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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第30話:名前を呼ぶだけで、どうしてこんなに落ち着かないのか

 風呂から上がったあと。


 ソータは案内された寝室のベッドに腰かけたまま、しばらく動けなかった。


 広い。


 柔らかい。


 高そう。


 そして何より、さっきの風呂の余韻がちっとも抜けない。


「……駄目だろ、あれは。」


 ぽつりと呟いて、額を押さえる。


 湯気。

 タオル一枚のミレイユ。

 背中を流される距離。

 妙に真剣な顔。

 そして、あの会話。


 最後、浴室を出る前にミレイユは立ち止まって、少しだけ視線を泳がせながら言ったのだ。


『私はこれからはソータって呼ぶので。』


『私のことはミレイユと呼んでください。』


 ソータはその時、一瞬だけ意味を飲み込めなかった。


『いつでもですか。』


 そう聞き返すと、ミレイユは少しだけ顔を赤くして、それでもはっきり言った。


『いつでもです。』


『たとえ、私の両親がいてもです。』


 かなり強い言い方だった。

 命令、というほどではない。

 でも、願いにしては強い。

 どうしてもそうしてほしい、という顔だった。


 だからソータも、つい聞いてしまったのだ。


『あなたはそれでいいんですか。』


 するとミレイユは。


『それがいいです……。』


 そう言って、耳まで赤くしたまま走るように浴室を出ていった。


 その去り方まで含めて、妙に可愛かった。


「……。」


(可愛いって思ったな、今。)


(いや、思ったどころじゃないな。)


(かなり、思った。)


 ソータはごろんとベッドへ倒れ込んだ。


 天井が高い。

 寝具はふかふかだ。

 疲れていた体が、沈み込むみたいに楽になる。


 それでも頭の中だけは忙しかった。


(ミレイユ、か。)


(呼び捨て。)


(いつでも。)


(両親の前でも。)


 その条件の強さが、どうにも引っかかる。


 ただの仕事相手なら、そこまで言わない。

 いや、少なくともソータの感覚では言わない。


 呼び方なんて、どちらでもいいはずだ。

 それなのに、あの人はそこを譲らなかった。


「何なんだろうな……。」


(いや、何となくはわかる気もする。)


(でも、そこで変に自惚れるのも違うだろ。)


(違うよな?)


 ベッドの端へ腕を乗せたまま、ソータは小さく息を吐いた。


 村のリーナとはまた違う。

 あの子は、まっすぐで、温かくて、少し危なっかしい。

 ミレイユは、頭がよくて、強くて、でも変なところで急に可愛い。


 どちらがどうという話でもない。

 ただ、相手が違えば心の動き方も違うのだと、ここへ来てようやくわかってきた。


(俺、前世じゃこんなことで悩む機会なかったんだけどな。)


(運送の時間指定と積載量なら、もっと判断早いんだけど。)


(女の人の気持ちは難しい。)


 そこまで考えたところで、急にまぶたが重くなった。


 体は思っている以上に疲れていたらしい。

 グランデリア。

 王都。

 王都支店。

 商談。

 風呂。


 情報量が多すぎる一日だった。


「……少しだけ、寝るか。」


 少しだけ、のつもりだった。

 だが、それはすぐにただの眠りへ変わった。


 呼吸が深くなる。

 手の力が抜ける。

 ベッドの柔らかさに、体ごと沈んでいく。


 やがてソータは、すっかり眠ってしまった。


     ◇


 それから少しして。


 寝室の扉が、音もなく細く開いた。


 ミレイユだった。


 薄いピンクシルクのネグリジェ。

 昼間よりずっと柔らかい髪。

 裸足。


 部屋へ入る足取りは慎重なのに、どこか覚悟もある。

 本人としては、かなり勇気を出している。


(……寝てるかしら。)


 扉を閉め、そっとベッドへ近づく。


 月明かりとランプの弱い灯りの中で、ソータは完全に眠っていた。

 しかも、軽くいびきまでかいている。


 規則正しい寝息。

 少しだけ開いた口元。

 起きている時より、ずっと幼く見える。


 ミレイユはベッドの端にそっと腰かけた。


 柔らかい寝台が、少しだけ沈む。

 それでもソータは起きない。


「もう……。」


 小さな声で、少しだけ怒ったように言う。


「普通、私がこうやってくるだろうって思わないかな~。」


 当然、返事はない。

 寝ているのだから当たり前だ。


 ミレイユは少しだけ唇を尖らせ、それからくすっと笑った。


「……思わないわよね。」


「あなた、そういうところ本当に鈍いもの。」


 怒っているようで、声はひどくやわらかい。


 しばらくその寝顔を見つめる。

 昼間の真面目な顔。

 慌てた顔。

 困った顔。

 笑った顔。


 それら全部が、今は静かな寝顔の中へきれいに収まっている気がした。


(どうしてこんなに気になるのかしら。)


(仕事だから、じゃもう説明が足りないわよね。)


(……でも、今さら引くのも嫌だわ。)


 ミレイユはゆっくりと布団の端を持ち上げた。

 そして本当に自然な動作みたいな顔をして、そっとその中へ潜り込む。


 同じベッド。

 しかも今夜は、昨日よりずっと近い。


 ソータの背中へ、自分の体をそっと寄せる。

 ぴたり、とまではいかない。

 でも十分近い。


 背中越しに体温が伝わる。

 それだけで、胸の奥が少し熱くなった。


「……あったかい。」


 小さく呟く。


 ソータは眠ったまま、少しだけ肩を動かした。

 けれど起きない。

 その無防備さが、また少し愛おしい。


 ミレイユはそっと目を閉じた。


 昼間なら言えないことも、こうして背中越しなら少しだけ素直になれる気がした。


「あなた、ほんとにずるいわ。」


「そんな顔で寝てたら、怒れないじゃない。」


 返事はない。

 でも、それでよかった。


 今はまだ、このくらいでいい。

 たぶん。


 ピンクシルクの薄いネグリジェ越しに感じる体温と、ソータの穏やかな寝息。

 その二つに挟まれるようにして、ミレイユの意識も少しずつやわらかく沈んでいった。


 王都の夜はまだ明るい。

 けれどこの寝室の中だけは、静かで、甘くて、妙に安心できる。


 そしてその安心の中心に、自分がいるのではなく、相手がいるということに。

 ミレイユはもう、とっくに気づいていた。


 気づいていて、まだ認めきれていないだけだった。

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