第164話:帰る場所があるなら、ちゃんと戻れ
西区へ向かう道は、王城を離れるにつれて少しずつ傷みが大きくなっていた。
城の周辺では兵士や住民たちによって瓦礫が道端へ寄せられ、荷車がどうにか通れる幅が確保されていたが、三つ目の大通りを曲がったところで、その流れは完全に途切れていた。
通り沿いに建っていた三階建ての商館が道路側へ崩れ、外壁と梁が折り重なるように道を塞いでいた。
人一人なら瓦礫の隙間を抜けられそうだったが、荷車を通すには狭すぎる。
しかも、建物の上部にはまだ崩れかけた壁が残っており、下手に支えを失わせれば、残った部分まで通りへ落ちてくる危険があった。
ソータは瓦礫の前で足を止め、すぐには《神速積載庫》を使わなかった。
これまでなら、道を塞ぐ物をまとめて収納してしまえば早いと考えたかもしれない。
しかし、王城で壁や柱を扱った経験から、見えている瓦礫だけを消せば安全になるとは限らないことを知っている。
(荷車が通れればいい。全部きれいにする必要はない。)
ソータは道路の幅と、残っている壁の角度を交互に見た。
少し遅れて、上空からルシアが戻ってくる。
大きな紫の翼を折り畳みながら着地した彼女は、崩れた商館を一度振り返った。
「奥の柱が割れてる。道路側の石だけなら大丈夫そうだけど、あっちは触らない方がいい。」
「分かった。じゃあ、荷車一台分だけ空ける。」
リシェラは少し離れた場所で、そのやり取りを黙って見ていた。
最初にソータの能力を見た時は、巨大な荷物を消したり、突然必要な物を取り出したりする、とても便利な力だと思った。
けれど、この数日で少し印象が変わっている。
ソータは、何でも消せるからこそ、何を消さないかを考える。
何でも運べるからこそ、どこまで自分が運ぶべきなのかを考える。
力の大きさよりも、その使い方の方に、彼らしさが出ている気がした。
ソータは道路中央に倒れ込んでいる石材から順番に収納していった。
大きな石を一つ消すたび、その下に埋もれていた木材や割れた家具が姿を現す。
その都度、残った壁が動いていないかを確かめ、危険がある場所には手を出さない。
作業そのものは地味だった。
轟音もなければ、派手な魔法の光もない。
それでも少しずつ、瓦礫の中に道らしい形が生まれていく。
途中で、リシェラが焼け焦げた木札を一枚拾った。
表面にはほとんど煤しか残っていなかったが、端の方に商店名らしい文字が見える。
「ここ、染料を扱っていた商館みたいです。」
「知ってる店?」
「王城にも布を納めていたと思います。私は直接来たことはありませんが、名前は聞いたことがあります。」
リシェラは指先で木札の煤を払った。
王都の人間にとって、この瓦礫は単なる障害物ではない。
誰かが使っていた家具であり、商売道具であり、暮らしていた場所の一部だった。
ソータも、その木札を見て少しだけ手を止めた。
(俺には荷物に見えても、持ち主には違うんだよな。)
だからといって、道を塞いだままにしておくわけにもいかない。
使える木材は建材へ回し、燃料にできる物は薪として分け、持ち主が分かりそうな物には記録を残す。
全部を元通りに戻すことはできなくても、残せる物を残しながら次へ繋ぐことはできる。
しばらくして、荷車が一台通れる程度の幅が確保された。
道の両側にはまだ大量の瓦礫が残っているが、通行には支障がない。
危険な壁の下には縄を張り、近づかないよう近衛兵に見張りを頼んだ。
試しに空の荷車を一台通してみると、車輪が少し石へ乗り上げただけで、問題なく反対側まで抜けていった。
それを見ていた住民たちから、小さな歓声が上がる。
ソータはその声を聞きながら、ようやく肩の力を抜いた。
(これで西区まで届く。)
王城の壁を吹き飛ばした時のような派手さはない。
英雄と呼ばれるような仕事でもない。
それでもソータには、こちらの方がずっと自分の仕事らしく思えた。
道が一本通れば、食料が届く。
毛布が届く。
薬も包帯も届く。
自分がそこへ行かなくても、荷車が何度でも往復できるようになる。
それで十分だった。
◆◇◆
王城東庭へ戻る頃には、空が橙色に染まり始めていた。
西区行きとして用意されていた緑色の布を付けた荷車は、すでに順番に門を出ていっている。
食料、毛布、包帯、簡単な建材。
さっきまで道が塞がっていたため動かせなかった荷が、今は少しずつ西へ流れ始めていた。
ソータは最後の荷車を見送ってから、東庭の端にある低い石段へ腰を下ろした。
身体はかなり動くようになっているが、《車体爆裂突進》の反動は完全には抜けていない。
胸の奥には鈍い疲労が残り、身体を休ませろと言ったヨーダの言葉が今さらながら正しかったのだと分かる。
リシェラも少し離れたところへ腰を下ろした。
王女が埃の残る石段へ座るなど、普段なら侍女たちが止めただろう。
けれど、王都そのものがこんな状態では、誰もそんなことを気にしていない。
彼女は黙ったままソータの横顔を見た。
西区まで歩き、瓦礫をどかし、戻ってからも荷車の出発を見届ける。
戦いはもうほとんど終わっているのに、ソータは休むことなく誰かのために動き続けている。
(本当に休まない人。)
心配になる。
同時に、少しだけ腹も立つ。
倒れていた時もそうだった。
自分の身体より、王や王妃を助けたことを先に気にしていた。
東翼では負傷者のために物資を出し、井戸では自分が水を出し続けるのではなく、人々が自分で水を汲めるようにした。
おそらく、誰に対しても同じなのだろう。
目の前に困っている人がいれば、自分にできることをする。
それは嬉しい。
けれど、自分だけが特別なのだと思おうとすると、少し不安になる。
そんなことを考えていたリシェラは、不意に預かっていた物を思い出した。
「ソータ様。そういえば、アルベール様から手紙を預かっていました。」
「俺に?」
リシェラが懐から取り出した封書は、急いで用意したものらしく簡素だった。
封蝋も最低限で、外から見ても正式な報告書ではなく私信だと分かる。
「いつ来たの?」
「あなたが西区へ向かう少し前です。大神官様のところへ届けられたそうです。」
ソータは封を切り、中の紙を広げた。
文字はアルベールらしく端正だったが、内容は短い。
彼自身は先にミレイユのところへ戻り、王都で起きたことを報告する。
ソータが無事であることも伝えるが、《車体爆裂突進》を使って倒れた件についても隠さず話すつもりだと書かれていた。
そこまで読んだところで、ソータの顔が少し引きつった。
(終わった。)
ミレイユの顔が、恐ろしく鮮明に浮かぶ。
怒る。
間違いなく怒る。
王都へ来る前にも、無茶をするなと釘を刺されている。
それなのに、王城で大技を使って倒れた。
事情がどうであれ、説教を避けられる可能性は低い。
(絶対に怒られる。)
さらに続きを読むと、最後にルシアへの伝言があった。
可能であれば速やかに夜の城へ戻ってほしい。
何も知らされないまま残された者たちが心配しているだろう。
特にミレイユとオルドアイは、かなり機嫌を悪くしている可能性がある。
ソータは手紙を読み終え、ゆっくり顔を上げた。
少し離れた塀の上では、ルシアが足を揺らしながら空を眺めている。
「ルシア。」
「何?」
「アルベール、先に戻ったって。」
紫色の瞳がこちらを向く。
「どこに?」
「ミレイユたちのところ。」
その名前を聞いた瞬間、ルシアの表情がわずかに固まった。
「それと、ルシアもできれば戻った方がいいって。」
返事はすぐには来なかった。
ルシアは夜の城から誰にも告げず飛び出した。
遠くに見えた炎が気になり、考えるより先に身体が動いたのだろう。
結果としてアルベールを助け、王都の状況確認にも大きく役立った。
けれど、残された人々へ何も伝えずに出てきた事実まで消えるわけではない。
「怒ってるかな。」
しばらくして、ルシアが小さく聞いた。
「たぶん。」
「ミレイユも?」
「かなり。」
「オルドアイも?」
「かなり。」
「チャールズは?」
「怒るより心配してると思う。」
ルシアの翼がわずかに下がった。
「帰りたくない。」
その声は、普段の気まぐれな我が儘とは少し違っていた。
「ソータのところにいたい。」
ソータは手紙を折り直しながら、ルシアを見た。
「それは嬉しいけど、帰った方がいい。」
「どうして?」
「待ってる人がいるから。」
ルシアは黙った。
今までの彼女なら、気になる場所があれば誰にも断らず飛んでいき、退屈すればその場を離れていた。
行き先を説明する必要も、戻る時間を気にする必要も、ほとんど感じていなかったはずだ。
けれど今は、夜の城へ帰るというだけのことに迷っている。
ミレイユやオルドアイに叱られるのが嫌なのもあるだろうが、それ以上に、自分を心配して待っている者たちの顔を思い浮かべているからこそ簡単には動けないのだろう。
以前のルシアにはなかった迷いだった。
そして、その迷いそのものが、彼女の中で人との繋がりが増えた証拠なのかもしれない。
「帰る場所があるなら、ちゃんと戻った方がいいよ。」
ソータがそう言うと、ルシアは少しだけ眉を下げた。
「ソータも帰る?」
「俺はまだ王都でやることがある。」
「じゃあ嫌。」
「ルシア。」
「私だけ帰るの嫌。」
ソータは少し困ったように笑った。
「俺もあとで戻るから。」
「本当?」
「夜の城にも、まだ運ぶ物あるし。」
ルシアがじっとソータを見る。
「それだけ?」
その聞き方に、ソータは一瞬言葉に詰まった。
「……それだけじゃないよ。」
「じゃあ何?」
「みんなにも会いたいし。」
「私にも?」
すぐに聞き返される。
「会いたい。」
ルシアの顔が少しだけ明るくなった。
「じゃあ帰る。」
「急に素直。」
「ソータが来るなら帰る。」
「そこは自分で帰ってくれ。」
少しだけ。
いつものルシアらしい空気が戻った。
◆◇◆
夕食前になっても、ルシアはなかなか飛び立とうとしなかった。
王城の倉庫脇は人通りが少なく、崩れた壁の向こうには夕暮れの空が広がっている。
飛ぶための準備など、本来ルシアには必要ない。
荷物も持っていないし、翼を広げればすぐに夜の城へ向かえる。
それでも彼女は何度も空を見上げ、そのたびに視線をソータへ戻していた。
「そろそろ行った方がいいんじゃない?」
「夜の方が飛びやすい。」
「それ言って待ってたら、ずっと帰らないでしょう。」
「少しくらい。」
ルシアはそう答えながらも、飛ぶ気配を見せなかった。
ソータには、彼女が単純に怒られるのを怖がっているだけではないことが分かっていた。
離れたくないのだろう。
その気持ちが分かるからこそ、無理に急かすのも少し違う気がした。
「ソータ。」
「何?」
「私が帰ったら、また来る?」
「行くよ。」
「いつ?」
「王都がもう少し落ち着いたら。」
「絶対?」
「絶対。」
ルシアは少し考えた後、さらに聞いた。
「来た時、私に会いたい?」
「会いたいってさっき言っただろう。」
「もう一回聞きたかった。」
「何で。」
「嬉しいから。」
あまりにも素直な答えだった。
その瞬間、ソータの胸の奥に、じわりと熱が広がった。
(……また来た。)
《男気》。
身体は疲れているはずなのに、ここ数日は以前より発動しやすくなっている。
力が湧くというより、気持ちに迷いがなくなる感覚に近い。
以前なら、ルシアとの距離が近づくたびに理由を探していた。
吸血鬼だから人間との距離感が違うのかもしれない。
まだ相手との関わり方を知らないだけかもしれない。
そんなふうに考えて、自分の気持ちを後ろへ置こうとしていた。
けれど今は、そうやって逃げる方が不自然に思えた。
「俺が行った時、また迎えてくれる?」
ソータが聞くと、ルシアはすぐに頷いた。
「迎える。」
「じゃあ、それ楽しみにしてる。」
「本当に?」
「うん。」
ルシアの表情が柔らかくなった。
「一番最初に行く。」
「チャールズが先に来そうだけど。」
「私が飛んでいけば勝てる。」
「競争なんだ。」
「大事。」
ルシアが少し笑った。
その笑顔を見た直後、彼女がソータの後ろへ回った。
「どうした?」
返事の代わりに、背中へ細い腕が回る。
後ろから抱きしめられた。
紫の翼まで二人を包むように少し閉じられ、周囲の気配が遠くなったように感じる。
「少しだけ。」
ルシアの声が背中越しに聞こえた。
ソータは動かなかった。
細い腕の力は強くない。
それでも、離れたくないという気持ちは十分に伝わってきた。
以前なら、この抱擁にも何か理由をつけようとしたかもしれない。
今は違う。
ソータはルシアの腕へ自分の手を重ねた。
「寂しい?」
「少し。」
「俺も少し寂しい。」
自然に言葉が出た。
ルシアの腕へ、ほんの少し力が入る。
「本当?」
「本当。」
しばらく二人ともそのままでいた。
倉庫の向こうでは、王都復旧のために働く人々の声がまだ聞こえている。
荷車の車輪が石畳を擦る音もする。
それでも、この場所だけは少し静かだった。
やがてルシアが腕を解き、ソータの前へ回る。
紫色の瞳がいつもより近くにあった。
「帰る前に。」
そこまで言って、ルシアは口を閉じた。
以前なら相手の返事を待たず、そのまま距離を詰めていたかもしれない。
今は違う。
何を望んでいるのかは分かる。
それでも、ソータの反応を待っていた。
その変化が、ソータには少し嬉しかった。
「いいよ。」
ルシアが微笑む。
顔がゆっくり近づき、唇が触れた。
短く静かな口づけだった。
離れた後も、ルシアはすぐには距離を取らなかった。
指先でソータの服を軽く掴んだまま、近い位置から彼を見ている。
「もう一回。」
「それしたら本当に帰る?」
「帰る。」
「約束?」
「約束。」
ソータは少し笑い、今度は自分から顔を寄せた。
二度目の口づけは、最初より少し長かった。
ルシアは目を閉じ、そのまま静かに受け入れている。
唇が離れると、彼女の頬がほんの少し赤くなっていた。
「少し進んだルシア。」
「何が進んだの?」
「いろいろ。」
「そこ説明してくれないんだ。」
「説明すると恥ずかしい。」
珍しい答えに、ソータは少し驚いた。
「ルシアも恥ずかしいとかあるんだ。」
「ある。」
「そりゃそうか。」
「失礼。」
少し不満そうな顔をした後、ルシアはようやく翼を大きく広げた。
今度こそ帰るらしい。
「ミレイユにはちゃんと謝って。」
「頑張る。」
「オルドアイにも。」
「頑張る。」
「チャールズにも。」
「それはちゃんと言う。」
「何でチャールズだけ。」
「悲しそうな顔がないから、逆に怖い。」
「骨だからな。」
ルシアが笑った。
「ソータもミレイユに怒られる?」
「たぶん。」
「何て怒られる?」
「全くあの人は、って言われる気がする。」
「似てる。」
「まだ言われてないから。」
「でも言う。」
「俺もそう思う。」
二人で少し笑った。
それからルシアは地面を蹴り、夕暮れの空へ舞い上がった。
「ソータ!」
上空から声が飛んでくる。
「何?」
「来たら私が迎える!」
「分かった!」
「絶対来て!」
「行くよ!」
その返事を聞いて、ルシアは満足したように翼を大きく動かした。
紫の姿が少しずつ遠ざかり、やがて夕焼けの空へ溶けるように小さくなっていく。
ソータはしばらく、その姿を見送っていた。
(帰る場所が増えたな。)
以前なら、帰る場所と聞いて最初に思い浮かべるのは、自分が暮らしていた町や仕事場だったかもしれない。
今は違う。
ミレイユがいる。
オルドアイがいる。
夜の城にはルシアとチャールズたちがいる。
北の砦も、リーフェン村も、ノルドバル村も、もう単なる配送先ではない。
そして、今いるこの王都にも、少しずつ知っている顔が増えていた。
運ぶ場所が増えれば、それだけ仕事は増える。
けれど同時に、自分を待っている場所も増えていく。
それは大変なことかもしれない。
それでもソータは、以前ほど嫌だとは思わなくなっていた。




