第168話:第二王女は、偶然を計画する
王都の復旧が進むにつれて、東庭へ集まる物資の種類も少しずつ変わり始めていた。
反乱直後は、水、食料、毛布、包帯といった、生き延びるために今すぐ必要な物ばかりだった。
しかし、負傷者の治療と避難民への配給が最低限回るようになると、次に必要になるのは暮らしを取り戻すための資材だった。
木材、釘、縄、石材、屋根へ張る油布。
壊れた扉や窓を直すための板材に、炊事場を増やすための桶や鍋まで運び込まれている。
東庭の一角は、もはや単なる救援物資の集積所ではなく、王都そのものを組み直すための資材置き場へ変わりつつあった。
ソータは朝から、大工や石工、それに王城の営繕を担当していた者たちと地図を囲んでいた。
王都全体を一度に直すことはできない。
それなら、どこから手を付ければ一番多くの人が生活を取り戻せるのかを考えなければならない。
「西区は、倒れそうな家から確認してください。」
ソータが地図上の通りを指す。
「全部直すんじゃなくて、危ないところと、少し手を入れれば住めるところを先に。」
大工の親方が腕を組んだ。
「全壊してる家は後回しか?」
「道を塞いでたり、隣の家まで巻き込みそうなら危険なところだけ崩します。でも、建て直しは後です。」
「貴族の屋敷から直せって話が来たら?」
「人数と危険度で決めます。」
親方が少し面白そうに笑った。
「王城の中で、よくそんなこと言えるな。」
「許可はいただいております。」
横から答えたのはエルシアだった。
白と銀を基調にした王族衣装は、いつものものより裾が短く整えられている。
復旧現場へ出る時間が増えたため、侍女たちが動きやすい形に直したらしい。
「現在は身分よりも、危険度と居住可能人数を優先します。異論がある者は、わたくしのところへ直接申し出るよう伝えてください。」
第一王女の言葉なら、現場の職人たちも従いやすい。
親方も素直に頷いた。
「そこまで言ってもらえるなら助かります。」
ソータは地図へ視線を戻した。
修復に使う木材は足りていない。
だが、王都中には崩れた家屋がある。
その中から再利用できる梁や板を回収すれば、新しい資材を待つより早い。
「西区の廃材置き場、一度見たいです。」
「使える物を分けるか。」
「はい。建材に戻せる物と、薪にできる物、それから本当に捨てるしかない物を分けましょう。」
「釘や金具も拾うぞ。」
「お願いします。」
ソータがそう答えたところで、近くにいた若い職人が不思議そうな顔をした。
「兄ちゃん、本当に運送屋なんだよな?」
「そうだけど。」
「何で建物の直し方まで考えてんだ?」
「直し方は親方たちに任せてるよ。」
「でも、どこへ何を置くかは全部見てるだろ。」
ソータは少し考えた。
「運ぶ場所が決まってないと、運べないから。」
答えは単純だった。
何を作るのか。
どこで使うのか。
いつ必要なのか。
それが分からなければ、どれだけ多くの荷物を持てても意味がない。
職人は感心したように頷いたが、ソータ本人は特別なことを言ったつもりなどなかった。
その様子を少し離れた場所から見ていたリシェラは、いつの間にかまたソータを目で追っている自分に気づいた。
(また見てる。)
昨日から、こればかりだった。
助けられたから気になる。
王都復旧で頼りになるから見てしまう。
最初はそう考えていた。
けれど、もうそれだけでは説明できない。
ソータが笑えば嬉しい。
誰かと話していれば、何を話しているのか気になる。
近くに来ると妙に緊張する。
そして何より、ルシアと口づけを交わしていた光景が、頭から離れなかった。
(忘れた方がいいのに。)
そう思うほど、鮮明に思い出す。
ルシアがソータへ抱きついたこと。
ソータがそれを拒まなかったこと。
互いに顔を近づけ、自然に唇を重ねたこと。
恋人同士なら、あれくらい普通なのかもしれない。
問題は。
(私は、何であんなに気になったの?)
答えを考えるたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
「リシェラ。」
「はいっ!」
急に呼ばれ、肩が跳ねた。
エルシアが怪訝そうにこちらを見ている。
「先ほどから何を見ているのです?」
「王都復旧です。」
「王都復旧という名前の人物が、あちらに立っているのですか?」
「……。」
完全に見抜かれている。
「姉様。」
「何です?」
「キスって。」
そこまで口にしてから、リシェラは自分で止まった。
「……。」
エルシアも黙る。
数秒間、双子は無言で見つめ合った。
「今、何と?」
「何でもありません。」
「キス、と聞こえましたが。」
「聞き間違いです。」
「随分とはっきりした聞き間違いですね。」
リシェラの頬が急に熱くなる。
「忘れてください。」
「突然そのような言葉が出る方が気になります。」
「何もありません!」
声が大きくなり、近くの文官が振り返った。
リシェラは慌てて姿勢を正す。
「失礼しました。」
エルシアは妹をしばらく見ていたが、それ以上は追及しなかった。
ただし、何かを隠していることだけは確信したらしい。
(危なかった。)
リシェラは小さく息を吐いた。
しかし、口に出してしまったことで、余計に意識するようになってしまう。
(キス。)
自分がソータと。
そこまで想像した瞬間、慌てて思考を止めた。
(何考えてるの、私。)
知り合ってまだ数日しか経っていない。
助けてもらった。
手を握った。
何度か抱き止められた。
それだけだ。
それなのに、もし自分がソータと唇を重ねたらどうなるのか、少し知りたいと思ってしまう。
(……一回くらい。)
浮かんだ考えに、自分で顔が熱くなる。
その時だった。
少し離れた場所で、大工たちが積み上げていた太い木材の一本がずれた。
「危ない!」
ソータがすぐに駆け寄り、倒れかけた木材を支える。
「そっち持って!」
職人が慌てて反対側へ回る。
「一本ずつ下ろそう。まとめて動かすと危ない。」
「悪い、兄ちゃん。」
「足に落としたら復旧どころじゃないです。人が一番大事なんだから、怪我しないでください。」
声は強いが、怒っているわけではない。
相手を責めるより先に、怪我をしないよう気遣っている。
リシェラはその姿を見て、また胸が大きく鳴った。
(……やっぱり、昨日より格好よく見える。)
ここ数日、ソータの雰囲気は少しずつ変わっていた。
本人にはほとんど自覚がないが、《男気》は身体の回復とともに力を取り戻している。
誰かに頼られた時。
守ろうとする相手が近くにいる時。
自分の仕事が必要とされている時。
そうした状況が重なるたび、ソータの立ち姿や声には以前より自然な力が宿る。
リシェラには、その原因など分からない。
ただ、目を離しづらくなっていることだけは確かだった。
◆◇◆
昼前。
ソータは大工たちとともに、西区の廃材置き場へ来ていた。
崩れた家屋から集められた木材や石材が、広い空き地へ雑然と積まれている。
一見するとただの瓦礫だが、親方たちは一本ずつ状態を確認していった。
「これは使える。」
親方が焦げた梁を叩く。
「端は焼けてるが、芯は生きてる。」
「切れば柱に戻せる?」
「短くはなるがな。」
「じゃあ建材。」
ソータは回収先を覚えていく。
別の梁は中まで焦げていた。
「これは?」
「建物には使えねえ。乾かして薪だ。」
「分かった。」
さらに、曲がった金具や外れた蝶番も一ヶ所へ集める。
職人は物そのものを見る。
ソータは、それを次にどこへ運ぶかを考える。
役割が違うからこそ、作業は思った以上に早く進んだ。
「この梁の束は三番通りへ。」
「何軒分?」
「五軒だ。大きいのを二本ずつ。」
「了解。」
ソータが手を触れると、梁の束が《神速積載庫》へ消える。
何度見ても慣れないらしく、職人たちが感心したような声を上げた。
「便利だなあ。」
「便利ですよ。」
「家一軒くらい持ってけるんじゃないか?」
「壊れてれば、たぶん。」
「その言い方、運送屋として正しいのか?」
「壊れてない家を運ぶ仕事はやったことないです。」
親方が豪快に笑った。
その時、リシェラが後ろから近づいてきた。
「ソータ様。」
「姫様。どうしたの?」
「三番通りへ行くのでしょう?」
「これから。」
「私も行きます。」
「また?」
「またとは何です?」
「昨日から結構ついてきてるから。」
「案内です。」
「俺より詳しい?」
「ここは私の王都です。」
「それはそうだな。」
ソータは素直に頷いた。
「じゃあお願いします。」
リシェラは少しだけ嬉しそうに笑った。
二人は廃材置き場を離れ、西区の三番通りへ向かって歩き始めた。
道は昨日より通りやすくなっている。
それでも、石畳の一部は浮き、建物の壁には火事の跡が黒く残っていた。
通りの端では住民たちが焼け残った家具を運び出し、大工たちが屋根を支えるための柱を立てている。
リシェラはソータの横を歩きながら、何度も足元を見た。
別に道が怖いわけではない。
(偶然なら。)
さっきから、その考えが消えない。
自分からキスを頼む勇気などない。
しかし、何かの拍子に転び、ソータに受け止められ、偶然顔が近づいたなら。
事故だ。
事故なら。
自分からしたことにはならない。
(いや、事故を狙った時点で事故じゃない。)
そこまでは分かっている。
それでも。
(少しくらいなら。)
リシェラは足元の石畳を見る。
ほんの少しだけ盛り上がった場所がある。
本気で転べば危ないが、少しつまずく程度なら問題ない。
しかもソータはすぐ横にいる。
(……これなら。)
心臓が速くなる。
自分で何をしようとしているのか理解しているから、余計に緊張した。
「ソータ様。」
「何?」
ソータが振り向く。
リシェラはその瞬間、石畳の段差へわざと足先を引っかけた。
「あっ。」
身体が前へ傾く。
計算通り、ソータがすぐに手を伸ばした。
「危ない!」
腰へ腕が回り、身体が支えられる。
(来た。)
顔が近い。
かなり近い。
リシェラはソータを見上げた。
後は少しだけ、自分から顔を上げればいい。
(今なら。)
そう思った瞬間だった。
「大丈夫?」
ソータがリシェラの身体を横へずらし、安全な場所へ立たせようとする。
「あ。」
その動きで、リシェラの額が道端の木柱へ軽く当たった。
「痛っ!」
「姫様!」
ソータが慌てる。
「ごめん! 大丈夫?」
「……。」
リシェラは額を押さえた。
痛みは大したことがない。
それよりも。
(失敗した。)
どうしようもなく恥ずかしい。
「赤くなってる?」
ソータが顔を覗き込む。
「大丈夫です。」
「本当に?」
「大丈夫です。」
「でも。」
「大丈夫です!」
少し強い声になった。
ソータが困ったように目を瞬く。
「怒った?」
「怒っていません。」
「ならいいけど。」
「……ソータ様。」
「何?」
「今、どうして横へ避けたのです?」
「そのままだと俺にぶつかると思ったから。」
「……。」
まさに、そのためだった。
けれど、そんなことを言えるはずがない。
「そうですか。」
「何かまずかった?」
「別に。」
リシェラの声が少し冷たくなる。
「姫様、やっぱり怒ってるでしょう。」
「怒っていません。」
「絶対怒ってる。」
「怒っていません!」
ソータには、本当に理由が分からない。
リシェラ自身も、自分がソータへ怒るのは筋違いだと分かっていた。
勝手に転ぶふりをして、勝手に期待して、勝手に失敗しただけだ。
(私が馬鹿なだけじゃない。)
そう考えると、さらに恥ずかしくなる。
「……ごめんなさい。」
「何で姫様が謝るの?」
「気にしないでください。」
「それも最近多いな。」
リシェラは顔を伏せたまま歩き出した。
さすがにもう二度とやらない。
そう決めた。
少なくとも。
その時は。
(でも、次ならもっと自然に。)
数歩もしないうちに別の方法を考え始めている自分に気づき、リシェラはますます情けなくなった。
(何を研究してるの、私。)
どうやら恋というものは、剣術の訓練よりずっと難しいらしい。
◆◇◆
午後、王城東庭へ戻ったリシェラの額には、小さな冷却布が貼られていた。
それを見つけたエルシアが、すぐに眉を寄せる。
「リシェラ。その額はどうしたのです?」
「事故です。」
「何の?」
「西区で転びました。」
「またですか?」
「王都の道が悪いのです。」
エルシアは妹をじっと見た。
「昨日も転びかけていましたね。」
「王城も壊れていますから。」
「今日は西区でしょう?」
「王都全体が壊れています。」
「随分と都合の良い説明ですね。」
「本当に事故です。」
そこまで言ってから。
リシェラは心の中で少しだけ罪悪感を覚えた。
(半分くらいは事故じゃないけど。)
エルシアは何かを疑っているようだったが、決定的なものは掴めていない。
「ソータ殿と一緒でした?」
「……。」
返事が一瞬遅れた。
エルシアの目が細くなる。
「リシェラ。」
「何です?」
「あなた、最近少し変ですよ。」
「姉様に言われたくありません。」
「わたくしのどこが変なのです?」
「ソータ様を見る時間が増えています。」
「……。」
今度はエルシアが黙った。
リシェラは反撃に成功したことに気づき、少しだけ目を細める。
「姉様?」
「王都復旧を見ているだけです。」
「ソータ様の顔に王都復旧の進捗が書いてあるのですか?」
「リシェラ。」
「はい。」
「言葉。」
「そこですか?」
二人が小声で言い合っているところへ、ソータが戻ってきた。
「三番通り、梁入れてきました。」
文官がすぐに記録へ書き込む。
「明日は屋根の修復へ入れるそうです。」
「分かりました。」
ソータは報告を終えてから、リシェラの額へ気づいた。
「あ。まだ痛い?」
「……。」
「姫様?」
「大丈夫です。」
「本当に?」
「本当です。」
「よかった。」
ソータが安心したように笑った。
その笑顔を見た途端。
さっきまで少し冷たくしようと思っていたリシェラの気持ちが簡単に揺らぐ。
(ずるい。)
何がずるいのか、自分でも分からない。
隣では、エルシアもソータを見ていた。
今日は朝から、彼が職人や文官と話している姿を何度も見ている。
ソータは単に物を運んでいるわけではない。
何がどこにあるのか。
どこで必要になるのか。
誰が運ぶのか。
道が通れなくなったら、どこを代わりに使うのか。
王都全体の流れを考え始めている。
もし、こういう人物がこの国へ長く残れば。
地方の救援体制も変えられる。
備蓄の仕組みも変えられる。
飢饉が起きた時の物資輸送も、今よりずっと早くなるだろう。
(王国にとって、非常に有用な方です。)
そこまでは、間違いなく政治的な判断だった。
問題は、その先だった。
(なら、王家へ迎える方法を考えるのは合理的です。)
昨日から。
何度か同じ理屈を自分へ言い聞かせている。
しかし、王家へ迎えるだけなら、官職を与える方法もある。
爵位を与えることもできる。
商会との正式な契約を結ぶ方法もある。
それなのに。
最初に頭へ浮かんだのは。
(……婿。)
その言葉だった。
エルシアはソータから視線を外した。
(なぜ、わたくしの婿なのです…?)
王国に必要だから。
そう考えるには。
少しだけ無理がある。
「姉様。」
「何です?」
「今度は姉様の顔が赤いです。」
「赤くありません。」
「少し赤いですよ。」
「暑いだけです。」
「今日は涼しいです。」
「リシェラ。」
「はい。」
「あなた、今日は随分よく喋りますね。」
「姉様が分かりやすいからです。」
エルシアは少し不満そうに妹を見る。
その様子を、王城の回廊から眺めている者がいた。
王妃だった。
手元には復旧の報告書がある。
けれど、先ほどから視線は何度も娘たちへ向いている。
額に冷却布を貼りながら、ソータの一言で表情が変わるリシェラ。
平静を装いながら、ソータの話になると妙に言葉を選ぶようになったエルシア。
母親である王妃から見れば、二人ともかなり分かりやすかった。
(リシェラは、もうほとんど認めているようなものですね。)
問題はエルシアだ。
自分の感情を、そのまま感情として受け入れるのが苦手なのだろう。
王女として役に立つ人物だから。
国のためだから。
制度上必要だから。
そうやって一つずつ理由を付けている。
(あの子らしいですね。)
王妃は少しだけ口元を緩めた。
そこへエルシアが気づく。
「母上。」
「何です?」
「今、笑いましたね。」
「笑っていませんよ。」
「その言い方は、リシェラと同じです。」
「では、少しだけ。」
「やはり笑っていたのではありませんか。」
王妃は楽しそうに報告書を閉じた。
「王都が少しずつ戻っていることが嬉しいのですよ。」
「それだけですか?」
「それだけではないかもしれませんね。」
「母上。」
「何です?」
「何を見ているのです?」
「王都復旧です。」
リシェラが吹き出した。
エルシアは額へ手を当てる。
「母上まで。」
「何かおかしなことを言いました?」
「いえ。」
王妃は再び東庭へ目を向けた。
そこではソータが、また大工と何か相談している。
明日からは西区だけでなく、王城と各地区の中間へ小さな資材置き場を作る話も始まるらしい。
王都は少しずつ元の姿へ戻ろうとしている。
その一方で二人の娘の心もまた、以前とは違う方向へ動き始めていた。
リシェラは、自分でも持て余す感情に振り回されながら、それでもソータへ近づこうとしている。
エルシアは、まだ自分の気持ちを政治的な理屈の中へ隠そうとしているものの、ソータがこの国からいなくなることを考えるだけで、以前にはなかった寂しさを感じ始めている。
王妃には、その違いもよく見えていた。
(さて、どちらが先に自分の気持ちを認めるのでしょうね。)
娘たちへ口を出すつもりは、今のところなかった。
ただし、しばらく退屈することもなさそうだった。




