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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第29話:王都の風呂は広かったが、ソータの理性にはちっとも優しくなかった

 湯気が、むわりと揺れた。


 バスタオル一枚のミレイユが浴室へ入ってきただけで、空気の密度が変わった気がした。


 石張りの床。

 広い湯船。

 白い湯気。

 そして、妙に整いすぎた美女。


「……背中を流します。」


 ミレイユはそう言った。

 声はいつものように落ち着いている。

 だが、よく見ると耳が少し赤い。


 ソータは湯船の中で、背筋をぴんと伸ばした。


「そ、そうですか。」


(落ち着け。)


(落ち着け田島壮太。)


(これはたぶんこの世界の礼儀だ。)


(村でもあった。)


(そう、村でもあった。)


 だがそこで、ひとつ大きな問題があった。


 リーナの時とは、心の動きが少し違う。


 あっちは可愛い。

 危なっかしい。

 守ってやりたい。

 そういう感じだった。


 でも目の前のミレイユは違う。


 完全に大人の女性だ。


 体つきも。

 立ち方も。

 目線の寄越し方も。

 全部が「わかっている女」みたいで、ソータの心臓に悪い。


(駄目だ。)


(これは駄目だ。)


(同じ“背中流しイベント”でも、難易度が違う。)


(リーナさんが初級だとしたら、こっちは上級とかそういう問題じゃない。)


(王都仕様だ。)


 一方で、ミレイユの内心もかなり忙しかった。


(落ち着きなさい、ミレイユ。)


(これは感謝のしるし……では、たぶんないわね。)


(でも家族にも言われたでしょう。)


(もっと積極的になれ、と。)


(男に興味がないみたいな顔をしているから、せっかくの相手を逃すのだと。)


 夕食の席で、上の姉は笑っていた。

 下の姉はもっとはっきり言った。


『あんた、商売では押しが強いくせに、男には奥手すぎるのよ。』


 母はふわふわ笑いながら、

『背中くらい流してあげたら?』

などと言った。


 父に至っては、

『好機は待つものではなく取るものだ。』

と、完全に商談の顔で言ってきた。


(好機って何よ。)


(人を荷物みたいに言わないでほしいわ。)


(……でも、少しだけ意味はわかるのが悔しい。)


 ミレイユは覚悟を決めるように、静かに桶を手に取った。


「湯船から出てください。」


「はい。」


 ソータは素直に返事をした。

 素直すぎて、逆に危なかった。


(言われた通りに出るな俺。)


(いや出ないのも変だろ。)


(でも出たら背中が完全に無防備になる。)


(いや背中はもともと無防備だった。)


(何を言ってるんだ俺は。)


 湯船の縁へ腰を下ろす。

 背中を向ける。

 視線は前。

 絶対に後ろを振り返らない。


 その方が、たぶん平和だ。


「失礼します。」


 ミレイユの声が少しだけ近い。


 次の瞬間、肩へ温かい湯がかかった。

 それだけなのに、ソータの背筋がぴくりと跳ねる。


(近い。)


(声が近い。)


(湯も近い。)


(何でこんなに意識するんだ。)


(いや理由は明白だろ。)


 やわらかい布が、肩から背中をゆっくり撫でる。

 動きは慣れていない。

 でも丁寧だ。

 丁寧すぎて余計に落ち着かない。


「力、強すぎませんか。」

 ソータが聞く。


「弱いですか。」

 ミレイユがすぐ返す。


「いえ、ちょうどいいです。」


「ならいいです。」


 会話が妙に事務的だった。

 事務的にしないと危険だからだろう。

 たぶん、双方にとって。


 ミレイユは背中を洗いながら、自分の手の動きへ意識を向けた。


(落ち着きなさい。)


(ただ背中を流しているだけ。)


(そう、ただの背中。)


(……背中が広いわね。)


(旅人らしく筋は通っているけれど、がちがちの騎士みたいな固さじゃない。)


(何を観察しているの、私は。)


 ソータの方は、もっと単純に危機だった。


(大人の女性って怖いな。)


(いや、ミレイユさんが特別なのか。)


(落ち着いた声で背中洗ってくるの、破壊力が高い。)


(しかもいい匂いするし。)


(何の香りだこれ。)


(商会の高い石鹸とか、そういうやつか?)


「……ソータ。」


「はい。」


 呼び方が変わった。

 いつもより少し近い。


 ソータの肩がまたぴくっと揺れる。


「そんなに緊張しなくても、食べたりしません。」


「いや、緊張してるのがわかるんですね。」


「見ればわかります。」


「そうですか。」


「背中が硬いです。」


「すみません。」


「謝らないでください。」


 ミレイユはそこで少しだけ笑った。

 その笑いが湯気の向こうでやわらかく響く。


 ソータは前を向いたまま、少しだけ力を抜いた。


「家族に言われたんです。」

 ミレイユがぽつりと言う。


「何をですか。」


「もっと積極的になれと。」


「積極的。」


「ええ。」


「それで、これですか。」


「……これです。」


 言いながら、ミレイユ自身も少し恥ずかしくなった。

 だが、もう今さら引けない。


(言ってしまった。)


(何を正直に。)


(でも、隠したところでこの男には通じないでしょうし。)


(むしろ少し言葉にした方が伝わるかもしれない。)


 ソータはその言葉を聞いて、少しだけ目を瞬かせた。


(積極的。)


(この人なりに、今けっこう頑張ってるのか。)


(そう思うと、何か可愛いな……。)


 その感想が自分の中から自然に出たことに、ソータは少し驚いた。


 背中を流されながら、妙に落ち着いてしまう瞬間がある。

 いや、完全には落ち着いていない。

 でも、ただ緊張しているだけでもなくなってきた。


「……ありがとうございます。」


「何がですか。」


「頑張ってくれてるんだなと思って。」


 ミレイユの手が止まる。


「……。」


「ミレイユさん?」


「そういうことを、平気で言うのですね。」


「平気ではないです。」


「では、どういう状態ですか。」


「かなりどきどきしてます。」


 それを聞いて、ミレイユは完全に黙った。


 湯気の中で、耳まで赤くなっている。


(どきどき。)


(そう言うの。)


(そんなに真面目な声で言わないでほしい。)


(こっちまで、余計にどうしたらいいかわからなくなるでしょう。)


 沈黙が落ちた。

 だが気まずくはない。

 むしろ、おかしなほど近い。


 その時、ソータがふと思いついたように言った。


「もしかして。」


「何ですか。」


「この世界の女性って、感謝すると風呂で背中を流す文化でもあるんですか。」


 ミレイユは数秒、理解が追いつかなかった。


「……は?」


「いや、村でもそうだったので。」


「村でも?」


「はい。」


「誰に。」


 声が一気に低くなる。


 ソータはそこで、しまったと思った。


「ええと。」


「誰に。」


「リーナさんに。」


「……。」


 ミレイユの顔が無になった。

 それから少しずつ、別の表情が乗ってくる。


「毎晩?」


「え。」


「今、毎晩と言いかけましたね。」


「いや、その。」


「毎晩?」


「……はい。」


 ミレイユは布を持ったまま、しばらく動かなかった。


 頭の中が、妙な方向に忙しい。


(毎晩。)


(あの村娘は、毎晩この男の背中を流していたの。)


(何それ。)


(文化じゃないでしょう、そんなもの。)


(ということは、私が今していることは――。)


 そこまで考えて、ミレイユははっとする。


(何を競っているの、私は。)


 一方のソータは、今の発言で色々まずかった気がしていた。


(言うなよ俺!)


(何でそこで村の話を出すんだ!)


(比較材料みたいになるだろ!)


(しかも“毎晩”までばれた!)


 気まずい。

 だが、ミレイユが次に言った言葉は予想外だった。


「……そう。」


「はい。」


「なら、王都の方が上手だと思われるようにしないといけませんね。」


「何でそういう勝負になるんですか!?」


 思わず振り返りそうになって、ソータは慌てて前を向き直した。


 ミレイユは顔を赤くしたまま、しかし妙に真剣だった。


(何を言っているの、私は。)


(でも、言ってしまった以上引けない。)


(王都の女をなめないでほしいわ。)


 ソータは頭を抱えたい気持ちになりながら、前だけを見た。


(王都の女って何だ。)


(でも、ミレイユさんがちょっと面白くなってるな。)


(怒ってるのか、張り合ってるのか、どっちだこれ。)


 結局そのあと、ミレイユは本当に少しだけ丁寧さを増して背中を流した。

 ソータはそれを感じ取りながら、もう笑うしかなかった。


「どうですか。」

 ミレイユが聞く。


「……上手です。」


「でしょう。」


「ちょっと誇らしそうですね。」


「当然です。」


「何の勝負かわかってないんですけど。」


「わからなくていいです。」


 湯気の中での会話は、妙に甘くて妙にずれていた。

 そしてたぶん、この二人はこの先もずっと、こうやって噛み合わないまま距離だけは縮めていくのだろう。


 少なくとも今夜は。


 ソータの理性と、ミレイユの決心が、風呂場の湯気の中で仲良く限界を試されていた。

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