第161話:屋上の戦斧と、紫の羽
王城の屋上へ続く階段には、血と煤の匂いが濃く残っていた。
石段はところどころ割れ、壁にかけられていた燭台は斜めに曲がり、火の粉を受けた赤い絨毯の切れ端が階段脇で黒く縮れている。
下の大広間では、ソータが倒れ、王と王妃が救出され、教会の裏切り者たちが拘束され始めていた。
だが、王城の火はまだ消えていない。
反乱の火も、まだ消えていない。
アルベールは階段を上がりながら、白手袋の汚れを一度だけ見た。
片方は血で赤黒く染まり、もう片方も煤で灰色になっている。
黒い執事服の肩は裂れ、白髪も乱れていた。
いつもの完璧な老執事とは言い難い姿だった。
それでも、歩き方は崩れない。
背筋は伸び、足音は静かで、視線はまっすぐ上を向いている。
(ソータ様は無事。)
(王と王妃も確保。)
(大広間の教会関係者はヨーダ様が押さえる。)
(ならば、残る荷はグラード様。)
(あの方は、まだ止まっていない。)
階段の先から風が吹き込んだ。
焦げた匂いに、夜明け前の冷気が混ざる。
扉は壊れていた。
誰かが内側から叩き破ったのではない。
外へ向かって、巨大な力で押し開けられたように、金具ごと歪んでいる。
アルベールはその扉を越え、王城の屋上へ出た。
屋上には、赤い空が広がっていた。
王都のあちこちで火が上がり、黒い煙が風に流されている。
城壁の上ではまだ小競り合いが続いており、遠くから鐘の音と怒号が途切れ途切れに聞こえた。
中央には旗を掲げるための高い石台があり、その前にグラードが立っていた。
巨大な戦斧を片手に、肩で息をしている。
鎧には傷が増え、左肩から血が流れていた。
だが、その背はまだ折れていない。
老いた屈強な戦士は、燃える王都を見下ろしながら、まるで自分が背負った怒りそのもののように立っていた。
「来たか、アルベール。」
グラードは振り返らずに言った。
「ええ。階段が少々、荒れておりましたので。」
「俺が通った。」
「納得いたしました。」
「文句を言うな。扉は前から建て付けが悪かった。」
「建て付けではなく、あなた様の通り方の問題でございます。」
アルベールは屋上の石床へ足を進めた。
風が執事服の裾を揺らす。
グラードはようやく振り返った。
その顔には疲労がある。
だが、眼光はまだ炎のようだった。
「王は生きているな。」
「はい。」
「姫たちもか。」
「はい。」
「運送屋は。」
「消耗により倒れましたが、命に別状はございません。」
グラードは短く息を吐いた。
「そうか。」
それは安堵に聞こえた。
ほんのわずかだが、確かにそう聞こえた。
アルベールはそれを見逃さなかった。
「まだ間に合います。」
「何がだ。」
「ここで戦斧を下ろしなさい。あなた様の怒りは、王にも、王女たちにも、そして民にも届きました。これ以上は、ただ死体を増やすだけでございます。」
「届いたから何だ?」
グラードは戦斧を持ち直した。
「届いた後で、王が変わる保証はどこにある。姫たちが泣き、運送屋が倒れ、大神官が怒った。なるほど、今日はよく動いた。だが明日になれば、王城はまた書類を積み、貴族はまた言い訳をし、教会はまた美しい言葉を選ぶ。」
「それを見張る者が増えました。」
「見張るだけなら、犬にもできる。」
「変える者も増えました。」
「足りん。」
グラードの声が低くなる。
そこには怒りだけでなく、深い疲れがあった。
「俺は待った。何年も、何十年も待った。王に進言し、貴族を脅し、軍を動かし、飢えた村へ自分の蓄えを送った。だが、根は腐ったままだ。枝を切っても、葉を払っても、幹が腐っていればまた同じだ。」
「だから、王を殺すと。」
「殺すとは言っていない。」
「剣と斧を持って王の前に立つ者の言葉としては、ずいぶん繊細でございますね。」
「退かせる。」
「退かぬなら。」
「退かせる。」
「その違いに、どれほどの血が流れますか?」
グラードは黙った。
風が二人の間を吹き抜ける。
屋上の端では、破れた軍旗が火の粉を受けて揺れていた。
「グラード様。」
アルベールは静かに言った。
「私は、あなた様をここで討ちたいわけではございません。」
「甘いな。」
「ええ。老いてなお、少々甘いのでございましょう。」
「昔はもっと冷たかった。」
「昔は、私にも余裕がございませんでした。」
「今はあると?」
「ございません。ですが、守りたい方々が増えました。」
グラードが鼻で笑う。
「主か?」
「はい。」
「運送屋か?」
「はい。」
「聞けば、吸血鬼の城まで抱え込むつもりか。」
「抱え込むのではなく、道をつなぐだけでございます。」
「道をつなげば、そこへ軍も通る。」
「だから、誰が何を運ぶかを選ぶ者が必要なのでございます。」
「綺麗な言い方だ。」
「汚いままでは、主様に叱られますので。」
「またそれか。」
グラードは笑った。
今度の笑いは苦い。
「アルベール。俺を止めるなら、俺か王のどちらかを殺すんだな。」
アルベールの目が静かに細くなった。
「その二択は、いただけません。」
「二択しかない。」
「選択肢を増やすのが、私どもの悪い癖でございます。」
「なら増やしてみろ。」
グラードが戦斧を構えた。
屋上の石床が、彼の足元でわずかに軋む。
アルベールは白手袋の指を開いた。
薄い魔法陣が足元に広がり、風の中へ幾何学の光を描く。
「参ります。」
「来い。」
次の瞬間、グラードが踏み込んだ。
屋上の石床が砕ける。
巨大な戦斧が横薙ぎに振られ、空気そのものを裂いた。
アルベールは一歩下がり、透明な障壁を三枚重ねる。
一枚目が割れた。
二枚目が粉になった。
三枚目が戦斧を受け止めたが、衝撃でアルベールの靴底が石床を滑る。
彼はすぐに指を返し、グラードの足元へ拘束陣を展開した。
銀の鎖が足首へ絡みつく。
だが、グラードは膝を沈め、力でそれを引きちぎった。
「薄い!」
「あなた様の腕力が厚すぎるのでございます。」
「魔法使いの言い訳か。」
「執事の感想でございます。」
アルベールの背後に光の刃が数本浮かんだ。
それらは真正面からではなく、斜め上、右下、背後の死角から同時に走る。
グラードは戦斧を回すように振り、二本を弾き、一本を肩で受け、最後の一本を左腕の鎧で受け止めた。
血が散る。
だが、彼は止まらない。
前へ出る。
アルベールは空間を少しずらし、その踏み込みを横へ逃がした。
グラードの戦斧が石台をかすめ、石片が弾丸のように飛ぶ。
「避けるな!」
「当たりますと痛いので。」
「痛みを知るのも人生だ!」
「十分存じております。」
アルベールは短く詠唱し、屋上の石床から光の槍を突き出した。
グラードはそれを戦斧の柄で叩き折る。
折れた光の破片が空へ散り、夜明け前の赤い煙と混ざって消えた。
次にグラードが投げたのは、戦斧ではなかった。
足元の石片を蹴り上げ、それを戦斧の腹で打つ。
石片が砲弾のようにアルベールへ飛ぶ。
アルベールは障壁で受けたが、連続した衝撃に腕がわずかに下がった。
そこへグラードが突っ込む。
「そこだ!」
戦斧が振り下ろされる。
アルベールは咄嗟に空間転移で半歩ずれた。
しかし、完全には避けきれない。
刃の端が脇腹をかすめ、執事服とシャツが裂ける。
血が滲んだ。
アルベールの眉がわずかに動く。
「……少々、深うございますね。」
「まだ喋る余裕があるか。」
「喋れなくなりましたら、かなり危険でございます。」
「では黙らせてやる。」
グラードの攻めは荒々しいが、ただの力任せではなかった。
彼はアルベールの魔法陣の中心を見抜き、障壁の重なりの薄い場所を狙い、詠唱の切れ目へ踏み込む。
かつて勇者一行と競った戦士。
ただ前で殴るだけの男ではない。
長い戦場で、魔法使いを殺す方法も、魔法使いに殺されない方法も身に染みている。
アルベールもそれを承知している。
だからこそ、どの魔法も致命には届かない。
拘束は砕かれる。
光弾は受け流される。
転移は読まれかける。
説得する余地を残している分、アルベールは踏み込みきれない。
殺さぬための魔法は、殺す覚悟の戦斧に押され始めていた。
「グラード様!」
アルベールが声を上げる。
「あなた様が王を斬れば、この国は二つに割れます。あなた様を支持する兵も、王家を守る兵も、互いを許さなくなる。民を救うための謀反が、民を巻き込む内戦になります。」
「今も腐った平和で死んでいる!」
「死を比べて正当化なさるな!」
「ならば、お前が救え!」
「救います!」
「いつだ!」
グラードの声が屋上に響いた。
「いつ救う! 明日か! 来月か! 来年か! その間に死ぬ者へ、お前は何と言う!」
アルベールの魔法陣が一瞬だけ揺れた。
それは疲れか、迷いか。
その隙をグラードは見逃さない。
戦斧が斜めに走り、アルベールの障壁を割った。
衝撃が胸へ届く。
アルベールは後退し、屋上の端近くまで押された。
「あなた様の怒りは、正しい部分を含んでおります。」
アルベールの声は少し低くなっていた。
「だからこそ、間違わせたくないのでございます。」
「正しい怒りを正しい場所へ置けと言うか。」
「はい。」
「そんな棚が、この城にあったか!」
グラードが再び踏み込む。
アルベールは両手を広げ、円形の障壁を作った。
戦斧がぶつかり、青白い火花が散る。
障壁は耐えた。
だが、アルベールの腕が震えた。
もう余力が少ない。
グラードも同じだった。
肩の血は止まらず、呼吸は荒く、膝もわずかに揺れている。
それでも、彼の目だけは折れていない。
互いに老い、疲れ、傷を増やしながら、それでも引かない。
屋上の風の中で、二人の戦いは熱を帯び続けた。
アルベールは指を折るように動かした。
グラードの背後に転移陣が開き、そこから細い光の鎖が飛び出す。
グラードは振り返らず、戦斧の柄を背中側へ回して鎖を叩き落とした。
だが、その隙にアルベールは正面から光弾を撃つ。
グラードはそれを避けず、胸の鎧で受けた。
鎧がひび割れ、彼の口から少し血が飛ぶ。
それでも、彼は前へ出た。
「ぐっ……!」
今度はアルベールが息を詰まらせた。
グラードの拳が、戦斧ではなく直接、彼の腹へ叩き込まれたのだ。
障壁の内側へ、武器ではなく拳で潜り込まれた。
アルベールの体が一瞬浮き、石床へ叩きつけられる。
彼は転がりながら姿勢を立て直そうとしたが、片膝をついたところで動きが止まった。
脇腹の傷から血が落ちる。
呼吸が乱れる。
白髪が顔にかかり、いつもの余裕ある微笑みが消えていた。
「アルベール。」
グラードは戦斧を持ち上げた。
その腕も震えている。
だが、刃はまだ振り下ろせる。
「終わりだ。そこで見ていろ。王を退かせる。」
「……それは、できません。」
アルベールは片膝のまま、手を上げようとした。
しかし、魔法陣は半分しか描かれない。
力が足りない。
グラードの戦斧がゆっくりと上がる。
「なら、まずお前を止める。」
アルベールは歯を食いしばった。
ここで倒れるわけにはいかない。
だが、体が動かない。
魔力も乱れている。
老いた体は、もう若い頃のように無茶を許してくれなかった。
(少々、油断しましたね。)
(いいえ。)
(相手が、やはり強いのでございます。)
戦斧が振り下ろされようとした、その瞬間だった。
空が紫に染まった。
いや、紫の影が屋上へ落ちた。
大きな羽音が、燃える王城の上空を切り裂く。
グラードもアルベールも同時に顔を上げた。
赤い煙の向こうから、巨大な紫の羽を広げた少女が降りてくる。
薄紫の髪が風に流れ、同じ色の瞳が夜明け前の火を映している。
ルシアだった。
彼女は屋上の上空でふわりと旋回し、少し不器用に石台のそばへ着地した。
羽が大きく広がり、火の粉を弾く。
その姿は、戦場に降りた夜の姫のようだった。
ただし、本人はかなり慌てていた。
「アルベール! 大丈夫?」
ルシアは屋上へ降り立つなり、片膝をついているアルベールへ駆け寄ろうとした。
「ルシア様。」
アルベールは少し驚きながらも、すぐに姿勢を整えようとする。
「なぜ、こちらへ?」
「ミレイユたちと夜の城に着いたの。城の周りの霧を薄めるために、私が上空へ上がったのよ。そうしたら、遠くにすごく赤い火が見えたの。大きな火だったから、たまたま見に来たの。」
「たまたまで王城の屋上まで来られる距離ではないと思われますが。」
「私は夜だと遠くまで見えるし、羽も戻っているもの。」
「なるほど。」
「それで、何か大変そうだったから来たわ。」
ルシアは当たり前のように言った。
アルベールは一瞬だけ目を閉じた。
ミレイユが今どんな顔をしているのか、想像するのが少し恐ろしかった。
「ミ…私の主様は?」
「たぶん怒っているわ。」
「…そうでしょう…」
「でも、私は飛んできたわ。」
「でしょうね。」
「怒られる?」
「かなり。」
「後で謝るわ。」
「謝罪文例集が役立ちそうでございます。」
ルシアは真剣に頷いた。
そして、グラードの方を見た。
グラードは戦斧を構えたまま、固まっていた。
先ほどまで燃えるようだった顔が、明らかに青ざめている。
だが、まだ声は出る。
「な、何だ、お前は!?」
グラードが叫んだ。
ルシアは自分を指差した。
「え、わたし?」
「お前以外に誰がいる!」
ルシアは屋上を一度見回した。
「そうね。」
そののんびりした返事に、グラードの顔がさらに引きつった。
彼はルシアの大きな紫の羽、薄紫の瞳、そして小さく開いた口元から覗く牙を見た。
その瞬間、戦斧を握る手に変な力が入った。
「お前は……吸血鬼か?」
「うん。」
ルシアは屈託なく答えた。
グラードは一歩後ずさった。
「俺の血肉を貪るつもりだな!」
ルシアは心底嫌そうな顔をした。
「いやよ、汚いおっさんの血肉とか。ってか私、人の血には興味ないんで。」
屋上に、妙な沈黙が落ちた。
アルベールは片膝のまま、軽く咳払いをした。
「ルシア様。表現。」
「だって、嫌なものは嫌だもの。」
「お気持ちは分かりますが、もう少し穏当な言い回しがございます。」
「そうなの? じゃあ、清潔ではなさそうな年上男性の血肉には、あまり関心がありません。」
「少しだけ改善いたしました。」
「少しだけなのね。」
グラードの顔が怒りと恐怖で複雑に歪んだ。
「アルベール、貴様、吸血鬼を仲間にしたのか!?」
アルベールはゆっくりと立ち上がろうとしながら答えた。
「仲間ではございませんが、親しい友人のおひとりです。」
ルシアの顔がぱっと明るくなった。
「友人!」
「はい。」
「アルベールが、私を友人と言ったわ。」
「言いました。」
「嬉しいわ。」
「それは何よりでございます。」
ルシアは嬉しそうに羽を揺らした。
その羽ばたきで火の粉が横へ流れ、グラードがびくりとした。
ルシアはその反応に気づかず、アルベールへ身を寄せる。
「ねぇ、私が殺しちゃっていい?」
アルベールは即答した。
「申し訳ございませんが、これは私個人の私闘でもありますので大丈夫でございます。」
「そうなの?」
「はい。」
「でも、アルベール、けっこう膝をついていたわ。」
「少々、足元の確認をしていただけでございます。」
「嘘ね。」
「半分ほど。」
「じゃあ手伝うわ。」
ルシアは屋上の縁へ視線を向けた。
「私はグールしか呼べないんだけど、呼んでやっつけちゃう?」
「それはあまりよろしくはありませんね。敵も味方も怖がってしまいます。」
「敵だけ地中に引きずり込むんだったら?」
「区別付きます?」
ルシアは屋上から下の王城と王都を見下ろした。
燃える城壁、逃げる人々、王家側の兵士、反乱兵、グラード派、教会関係者、負傷者、避難者。
すべてが入り混じっている。
彼女はしばらく真剣に見ていた。
「う~ん……無理かな……。」
「では、お控えくださいませ。」
「分かったわ。」
グラードが戦斧を構え直そうとした。
しかし、手が震えている。
恐怖を隠そうとしているが、隠しきれていない。
ルシアはようやくそれに気づいた。
「あなた、震えているわ。」
「震えていない!」
「震えているわ。アルベール、震えている。」
「震えておられますね。」
「貴様ら、黙れ!」
グラードは怒鳴ったが、声が少し裏返った。
アルベールはその顔色を見て、わずかに眉を上げた。
「おや、どうされました?」
「何でもない!」
「先ほどまでの勢いが少々、薄れておりますが。」
「薄れていない!」
「顔色が大変よろしくありません。」
「うるさい!」
ルシアは首を傾げた。
「吸血鬼が怖いの?」
グラードの体がびくりと跳ねた。
それだけで答えは十分だった。
アルベールは一瞬だけ黙り、そして心底意外そうに言った。
「グラード様。まさか。」
「言うな!」
「あなた様、吸血鬼族が苦手なのでございますか。」
「違う!」
「では、骸骨はいかがでございましょう。」
「やめろ!」
「なるほど。」
「なるほどではない!」
グラードは戦斧を握りしめ、顔を真っ青にしながら叫んだ。
「俺は子供の頃から、吸血鬼や骸骨とかは大嫌いなんだ!」
屋上の風が、一瞬だけ妙に静かに感じられた。
ルシアは目を丸くした。
「骸骨も?」
「嫌いだ!」
「チャールズを見たら倒れるかしら。」
「誰だ、それは!」
「私の執事よ。骨なの。とても礼儀正しいわ。」
「聞きたくない!」
アルベールは片手で口元を押さえた。
笑ってはいない。
たぶん笑ってはいない。
しかし、肩がほんのわずかに揺れていた。
「アルベール。」
ルシアが言う。
「笑ってる?」
「いえ。」
「笑ってるわ。」
「少々、呼吸が乱れております。」
「傷のせい?」
「半分ほど。」
グラードはじりじりと後ずさった。
先ほどまで王を退かせる、殺すなら殺せと叫んでいた男が、紫の羽を広げたルシアを前に、明らかに距離を取っている。
戦場では勇猛な戦斧の英雄。
勇者一行のかつてのライバル。
信念で謀反を起こした屈強な老戦士。
その男が、吸血鬼と骸骨が嫌いだった。
しかも、かなり本気で。
「グラード様。」
アルベールはゆっくり立ち上がった。
脇腹を押さえ、少しだけよろめく。
ルシアが支えようとしたが、アルベールは手で制した。
「さて、先ほどは油断してしまいましたが……。」
そう言いながら立ち上がろうとしたところで、アルベールはグラードの顔が真っ青になっていることに気づいた。
いや、気づいてはいたが、改めてその青さを確認した。
グラードは戦斧を構えながら、ルシアから目を離せない。
ルシアが羽を少し動かすたびに、肩が跳ねる。
「おや、どうされました?」
アルベールが穏やかに尋ねる。
「近寄るな。」
「私はまだ近寄っておりません。」
「吸血鬼を近寄らせるな!」
「ルシア様は、こちらへ助けに来てくださっただけでございます。」
「その羽が嫌だ!」
ルシアは自分の羽を見た。
「綺麗なのに。」
「綺麗だから余計に嫌だ!」
「変な人ね。」
「吸血鬼に変と言われたくない!」
グラードは一歩、また一歩と下がる。
背後には屋上の別階段へ続く通路がある。
アルベールがほんの少し前へ出ると、グラードはびくりとした。
ルシアが首を傾げながら一歩前へ出ると、彼は完全に限界を迎えた。
「うおおおおおおっ!」
グラードは叫んだ。
戦意の叫びではない。
明らかに恐怖を振り払うための叫びだった。
そして次の瞬間、彼は戦斧を担いだまま、屋上の反対側へ大慌てで走って行った。
「逃げたわ。」
ルシアが呟いた。
「逃げましたね。」
アルベールも呟いた。
「あの人、すごく強かったのよね?」
「はい。大変な強敵でございました。」
「でも、逃げたわ。」
「はい。」
「吸血鬼が嫌いだから?」
「そのようでございます。」
ルシアは少し考え込んだ。
「私、役に立った?」
「はい。非常に。」
「グールを呼ばなくても?」
「呼ばなくても。」
「噛まなくても?」
「噛まなくても。」
「血を飲まなくても?」
「まったく必要ございません。」
ルシアは嬉しそうに笑った。
「よかったわ。私、人の血は嫌だもの。」
「それは大変よろしゅうございます。」
アルベールはそこで少しよろめいた。
ルシアが慌てて彼の腕を支える。
彼女の細い腕では、老執事の体を完全に支えるには頼りないように見える。
だが、吸血鬼族の力は見た目よりずっと強い。
アルベールは素直に少しだけ体を預けた。
「アルベール、血が出ているわ。」
「少々でございます。」
「少々じゃないと思う。」
「ミレイユ様に見つかれば、そう言われるでしょうね。」
「ミレイユは今、たぶんすごく怒っているわ。」
「でしょうね。」
「私、勝手に飛んできたから。」
「はい。」
「でも、来てよかった?」
アルベールは少しだけ目を閉じた。
グラードとの戦いは、説得で終わらせたかった。
戦いの中で言葉を届かせたかった。
だが、結局、吸血鬼が来たことで流れが変わった。
それは滑稽でもあり、救いでもあった。
グラードは逃げた。
しかし、生きている。
アルベールも生きている。
王も、王妃も、双子姫も、ソータも生きている。
それなら、まだ次の言葉を運ぶ余地がある。
「ええ。」
アルベールは静かに答えた。
「来てくださって、助かりました。」
ルシアの顔がぱっと輝いた。
「本当?」
「本当でございます。」
「私、助けたのね。」
「はい。」
「ミレイユに言ってくれる?」
「叱責が少し軽くなるよう、努力いたします。」
「少しなの?」
「かなりの無断行動でございますので。」
「そうね。」
ルシアは真剣に頷いた。
その時、屋上の下から足音が近づいてきた。
ヨーダの声が聞こえる。
「アルベール殿! ご無事ですか!」
「ご無事とは言い難いですが、生きております。」
「それを世間では無事とは申しません!」
ヨーダが屋上へ駆け上がってきた。
そしてルシアを見た瞬間、足を止めた。
紫の羽。
薄紫の瞳。
牙。
吸血鬼姫。
大神官はしばらく黙り、それから震える手で杖を握り直した。
「……ルシア殿。」
「こんにちは、ヨーダ。」
「こんにちはで済ませてよい場面か、私は判断に困っております。」
「私、アルベールを助けたわ。」
「それは感謝いたします。」
「グールは呼んでない。」
「それは大変感謝いたします。」
「敵だけ地中に引きずり込む案もあったけど、区別が難しいからやめたわ。」
「それは心より感謝いたします!」
ヨーダは深々と頭を下げた。
アルベールは軽く咳き込んだ。
ルシアが支える手に力を入れる。
「下へ戻りましょう、アルベール。」
「その前に、グラード様の行方を確認する必要がございます。」
「逃げた方角は見たわ。」
「追いますか?」
「私が飛べば追えるわ。」
アルベールは少し考えた。
今の自分では、追っても決着をつける余力は少ない。
ルシアに追わせれば追いつくだろう。
だが、グラードは恐慌に近い状態で逃げた。
追い詰めれば、何をするか分からない。
それに、今優先すべきは王城の確保、ソータの治療、王族の安全、教会裏切り者の拘束である。
「いえ。深追いはいたしません。」
「いいの?」
「はい。グラード様は逃げましたが、完全に退いたわけではございません。ですが、今は王城を安定させる方が先でございます。」
「分かったわ。」
「それに。」
アルベールは燃える王都の空を見た。
「あの方にも、少々考える時間が必要でしょう。」
ルシアは同じ方角を見た。
赤い煙の向こうで、グラードの姿はもう見えない。
ただ、彼が走っていった屋上の端には、戦斧が石床を叩いた跡がいくつも残っていた。
逃げた。
だが、消えたわけではない。
戦いは終わっていない。
説得もまだ終わっていない。
それでも、今この屋上では、誰も死ななかった。
アルベールは白手袋の血を見て、小さく息を吐いた。
「ミレイユ様には、叱られることが多すぎますね。」
「ソータも倒れているの?」
「はい。」
「えっ?」
ルシアの羽が大きく広がった。
「ソータが倒れているの? どうして先に言わないの!」
「今申し上げました。」
「行くわ!」
「お待ちください。室内では羽を――」
アルベールが言い終える前に、ルシアは屋上の階段へ駆け出した。
羽を広げたまま行こうとして、扉の残骸に引っかかりかけ、慌てて畳む。
「危なかったわ。」
「室内で羽を広げない、でございます。」
「ミレイユに言われたことだわ。」
「ぜひ覚えておいてくださいませ。」
ヨーダが疲れた顔で二人を見た。
「吸血鬼姫に常識を教えながら謀反を収める日が来るとは、長生きはするものですな。」
「ヨーダ様。」
「何ですかな。」
「まだ終わっておりません。」
「知っております。」
ヨーダは杖を握り直した。
「だからこそ、まずは下へ参りましょう。倒れた運送屋殿と、救われた王族と、怒れる姫君たちが待っております。」
「怒れる姫君たち、ですか。」
「エルシア姫とリシェラ姫も相当ですが、私は遠く北で紅い髪の主がもっと恐ろしい顔をしている気がします。」
アルベールは少しだけ微笑んだ。
「奇遇でございます。私も同じ予感がいたします。」
燃える王城の屋上から、三人は階段へ向かった。
グラードは去った。
しかし、その背中はまだ遠くで火のように残っている。
アルベールの説得は、まだ終わっていない。
ソータの運ぶべき荷も、まだ増え続けている。
そして空には、紫の羽が運んできた予想外の助けの余韻が、火の粉に混じってかすかに揺れていた。




