第172話:王女たちは、王まで巻き込む
翌朝、西区の古い公衆浴場では、開放に向けた最後の確認が進められていた。
昨日まで床を覆っていた泥や苔はほとんど取り除かれ、二つの大浴槽には澄んだ湯が張られている。
壊れていた煙道も石工たちによって修復され、冷え切っていた石造りの浴室には柔らかな湯気が漂っていた。
脱衣所では大工たちが棚の傾きを直し、中庭には洗濯用の桶と物干し縄が用意されている。
負傷者用の浅い浴槽には神官が付き、傷を洗う清潔な水と身体を温める湯を混同しないよう、使用する桶まで色分けされていた。
ほんの二日前まで放置されていた建物とは思えない。
ソータは入口脇の受付で、今日使う物資を一つずつ確認していた。
薪、清潔な布、石鹸代用品、洗濯縄、替えの桶。
浴場を直す前は、湯さえ張れば使えるのだろうと思っていたが、実際に人を受け入れる段階になると、必要な物は驚くほど増えていった。
(風呂一つでも、ちゃんと回そうとすると結構な物流になるんだな。)
使用済みの布は洗濯場へ送り、清潔な布と混ざらないよう別の籠へ入れる。
石鹸代用品も最初から大量に置くのではなく、その日の利用人数に応じて少しずつ補充する。
自分がいなくても現場だけで運用できるよう、ソータは受付の女性と手順を確認していた。
「石鹸は一人に一つずつでお願いします。足りなくなったら、奥の予備箱から補充してください。」
「承知しました。布も一度使ったものはこちらですね?」
「はい。洗った物と混ざらなければ大丈夫です。」
女性が頷き、札を書き直していく。
それを確認したところで、入口から聞き慣れた声がした。
「ソータ様。」
振り向くと、リシェラが立っていた。
白と銀を基調にした王族らしい衣装を身につけているが、現場を歩きやすいよう裾は短く整えられている。
「おはようございます。」
「おはよう。早いですね。」
「今日は開放日ですから。確認することがたくさんあります。」
「昨日もかなり確認してたけど。」
「昨日は昨日です。」
リシェラは平然と答えたが、設備より先に何度もソータの方を見ている。
昨日、試運転の話になった時に、ソータと一緒に浴場へ入る案を口にしかけた。
エルシアに止められたため実現しなかったが、その考え自体はまだ消えていない。
(設備確認なら仕方ないでしょう?)
そう自分に言い聞かせる。
(……一緒に入る必要まであるかは別だけど。)
そこを考えると、少し苦しくなる。
(必要なことにしたい。)
結局、本音はそちらだった。
「リシェラ。」
背後から声がして、リシェラの表情がわずかに変わった。
エルシアだった。
「姉様も来たのですか。」
「その言い方では、来てはいけないように聞こえますね。」
「そんなことは言っていません。」
「顔には少し書いてあります。」
エルシアは妹の横を通り、ソータへ軽く会釈した。
「おはようございます、ソータ殿。」
「おはようございます。」
「受付の記録方法を少し変えました。利用人数と消耗品の使用数を並べて記録すれば、一日にどれくらい必要なのか予測しやすくなると思います。」
エルシアが帳面を開き、ソータも横から覗き込んだ。
「これ、いいですね。」
「数日記録を取れば、余分な在庫を置かずに済むでしょう。」
「助かります。」
ソータが素直に笑う。
その瞬間、リシェラの眉がほんの少しだけ動いた。
(また姉様だけ褒められてる。)
当然のことだと分かっている。
分かっているが、面白くない。
「ソータ様。」
「何?」
「入口の利用札は私が変えました。」
リシェラはすぐに、自分が用意した札を持ってきた。
「文字だけでは分かりにくいので、負傷者用を赤、一般利用を青、洗濯だけの方を白にしています。」
「それも分かりやすい。」
「本当?」
「うん。字が読めない人でも使える。」
リシェラの顔が一気に明るくなる。
今度はエルシアが妹を見る。
その視線に気づいたリシェラは、少しだけ勝ち誇ったように笑った。
「姉様。」
「何です?」
「制度だけではなく、現場を見るのも大切でしょう?」
「誰も否定していませんよ。」
「ならよかったです。」
見た目は穏やかだったが、明らかに何かが始まっている。
ソータは二人を交互に見た。
「姫様たち、最近本当に仕事熱心ですね。」
二人の視線が同時にソータへ向いた。
「仕事だけではありません。」
リシェラが言った。
「リシェラ。」
エルシアが即座に止める。
「何です?」
「余計なことを言わないでください。」
「姉様には都合が悪いのですか?」
「そういう話ではありません。」
ソータには、やはり意味が分からない。
(双子って最近こんな感じだな。)
実際には、双子だからではなかった。
◆◇◆
受付の確認が一段落した頃、浴場の入口が急に騒がしくなった。
護衛の兵士たちが姿勢を正し、文官や職人が慌てて道を空ける。
そこへ現れたのは、国王と王妃だった。
国王は視察用の簡素な外套を羽織り、王妃も動きやすい衣装に着替えている。
後ろには最低限の護衛と侍女だけが付き従っていた。
「父上?」
エルシアが驚く。
「母上まで、どうしてこちらへ?」
「王都復旧の確認だ。」
国王は浴場を見回した。
「避難民や負傷者の衛生拠点になると聞いた。どこまで整ったのか見ておこうと思ってな。」
「それだけならよいのですが。」
エルシアは、母の顔を見て少し警戒した。
王妃が楽しそうに笑っている。
「私は別のことも少し気になりまして。」
「何でしょう?」
「今朝、二人とも随分早く部屋を出たでしょう?」
「復旧確認です。」
エルシアが答える。
「設備確認です。」
リシェラも続けた。
「ええ。侍女たちからも聞きました。」
王妃はそこで一度ソータを見る。
「ただ、二人とも行き先を説明する時に、なぜかソータ様のお名前を最初に出したそうですよ。」
エルシアの顔がわずかに固まった。
「母上。」
「何です?」
「侍女たちに何を聞いているのですか。」
「娘たちが朝から元気なので、少し気になっただけです。」
リシェラが後ろの侍女たちを見ると、全員が申し訳なさそうに目を逸らした。
「裏切り者。」
「リシェラ。言葉。」
「姉様も同じ顔してますよ。」
「していません。」
「しています。」
国王が二人を見比べる。
「何か問題でもあるのか?」
「ありません。」
エルシアが答える。
「あります。」
リシェラが答えた。
エルシアが勢いよく妹を見る。
「リシェラ。」
「だってあります。」
国王はますます分からなくなったようだった。
「何がある?」
リシェラは少し迷った。
だが、エルシアが安心したような顔をしたのを見て、急に悔しくなったらしい。
「姉様が、私がソータ様に近づく邪魔をします。」
浴場の空気が止まった。
近くで棚を直していた大工まで、一瞬手を止める。
「俺?」
ソータが自分を指した。
「ソータ様以外に誰がいるのです?」
「いや、俺に聞かれても。」
国王はしばらく娘を見た後、今度はエルシアを見る。
「なぜ邪魔をする?」
「父上。」
「うむ。」
「そこを掘り下げなくて結構です。」
「しかし、理由が分からなければ。」
「分からなくて結構です。」
王妃の口元が楽しそうに緩む。
「もしかして、エルシアも同じなのでは?」
「母上。」
「まだ何も言っていませんよ。」
「その顔で十分です。」
リシェラは母の援護を得たと感じたらしい。
「姉様もソータ様が好きだから、私を止めるんです。」
「リシェラ!」
エルシアの顔が一気に赤くなった。
国王が固まり、ソータも固まる。
王妃だけが満足そうに頷いた。
「まあ。」
「母上、その『まあ』はやめてください。」
「でも否定しないのですね。」
エルシアは言葉に詰まった。
それを見たリシェラが、少しだけ得意そうになる。
「ほら。」
「何が『ほら』です。」
「姉様も同じでしょう?」
「あなたより慎重なだけです。」
口にした後で、エルシア自身が止まった。
リシェラの目が鋭くなる。
「それ、認めたのと同じですよ。」
「……。」
王妃が笑い始めた。
ソータは額を押さえた。
(何で風呂の前で王族一家の恋愛会議になってるんだ。)
◆◇◆
国王は一度咳払いをして、状況を整理しようとした。
「つまり、リシェラはソータ殿を好いている。」
「父上、声に出さないでください!」
「そしてエルシアも、おそらく同じ。」
「おそらくを付けても駄目です!」
「それで二人が張り合っている。」
「私は張り合っています。」
リシェラは素直に認めた。
「張り合っていません!」
エルシアが否定する。
「意見が一致しておらんぞ。」
「リシェラが勝手に競争にしているだけです。」
「姉様だって、ソータ様の隣を取ろうとしていたでしょう。」
「仕事です。」
「褒められた時に嬉しそうだったのも?」
「それは……。」
エルシアがまた詰まる。
王妃がとうとう声を上げて笑った。
「二人とも、ずいぶん分かりやすくなりましたね。」
「母上は楽しみすぎです。」
エルシアは本気で疲れた顔をしていた。
そこへ王妃が、さらに思い出したように口を開いた。
「そういえばエルシア。外国出身者を王家へ迎えた前例について調べていた件は、リシェラには話したの?」
今度こそエルシアの動きが完全に止まった。
リシェラが姉を見る。
「……何です、それ。」
「母上。」
エルシアの声が低くなる。
「はい?」
「今、それを言う必要がありました?」
「リシェラにも必要な情報でしょう?」
「必要ありません!」
リシェラは完全に食いついた。
「姉様、王家へ迎えるところまで考えていたのですか?」
「制度上の確認です。」
「それを普通は婿って言うんじゃないですか?」
「違います!」
国王が反応する。
「婿?」
「父上まで拾わないでください!」
「だが、王家へ迎えるなら重要だろう。」
「まだ本人へ何も伝えていません!」
言い切ってから、エルシアは目を閉じた。
また墓穴だった。
国王は真面目に頷く。
「では、いずれ伝えるつもりなのだな。」
「父上!」
リシェラは完全に焦り始めた。
「姉様だけそんな先まで行っていたなんて聞いてません!」
「あなたへ報告する義務はありません。」
「不公平です!」
「何がです?」
「私はまだ、自然にキスする方法を考えているところなのに!」
今度は全員が黙った。
「……。」
リシェラも黙った。
顔が見る見る赤くなる。
エルシアがゆっくり妹を見る。
「リシェラ。」
「何です?」
「今、自然にキス、と聞こえましたが。」
「聞き間違いです。」
「全員聞きましたよ。」
王妃が楽しそうに言う。
ソータの頭の中で、過去の出来事が繋がった。
何度も転びかけたこと。
抱き止めると、妙に顔を近づけてきたこと。
その後、なぜか不機嫌になったこと。
(まさか。)
「姫様。」
「違います。」
「まだ何も聞いてない。」
「違います。」
「前に何回か転んだのって。」
「全部が全部そうではありません!」
「全部じゃないんだ。」
「……。」
完全な自白だった。
国王はしばらく娘を見た後、真面目な顔で言った。
「リシェラ。」
「はい。」
「転ぶのは危ないからやめなさい。」
「そこですか!?」
「頭を打ったのだろう?」
「それはそうですけど!」
「キスするために怪我をするのは本末転倒だ。」
正論すぎて、誰も否定できなかった。
王妃は笑いながら国王を見る。
「あなた、こういう時だけ妙に冷静ですね。」
「父親として重要な問題だ。」
「王国の反乱より?」
「比較するな。」
夫婦まで妙な会話を始め、エルシアは額へ手を当てた。
ソータも似たような気分だった。
(俺、ただ風呂を直しただけなんだけど。)
◆◇◆
さすがに周囲の視線が集まりすぎていることに気づき、エルシアは一度話を打ち切った。
「この話は後にしましょう。開放時間が近づいています。」
「賛成。」
ソータがすぐに答えた。
「逃げましたね。」
リシェラが言う。
「今は逃げさせて。」
あまりに素直な返事だったため、王妃がまた笑う。
そこへヨーダも現れた。
「何を騒いでおられるのです?」
国王が少し考える。
「家族会議だ。」
ヨーダは浴場を見回した。
「なぜ浴場で?」
「余も知りたい。」
エルシアが小さく息を吐く。
「半分ほど父上と母上のせいです。」
「私は少ししか参加していませんよ。」
王妃が言う。
「母上が一番楽しんでいます。」
「それは否定しません。」
「そこは否定してください。」
ヨーダは事情を聞くことを諦めたらしく、負傷者用浴槽の確認へ向かった。
◆◇◆
昼になると、公衆浴場は予定通り開放された。
最初に入ったのは、西区の避難所で暮らしている高齢者と子供たちだった。
受付ではリシェラが考えた色札が使われ、字の読めない者でも迷わず自分の列へ並ぶことができた。
洗濯場では衣服を洗う音が響き、壁際の縄には次々と濡れた衣類が掛けられていく。
浴室から出てきた老人が久しぶりに身体が温まったと笑い、子供たちは濡れた髪のまま走り出そうとして神官に止められていた。
大きな混乱はない。
人が入る。
受付が動く。
薪が補充される。
使った布は洗濯場へ回り、清潔になった物がまた次の利用者へ戻っていく。
ソータは入口の近くから、その流れを眺めていた。
(ちゃんと回ってる。)
自分が一人で水を出し続けなくてもいい。
自分がすべての物資を手渡さなくてもいい。
仕組みさえ作れば、人は自分たちで動ける。
それが何より嬉しかった。
「良い顔をしていますね。」
エルシアが隣へ立った。
「そう?」
「ええ。」
「ちゃんと動いたから。」
「自分がいなくても?」
「その方がいいですよ。」
ソータは浴場を見ながら笑った。
「俺がずっとここに立ってないと動かないなら、それは直したことにならないから。」
エルシアは、その横顔を静かに見つめた。
強いからではない。
王族を救ったからでもない。
自分が必要とされ続けることより、誰もが困らずに動ける状態を作ることを喜ぶ。
(こういうところが、好きなのかもしれませんね。)
以前なら、すぐに王国に必要な人物だからと理由を付けただろう。
今は、もう少し素直に認められる。
そこへリシェラが反対側から来た。
「ソータ様。」
「何?」
「今日の夜、閉場後にもう一度設備確認をするそうですね。」
「うん。排水とか、一日使った後じゃないと分からないから。」
「でしたら。」
リシェラが少しだけ言葉を止めた。
その瞬間、エルシアの視線が妹へ向く。
「リシェラ。」
「まだ何も言っていません。」
「何を言うか分かります。」
「姉様には聞いていません。」
「聞こえています。」
ソータは嫌な予感がした。
「何の話?」
リシェラが口を開く前に、後ろから王妃の声が飛んできた。
「今夜、ソータ様と一緒にお風呂へ入りたいのでしょう?」
「母上!」
リシェラの顔が一気に赤くなる。
少し離れた場所にいた国王まで振り向いた。
「風呂?」
「父上まで反応しないでください!」
国王はソータをじっと見る。
ソータは反射的に両手を上げた。
「俺から誘ってません。」
「それは分かっている。」
「じゃあ、その顔やめてもらえません?」
「父親としての顔だ。」
「どんな顔ですか、それ。」
リシェラは納得できないらしい。
「父上、姉様を王家の制度まで調べさせておいて、私が一緒にお風呂へ入るのは駄目なのですか?」
「それと風呂は別だ。」
「何が違うのです?」
「いろいろ違う!」
国王まで声を大きくする。
エルシアは妹を止めようとした。
「リシェラ。父上を困らせないでください。」
「姉様はどちらの味方なのです?」
「今は父上です。」
「自分が先にソータ様へ近づきたいから?」
「どうしてそうなるのです!」
「では、私が一緒に入ってもいいのですね?」
「よくありません!」
「ほら。」
「何が『ほら』です!」
王妃はとうとう声を上げて笑った。
国王は娘を止めるべきかソータを警戒するべきか分からず、エルシアは妹へ振り回され、リシェラはますます意地になっている。
その騒ぎを少し離れた場所から見ていたヨーダは、深いため息をついた。
「王都の衛生問題を解決するための浴場だったはずですがな。」
呆れてはいたが、その声には少しだけ笑いが混じっていた。
数日前まで、この王都では反乱の火が上がり、人々は今日を生き延びるだけで精一杯だった。
今では王女たちが恋愛を巡って言い争い、その父と母まで巻き込んで騒いでいる。
王都はまだ完全には直っていない。
壊れた家も、荒れた道も、反乱の後始末も残っている。
それでも、風呂へ入った老人が笑い、子供が走り、家族がくだらないことで言い争えるところまで日常は戻ってきた。
ソータはそんな光景を眺めながら、少しだけ笑った。
(まあ、こういう騒ぎができるくらいには平和になったってことか。)
ただし、自分を巡って騒いでいる双子については、別の問題だった。
エルシアは王女としての節度を理由に妹を止めながら、途中から明らかに自分の感情まで混ざっている。
リシェラはそれを見抜き、姉の理屈を崩しながら、どうにかしてソータとの距離を縮めようとしていた。
(王都の復旧より、こっちの方が難しくないか?)
少なくとも、この問題だけは《神速積載庫》へ放り込んで片づけることもできなかった。




