第163話:運送屋は、王都の流れを作り始める
ソータが上体を起こした瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。
思わず息を止めるほどではなかったが、《車体爆裂突進》の反動がまだ身体の芯に残っているのは嫌でも分かる。
王城大広間では、戦いそのものはほぼ終わっていた。
けれど床には負傷者が並び、壁際では神官や侍女たちが慌ただしく行き来している。
割れた窓からは焦げ臭い風が吹き込み、遠くではまだ鐘の音と怒鳴り声が聞こえていた。
王を救ったからといって、王都全体が元へ戻ったわけではない。
むしろ、ここから先の方が長いのかもしれなかった。
「動いてはなりませんぞ。」
目の前へヨーダが回り込み、ソータの胸元へ手を当てた。
淡い光が掌から広がり、肋骨から肩、腹部へとゆっくり流れていく。
「骨に異常はありません。」
「ですが、筋肉と魔力の消耗がかなり激しい。」
「特に、あの巨大な何かで突進する技をもう一度使えば、今度は本当に起き上がれなくなる可能性があります。」
「巨大な何かって。」
「こちらが聞きたいくらいですぞ。」
ヨーダはため息をつきながらも診察の手を止めなかった。
その顔にも疲労が浮かんでいる。
王都へ来てから、いったい何人の負傷者を治療したのか分からない。
「今日は戦闘禁止。」
「走るのも禁止。」
「重い物を持つのも、できる限り避ける。」
「水を飲み、食事を取り、身体を休ませること。」
「それでも移動するというなら、必ず誰かを付けなされ。」
「最後だけ監視じゃないですか。」
「あなたを一人にすると、必ず無茶をするからです。」
「無茶じゃない。」
「王城の壁を突き破った直後に倒れた者が言っても説得力がありません。」
「壁は俺だけのせいじゃ。」
「ソータ様。」
横から静かな声が割って入った。
リシェラだった。
先ほどまでソータの手を握っていたせいか、まだ少し距離が近い。
青い目には、明らかに心配が残っていた。
「大神官様のおっしゃる通りです。」
「少なくとも今日は、一人で歩かせるべきではありません。」
「姫様まで。」
「あなたの『大丈夫』は、もう信用していません。」
「そんなにはっきり言う?」
「倒れていた方が悪いのです。」
そこへ、反対側からルシアが顔を覗かせた。
「じゃあ私が一緒に行く。」
「ルシア様。」
リシェラが振り向く。
「あなたはすぐ飛ぶでしょう。」
「ソータも持って飛べばいい。」
「それはやめて。」
ソータが即座に答えると、ルシアは少し不満そうに首を傾げた。
「便利なのに。」
「落とされたら困る。」
「落とさない。」
「そういう問題じゃない。」
ヨーダが深く息を吐いた。
「とにかく、ソータ殿は戦わないこと。」
「どうしても仕事をすると言うのであれば、あなたは運送屋なのでしょう?」
「ならば、戦うのではなく運ぶ仕事をなされ。」
その言葉に、ソータは少しだけ表情を変えた。
「運ぶ仕事。」
戦えない。
走れない。
身体も万全ではない。
けれど、王都には今も物が足りていない。
水。
包帯。
薬。
食料。
毛布。
それなら、自分がやるべきことはまだある。
「分かった。」
「本当に?」
ヨーダが疑わしそうに見る。
「戦わない。」
「走らない。」
「荷物の方をやる。」
「走らない、を忘れぬように。」
「はい。」
今度は素直に頷いた。
◆◇◆
王城東翼の来客用回廊は、すでに簡易治療所へ姿を変えていた。
壁際には寝台が並べられ、床にも毛布が敷かれている。
王国兵だけではない。
侍女や文官、王城へ逃げ込んだ市民、それに負傷した反乱兵まで同じ場所で治療を受けていた。
血と汗、それに焦げた木の匂いが混じっている。
神官たちが行き交う足音の間からは、呻き声や水を求める声が途切れることなく聞こえていた。
(まだ全然終わってないな。)
王を救った。
王妃も無事だった。
反乱兵もかなり制圧されている。
それでも、ここで横たわっている人間にとっては、戦いが終わったことなど今はほとんど意味を持たない。
痛みが消えなければ。
水がなければ。
家族の無事が分からなければ。
平穏が戻ったとは言えない。
「何が足りない?」
ソータは近くにいた若い神官へ声をかけた。
「清潔な布と水です。」
「痛み止めに使う薬草も少なくなっています。」
「食べ物は?」
「重傷者はまだ口にできない者も多いので、今は水を優先しています。」
「分かった。」
ソータは《神速積載庫》の中身を頭の中で確認した。
北方用に残している包帯。
夜の城へ運ぶ予定だった薬草。
予備の水袋。
保存食。
全部出そうと思えば出せる。
けれど、手を伸ばしかけて止めた。
(ここだけに出したら駄目だ。)
王城の外にも負傷者はいる。
王都全体が混乱している以上、この場所だけを満たしても意味がない。
「布は、今どれくらい必要?」
「最低でも三十巻ほどあれば助かります。」
「水は?」
「桶で十杯ほど。」
「薬草は種類ごとに分かる?」
「はい。」
「じゃあ、必要量を書いて。」
神官は少し意外そうな顔をした。
「全部出さないのですか?」
「出せるけど、他でも必要になるかもしれないから。」
「なるほど。」
「ここで使う量だけ、まず出す。」
ソータは必要分の布と水袋、それに指定された薬草だけを取り出した。
床へ次々と現れる物資を見て、周囲から小さなどよめきが起きる。
「足りなくなったら教えて。」
「ただ、残りがどれくらいあるかも一緒に。」
「承知しました。」
神官はすぐに頷いた。
そのやり取りを、リシェラが横でじっと見ていた。
「ソータ様。」
「何?」
「全部出せるのに、出さないのですね。」
「うん。」
「なぜです?」
「ここだけじゃないから。」
ソータは治療所の奥へ目を向けた。
「王城の外にも怪我人はいるでしょう?」
「います。」
「だったら、ここで使い切ったら困る。」
「……そうですね。」
言われてみれば当然の話だった。
けれど、目の前に苦しんでいる人が大勢いれば、今ある物をすべて使いたくなる。
ソータはそうしなかった。
必要な量だけ出し。
残りを次の場所へ残す。
リシェラは、ソータの力そのものではなく、その使い方へ少しずつ興味を持ち始めていた。
◆◇◆
東翼の治療所を出たところで、一人の兵士が駆け込んできた。
「東庭の井戸が使えません!」
ソータが反射的に歩幅を広げた瞬間、リシェラが服の袖を掴んだ。
「走らない。」
「まだ走ってない。」
「今、走ろうとしました。」
「急いだだけ。」
「それを走ると言います。」
「はい。」
仕方なく早歩きに変えると、横でルシアが楽しそうに笑った。
「リシェラ、ソータのお母さんみたい。」
「違います。」
「じゃあ姉?」
「違います。」
「妻?」
「違います!」
リシェラの声が大きくなる。
「ルシア様、そういうことを突然言わないでください!」
「でもミレイユは妻みたい。」
「それとこれは別です!」
ソータは歩きながら頭を押さえた。
(ミレイユに聞かれたら絶対怒られる。)
本人が遠くにいるのに、紅い髪と鋭い目だけは妙にはっきり想像できた。
東庭の井戸へ到着すると、原因はすぐに分かった。
井戸そのものが枯れたわけではない。
反乱時に崩れた石材と木材が汲み上げ用の滑車周辺へ落ち込み、縄を動かせなくしていた。
「水自体はある?」
ソータが兵士へ尋ねる。
「はい。」
「中を確認した者によれば、水そのものに異常はありません。」
「じゃあ、水を出すんじゃなくて井戸を直そう。」
「直せますか?」
「たぶん。」
ソータは周囲へ落ちた瓦礫を確認する。
石。
折れた柱。
壊れた木枠。
どれも《神速積載庫》へ入れられる物だ。
「みんな少し離れて。」
人が下がったのを確認してから、邪魔になっている瓦礫だけを順番に収納していく。
全部片付ける必要はない。
滑車へ人が近づけて、縄を交換できれば十分だった。
「これならどう?」
兵士が井戸へ近づく。
「いけます!」
「縄はある?」
「予備があります。」
「じゃあ交換して。」
兵士たちが壊れた縄と滑車を手早く直していく。
やがて、新しい縄に結ばれた桶が井戸の中へ下ろされた。
しばらくして。
澄んだ水を満たした桶が引き上げられる。
「出た!」
周囲から安堵の声が上がった。
ソータはその様子を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。
(こっちの方がいい。)
自分が水を何十桶も出すより、井戸そのものを使えるようにした方が長く役に立つ。
自分がいなくなっても、兵士や侍女たちだけで水を汲める。
今までは、足りない物を自分が補うことばかり考えていた。
けれど今回は、それだけでは王都全体へ届かない。
「ソータ様。」
隣に来たリシェラが聞く。
「少し笑いました?」
「そう?」
「はい。」
「俺が水を出さなくてよくなったから。」
「仕事が減ったから嬉しいのですか?」
「違うよ。」
ソータは井戸を見る。
「みんなが自分で水を取れるようになった方がいい。」
「俺はずっとここにいられないから。」
リシェラは井戸を見たあと、もう一度ソータへ視線を戻した。
「そういう考え方をするのですね。」
「変?」
「いいえ。」
少しだけ笑う。
「むしろ、あなたらしい気がします。」
「まだ数日しか知らないでしょう。」
「それでも分かることはあります。」
「そういうもの?」
「そういうものです。」
ソータにはよく分からなかったが、リシェラは少し機嫌が良くなっていた。
◆◇◆
井戸が使えるようになると、今度は別の問題が出てきた。
治療所へ運ぶ水と、避難民が飲む水を、同じ桶で汲み始めたのだ。
「ちょっと待って。」
ソータが桶を持った兵士を止めた。
「その水、どこへ持っていくの?」
「治療所です。」
「こっちは?」
別の桶を持った兵士が答える。
「外庭の避難民へ。」
「じゃあ、目印を付けよう。」
「目印?」
ソータは《神速積載庫》から赤と青の布を取り出した。
「赤い布は治療所。」
「青い布は飲み水用。」
「桶を分けるのですか?」
「傷を洗った桶を、そのまま飲み水に使ったら嫌でしょう?」
「ああ。」
兵士がすぐに納得した。
「確かに。」
「洗ったとしても、混ざると分からなくなるから。」
桶の持ち手へ色布を結ぶ。
それだけのことだったが、誰が見ても用途が分かるようになった。
赤い布の桶は治療所へ。
青い布の桶は避難民へ。
井戸の周囲にいた人々もすぐに覚え、自然に流れが分かれていく。
ソータはそれを確認してから、今度は近衛兵へ尋ねた。
「避難してる人、どのくらいいる?」
「王城外庭だけで二百人以上です。」
「城外にも複数の集団がいると報告を受けています。」
「全部ここに来てもらうのは無理?」
「通りの安全が完全には確保されておりません。」
「移動できない老人や負傷者もおります。」
「だったら、配る場所を分けよう。」
ソータはしゃがみ込み、石畳の上へ簡単な王都図を書き始めた。
リシェラも隣へしゃがむ。
「王城以外にも配給所を置くのですか?」
「うん。」
「みんなを王城まで歩かせるより、近いところまで持っていった方がいい。」
「人手はどうします?」
「荷車は?」
「何台か使えます。」
「馬は?」
「無傷のものは少ないですが、動かせるものはあります。」
「じゃあ、それを使う。」
ソータは北、西、南へ印をつけた。
「荷物は一度東庭へ集めて、そこで行き先ごとに分ける。」
「どうやって?」
「色。」
「また色ですか?」
「文字だけだと読めない人もいるから。」
リシェラが少し驚いたようにソータを見る。
「そこまで考えていたのですか。」
「前に荷札で困ったことあるから。」
ソータは色布を並べる。
「北は白。」
「西は緑。」
「南は黄。」
「治療所は赤。」
「水は青。」
「かなり増えましたね。」
「でも、一回覚えれば早い。」
「荷車を使う者には、色だけ教えればいい。」
「そう。」
ソータは地面の図へ線を引いた。
「それと、戻る荷車を空で帰さない。」
「荷物を持ち帰るのですか?」
「荷物がなければ情報。」
「情報?」
「向こうで何が足りないか。」
「怪我人が何人いるか。」
「道が通れるか。」
「火事が残ってないか。」
「それを戻った人に報告してもらう。」
リシェラは、しばらく地面の図を見つめていた。
普通なら、荷物は届けたところで役目を終える。
けれどソータは、戻ってくる荷車まで無駄にせず、現地で不足している物や道の状況を王城へ持ち帰らせようとしていた。
そうすれば、次に何を積むべきか判断できる。
限られた荷車も、馬も、人手も、一度の往復で二つの役目を持てる。
「ソータ様。」
「何?」
「あなた、本当に運送屋なのですね。」
「だから最初から言ってる。」
「最初は、荷物を消したり出したりできる人だと思っていました。」
「それは能力の方。」
「では、運送屋は?」
ソータは地面へ引いた何本もの線を見る。
「必要なものを、必要なところまでちゃんと届かせる仕事。」
リシェラはその答えを聞き、少しだけ目を細めた。
「ちゃんと、ですか。」
「途中で止まったら運んだことにならないでしょう?」
「そうですね。」
「だから、道も見る。」
「人も見る。」
「届けた後も考える。」
「……。」
リシェラは黙ってソータを見た。
剣を持って立っている時より。
王を助けた時より。
今、石畳へしゃがみ込んで荷車の道順を考えている姿の方が、なぜか頼もしく見えた。
(不思議な人。)
その時。
頭上から大きな羽音が聞こえた。
「ソータ。」
ルシアが紫の翼を広げ、東庭へ降りてくる。
「どうだった?」
「西の通りに人が多い。」
「北は火が少ない。」
「南は一ヶ所まだ煙が出てる。」
「あと、教会の近くに怪我人がたくさんいる。」
「どこの教会?」
「大きいところ。」
「場所は分かる?」
「分かる。」
「地図で教えて。」
ルシアがしゃがみ込み、王都図の一角を指差す。
「ここ。」
「怪我人、どのくらい?」
「たくさん。」
「何人くらい?」
「数えるのは無理。」
「そりゃそうか。」
空から見ただけなら仕方がない。
「敵はいた?」
「少し。」
「でも私を見たら逃げた。」
「……何もしてない?」
「してない。」
「本当に?」
「今日はかなり進んだルシアだから。」
「その自己申告、毎回段階が変わるな。」
「進歩してる。」
リシェラが小さく笑った。
「ルシア様。」
「何?」
「ソータ様に褒めてもらいたいだけでは?」
「それもある。」
「素直ですね。」
「嘘ついても仕方ない。」
ルシアらしい答えだった。
「もう一度飛べる?」
ソータが聞く。
「飛べる。」
「教会の周りだけ見てきて。」
「怪我人が集まってるなら、荷車が入れる道があるか確認してほしい。」
「分かった。」
「それと、遠くまで勝手に行かないで。」
「……。」
ルシアが一瞬だけ目を逸らした。
「分かった。」
「本当に?」
「今回はちゃんと言う。」
「お願いします。」
紫の翼が開き、ルシアが再び空へ上がる。
ソータはその姿を見送りながら、東庭で少しずつ動き始めた荷車へ目を向けた。
白い布。
緑の布。
黄色い布。
色ごとに荷が分かれ、それぞれ別の方向へ運び出されていく。
井戸では、赤と青の桶が混ざらず使われている。
治療所では、必要量だけの包帯と薬が消費され、残りの数が記録され始めていた。
(俺一人で全部運ばなくてもいい。)
今まで自分の《神速積載庫》があるからこそ、何でも自分で運ぼうとしていた。
けれど王都は広い。
人も多い。
自分が倒れたら、それで止まる方法では駄目だ。
(みんなが運べる形にした方がいい。)
そうすればソータが別の場所へ行っても荷物は動く。
それは、自分が荷物を抱えて走り回るのとは少し違う。
それでもソータには確かに運送の仕事だと思えた。
◆◇◆
夕方近く。
空から戻ってきたルシアが、着地するなりソータを呼んだ。
「西の道、駄目。」
「どこ?」
「ここ。」
ルシアが地図の一角を指した。
「完全に塞がってる。」
「人なら一人ずつ通れるけど、荷車は無理。」
ソータは西区へ向かう緑印の荷を見た。
食料。
包帯。
毛布。
どれも待っている人がいる。
「別の道は?」
近衛兵が答える。
「ございます。」
「ただし、大きく南へ回る必要があるため、荷車で一刻以上余計にかかります。」
「一刻か。」
ソータは少し考えた。
身体はまだ重い。
胸にも違和感が残っている。
ヨーダからは戦うなと言われている。
けれど道を塞いでいるのが瓦礫なら話は別だ。
「見に行く。」
「ソータ様。」
リシェラがすぐに反応する。
「戦わないよ。」
「走らない?」
「歩く。」
「一人では?」
「姫様、来る?」
「当然です。」
即答だった。
「私も行く。」
ルシアが翼を広げる。
「上から見れば、崩れてる範囲分かる。」
「助かる。」
近衛兵も二人同行することになった。
ソータは最後に東庭を振り返った。
さっきまで人が右往左往していた場所で、今は荷車が色ごとに分かれ、それぞれの行き先へ動き始めている。
まだ乱れている。
まだ足りないものも多い。
それでも、少しずつ流れができている。
(これなら。)
ソータは思う。
(俺が全部抱えなくても、回せるかもしれない。)
西区へ向かう緑の荷は、まだ東庭に残されている。
その先で待っている人へ届けるには、まず道を通さなければならない。
「行こう。」
ソータが歩き出す。
「はい。」
リシェラが隣へ並ぶ。
「私は上から。」
ルシアが空へ上がる。
夕方の王都には、まだ焼けた建物の匂いが残っている。
けれどその道を、今度は兵士ではなく荷車が走ろうとしていた。
王都の戦いは終わりに近づいている。
その代わりに始まりつつあるのは、人が生きるために必要なものを、必要な場所へ戻していく仕事だった。
そしてそれなら、勇者ではないソータにも、まだできることがいくらでもあった。




