第173話:アルベール、隣国の王都へ戻る
ルシアが夜の城へ戻った翌朝、ミレイユは食堂の窓辺で王都から届いた報告書を読んでいた。
窓の外には薄い朝霧が残り、中庭では骸骨兵たちが荷車へ木箱を積み込んでいる。
城内はいつも通り静かだったが、報告書を読み進めるミレイユの表情だけは、だんだん険しくなっていた。
「王城で倒れた翌日に物資整理、その次に中継所を作って、今度は公衆浴場?」
卓上へ報告書を置いたミレイユは、向かいに立つアルベールを見た。
「はい。現在は西区を中心に、避難民と負傷者の衛生環境を整えておられるようでございます。」
「それを聞いて安心すると思う?」
「少なくとも、寝台から起き上がれない状態ではないことだけは分かります。」
「そういう問題じゃないのよ。」
ミレイユは額へ指を当てた。
王城で《車体爆裂突進》を使い、力を使い切って倒れたと聞いた時には、本気で心臓が止まりそうになった。
それなのに本人は、目が覚めた途端にまた人のために動き始めている。
「ソータって、危険かどうかを考える時に自分を人数へ入れないのよね。」
「その点につきましては、わたくしも同意いたします。」
「だったら笑ってないで止めて。」
「わたくしが止めて素直にお休みになるのであれば、これほど簡単な話はございません。」
「それはそうなんだけど。」
反論できないのが腹立たしい。
ミレイユは小さく息を吐くと、改めてアルベールへ向き直った。
「王都へ行って。」
「承知いたしました。」
「追加物資もお願いするけど、一番はソータよ。本人が大丈夫と言っても信用しないで。」
「そのように申し付けられると予想しておりました。」
「元気そうでも駄目。笑ってても駄目。仕事してても駄目。」
「そこまででございますか。」
「そこまでよ。」
ミレイユは真剣だった。
「あと、何か変なことが起きてないかも見てきて。」
アルベールが少しだけ首を傾げる。
「変なこと、と申されますと?」
「分からないわよ。でも、あの人って本人が一番気づいてないところで妙なことになるでしょう?」
アルベールは一瞬だけ考えた。
「……確かに。」
「何でそんなに納得するのよ。」
「いえ、こちらの話でございます。」
ミレイユは怪しそうに目を細めたが、それ以上聞いてもろくな答えは返ってこない気がして諦めた。
少し離れた席では、オルドアイも心配そうに二人の話を聞いていた。
昨夜戻ってきたルシアは、ミレイユからかなり長い説教を受けた後、自室へ戻っている。
そのはずだった。
「アルベール、王都行くの?」
食堂の扉から、ルシアが顔だけを覗かせた。
「ルシア。あなた寝てなさい。」
「寝てた。」
「過去形にしないで。」
「かなり寝たルシア。」
「まだ足りないわ。」
ミレイユに睨まれ、ルシアは扉の陰へ半分隠れる。
それでもアルベールへ向けた視線は外さなかった。
「ソータ、元気か見てきて。」
「承知いたしました、ルシア様。」
「あと、城に来るって言ってた。」
「そちらも確認してまいりましょう。」
ルシアは満足したように頷くと、今度こそ扉の向こうへ消えた。
ミレイユはその背中を見送ってから、アルベールを見る。
「本当にお願いね。」
「お任せくださいませ。」
アルベールはいつものように優雅に一礼した。
◆◇◆
昼前、アルベールは追加物資を載せた荷車と共に隣国の王都へ戻った。
数日前まで炎と煙に覆われていた街は、まだ至るところに反乱の傷跡を残している。
焼け落ちた屋根や崩れた壁、黒く焦げた商店、瓦礫に半分埋もれた路地も少なくない。
それでも街全体から感じるものは、以前とは明らかに違っていた。
主要な通りには荷車一台が通れる幅が確保され、危険な場所には赤い布や木札が立てられている。
負傷者を運ぶ道と物資を運ぶ道をなるべく分け、交差点には兵士と住民が立って荷車の流れを整理していた。
「西区への水はこっちだ!」
「空荷の荷車は戻る時に避難所の札を持っていけ!」
「南の治療所、布が足りないってよ!」
通りには絶えず声が飛び交っている。
アルベールは荷車を進めながら、その流れを静かに見ていた。
ソータが一人で街を動かしているわけではない。
住民が荷車を引き、文官が数を記録し、大工が道を直し、兵士が危険区域を守っている。
それぞれが自分の役目を持ち、次の者へ仕事を渡している。
(ソータ様が作られたのは、物資そのものより流れでございますな。)
《神速積載庫》がなくても動く部分を増やす。
自分がいなくても回る形を作る。
それは派手ではないが、長く街を支えるには必要なことだった。
西区へ向かう途中、新しく開放された公衆浴場も見えた。
入口には色の違う札を持った住民が並び、中庭には洗った衣類が何本もの縄に掛けられている。
神官に付き添われた負傷者も出入りしており、入浴施設というより衛生拠点と呼ぶ方が近かった。
「浴場まで直されましたか。」
アルベールが呟くと、近くにいた兵士が振り向いた。
「ああ、アルベール殿。ソータ殿なら中央通りのパン屋ですよ。」
「ありがとうございます。」
「しかし、あの人は本当に止まりませんね。ついこの前まで倒れてたとは思えませんよ。」
「その点については、わたくしも少々確認したいところでございます。」
兵士へ礼を告げ、アルベールは中央通りへ向かった。
◆◇◆
中央通りのパン屋は建物の半分ほどを火で失っていたが、石造りの窯だけは無事だった。
応急修理された屋根の下では朝からパンが焼かれ、店先には避難所へ送る木箱が積み上がっている。
その木箱の間に、ソータはいた。
「北側は昨日より人数が減ってるから、三箱減らしていいです。その分は西区へ回してください。」
「戻ってきた箱はどうする?」
「壊れてなければまた使います。捨てると次の箱が足りなくなるから。」
帳面を持った青年が頷き、荷車へ指示を出していく。
アルベールは少し離れた場所から、まずソータ本人を観察した。
顔色は悪くない。
歩き方にも違和感はなく、息が上がっている様子もない。
王城で倒れた直後のような危うさは消えている。
(身体そのものは、順調に回復されているようでございますね。)
そう判断しかけた時だった。
「ソータさん。」
店の中から若い娘が出てきた。
栗色の髪を後ろでまとめ、白い前掛けをつけたパン屋の看板娘らしい。
腕には少し焼き色の濃いパンが入った籠を抱えていた。
「これも避難所へ持っていってもらえますか? 少し焼きすぎちゃって、店には出しにくいんです。」
「食べられるなら助かるよ。」
「焦げたところを少し取れば大丈夫です。」
「ありがとう。店もまだ大変なのに。」
「ソータさんたちが小麦を運んでくれなかったら、そもそも焼けませんでしたから。」
娘が笑う。
ソータも笑い返した。
その時、ソータが彼女の頬を見て首を傾げた。
「ちょっと動かないで。」
「え?」
娘が瞬きをする。
ソータはごく自然に手を伸ばし、彼女の頬へ触れた。
「小麦粉ついてた。」
指先で白い粉を拭う。
それだけだった。
けれど娘の顔は一瞬で赤くなった。
「だ、大丈夫です! 私、まだ全然働けますから!」
「いや、別に休めって言ってないけど。」
「そうですよね! 何でもありません!」
娘は慌てるように店の中へ戻っていった。
ソータはしばらくその背中を見ていた。
「……何だったんだ?」
「恐らく、ソータ様には分からない理由でございましょう。」
「うわっ!」
突然背後から聞こえた声に、ソータが勢いよく振り向いた。
「アルベール!?」
「ご無沙汰しております、ソータ様。」
「何でいるんだよ!」
「追加物資のお届けと、ミレイユ様からのお使いでございます。」
「ミレイユから?」
ソータの顔に警戒が浮かぶ。
「……怒ってた?」
「大変ご心配されておりました。」
「その言い方、絶対怒ってるだろ。」
「怒ってもおられました。」
「やっぱり!」
ソータが頭を抱える。
アルベールはその様子を見ながら、改めて身体の状態を確認した。
「お身体はいかがでございますか?」
「もう大丈夫。」
「その言葉は信用しないように、と申し付けられております。」
「何で!?」
「ソータ様だからでございます。」
「説明になってないだろ!」
「ミレイユ様も同様のことを仰っておりました。」
「何なんだよ、その連携。」
不満そうにしているものの、ソータの反応はいつも通りだった。
だがアルベールの頭には、先ほどの光景が引っかかっていた。
頬に粉がついていると教えるだけでもよかったはずだ。
それなのにソータは、何の迷いもなく自分から触れた。
さらに気になるのは、その時の雰囲気だった。
以前より姿勢がよく、声に迷いが少ない。
本人は何も意識していないのに、妙に相手の目を引く。
(これは、まさか。)
アルベールが考えていると、通りの向こうから二人の女性が近づいてきた。
◆◇◆
「ソータ様。」
先に声をかけたのはリシェラだった。
その少し後ろをエルシアが歩いている。
二人とも浴場の確認を終えた帰りらしく、護衛と文官を数人連れていた。
「アルベール殿。」
エルシアが気づき、丁寧に頭を下げる。
「お久しぶりです。お怪我はもう大丈夫なのですか?」
「ご心配ありがとうございます。まだ少々老骨には響きますが、日常生活には問題ございません。」
「グラードとやり合える爺さんが老骨って言うの、説得力ないけどな。」
「ソータ様。」
「何?」
「後ほど覚えておいてくださいませ。」
「何する気だよ?」
リシェラが小さく笑った。
そのまま彼女はソータの近くへ寄り、浴場の状況を説明し始めた。
「西側の排水が少し遅いみたいです。午後は利用者を減らした方がいいと思います。」
「水が詰まってる?」
「完全に詰まってはいません。でも、一度に入れすぎると洗い場へ水が残るかもしれません。」
「分かった。昼の便を出したら見に行くよ。」
「私も行きます。」
即答したリシェラを、ソータはじっと見た。
「姫様、朝からずっと動いてるでしょう。」
「大丈夫です。」
「本当に?」
「本当です。」
リシェラは平然と答えたが、額には薄く汗が浮いていた。
次の瞬間、ソータは何の迷いもなく手を伸ばした。
「ちょっと熱くない?」
「……え?」
掌がリシェラの額へ触れる。
リシェラの身体がぴたりと止まった。
「熱はなさそうだけど。」
ソータは自分の額にも触れながら比べる。
「でも無理しない方がいいよ。倒れたら意味ないから。」
「……はい。」
「顔赤いけど、本当に大丈夫?」
「今は別の理由です!」
「別の理由?」
「何でもありません!」
リシェラは慌てて顔を逸らした。
アルベールは黙ってその様子を見ている。
そしてエルシアも見ていた。
正確には、ソータの手を見ていた。
「姉様。」
「何です?」
「何でもありません。」
「なら、こちらを見ながら言わないでください。」
リシェラが少し不満そうな顔をする。
ソータは二人のやり取りの意味が分からず、首を傾げていた。
その時、通りの脇から大工の声が飛んだ。
「危ない!」
積み上げていた木材が崩れ、その一本がエルシアの足元へ転がってくる。
ソータは考えるより早く動いた。
「エルシア様!」
腕を掴み、そのまま自分の方へ引き寄せる。
「きゃっ。」
エルシアの身体がソータの胸元へ収まった。
木材は二人のすぐ横を転がり、石畳へぶつかって止まる。
「怪我は?」
「ありません。」
「足、捻ってない?」
「大丈夫です。」
ソータはエルシアの肩と背中を支えたまま、足元まで確認していた。
助けるために必要な行動だった。
ただ、安全だと分かってからも、手を離すまでが少し遅い。
「ソータ殿。」
「ん?」
「もう大丈夫です。」
「あ、ごめん。」
そこでようやくソータは手を離した。
エルシアはすぐに王女らしい姿勢へ戻ったが、頬には薄く赤みが残っていた。
「助かりました。」
「怪我がなくてよかった。」
ソータは何事もなかったように笑う。
リシェラはその光景を見ながら、唇を少し尖らせていた。
(姉様の方が長かった気がする。)
そんなことを考えている自分にも腹が立つ。
一方のアルベールは、完全に別のことを考えていた。
(やはり、先ほどだけではございませんか。)
パン屋の娘だけではない。
リシェラの額へ触れる。
エルシアを助けた後、必要以上に近い距離へ留まる。
どれも単体なら不自然ではない。
しかし続けて見ると、明らかに以前とは違っている。
ソータ本来の優しさに、《男気》の影響が混ざり始めている。
◆◇◆
午後、アルベールはソータと共に西区の中継所を回った。
夜の城から運んできた乾燥肉、薬草、保存食を倉庫へ入れ、現在の在庫と照らし合わせる。
ソータは帳面を確認しながら、必要な場所へ必要な量だけ送るよう指示していた。
「北区の水は二台で足ります。余った一台は教会へ。」
「布は全部出すのか?」
「半分残してください。雨が降った時とか、怪我人が増えた時に使うかもしれないから。」
「了解。」
以前のソータなら、自分で《神速積載庫》から必要な物を出し、そのまま次の場所へ走っていた。
今は倉庫の担当者へ数量を伝え、文官へ記録を任せ、荷車を動かす者へ次の場所を指示している。
アルベールはその様子に少し安心した。
(ご自身がいなくても回る形を、本当に作り始めておられる。)
身体の回復も順調だ。
仕事の任せ方も以前よりよくなっている。
それなのに、別の部分だけが妙に危うい。
通りを歩けば、若い女性たちがよく声をかけてくる。
「ソータさん、昨日ありがとう!」
「今度うちにも寄ってくださいね!」
「これ、持っていって!」
ソータはそのたび普通に笑い返している。
「王都の人もだいぶ慣れてくれたな。」
「そのようにお考えで?」
「最初はよそ者だったし。最近は顔覚えてくれた人も増えたから。」
「なるほど。」
「その顔、何?」
「いえ。実にソータ様らしいご解釈でございます。」
「絶対それ褒めてないだろ。」
アルベールは微笑むだけだった。
もちろん、王都を救い復旧を手伝ったのだから好意的に見られるのは当然だ。
だが、その中に別の意味でソータへ視線を向けている女性が増え始めていることにも、アルベールは気づいていた。
そして一番厄介なのは、ソータ自身がそれをまったく理解していないことだった。
◆◇◆
夕方になる頃には、中継所へ出入りする荷車も少なくなっていた。
ソータは倉庫脇の壁へ背を預け、ようやく一息ついていた。
夕日に照らされた王都にはまだ崩れた建物が多く残っているが、通りには仕事を終えた住民たちの姿があり、数日前の戦場とは思えないほど落ち着きを取り戻している。
「ルシアは無事に戻ったんだよな?」
「はい。昨夜、夜の城へお戻りになりました。」
「そっか。」
ソータは安心したように笑った。
「約束したんだ。落ち着いたら俺も城へ行くって。」
「ルシア様も楽しみにしておられます。」
「ミレイユには怒られそうだけど。」
「そこは避けられないかと。」
「少しは庇ってくれよ。」
「わたくしにも命がございますので。」
「グラードと戦える爺さんが何言ってんだ。」
「それとこれとは別でございます。」
ソータは苦笑した。
その顔を見ながら、アルベールは少しだけ表情を変えた。
身体は大丈夫そうだ。
街の仕事も、今すぐソータがいなくなれば止まるような状態ではない。
だからこそ、今のうちに話しておいた方がいい。
少し離れた場所では、エルシアとリシェラが文官から報告を受けている。
二人とも仕事へ集中しているように見えるが、時折ソータの方へ視線を向けていた。
特にリシェラは、ソータと目が合うたびに、先ほど額へ触れられたことを思い出しているのか僅かに頬を赤くしている。
エルシアも表面上は落ち着いているが、木材から助けられた時のことを完全に忘れられてはいない。
(このお二人は、すでにソータ様へ好意をお持ちです。)
その相手に対して、《男気》の影響がさらに強くなったらどうなるのか。
想像するのは難しくなかった。
「ソータ様。」
「ん?」
アルベールが静かに呼ぶ。
「少々、お話がございます。」
いつもの穏やかな声だったが、そこに冗談の気配はなかった。
ソータもそれを感じたらしく、壁から身体を離す。
「何?」
「できれば、人目の少ないところで。」
「そんなに真面目な話?」
「はい。」
アルベールは一度だけ、エルシアとリシェラの方へ視線を向けた。
「ソータ様ご自身に関わることでございます。」
ソータは首を傾げる。
自分では、身体もかなり戻ったと思っている。
仕事も以前ほど無茶に抱え込んではいない。
(俺、また何かやったか?)
思い当たるものはなかった。
けれどアルベールには、すでに一つの答えが見えていた。
王城で力を使い果たしたことで一度は弱まっていた《男気》が、ソータの身体の回復と共に再び強くなっている。
しかも今回は以前のように分かりやすく表へ出るのではなく、声や仕草、相手との距離の取り方へ静かに溶け込んでいた。
王都の復旧は順調だった。
人々は自分たちで荷物を運び、物資を分け、壊れた街を直し始めている。
だからこそ今度は、ソータ自身に起きている変化へ目を向けなければならない。
そして、その変化にまだ気づいていないのは、どうやら本人だけだった。




