし、今回の話の中心でもあるし。)
その“当然”が、周囲には違う意味で受け取られているとは、まだわかっていない。
朝食が終わると、出発準備が始まった。
護衛たちが装備を整え、ミレイユは必要な書類や荷の指示をまとめる。
ソータも、自分の装備を点検し直した。
剣はまだきちんとしたものを持っていない。
だが、今回の王都行きで調達できる。
「武器屋にも寄る必要があるな。」
ソータが呟く。
「ええ。」
ミレイユが答える。
「護衛用の店に心当たりがあるわ。」
「助かります。」
「その代わり、変な店には寄らないこと。」
「まだ言います?」
「当然です。」
周りで聞いていた護衛の一人が、何とも言えない顔で視線を逸らした。
どう見ても、完全に夫婦の会話だと思っている顔だった。
こうして。
王都での一夜を終えたソータとミレイユは、いよいよ村へ戻る準備に入った。
ゴブリンの集落。
リーナの父の手掛かり。
そして、村のこれから。
向かう先には危険もある。
だが同時に、これまでより少しだけ大きな力も一緒だ。
その力の中心には、夜になると背中へくっついて眠ってしまうくせに、朝になると何食わぬ顔で商会の指示を飛ばす、妙に厄介で可愛い会頭代理がいた。
ソータはまだ、その厄介さの深刻さを半分もわかっていない。
でもたぶん、それはミレイユ自身も同じだった。




