第162話:運送屋は、王様に困られる
最初に聞こえたのは、羽音だった。
大きな布を何度も振るような、ばさり、ばさりという音。
その次に、誰かが自分の名前を呼んでいるのが分かった。
「ソータ。」
近い。
かなり近い。
声の感じからして、ルシアだ。
「ソータ。」
もう一度。
今度は少し強い。
(うるさい。)
(寝かせてくれ。)
(……いや。)
(寝てる場合じゃなかった気がする。)
(王城。)
(反乱。)
(大広間。)
(王様。)
(壁。)
(壁を……。)
そこまで思い出した瞬間、頭の奥に鈍い痛みが走った。
ソータは眉間に皺を寄せた。
「動いた。」
ルシアの声がする。
「ソータ、動いた。」
「……生きてるんだから、動く。」
喉が乾いていて、声が掠れた。
それでも言葉になった瞬間、すぐそばで大きく息を吐く音がした。
目を開ける。
最初に見えたのは薄紫色の髪だった。
ルシアがほとんど顔をぶつけるほど近くまで覗き込んでいる。
その後ろでは、大きな紫の翼が中途半端に広がっていた。
羽の先には煤がつき、一部が少し乱れている。
いつものような妖しい余裕はなく、薄紫の瞳は本気で心配した色をしていた。
「ソータ。」
「なんだ。」
「死んでない。」
「死んでない。」
「よかった。」
それだけ言うと、ルシアはソータの胸元へ額を押しつけた。
突然のことに、ソータは少しだけ息を詰まらせる。
痛いほどではない。
ただ、彼女が本気で安心していることだけは分かった。
普段なら何か妙なことを言い出すはずなのに、今は何も言わない。
紫の翼まで少し力を失ったように垂れている。
「……そんなに心配したのか。」
「した。」
「アルベールから聞いてなかった?」
「倒れたって聞いた。」
「命に別状ないって。」
「聞いた。」
「じゃあ。」
「でも、倒れてた。」
ルシアは顔を上げなかった。
「ソータが動かなかった。」
その声は小さかった。
ソータは少し黙った。
吸血鬼だから人間の死に慣れているのかと思っていたが、どうやらそう単純ではないらしい。
むしろ、知っている相手が動かなくなることに慣れていないのかもしれない。
「悪かった。」
「うん。」
「でも、大丈夫。」
「うん。」
「だから、ちょっと離れて。」
「嫌。」
「なんで。」
「まだ確認中。」
「何を。」
「生きてるか。」
「喋ってるだろ。」
「喋ってる。」
「じゃあ大丈夫だ。」
「たぶん。」
「たぶんをつけるな。」
ルシアがようやく少しだけ顔を上げた。
その表情にいつもの無邪気さが戻っている。
ソータは小さく息を吐き、そこで自分の右手が何かに握られていることに気づいた。
視線を動かす。
床ではなく、簡易の寝台に寝かされているらしい。
その横に、淡い金髪の女性が座っていた。
リシェラだった。
白と銀の王族衣装は煤で汚れ、一部には乾いた血までついている。
けれど本人に大きな怪我はないようだった。
そのリシェラが、両手でソータの右手を握っていた。
「……姫様。」
「はい。」
「何をしてるんですか。」
「手を握っています。」
「それは見れば分かります。」
「では、なぜ聞くのです?」
「なんで握ってるのかを聞いてるんです。」
リシェラは少し考えた。
まるで難しい質問をされたような顔だ。
「あなたが倒れたからです。」
「答えになってるようで、なってないです。」
「そうでしょうか。」
「そうです。」
ソータは手を引こうとした。
しかし、リシェラは意外と強く握っている。
無理に引けば外せるが、そこまでするほどでもない。
「姫様、俺はもう起きました。」
「はい。」
「だから大丈夫です。」
「それは私が判断します。」
「なんで。」
「あなたは自分の大丈夫を信用しすぎです。」
思わぬ言葉に、ソータは止まった。
「昨日も大丈夫と言っていました。」
「言ったっけ。」
「何度も。」
「そうでした?」
「瓦礫をどかす時も。」
「はい。」
「煙の中へ戻る時も。」
「はい。」
「壁を落とした後も。」
「……はい。」
「最後に大広間へ行く時も。」
「……。」
「そして倒れました。」
反論できない。
リシェラは少しだけ頬を膨らませた。
「ですから、あなたの大丈夫は信用しません。」
(この姫様、変なところで学習してるな。)
「姫様。」
「はい。」
「それ、王女の仕事じゃないですよ。」
「私が決めます。」
「強いな。」
「頼ると決めましたから。」
「それ、まだ続いてるんですか。」
「当然です。」
リシェラは真顔だった。
ソータは内心で少し困る。
(また増えた。)
(いや、増えてない。)
(これは王女。)
(助けた相手。)
(それ以上ではない。)
(絶対にない。)
(ミレイユに説明する項目を増やすな。)
その時、少し離れた場所から静かな声がした。
「リシェラ。」
エルシアだった。
第一王女は父王と王妃のそばに立っている。
彼女も服は汚れていたが、髪は少し整えられており、王族らしい落ち着きを取り戻していた。
ただし、目の下には疲労の色がある。
西塔からの脱出、城内での戦闘、父母の安否。
十九歳の女性が背負うには重すぎる一日だったはずだ。
「その方は負傷者です。」
「分かっています。」
「なら手を離しなさい。」
「なぜです?」
「治療の邪魔です。」
リシェラが自分の手とソータの手を見る。
「今は治療していません。」
「リシェラ。」
エルシアの声が少し低くなった。
「……はい。」
リシェラは渋々手を離した。
ただし最後に一度だけ強く握ってから離す。
何なのだろう。
ソータにはよく分からない。
だが、その様子を見ていたルシアが小さく首を傾げた。
「ソータ。」
「何。」
「また女の子増えた?」
「増えてない。」
「私は増えてないと思います。」
リシェラが答えた。
「姫様は入ってこなくていいです。」
「そうですか。」
「ルシアも変なこと言うな。」
「でも握ってた。」
「助けたからだろ。」
「私も助けられた。」
「それとこれとは。」
「じゃあ私も握る。」
「張り合うな。」
ルシアが空いたソータの手を取った。
「ほら。」
「何がほらだ。」
「これで同じ。」
「何と同じなんだよ。」
ソータは頭を抱えたくなった。
だが頭を動かすとまだ眩暈がする。
それに気づいたのか、ルシアがすぐに顔を覗き込んだ。
「まだ痛い?」
「ちょっと頭が重い。」
「寝る?」
「もう少し状況を知りたい。」
「寝ながら聞けばいい。」
「それはそうだけど。」
ソータは周囲を見る。
ここは大広間の隅だった。
崩れた壁から少し離れた場所に毛布と長椅子を並べ、簡易の休憩場所にしているらしい。
外から吹き込む風が、粉塵と煙の匂いを運んでくる。
反乱兵と法衣の男たちはすでに拘束され、王家側の兵士が監視している。
砕けた机。
散らばった文書。
壊れた聖具。
そして、巨大な穴が開いた大広間の壁。
あらためて見ると、とんでもない。
(……やったな。)
(これ、俺がやったんだよな。)
(城の壁。)
(王城の壁。)
(弁償とか言われるかな。)
(いくらするんだ。)
(ミレイユに相談するしかない。)
(いや、その前に怒られる。)
考えただけで頭がさらに重くなった。
「顔が変。」
ルシアが言う。
「何を考えているのです?」
リシェラまで聞いてくる。
「壁。」
二人が同時に、吹き飛んだ大広間の壁を見る。
「大きい。」
ルシア。
「大きいですね。」
リシェラ。
「俺、あれ弁償するのかな。」
ソータが言うと、一瞬だけ二人が黙った。
その直後、少し離れたところから男の笑い声が聞こえた。
低く、疲れた笑い。
王だった。
五十代ほどの男。
豪奢な衣装は乱れ、肩には煤がついている。
昨日までなら、ソータが直接話す機会など一生なかっただろう相手だ。
王は笑いを堪えるように口元へ手を当てていた。
「そなた。」
「はい。」
「目覚めて最初に心配するのが、壁の弁償なのか。」
「いや、最初は生きてるか確認しました。」
「次が壁か。」
「たぶん。」
「そうか。」
王はもう一度壊れた壁を見た。
王妃もその横で、ほんの少しだけ笑っている。
「弁償は不要だ。」
「本当ですか。」
「むしろ、あの壁が残っていれば余らは死んでいた。」
「そう言ってもらえると助かります。」
「その代わり、修復の相談には乗ってもらうかもしれぬ。」
「荷物を運ぶなら。」
「壁も運べるのか。」
「壊れたのなら。」
「……そうか。」
王は何とも言えない顔になった。
まだソータという存在をどう扱えばいいのか決めかねているようだった。
その時、大広間の奥から怒鳴り声が響いた。
「アルベール様!」
ヨーダだった。
大神官は法衣を煤だらけにし、杖を片手にこちらへ歩いてくる。
その後ろに、アルベールもいた。
老執事はいつもの黒い執事服を着ている。
ただし、いつもの姿とは言い難かった。
左肩の布が裂けている。
白いシャツには血が滲み、頬にも細い傷がある。
右手の白手袋は破れ、指の付け根から血が流れていた。
それでも姿勢だけは崩していない。
まるで散歩から戻ったような顔をしている。
「アルベール。」
「ソータ様。お目覚めになられましたか。」
「何その怪我。」
「少々、屋上を掃除してまいりました。」
「どこが少々ですか!」
後ろからヨーダが叫んだ。
声が大広間に響く。
「左肩は裂け、肋骨も二本ほど怪しい! 右手は魔力焼け、足まで引きずっておる! それを少々で済ませる者がありますか!」
「ヨーダ様。」
「何です!」
「皆様が不安になりますので、声量を少々。」
「原因はあなたです!」
ヨーダの顔は真っ赤だった。
ソータは思わず少し笑い、腹の奥に痛みが走って顔をしかめる。
「いて。」
「ソータ!」
「ソータ様!」
ルシアとリシェラが同時に身を乗り出した。
「大丈夫、大丈夫。」
「また言った。」
リシェラがすぐに睨む。
「今のは本当に。」
「信用しません。」
「厳しい。」
アルベールが小さく笑った。
その笑い方もいつもと変わらない。
「グラードは?」
ソータが尋ねる。
空気が少しだけ変わった。
アルベールの目が細くなる。
「逃走いたしました。」
「逃げた?」
「はい。」
「アルベールから?」
「正確には。」
アルベールがルシアを見る。
「ルシア様からでございます。」
ソータもルシアを見る。
ルシアは少し胸を張った。
「私を見て逃げた。」
「何したんだ。」
「何も。」
「何もしてない?」
「吸血鬼って言った。」
「それだけ?」
「うん。」
ソータは少し考えた。
あのグラードが。
巨大な戦斧を振り回し、アルベールと互角に近い戦いをしていた男が。
ルシアを見ただけで逃げた。
「どういうこと?」
アルベールが丁寧に答える。
「グラード様は、幼い頃より吸血鬼と骸骨が大変苦手でございまして。」
「……あの人が?」
「はい。」
「本当に?」
「はい。」
「ルシアだけで?」
「はい。」
「私、怖い。」
ルシアが言った。
「そこは自慢するところなのか。」
「グラードには怖かった。」
「他には?」
「分からない。」
「まあ、普通の人も怖がると思うぞ。」
ルシアの翼を見る。
大きい。
紫。
吸血鬼。
事情を知らない者が夜に見れば、確かに怖いだろう。
だが、ソータにはもうあまり怖く見えない。
今も自分の手を握ったままだし、さっきまで死んでいないか何度も確認していた。
「追わなくてよかったのか。」
「現状では、王城内の安定が優先でございます。」
アルベールの声が少しだけ低くなる。
「それに、グラード様はこのまま民を無差別に斬り始めるような方ではございません。」
「でも、謀反を起こした。」
「はい。」
「また来るかもしれない。」
「その可能性はございます。」
ソータは少し黙った。
グラードの言葉を思い出す。
腐った国を一度壊す。
血で洗う。
強い国を作る。
乱暴で、危険で、正しいとは思えない。
だが、あの男がただ自分のために王座を欲しがっていたわけではないことも分かっている。
(あの人も。)
(終わってないんだろうな。)
「いずれ話す必要はあると思います。」
アルベールが言った。
「ただし、今は。」
「王城。」
「はい。」
アルベールは大広間を見る。
拘束された兵。
泣いている侍女。
負傷者。
散らばった文書。
まだ終わっていない。
「まずは、こちらを整えるべきでしょう。」
その言葉に、ソータも頷いた。
「ソータ殿。」
今度はエルシアが近づいてきた。
第一王女はソータの前で足を止める。
以前のような、少し人を見下すような冷たい目ではない。
警戒は残っている。
だが、その奥に明らかな変化があった。
「改めて、礼を申し上げます。」
「姫様。」
「西塔からわたくしたちを救ってくださったこと。」
エルシアは父王と王妃を見る。
「そして、父と母を救ってくださったこと。」
ソータは少し困った。
王族に深く頭を下げられる経験などない。
しかも、自分としては何か特別な英雄的行為をした感覚が薄い。
必死だった。
目の前に人がいた。
道を作った。
それだけだ。
「頭を上げてください。」
「これは必要な礼です。」
「でも。」
「ソータ殿。」
エルシアは顔を上げた。
「あなたは、自分が何をしたか分かっていますか。」
「城の壁を壊した。」
「そこではありません。」
「じゃあ。」
「王と王妃を救いました。」
「はい。」
「二人の王女も。」
「はい。」
「東礼拝堂にいた者たちも。」
「はい。」
「城内の使用人も。」
「まあ。」
「東門の避難者も。」
「それも。」
「それを全部。」
エルシアは少し間を置いた。
「運送屋がしたのですね。」
「運送屋がしたというか、俺が運送屋というか。」
「同じでは?」
「そうなんですけど。」
エルシアはほんの少し口元を緩めた。
「西塔で、わたくしはあなたの力を便利だと言いました。」
「覚えてます。」
「訂正します。」
「え。」
「便利、だけではありません。」
エルシアの青い瞳が真っ直ぐソータを見る。
「あなたの力は、人を生かすための力です。」
ソータは言葉を失った。
「壁を落としたことは怖かったです。」
エルシアは続ける。
「正直に申し上げれば、大広間の惨状を見た時は、なおさら警戒しました。」
「ですよね。」
「ですが。」
少しだけ視線が柔らかくなる。
「あなたは、その力を人を殺すために振るったわけではない。」
ソータは自分の手を見る。
昨日。
瓦礫を落とした。
柱を出した。
壁を落とした。
敵を止めた。
怖かった。
今でも、その感覚は残っている。
「殺したくはなかったです。」
「分かります。」
「でも、怪我はさせた。」
「そうですね。」
「そこは。」
「背負うしかありません。」
エルシアは淡々と言った。
しかし冷たくはなかった。
「わたくしたち王族も同じです。」
「姫様も?」
「判断をすれば、誰かが傷つきます。」
エルシアの視線が床へ落ちる。
「判断をしなくても、誰かが傷つきます。」
静かな言葉だった。
「だから、選ぶのです。」
その言葉が、ソータの胸に残った。
選ぶ。
何を運ぶか。
何を捨てるか。
誰を先に助けるか。
何を止めるか。
(結局、同じなのかもしれない。)
ソータは小さく息を吐いた。
「ありがとうございます。」
「礼を言うのはこちらです。」
「いや。」
「では、互いにということで。」
エルシアはそう言った。
少しだけ距離が縮まった気がした。
その横から、リシェラが入ってくる。
「私は最初から信用しています。」
「リシェラ。」
「何です、姉様。」
「あなたは信用するのが早すぎます。」
「助けていただきました。」
「それだけで全てを信用してはいけません。」
「でも、頼れます。」
「頼れることと信用は別です。」
「私は一緒です。」
「一緒ではありません。」
ソータは双子を見る。
顔は似ている。
声もどこか似ている。
だが中身はかなり違う。
「ソータ様。」
リシェラがこちらを見る。
「はい。」
「父上と母上も無事でした。」
「よかったです。」
「マーヤも。」
「よかった。」
「東門の人たちも、ほとんど逃げられました。」
「本当に?」
「はい。」
その言葉で、ソータの肩から少しだけ力が抜けた。
昨日、礼拝堂から運んだ老女。
子供たち。
侍女。
避難列。
間に合った。
「よかった。」
もう一度言う。
今度は少し強く。
「本当に。」
リシェラが笑った。
エルシアも静かに頷く。
王妃は少し離れた場所からその様子を見ていたが、やがてこちらへ歩いてきた。
王妃はソータの前で止まる。
そして、ゆっくり頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「王妃様。」
「王妃としてではありません。」
王妃は顔を上げる。
疲れている。
泣いた跡もある。
それでも、目は優しかった。
「母として、礼を申し上げます。」
ソータは何も言えなかった。
「娘たちを助けてくださって、ありがとうございました。」
胸の奥が少し詰まる。
「間に合ってよかったです。」
結局、それしか言えなかった。
「ええ。」
王妃は静かに微笑んだ。
「本当に。」
その横で王が腕を組む。
しばらくソータを見ていた。
それから、ようやく口を開く。
「一つ聞きたい。」
「はい。」
「そなたは、本当に何者なのだ。」
ソータは一瞬迷った。
だが答えは一つしかない。
「運送屋です。」
王が黙った。
「……。」
「……。」
大広間が妙に静かになった気がした。
王は壊れた壁を見る。
次に、拘束された反乱兵を見る。
それからソータを見る。
「勇者ではなく?」
「違います。」
「騎士でもなく?」
「違います。」
「魔法使いでもない?」
「魔法は使えません。」
「では、あの巨大な何かは。」
「スキルです。」
「壁を消したのも?」
「スキルです。」
「水を出したのも?」
「スキルです。」
「瓦礫を落としたのも?」
「スキルです。」
王はまた黙る。
「……運送屋。」
「はい。」
「最近の運送屋は、城壁を破壊するのか。」
「普通はしないと思います。」
「そうか。」
「はい。」
「そうであろうな。」
王は額を押さえた。
王妃が少し笑う。
「あなた。」
「何だ。」
「恩人を困らせています。」
「しかし、運送屋だぞ。」
「立派な運送屋ではありませんか。」
「そういう問題なのか。」
「そういう問題です。」
「俺もよく分かりません。」
ソータが正直に言うと、王妃がさらに笑った。
張り詰めていた大広間の空気がほんの少しだけ緩む。
王も最後には諦めたように息を吐いた。
「分かった。」
「はい。」
「運送屋なのだな。」
「そうです。」
「覚えておこう。」
「お願いします。」
王は一度頷いた。
それから少しだけ真面目な表情になる。
「そして、礼は改めてする。」
「いや、別に。」
「王として必要だ。」
「でも。」
「そなたが不要と言っても、こちらには必要だ。」
強い言い方だった。
さすがに王だ。
ソータは少し困りながらも頷いた。
「分かりました。」
「今は休め。」
「はい。」
「命令だ。」
「はい。」
王の命令なら仕方がない。
ソータは少しだけ身体を寝台へ戻す。
しかし、そこで思い出した。
大事なこと。
「ルシア。」
「なに?」
「お前。」
「うん。」
「夜の城から、どうやって来た。」
「飛んできた。」
「それは知ってる。」
「じゃあ?」
「ミレイユに言った?」
ルシアが止まった。
「……。」
「言った?」
「……。」
「ルシア。」
「言ってない。」
ソータは目を閉じた。
(やっぱり。)
(終わった。)
(俺の大広間より、こっちの方が怖い。)
「オルドアイには?」
「言ってない。」
「チャールズは?」
「言ってない。」
「ガルナ。」
「言ってない。」
「誰にも?」
「うん。」
ルシアの翼が少し下がった。
「戦火が見えた。」
「分かる。」
「アルベールがいた。」
「うん。」
「ソータもいるかもしれないと思った。」
「いた。」
「だから来た。」
「そこも分かる。」
「じゃあ。」
「連絡はしろ。」
ルシアが黙る。
「助けに来たことを怒ってるんじゃない。」
「うん。」
「誰にも言わず消えたら心配する。」
「うん。」
「特にミレイユ。」
「……。」
翼がさらに下がった。
「怒る?」
「怒る。」
「すごく?」
「すごく。」
「かなり進んだルシアでも?」
「関係ない。」
「少し反省した紫なら?」
「もっと関係ない。」
ルシアは真剣な顔で考え始めた。
「謝罪文例集。」
「夜の城。」
「持ってきてない。」
「だろうな。」
「覚えてるところだけ使う。」
「本じゃなくて自分の言葉で謝れ。」
「難しい。」
「そこは頑張れ。」
少し離れたところでアルベールが静かに微笑んでいる。
ソータは嫌な予感がした。
「アルベール。」
「はい、ソータ様。」
「助けてやらないの?」
「何をでしょう。」
「謝るの。」
「ルシア様ご自身がお話しされるのが最善かと。」
「裏切った。」
ルシアがアルベールを見る。
「教育でございます。」
「友人なのに。」
アルベールの表情がほんの少し柔らかくなった。
「友人だからこそ、でございます。」
「……。」
ルシアが考える。
そして、小さく頷いた。
「分かった。」
ソータはその様子を見て、少しだけ安心した。
たぶん。
ほんの少しずつだが。
ルシアも変わっている。
その時、大広間の外から兵士が駆け込んできた。
「陛下!」
王が顔を上げる。
「何事だ。」
「城内各所から報告です。火災は縮小しておりますが、負傷者が多く、東棟の治療所では水と包帯が不足しています!」
ソータの目が動いた。
「城下からの避難民も王城外庭へ集まり始めています。厨房の一部が焼け、食料配給も滞っております!」
さらに別の兵士が続く。
「井戸の一つが瓦礫で塞がれています!」
王の顔が険しくなる。
エルシアもすぐに聞き返す。
「無事な井戸は?」
「二つございますが、汲み上げが追いつきません!」
「薬は?」
「不足しております!」
「毛布は?」
「足りません!」
次々と出てくる。
戦いが終わっても。
人は食べる。
飲む。
傷を洗う。
眠る。
寒ければ震える。
ソータはゆっくり身体を起こした。
「ソータ。」
ルシアがすぐに見る。
「ソータ様。」
リシェラも見る。
「何をしているのです。」
エルシアまで見る。
「水が足りないって。」
「聞こえていました。」
「包帯も。」
「聞こえています。」
「食料も。」
「聞こえています。」
「じゃあ。」
ソータは寝台から足を下ろそうとする。
その瞬間。
「駄目です。」
リシェラ。
「駄目。」
ルシア。
「お休みください。」
エルシア。
「ソータ様。」
アルベール。
四方向から止められた。
「いや。」
ソータは少し困る。
「でも、それ俺の仕事なんだけど。」
大広間が静かになる。
「戦うのは。」
ソータは吹き飛んだ壁を見る。
「正直、もう勘弁してほしい。」
手を見る。
まだ少し震えている。
「壁落としたり。」
外を見る。
「変な車体出したり。」
反乱兵を見る。
「そういうのは、向いてない。」
少し息を吐く。
「でも。」
兵士が持ってきた報告書を見る。
「水が足りない。」
「包帯が足りない。」
「食料が足りない。」
「それなら。」
ソータは少しだけ笑った。
「運送屋の仕事です。」
王が驚いた顔をする。
エルシアはしばらく黙っていた。
リシェラはソータを見る。
ルシアも。
アルベールだけが、最初から分かっていたように微笑んでいた。
「ソータ様。」
「はい。」
「でしたら。」
老執事が静かに一礼する。
「まず、少しだけお休みくださいませ。」
「やっぱり?」
「はい。」
「今すぐじゃ駄目?」
「倒れて運ばれる運送屋ほど、信用を失うものはございません。」
「……。」
ソータは言葉に詰まった。
(それは確かに。)
(荷物運ぶ人間が途中で倒れたら、一番困る。)
「どのくらい。」
「まず水を飲み。」
「はい。」
「軽く食べ。」
「はい。」
「ヨーダ様の診察を受け。」
「はい。」
「その後でございます。」
「分かりました。」
「素直。」
ルシアが言う。
「仕事の話なら分かる。」
「ミレイユみたい。」
「それは褒め言葉だな。」
ソータは寝台へ戻った。
外ではまだ煙が上がっている。
王城は壊れている。
城下も混乱している。
反乱は完全に終わったわけではない。
グラードも逃げた。
教会の裏切り者もまだいる。
それでも。
(戦いの次は。)
(運ぶものがいる。)
(水。)
(薬。)
(食べ物。)
(毛布。)
(必要な場所へ。)
(必要なだけ。)
ソータは目を閉じた。
今度は眠るためではない。
頭の中で荷札をつけるためだ。
(東棟。水と包帯。)
(外庭。食料と毛布。)
(井戸。瓦礫をどかす。)
(厨房。使える場所を確認。)
(道。)
(人。)
(荷物。)
少しずつ、頭の中が整理されていく。
昨日までは戦場だった場所が、いつもの荷場に見えてくる。
それだけで、胸の奥が少し落ち着いた。
(よし。)
(ここからは。)
(俺の仕事だ。)
大広間の外から、また誰かが水を求める声が聞こえた。




