第20話:朝、目が覚めたらとんでもない状況だった
最初に感じたのは、柔らかい感触だった。
背中に、何かがふわりと触れている。
布団の柔らかさとは違う。
枕でもない。
もっとこう、あたたかくて、ほどよく弾力があって、寝返りを打つたびにほんの少しだけ形が変わる感じの。
「……ん。」
ソータはまだ半分眠った頭で、その心地よさに一瞬だけ身を任せた。
(ああ、いい布団だな。)
(村のベッドも悪くなかったけど、これはまた別のふかふかだ。)
(さすが都会の宿……。)
そこで、違和感がひとつ。
見慣れない天井だった。
木の梁ではない。
淡い色で塗られた高い天井。
飾りの入った壁。
重そうなカーテン。
「……あれ。」
ソータは薄く目を開けた。
見慣れない。
というか、どう見ても村のマルタの家ではない。
「……。」
少しずつ昨夜の記憶が戻ってくる。
グランデリア。
クラウゼン商会。
ミレイユ。
酒場。
強い酒。
すごく強い酒。
そこから先が、曖昧だった。
「……え。」
そして、背中の柔らかさ。
今さらながら、その感触が「布団以外の何か」であることに脳が追いついてしまった。
ソータの意識が、一気に覚醒する。
(待て。)
(待て待て待て。)
(何だ今の。)
(背中に何か当たってる。)
(何かっていうか、たぶん人。)
(人……?)
おそるおそる。
本当におそるおそる。
ソータはベッドの中でゆっくり振り返った。
そこにいたのは、ミレイユだった。
薄いピンクシルクのネグリジェのようなものをまとい、静かな寝息を立てている。
朝の淡い光がカーテンの隙間から差し込み、その金髪をやわらかく照らしていた。
長い睫毛。
整った鼻筋。
少しだけ開いた唇。
昨夜の鋭い商人の顔ではなく、寝顔は驚くほど無防備だった。
「…………。」
ソータの思考が、完全に止まった。
(は?)
(何で?)
(何でミレイユさんがここに?)
(いや、ここどこだ?)
(ベッドだ。)
(同じベッドだ。)
(何で同じベッドなんだ!?)
心臓が一気に跳ね上がる。
音が本人にしか聞こえないのが不思議なくらい大きい。
しかも距離が近い。
かなり近い。
ほんの少し動けば、髪が頬に触れそうな距離だ。
(落ち着け。)
(落ち着け田島壮太。)
(こういう時こそ冷静に状況確認だ。)
(まず、自分の服。)
布団の中で、そっと確認する。
上着はない。
シャツもない。
だが下は履いている。
「……。」
(上だけない!?)
(何で!?)
(暑かった?
いや、俺が自分で脱ぐタイプじゃないぞ。)
(ってことは誰かが脱がせた?)
(誰が!?
いや目の前にいるな!?)
ソータは一気に青くなった。
(俺、何かした!?)
(いや、してないよな!?)
(記憶がないのが一番まずい!)
(これは、すごく、社会的に終わるやつでは!?)
その時。
ミレイユの睫毛が、ぴくりと揺れた。
「っ。」
ソータは息を止めた。
ゆっくりと青い目が開く。
少しだけ眠たげで、でも開いた瞬間にはもう意識がはっきりしている感じだった。
ミレイユは数秒、無言でソータを見た。
ソータも、固まったまま見返した。
朝一番の見つめ合い。
だが当然ながら、この二人の心の中はまるで噛み合っていない。
(終わった。)
(完全に終わった。)
(何て言えばいい。)
(まず謝る?
でも何に?
覚えてないのに謝るのも変か?)
(何その顔。)
(今、自分がどういう状況かわかってない顔ね。)
(可愛いわね、少し。)
(違う。
まずはもう少し泳がせるべきかしら。)
「……おはようございます。」
先に口を開いたのはミレイユだった。
声はいつも通り落ち着いている。
寝起きでも強い。
「お、おはようございます。」
ソータの声は見事に裏返った。
ミレイユが少しだけ首をかしげる。
「どうしました。」
「ど、どうしました、ではなく。」
「はい。」
「ええと。」
ソータは言葉を探した。
だが探せば探すほど見つからない。
見慣れない部屋。
同じベッド。
隣に薄いピンクシルクのミレイユ。
状況の圧が強すぎた。
「……何で、こうなってるんでしょう。」
結局、正直に聞くしかなかった。
ミレイユは一瞬、まばたきをした。
それから、ほんの少しだけ口元を上げる。
「さあ。」
「さあ!?」
ソータの声がまた裏返る。
「覚えていないのですか。」
「後半がほぼ……。」
「そうでしょうね。」
その返しが妙に冷静で、余計に怖い。
ソータはごくりと唾を飲み込んだ。
「ええと。」
「はい。」
「俺、何か……しました?」
聞きながら、自分でもものすごく情けないと思った。
だが聞かないわけにもいかない。
ミレイユは、じっとソータを見た。
その青い目が、やたら静かで読めない。
(やめてくれ。)
(その間が一番怖い。)
(何かしたなら言ってくれ。
いや言われたら死ぬけど。)
(本当に何も覚えていないのね。)
(それはそれで面白いわ。)
(ここで少し意地悪したら、どんな顔をするのかしら。)
ミレイユはあえて少しだけ間を置いてから、静かに言った。
「かなり手がかかりました。」
「……。」
「素直ではありましたが。」
「……。」
「大人しく運ばれてはくれました。」
「運ばれて。」
「ええ。」
そこまで聞いて、ソータの頭の中で昨夜の断片が少しだけつながった。
酒場。
夜風。
護衛。
月が二つ。
(ああ、完全に潰れたのか俺。)
(それで運ばれたのか。)
(じゃあ……そこまでで済んでるのか?)
だが安心するにはまだ早い。
問題はその先だ。
「じゃあ、その。」
「はい。」
「何で、一緒のベッドなんでしょう。」
ついに核心を聞いてしまった。
ミレイユは一瞬だけ黙り、それから妙に淡々と答えた。
「あなたを放っておくと転がり落ちそうだったので。」
「ベッドからですか?」
「人生からです。」
「そんなに。」
「そんなにです。」
言い切られた。
ソータは頭を抱えたくなった。
だがベッドの中なので、変な動きをするとさらにまずい。
(この人、たぶん本気で言ってるな。)
(いや、でも同じベッドの説明としてはちょっと強引では?)
(でもミレイユさんだし、押し切られそうだな。)
そこでふと、ソータは別のことに気づいた。
ミレイユの格好が、あまりにも部屋着として強い。
薄い。
やわらかい。
朝の光を少し拾ってしまっている。
「……。」
「何ですか。」
「いえ。」
「今、目を逸らしましたね。」
「逸らしました。」
「正直ですね。」
「見ていい状況ではないと思ったので。」
ミレイユはそこで、少しだけ肩を震わせた。
笑ったのだと気づくまで、ソータには一拍かかった。
「あなた。」
「はい。」
「酔っている時より、素面の方が面白いですね。」
「俺は今、だいぶ面白くないです。」
「そうでしょうね。」
また見つめ合う。
朝から何度目かわからない。
そして、やはり心の中は噛み合っていなかった。
(綺麗だな……じゃなくて違う!)
(状況確認が先だろ!)
(でも近いな……。)
(寝起きでここまで真っ赤になるのね。)
(反応が素直すぎるわ。)
(やっぱり少し可愛い。)
ソータは観念して、布団の上から姿勢を正した。
「確認ですが。」
「はい。」
「本当に、何もしてないんですよね。」
「していません。」
「……よかった。」
本気でほっとした声が漏れた。
肩の力まで抜ける。
その様子を見て、ミレイユは少しだけ目を細めた。
「何かしていた方がよかったのですか?」
「何でそういう聞き方をするんですか!?」
ソータが慌てて顔を上げる。
ミレイユは涼しい顔だった。
「冗談です。」
「冗談が鋭いです。」
「そういう性格なので。」
たぶん、この人はわざとやっている。
そして、こちらが慌てるのを少し楽しんでいる。
ソータはようやくそこに気づき始めた。
(この人、有能なだけじゃないな。)
(ちょっと意地悪だ。)
(しかも本人はたぶん自覚がある。)
けれど、変に嫌な感じはしなかった。
完全に振り回されているのに、どこか居心地が悪くない。
それがまた少し厄介だった。
窓の外では、グランデリアの朝がもう動き始めている。
荷車の音。
人の声。
遠くで鳴る鐘。
村の朝とは違う。
けれど、今のソータにとってはそれどころではなかった。
見慣れない天井。
見慣れない壁。
そして隣には、薄いピンクシルクのミレイユ。
どう考えても、穏やかな朝ではない。
ただ一つ確かなのは。
この街での三日間は、思っていたよりずっと気が休まらないものになりそうだということだった。




