第175話:運送屋、逃げることを決める
翌朝、ソータはいつもより少し早く王城を出た。
昨夜はアルベールに言われたことが頭から離れず、寝床に入ってからもなかなか眠れなかった。
《男気》が強くなっている。
それ自体は以前にもあったことだが、今回は自分でも気づかないうちに行動へ混ざっているのが厄介だった。
誰かが疲れていれば手を取る。
転びそうになれば抱き寄せる。
顔に何かついていれば、自分から触れて取ってしまう。
どれも一つずつなら、それほど不自然な行動ではない。
問題なのは、その距離が以前より近くなり、相手が好意的な反応を返すと、自分もそのまま一歩踏み込みたくなることだった。
(教会の子には、本当にキスしかけたからな。)
思い出しただけで頭が痛くなる。
しかも、嫌がる相手へ無理やり近づきたいわけではない。
むしろ逆で、相手が自分を受け入れてくれそうだと感じた時ほど、胸の奥に妙な熱が生まれる。
(それが一番まずいんだよ。)
王都には若い女性も多い。
復旧を手伝ってきたことで、ソータの顔を知る者も増えた。
今まではそれを、単に住民との距離が縮まっただけだと思っていた。
しかし昨日の出来事を振り返れば、それだけでは説明できない視線も確かに混じっていた。
ソータは深く息を吐き、西区の中継所へ入った。
「おはようございます、ソータさん。」
「おはよう。」
倉庫番の男が帳面を持ってやってくる。
昨日までならソータが自分で倉庫へ入って在庫を確認していたが、今日は入口で報告を聞くだけにした。
「北区の水は予定通り二台。南の治療所へ布が三束、薬草が一箱。西の避難所は人数が十二人減ったので、朝のパンを一箱減らしました。」
「戻りの荷車は?」
「空箱と一緒に各地区の報告札を積ませています。」
「じゃあ、問題ないね。」
「はい。」
答えを聞いて、ソータは帳面へ目を落とした。
数字も流れも、昨日自分が見たものと大きく変わっていない。
少し前まで、どこへ何を運ぶか判断できる人間はほとんどいなかった。
今では中継所の担当者たちが自分で在庫を確認し、避難所の人数に合わせて配送量まで変えている。
「ソータさん。」
「何?」
「今日も一緒に回りますか?」
倉庫番に聞かれ、ソータは少し考えた。
「いや。今日は任せる。」
「よろしいんですか?」
「そのために昨日まで教えてたんだから。」
倉庫番は一瞬驚いた後、嬉しそうに頷いた。
「分かりました。何かあれば王城へ伝令を出します。」
「うん。無理に自分たちだけで片づけようとしなくていいから。道が塞がったとか、怪我人が増えたとか、判断できないことだけ知らせて。」
「承知しました。」
倉庫番が仕事へ戻っていく。
ソータはその背中を見送りながら、少しだけ肩の力を抜いた。
(ちゃんと動くな。)
自分が手を出さなくても荷車は出る。
物資は減った分だけ補充され、戻ってきた情報は次の便へ反映される。
完璧ではない。
何か大きな問題が起きれば、まだ助けが必要になるだろう。
それでも、ソータが一日中ここへ立っていなければ止まる状態ではなくなっている。
アルベールが言った通りだった。
◆◇◆
中継所を出たところで、甘い香りが通りから漂ってきた。
見ると、昨日訪れたパン屋の看板娘が小さな籠を抱えてこちらへ走ってくる。
店は朝の仕込みで忙しいはずなのに、わざわざソータを探してきたらしい。
「ソータさん!」
「おはよう。どうしたの?」
「これ。」
差し出された籠の中には、小さな丸いパンが六つ入っていた。
昨日の避難所用とは違い、表面には蜂蜜らしい艶があり、香ばしい木の実まで散らしてある。
「避難所に持っていくやつ?」
「違います。」
「じゃあ中継所?」
「違います。」
「……どこに?」
娘は少し恥ずかしそうに目を逸らした。
「ソータさんにです。」
「俺?」
「昨日、いつも避難所の分ばかり運んでて、自分の分は適当に食べてるって聞いたから。」
「誰から?」
「皆から。」
(何を広めてるんだ、皆。)
ソータは困ったように籠を見る。
「でも、店の分が減るだろ?」
「これは私が自分で焼いたものです。」
「そうなの?」
「はい。」
娘はそこで少しだけ顔を上げた。
「昨日より美味しくできました。」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がわずかに熱くなる。
ソータは自分でそれに気づいた。
(来た。)
以前なら、礼を言って受け取るだけだったはずだ。
ところが今は、目の前の娘がわざわざ自分のために焼いてくれたことが妙に嬉しく感じる。
娘の手へ視線が向く。
粉仕事のためか、指先が少し赤くなっていた。
「手、痛くない?」
「え?」
「昨日もかなり焼いてただろ。」
ソータはそう言いながら、反射的に彼女の手を取ろうとした。
途中で止まる。
昨日のアルベールの顔が頭に浮かんだ。
(触るな。)
伸ばしかけた手を、そのまま籠の持ち手へ移す。
「ありがとう。ちゃんと食べるよ。」
「……はい。」
娘は一瞬だけ残念そうな顔をした。
その表情を見てしまうと、今度は手を取らなかったことが悪いことのように思えてくる。
(いや、何でだよ。)
ソータは慌てて視線を逸らした。
「じゃあ、店戻らないと忙しいんじゃない?」
「そうですね。」
娘は数歩離れたところで振り返った。
「あの、ソータさん。」
「何?」
「明日も焼いていいですか?」
聞き方はパンのことだった。
しかし、その顔は明らかにそれだけではない。
「……無理しない程度なら。」
「はい!」
娘は嬉しそうに店へ戻っていった。
ソータは籠を抱えたまま、その背中を見送る。
(これ、毎日会ってたら駄目なやつじゃないか?)
昨日なら気づかなかったかもしれない。
今は少し分かる。
相手が近づいてくれば、自分も近づきたくなる。
それが《男気》の影響なのか、自分自身の気持ちなのか、その境目が曖昧になっていた。
◆◇◆
午前中、ソータは公衆浴場と教会支部を回った。
ただし、以前のように自分から作業へ入ることはしなかった。
浴場では受付表と排水だけを確認し、問題がないと分かれば担当者へ任せる。
治療所でも薬草と包帯の残量を確認し、足りない分を書いた札を中継所へ持ち帰るよう伝えた。
どちらもソータがいなくても動いていた。
公衆浴場では利用者の数に応じて薪の投入量まで調整され、洗濯場では使用済みの布と清潔な布が混ざらないよう管理されている。
教会ではヨーダの部下たちが負傷者を重症と軽症に分け、治療後の者を一か所へ集めないよう別室へ移していた。
王都は少しずつ、自分たちで回復し始めている。
そのことを確認できたのは嬉しかった。
問題は、ソータの方だった。
教会を出ようとした時、昨日の若い手伝いの娘と廊下で鉢合わせた。
「ソータさん。」
「あ……。」
娘も昨日のことを思い出したらしく、頬を赤くした。
ソータも妙に気まずい。
「昨日は、ごめん。」
「どうして謝るんです?」
「いや、距離近かったから。」
「私は……嫌じゃありませんでした。」
「そういうこと言わないで。」
「え?」
「今の俺に、それ言わない方がいい。」
娘は意味が分からないという顔をした。
ソータ自身も、説明できる話ではないと思う。
「とにかく、ちゃんと休んでる?」
「今日は昼も食べました。」
「ならよかった。」
娘は少し笑った。
「ソータさんに言われたから。」
その一言が妙に響く。
また胸の奥に熱が灯る。
ソータは距離を取ろうと一歩下がった。
ところが娘も一歩近づいてきた。
「昨日のこと、私は気にしていませんから。」
「俺が気にするんだよ。」
「どうして?」
「それは……。」
答えに困ったところで、後ろから咳払いが聞こえた。
振り向くまでもない。
「アルベール。」
「はい。」
「今日は何でいるの?」
「ミレイユ様から、ソータ様のご様子を見てくるよう申し付けられておりますので。」
「それ一日中って意味だったのか?」
「状況を拝見する限り、一日では足りないかもしれませんな。」
「やめろ。」
娘が小さく笑う。
アルベールがいてくれたことに少し安心している自分が、ソータには余計に情けなかった。
◆◇◆
昼過ぎには、西区の宿屋からも声をかけられた。
昨日の若い女主人が、玄関先で洗い終えた敷布を確認していた。
ソータを見つけると、明るく手を振る。
「ソータさん。昨日はどうも。」
「こっちこそ。布の数、足りてる?」
「十分よ。今日は寝台も全部替えられそう。」
「それならよかった。」
仕事の話だけで終わらせるつもりだった。
だが女主人は少し身体を寄せると、声を落とした。
「ところで、今夜はどこへ泊まるの?」
「王城だけど。」
「たまにはうちに泊まったら?」
「何で?」
「空いてる部屋があるから。」
「復旧の人に使ってもらった方がいいだろ。」
「特別室は一つ空いてるの。」
女主人がいたずらっぽく笑った。
「私が案内してあげますよ?」
以前なら、冗談だと思って笑って終わっていただろう。
今は、その言葉へ身体が反応する。
女主人の顔を見る。
夫がいることも知っている。
それでも、相手が自分へ向けている好意的な視線を意識した瞬間、胸の奥の熱が強くなった。
(まずい。)
「遠慮しとく。」
「あら。」
「本当に。」
「そんなに真面目な顔しなくても。」
「今は真面目に断らないと危ないんだよ。」
「何が?」
「俺が。」
女主人はきょとんとした後、意味が分からないまま笑った。
「変な人。」
「最近、自分でもそう思う。」
ソータはそれ以上話さず、逃げるように宿屋を離れた。
少し先で待っていたアルベールが、何も言わずこちらを見る。
「何もするなよ。」
「まだ何も申し上げておりません。」
「顔で言ってる。」
「よくお分かりになりましたな。」
「腹立つな。」
ソータは頭を掻いた。
「アルベール。」
「はい。」
「昨日言ってた話、ちょっと本気で考える。」
「王都を離れる件でございますか?」
「うん。」
アルベールはそれ以上勧めなかった。
ただ、静かに頷いた。
◆◇◆
午後の終わり頃、ソータは王都の中央中継所へ戻った。
そこには北区、西区、教会、浴場から一日の報告札が集まっていた。
ソータはそれらを机の上へ並べ、一つずつ内容を確認していく。
大きな問題はない。
北区では飲料水の需要が少し減っている。
西区では逆に屋根修理用の釘が不足している。
教会は薬草が足りないが、包帯は明日まで持つ。
浴場は排水が改善し、利用者を通常数へ戻せそうだった。
ソータがいなくても、必要な情報は集まってきた。
しかも、それを見た文官の一人が自分から口を開いた。
「明日は北区への水を一台減らし、その荷車を西区の建築資材へ回してはいかがでしょう。」
ソータは顔を上げた。
「俺もそう思ってた。」
「では、そのように手配します。」
「お願いします。」
文官はすぐ帳面へ書き込んだ。
ソータはその後ろ姿を見ながら、しばらく黙っていた。
(俺が決めなくても、もう考えられる人がいる。)
それは、ここ数日の中で一番嬉しい変化かもしれなかった。
王都を放り出すわけではない。
必要なら戻ってくればいい。
しかし今なら、一度離れても大丈夫だ。
しかも、自分自身の問題を考えれば、離れた方がいい。
「決めた。」
隣にいたアルベールが振り向く。
「何をでございますか?」
「明日、一度ルシアの城へ行く。」
アルベールは僅かに目を細めた。
「よろしいご判断かと。」
「ミレイユにも顔見せないと駄目だし、ルシアとも約束したから。」
「オルドアイ様もお待ちでしょう。」
「……怒ってるかな。」
「心配はされているかと。」
「ミレイユほどじゃない?」
「比較対象が強すぎますな。」
ソータは苦笑した。
「それに。」
少しだけ声を落とす。
「今のまま王都にいたら、俺、誰かに本気で迷惑かけるかもしれない。」
今日だけでも、かなり危なかった。
パン屋の娘。
教会の娘。
宿屋の女主人。
どの相手も嫌がっていないからこそ、自分の中で歯止めが弱くなっていた。
「一回、ちゃんと落ち着いた方がいい。」
「賛成でございます。」
「ルシアの城に行って落ち着けるかは分からないけどな。」
アルベールは少しだけ遠い目をした。
そこにはミレイユがいる。
オルドアイがいる。
そしてルシアがいる。
「その点だけは、わたくしにも保証いたしかねます。」
「そこは保証してくれよ。」
◆◇◆
ソータが夜の城へ向かうことを決めた話は、夕方にはエルシアとリシェラの耳にも入った。
二人は王城の一室で、その日の復旧状況を確認していた。
机の上には浴場の利用記録と中継所から届いた報告が広げられている。
「明日?」
リシェラが顔を上げた。
「はい。アルベール殿と共に出発する予定だそうです。」
報告に来た文官が答える。
エルシアは表情こそ変えなかったが、帳面をめくる手が止まった。
「どれくらい滞在する予定なのです?」
「そこまでは伺っておりません。」
「分かりました。ありがとうございます。」
文官が退出する。
扉が閉じるまで、二人とも何も言わなかった。
「姉様。」
「何です?」
「ソータ様、行ってしまいます。」
「聞いていました。」
「ルシア様の城へ。」
「それも聞いていました。」
「そこにはミレイユ様も、オルドアイ様もいるのですよね?」
「そうですね。」
再び沈黙した。
以前なら、ソータが別の場所へ移動するだけでここまで気にならなかったはずだ。
しかし今は違う。
リシェラはソータが自分を好きだと確信しているわけではない。
それでも、以前より優しく触れられることが増えた。
今日も通りですれ違った時、肩についた埃を何気なく払われただけで、しばらく心臓が落ち着かなかった。
エルシアも同じだった。
ソータの《男気》について詳しいことは知らない。
ただ、ここ数日の彼が以前より堂々として見え、何気ない仕草の一つ一つが妙に気になることには気づいている。
そんなソータが、すでに親しい女性たちのところへ行く。
「……。」
リシェラの表情が険しくなる。
「姉様。」
「何です?」
「止めません?」
「何をです?」
「ソータ様を。」
「どうやって。」
「王女として。」
「そのような私的な理由で王命を使うつもりですか?」
「では、妹として。」
「もっと無理でしょう。」
リシェラは唇を尖らせた。
「姉様は平気なのですか?」
「平気ではありません。」
返事が思ったより早かった。
リシェラが目を瞬く。
エルシアも、自分が即答したことに少し驚いたようだった。
「ただ、ソータ殿にはルシア様との約束があります。ミレイユ様やオルドアイ様へも無事を知らせる必要があるでしょう。それをわたくしたちの都合だけで止めるのは違います。」
「でも。」
「ええ。」
エルシアは小さく息を吐いた。
「止められないのなら、別の方法を考えればいいのです。」
リシェラの目が少し輝く。
「一緒に行く?」
「すぐにそこへ行かないでください。」
「でも、それが一番簡単です。」
「わたくしたちだけで決められる話ではありません。」
「なら父上に頼みましょう。」
「何と説明するのです?」
「ソータ様と一緒にルシア様の城へ行きたいと。」
「却下されます。」
「では、母上。」
エルシアが黙った。
リシェラは椅子から立ち上がる。
「母上なら何か考えてくれます。」
「嫌な意味で、それは否定できませんね。」
「行きましょう。」
「今から?」
「明日出発なのですよ?」
リシェラはもう扉へ向かっている。
エルシアはしばらく妹の背中を見た後、机の上の帳面を閉じた。
(わたくしまで行く必要があるのでしょうか。)
そう考えながら立ち上がる。
答えは自分でも分かっていた。
(……ありますね。)
ソータが大切にしている女性たちがいる場所。
ミレイユ。
オルドアイ。
ルシア。
いずれ自分の気持ちを本当にソータへ伝えるつもりなら、彼女たちの存在から目を逸らし続けることもできない。
「リシェラ。」
「はい?」
「走らないでください。」
「急がないと。」
「王城の廊下です。」
「では早歩きにします。」
「ほとんど同じです。」
二人は並んで王妃の部屋へ向かった。
まだ国王は何も知らない。
ソータも、自分の出発を巡って双子の王女が動き始めたことを知らない。
そして何より、これから相談を持ちかけられる王妃が、この話を単なる娘たちの我儘で終わらせるような人物ではないことを、ソータだけがまだ知らなかった。




