第165話:王都は、少しずつ自分で回り始める
ルシアを見送った翌朝、王城東庭には昨日までとは少し違う空気が流れていた。
負傷者はまだ多く、王都のあちこちには崩れた建物が残っている。
反乱の痕跡も完全には消えていない。
それでも、人々の動きには明らかな秩序が生まれ始めていた。
東庭の中央には、行き先ごとに分けられた荷物が整然と並べられている。
北門へ向かう物資には白、西区には緑、南区には黄色の布が結ばれ、治療に使う物資には赤い印が付けられていた。
昨日までは届いた荷をとにかく空いている場所へ積んでいたが、今日は荷を受け取った者が行き先を確認し、担当者が荷車へ積み、空いた場所へ次の荷が運び込まれる。
荷車が戻ってくれば、今度は現地から情報が戻ってくる。
何が不足しているのか。
怪我人は増えているのか。
道は通れるのか。
井戸は使えるのか。
それらの情報を文官が記録し、次の便へ反映していく。
ソータは東庭の端から、その流れを眺めていた。
(昨日より、俺が動いてないな。)
それは悪いことではなかった。
むしろ、ソータが作りたかった状態に近い。
自分一人が荷物を抱えて王都中を走り回るのではなく、人に任せられる部分は任せ、流れが止まった場所だけを自分が直す。
人手が足りないなら人を増やし、道が塞がっているなら通し、行き先が分からないなら印を付ける。
原因さえ取り除けば、その後はソータがいなくても荷は動き続ける。
昨日、西区の道を通した時に感じたことと同じだった。
自分が何度も荷物を運ぶより、道そのものを使えるようにした方が長く役に立つ。
「ソータ様。」
横からリシェラの声がした。
振り向くと、彼女は小さな籠を両手で持っていた。
中には薄いパンと、肉を柔らかく煮込んで挟んだものが二つ入っている。
「朝食、まだでしょう?」
「あとで食べる。」
「昨日も同じことを言っていました。」
リシェラは少し呆れたように東庭を見る。
「今は止まっていません。あなたが昨日決めた通りに、ちゃんと荷車も動いています。」
言われて改めて見ると、確かにソータへ助けを求める声は上がっていない。
文官も兵士も、それぞれが自分の仕事を理解して動いている。
「……分かった。食べる。」
「最初からそうしてください。」
リシェラは東庭の端にある石段へ腰を下ろした。
ソータも隣へ座り、パンを一つ受け取る。
まだ少し温かい。
「これ、姫様が持ってきたの?」
「厨房からです。」
「わざわざ?」
「あなたが食べないと思ったので。」
「そんなに分かりやすい?」
「見ていれば分かります。」
リシェラはそう答えた直後、少しだけ顔を横へ向けた。
(見ていれば、というより……ずっと見ているからだけど。)
自分で考えた途端、頬が少し熱くなる。
昨日から、どうしてもルシアとソータが口づけを交わしていた光景が頭から離れなかった。
忘れようとすると、かえって思い出す。
ルシアがソータを抱きしめ、顔を近づけ、自然に唇を重ねていた。
それだけなら、まだ見なかったことにできたかもしれない。
けれど二人は一度で終わらなかった。
(もう一回って、普通に言ってた。)
思い出しただけで、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
自分なら、あんなふうに素直に求めることなどできない。
少なくとも今は無理だ。
「姫様?」
「はい?」
「食べないの?」
ソータに言われ、リシェラは慌てて自分のパンを手に取った。
「食べます。」
二人で黙って朝食を取る。
王都へ来てから、周囲には常に誰かの声があった。
兵士の怒鳴り声。
負傷者の呻き声。
物資を求める声。
それに比べれば、こうして隣に座って静かに食事をする時間は珍しい。
リシェラは、その静けさが思った以上に心地よいと感じていた。
ただ、心の中まで静かだったわけではない。
「ソータ様。」
「何?」
「ルシア様とは、ずいぶん仲が良いのですね。」
ソータの手が少し止まった。
「ルシアと?」
「はい。」
「まあ、大事な人ではあるよ。」
その言葉を聞いた瞬間、リシェラの胸の奥が少しだけ痛んだ。
分かっていたことだ。
あれだけ親しくしていれば、特別な相手なのだろうとは思っていた。
それでも、本人の口から聞くと違った。
「そうですか。」
返事が少し冷たくなる。
ソータはすぐに気づいた。
「姫様、怒ってる?」
「怒っていません。」
「じゃあ機嫌悪い?」
「悪くありません。」
「でも、さっきより声が冷たい。」
「気のせいです。」
リシェラはパンを一口齧りながら顔を背けた。
(これ、嫉妬なのかな。)
その言葉が思い浮かぶ。
否定しようとしたが、できなかった。
ルシアがソータに抱きつくのを見た時、嫌だった。
キスをした時は、もっと嫌だった。
そして今、大事な人だと聞いて胸が痛んだ。
それが嫉妬でないなら、他に何と呼べばいいのか分からない。
リシェラは自分の感情を認めかけて、ますます困った顔になった。
◆◇◆
王都中央部にある教会支部では、ヨーダの直属神官たちによって臨時治療施設の整備が進められていた。
建物そのものを直す余裕はまだない。
今必要なのは宗教施設としての荘厳さではなく、負傷者を安全に寝かせ、治療を続けられる場所だった。
南側の修道室は重傷者用として使われ、隣の部屋には軽傷者が集められている。
食堂は家族の待機場所へ変わり、中庭には傷を洗うための水桶が並べられた。
物置には薬草と包帯が積まれ、誰が見てもすぐ分かるよう簡単な札が付けられている。
ヨーダは廊下の中央に立ち、次々と届く報告を聞きながら指示を出していた。
「南の部屋へ重傷者を三名追加します。」
「寝台は足りますか?」
「一つ足りません。」
「床へ厚手の毛布を敷きなされ。頭の下には畳んだ布を入れるように。」
「はい。」
「痛み止めの薬草は?」
「残りが少なくなっています。」
「王城の金札便へ連絡を。量だけでなく種類も正確に伝えるのですぞ。」
部下が走っていったところで、ヨーダは壁へ片手をついた。
本人は隠しているつもりだったが、疲れているのは誰が見ても明らかだった。
王都へ到着してから、まともに眠った時間も短い。
治療だけでなく、教会側の裏切り者についての対応まで考えなければならない。
「大神官様。」
若い神官が皿を持って近づいてきた。
「何です?」
「朝食です。」
「後にしなさい。」
「先ほども同じことをおっしゃいました。」
「私は忙しいのです。」
「承知しています。ですから、ここへ持ってきました。」
皿の上にはパンと薄いスープが置かれている。
ヨーダはしばらく皿と部下を交互に見た。
「あなた、私の直属でしたな。」
「はい。」
「大神官の命令を聞く気は?」
「ございます。ただし、食事を抜いて倒れろという命令には従えません。」
近くにいた別の神官が、笑いそうになって慌てて顔を背けた。
「最近の若者は、妙なところだけ強くなりますな。」
「何かおっしゃいましたか?」
「何でもありません。」
ヨーダは諦めてパンを受け取った。
食事をしながらも、視線は治療室へ向いている。
そこには王国兵と反乱兵が並んで寝かされていた。
その扱いについては、すでに一部から不満が出ている。
「大神官様。」
先ほどとは別の神官が声をかける。
「王国兵の一部から、反乱兵と同じ場所で治療することへの不満が出ています。」
ヨーダはパンを持ったまま、少しだけ表情を引き締めた。
「治療中は敵も味方もありません。」
「はい。」
「傷を治すことと、罪を裁くことは別です。助かる命をわざと捨ててから正義を語っても、何の意味もありません。」
「承知しました。」
神官が一礼して離れる。
ヨーダは治療室の奥を見つめた。
反乱に加担した者の中には、教会の人間もいる。
今は治療する。
そこに迷いはなかった。
しかし、傷が治った後まで許すつもりはない。
(教会の名を利用して民を煽り、私腹を肥やし、その果てに武器まで取った者を、信仰を理由に軽く扱うつもりはありませんぞ。)
聖職者は、民から信頼を預かる立場だ。
その信頼を利用した者ほど責任は重い。
王がどのような判断を下すにしても、教会側の処分については自分の意志を曲げるつもりはなかった。
「大神官様。」
「今度は何です?」
「スープが冷めます。」
「……。」
結局。
最後まで食べさせられた。
◆◇◆
同じ頃、王城南棟では反乱関係者の審問が続いていた。
謁見の間は損傷が激しく使えないため、比較的被害の少ない大広間が臨時の審問室として使われている。
王はそこで、反乱側として拘束された者たちの証言を一人ずつ確認していた。
全員を同じ罪で裁くつもりはなかった。
命令されるまま門を守った者。
反乱へ参加しながら、戦闘の途中で民間人を逃がした者。
混乱に乗じて店を襲った者。
明確な意思を持って市民へ剣を向けた者。
同じ旗の下にいたからといって、したことまで同じではない。
王は行動と証言を一つずつ確認させ、悪質な者と、情状を考慮すべき者を分けていた。
その机の端には、反乱者の名簿とは別に、一束の書類が積まれている。
グラードに関する報告だった。
地方の食料不足。
領主による過剰な徴税。
教会支部の一部と商人が結びつき、救援物資を横流ししていた疑い。
さらに、地方から王都へ出された救援要請のいくつかが途中で握り潰されていた記録まで見つかっている。
王は一通の古い陳情書を読みながら、長く沈黙していた。
「これは、本当に余のところへ届いておらぬのか?」
「はい。」
側近が答える。
「当時、地方行政局で証拠不足として却下されています。」
「証拠不足か。」
王は低い声で繰り返した。
紙には、北西部で村を捨てる者が増えていること、冬を越すだけの食料がないこと、役人へ訴えても相手にされなかったことが書かれている。
筆跡はグラード自身のものだった。
反乱を起こしたことまで正当化するつもりはない。
王城を攻め、民を危険に晒し、武力で国を変えようとした罪は残る。
それでも。
彼がなぜそこまで追い詰められたのか。
何を見て。
どれだけ訴えて。
その声を誰が潰したのか。
そこまで確かめなければ、この反乱を本当に終わらせたことにはならない。
「グラードはまだ逃走中か?」
「はい。」
「見つけ次第、生きたまま連れてこい。」
側近が少し驚く。
「討伐ではなく?」
「罪は裁く。しかし、その前に余が話を聞く。」
王は陳情書を机へ置いた。
「余は知らなかった。それは事実だ。」
「だが、王である以上、知らなかったでは済まぬ。」
側近は何も言わず頭を下げた。
王自身も、それ以上の言葉を続けなかった。
自分へ届かなかった報告も含め、国で起きたことの責任をどこまで背負うべきなのか。
その答えはまだ出ていない。
ただ、少なくともグラードを単なる反逆者として処刑し、それですべて終わったことにする気はなくなっていた。
◆◇◆
昼を過ぎる頃には、東庭の物流は朝よりさらに安定していた。
戻ってきた御者の報告を文官がまとめ、次の便に積む物資の種類を変える。
北門では水が足りているが、避難民が増えたため食料が不足している。
西区では毛布が足りている一方で、建材が不足している。
教会支部では負傷者が増え、薬草の消費が予想以上に早い。
ソータは報告書を見ながら、教会支部へ向かう荷物の印を赤から別の色へ変えることにした。
治療所用と教会支部用が同じ赤では、受け渡しの際に混乱する可能性があるからだ。
「教会支部だけ金色にしよう。」
近くにいた文官が頷き、布を準備し始める。
その横で、リシェラが少しだけ不満そうな顔をした。
「紫では駄目ですか?」
「何で紫?」
「……何となくです。」
言った本人がすぐに目を逸らす。
紫色を見ると、どうしてもルシアを思い出す。
だから何となく使いたくない。
そんな理由を説明できるはずもなかった。
「金でいいです。」
「姫様、また機嫌悪い?」
「悪くありません。」
「朝もそれ言ってた。」
「今日はそういう日です。」
「どういう日?」
「聞かないでください。」
ソータは首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
その時、東庭へ強い風が吹き込んだ。
積まれていた紙が舞い上がり、近くに立て掛けてあった薄い板が倒れかける。
ソータは反射的にリシェラの肩へ手を回し、自分の方へ引き寄せた。
「危ない。」
板は二人のすぐ横へ倒れた。
「大丈夫?」
「……はい。」
リシェラの返事が少し遅れた。
ソータの腕がまだ肩へ回っている。
身体の距離も近い。
しかも、昨日より体力が戻ったせいなのか、ソータの雰囲気が少し変わっていた。
声には以前より力があり、姿勢も自然と真っ直ぐになっている。
リシェラには知る由もないが、《男気》がまた少しだけ強くなっていた。
(……昨日より、格好よく見える。)
そう思った瞬間、自分で慌てる。
(何を考えてるの、私。)
「怪我してない?」
「してません。」
「ならよかった。」
ソータはそう言って、自然に腕を離した。
リシェラは少しだけ物足りなさを覚えた。
(もう少し、そのままでもよかったのに。)
そんな考えが浮かび、今度こそ自分の顔が熱くなる。
そして同時に、昨日から何度も頭の中へ戻ってくる考えがあった。
ルシアとソータのキスを見てから、自分も一度くらい同じことをしてみたいという気持ちが消えない。
自分から頼むのは恥ずかしい。
だったら偶然ならどうだろうと、そんな妙な考えまで浮かぶようになっていた。
(事故なら、仕方ない……ということにできる?)
以前、一度それを狙って失敗している。
だから今度こそ、と考えかけたところで、リシェラは自分が何を真剣に考えているのかに気づき、ますます恥ずかしくなった。
そんな時だった。
すぐ横を通った荷車の車輪が石畳の段差へ乗り上げ、荷台が大きく揺れた。
リシェラが避けようと一歩下がったところで、足元に落ちていた細い縄へ靴が引っかかる。
「あっ。」
今度は本当に身体が傾いた。
ソータがすぐに腕を伸ばし、腰を支える。
「危ない!」
「……。」
思いがけず、顔が近づいた。
リシェラの心臓が一気に速くなる。
(今なら。)
ほんの少し顔を上げれば、唇が届くかもしれない。
事故だ。
今度は本当に事故だった。
だから。
リシェラは、わずかに顔を上げようとした。
「足、ひねってない?」
しかしソータはすぐに身体を支え直し、リシェラをきちんと立たせた。
「……はい。」
「痛くない?」
「大丈夫です。」
「本当に?」
「大丈夫です!」
少しだけ声が強くなる。
ソータが驚いたように目を瞬いた。
「怒った?」
「怒ってません。」
「でも。」
「ソータ様が悪いです。」
「何が?」
「分からないところです。」
「……。」
ソータには本当に分からなかった。
リシェラは顔を赤くしたまま先へ歩き出した。
(駄目。)
(もっと自然じゃないと。)
そこまで考えてから、自分で思わず眉を寄せる。
(何で私、事故の自然さを研究してるの。)
恋をすると人は少し馬鹿になるのかもしれない。
少なくとも今の自分については、かなり否定しづらかった。
◆◇◆
その一部始終を、王城二階の回廊から眺めていた者がいた。
王妃とエルシアである。
エルシアは東庭を見下ろしながら、少しだけ眉を寄せた。
「リシェラは最近、本当によく転びますね。」
「そうですね。」
王妃の声には、明らかに楽しげな響きがある。
「王城の床が悪いのでしょうか。」
「今のは東庭です。」
「では、石畳が悪いのかもしれません。」
「母上。」
「何です?」
「楽しんでいますね。」
「少し。」
王妃は否定しなかった。
エルシアは妹から視線を外し、今度はソータを見る。
最初に出会った時から、何度も見てきた男だった。
けれど、ここ数日は少し印象が変わっている。
王女を前にすれば多少戸惑い、運送屋だと名乗る時にも、相手がどう受け取るのかを気にしていた。
それが今では、兵士にも文官にも職人にも、自分が必要だと思ったことを迷わず伝えている。
王族に対してさえ、必要なら意見を言う。
能力だけではない。
本人自身が少しずつ、自分の役割に自信を持ち始めているように見えた。
(変わったのでしょうか。)
あるいは。
(わたくしの見方が変わっただけ?)
どちらなのかは分からない。
ただ、先ほどリシェラがソータに抱き止められた瞬間、胸の奥が少しざわついたのだけは事実だった。
妹が軽率だから心配した。
そう考えようとしたが、それだけでは説明がつかない。
「どうしました?」
王妃が横から聞く。
「何がです?」
「随分真剣にソータ様をご覧になっていますね。」
「王都の復旧を見ています。」
「そうですか。」
王妃は楽しそうに微笑んだ。
「母上、その顔は何です。」
「何でもありません。」
「絶対に何か考えていますね。」
「では一つだけ。」
王妃は東庭へ目を向けたまま言った。
「あの方が、この国へ長くいてくださったら、王都だけでなく地方も随分変わるでしょうね。」
エルシアの表情が少し変わる。
確かにそうだった。
物流。
災害対応。
地方への救援。
備蓄の管理。
ソータの能力だけではない。
物資の流れそのものを見る考え方が、この国にはほとんどなかった。
「……そうですね。」
エルシアは静かに答えた。
だが。
王妃の言った「長くいてくださったら」という言葉だけが、妙に胸へ残った。
ソータには帰る場所がある。
この王都へ来たのも、そもそもアルベールやヨーダに同行した結果に過ぎない。
王都が落ち着けば、いずれ戻るだろう。
それを考えた瞬間。
エルシアは、自分でも予想しなかった寂しさを感じた。
「母上。」
「何です?」
「外国出身者を王家へ迎えた前例はありますか?」
王妃がゆっくり娘の方を向いた。
言ったエルシア自身も、その質問が唐突だったことには気づいている。
「制度上の確認です。」
「まだ何も言っていませんよ。」
「王国にとって有用な人物を長く留める場合、どのような方法があるのか気になっただけです。」
少し早口になった。
王妃の口元が緩む。
「なるほど。」
「何です?」
「いいえ。」
「笑っていますね。」
「少しだけ。」
また素直に認める。
エルシアは小さく息を吐き、もう一度東庭を見下ろした。
ソータは何も知らず、戻ってきた荷車の報告を聞いている。
その周囲では、彼が昨日作った仕組みに沿って人が動き、王都へ必要な物が少しずつ運ばれていく。
もし本当にこの男をこの国へ残したいと思ったなら…王家へ迎える。
そんな方法があるのかもしれない。
まだ、それ以上は考えないことにした。
政治的に必要な人物だから気になっているのか。
それとも、もっと個人的な理由が混じり始めているのか。
エルシア自身にも、まだ答えは分からなかった。




