第160話:運送屋は、壁を落とす
東礼拝堂へ向かう通路は、王城の華やかさを失っていた。
壁に飾られていたはずの宗教画は煙で黒く曇り、金の縁取りはところどころ剥がれ、床には割れた香炉と燭台が転がっている。
遠くではまだ剣戟の音がしていたが、この辺りは奇妙に静かだった。
人の気配が薄い。
その静けさが、かえってソータの胸を重くした。
燃えている城の中で静かな場所というのは、安全だから静かなのではない。
誰かが逃げ損ねたまま、声を出す力もなくなっているかもしれないからだ。
ソータはヨーダから受け取った金色の護符を胸元に挟み、片手で口元を布で押さえながら進んだ。
煙は低いところへ流れており、少し屈むだけで視界が変わる。
足元には煤が積もり、歩くたびに黒い粉が舞った。
(東礼拝堂。)
(洗濯棟。)
(西厨房。)
(エルシア姫の地図だと、まずここを抜けて左。)
(扉が塞がっていたら外す。)
(火が回っていたら水。)
(人がいたら東門へ戻す。)
(順番を間違えるな。)
ミレイユに教えられたわけではないのに、頭の中ではいつの間にか荷札をつけるように考えていた。
燃えている場所。
通れる場所。
人がいる可能性。
使える物。
捨てる物。
持っていく物。
ソータは戦場を荷場のように見ていた。
それはひどく不謹慎なようでいて、今の彼には一番落ち着ける見方だった。
全部を感情で見てしまえば足が止まる。
だからこそ、目の前のものを分類する。
今、運ぶべきものを選ぶ。
角を曲がると、礼拝堂の扉が見えた。
扉は片側だけ開きかけ、その前に倒れた棚が斜めに突っかかっている。
中からかすかに咳き込む声が聞こえた。
「誰かいるのか!」
ソータが叫ぶと、扉の向こうから弱い声が返る。
「ここに……子供が……。」
ソータはすぐに棚へ手を伸ばした。
棚には聖具や本が詰まっており、思ったより重い。
中身ごと格納すると、後で何が混ざったか分からなくなる。
だが、今は整える時間がない。
ソータは一瞬だけ迷い、棚ごと《神速積載庫》へ入れた。
扉が動くようになる。
押し開けると、東礼拝堂の中に煙が薄く溜まっていた。
奥の祭壇前に侍女が二人、子供を三人抱えるようにして座り込んでいる。
さらに、床には年配の神官らしき男が倒れていた。
額から血を流しているが、息はある。
「動ける人はいるか!」
ソータが入ると、侍女の一人が顔を上げた。
「子供たちだけでも……。」
「全員出す。立てる人は立って。立てない人は俺が道具を出す。」
ソータは《神速積載庫》から毛布を出し、床へ広げた。
子供たちには水を一口ずつ飲ませる。
咳き込んでいる小さな男の子には、濡らした布を口元に当てさせた。
年配の神官には応急の布を頭に巻き、近くの長椅子を簡易担架にする。
長椅子は重いが、運ぶのは人ではなく椅子だ。
神官を乗せた状態では収納できない。
だから、近くにいた侍女と自分で持つ必要がある。
ソータは一瞬考え、長椅子の脚を二本外して短くし、運びやすくした。
「この椅子、教会の物です……。」
侍女が震える声で言う。
ソータは短く答えた。
「命優先。」
「はい。」
侍女は頷いた。
その時、祭壇の裏から小さな声がした。
「おばあちゃんが、まだ……。」
子供の一人が泣きそうな顔で指を差す。
ソータが祭壇の裏へ回ると、そこに足の悪そうな老女が倒れていた。
白い髪を布で覆い、片足に古い支え具をつけている。
意識はあるが、動けない。
「洗濯係の……マーヤさん……。」
侍女が呟く。
ソータはリシェラの言葉を思い出した。
足の悪い洗濯係のおばあさんは、誰が連れて行くのか。
その人が、ここにいた。
「マーヤさん、聞こえますか?」
ソータが膝をつくと、老女は薄く目を開けた。
「姫様は……。」
「無事です。東門へ出ました。」
「よかった……。」
「あなたも出ます。」
「私は……足が……。」
「足が動かなくても、運び方はあります。」
ソータは周囲を見た。
担架は神官に使う。
マーヤを背負うには、ソータ一人では他の子供たちの誘導が遅れる。
だが、洗濯用の大きな布袋がいくつも隅に置かれていた。
丈夫な布。
縄。
棒。
簡易の背負い帯を作れる。
ソータは布袋を裂き、縄を通し、老女の体を支えられるように形を整えた。
昔、荷崩れを防ぐために使った結び方を応用する。
人を荷扱いするようで申し訳ないが、落とさないためには一番確実な固定がいる。
「少し窮屈です。痛かったら言ってください。」
「若い人に背負われるなど、何年ぶりでしょうね。」
マーヤはかすかに笑った。
その声には、怖さよりも奇妙な落ち着きがあった。
ソータは彼女を背負い、布と縄で体に固定した。
軽い。
想像よりずっと軽い。
その軽さが、胸に刺さった。
(この人たちは、国を動かしてない。)
(でも、火がつけば逃げ遅れる。)
(強い国とか、正しい王とか、その前に。)
(こういう人をどうするかだろ。)
グラードの顔が浮かぶ。
彼の怒りも分からないわけではない。
王城で飢えの報告が下敷きにされる光景を見たなら、壊したくもなるだろう。
だが、火は選ばない。
火は弱い者から奪う。
だから、やはり止めなければならない。
「行きます。子供たちは前。侍女さんたちは左右。担架はゆっくり。煙が濃いところでは屈んで。」
ソータは指示を出し、礼拝堂を出ようとした。
その瞬間、天井の梁が嫌な音を立てた。
火が回っている。
ソータが顔を上げると、焼けた木片が落ちてきた。
胸元の護符が金色に光った。
ヨーダの結界が一度だけ強い衝撃を防ぐ。
落ちてきた梁は金の光に弾かれ、横へずれて床に落ちた。
火の粉が散る。
子供が悲鳴を上げた。
「止まるな!」
ソータは叫んだ。
今止まれば、全員が動けなくなる。
背負ったマーヤの重みを感じながら、ソータは礼拝堂の外へ出た。
来た道の一部が崩れている。
だが、崩れた梁はまだ燃え切っていない。
ソータは触れられる部分だけを格納し、熱すぎる箇所には水袋を投げて蒸気を上げた。
視界が白くなる。
その中を、子供たちが侍女に手を引かれて進む。
長椅子担架の神官が呻く。
マーヤの細い手がソータの肩を掴んだ。
「あなたは……何の兵ですか?」
「兵じゃないです。運送屋です。」
「運送屋が、人を運ぶのですね。」
「今日はそういう日みたいです。」
「よい仕事です。」
ソータは一瞬だけ言葉に詰まった。
「ありがとうございます。」
その一言が、思ったより深く胸に入った。
よい仕事。
戦場の真ん中で、煤と汗と血にまみれながら、そう言われる。
それだけで、足が少し前へ出た。
◆◇◆
東門へ戻ると、リシェラが真っ先にこちらを見つけた。
彼女は避難者たちの間を縫うように走り寄ろうとし、結界の縁で近衛に止められた。
それでも、ソータの背にいる老女を見て目を大きくする。
「マーヤ!」
「リシェラ姫様……お行儀が……走っては……。」
「今は走っても叱られない時よ!」
「リシェラ。言葉。」
少し遅れて歩み寄ったエルシアが、厳しく言う。
だが、その声は震えていた。
彼女もマーヤを見て、明らかに安堵していた。
ソータはマーヤを慎重に下ろし、毛布の上へ寝かせた。
リシェラがその手を握る。
エルシアも静かに膝をつき、マーヤの顔を覗き込んだ。
「無事でよかったわ。」
「エルシア姫様も……ご無事で……。」
「ええ。ソータ様が運んでくださいました。」
「まあ……姫様が運ばれるとは……。」
「表現は少し整えましょう。」
エルシアが真面目な顔で返すと、マーヤは小さく笑った。
リシェラも笑いながら涙を拭う。
その場にいた侍女たちも、泣きながら笑った。
燃える王城の前で、ほんのわずかな時間だけ、やわらかい空気が生まれた。
ソータはその光景を見て、息を吐いた。
救えた。
少なくとも、この人は間に合った。
「ソータ様。」
エルシアが立ち上がり、深く頭を下げた。
「感謝いたします。王女としてではなく、マーヤに昔から叱られてきた一人として。」
「叱られてきたんだ。」
「ええ。姿勢、言葉遣い、夜更かし、リシェラの甘やかしすぎ、さまざまに。」
「姉様、最後だけ私の責任に聞こえます。」
「実際、半分はあなたの責任です。」
「私は甘やかされる側なのだから、甘やかした姉様の責任では?」
「そこで胸を張らないでください。」
リシェラが少しだけ悪戯っぽく笑った。
ソータはつられて笑いかけたが、すぐに遠くの怒号で顔を上げた。
東門の外から、反乱側の兵の一部が再び近づいてきている。
グラードの名で抑えられている兵もいるが、全員が従っているわけではない。
謀反とは、ひとつの意志だけで動くものではない。
欲、恐怖、復讐、混乱。
それぞれが勝手に火を大きくする。
「東外庭に別働隊! 避難列を狙っています!」
王家側の兵士が叫んだ。
ソータは振り返る。
避難者の列には、まだ子供や老人、負傷者が多い。
そこへ突っ込まれたら、守り切れない。
ヨーダは結界を張っているが、広範囲を守るには限界がある。
アルベールとグラードはまだ城内側で避難路を確保しているらしく、ここへはすぐ来られない。
「ソータ殿!」
ヨーダが叫ぶ。
顔は真っ青で、額には大粒の汗が浮かんでいる。
「結界を広げれば、薄くなります!」
「薄くしたら破られる?」
「破られます!」
「じゃあ広げないでください!」
「それしか言えぬ自分が情けない!」
「十分やってます!」
ソータは外庭を見た。
何が使える。
塩はもう少ない。
布はある。
縄もある。
壊れた荷車の車輪。
樽。
門扉の残骸。
そして、ここへ来るまでに格納した瓦礫、壁の破片、折れた柱。
重いものはたくさんある。
今までは、道を塞ぐものをどかすために入れていた。
火を消すために入れていた。
邪魔だから、危ないから、片づけていた。
だが、それはただの片づけで終わるのか。
(待て。)
(積んだ瓦礫は、出せる。)
(好きな場所に出せる。)
(重い壁も、柱も、門板も。)
(今までは足元や横に出してた。)
(敵の進路をふさぐために。)
(でも、頭上に出したら?)
(落ちる。)
(当たれば、ただじゃ済まない。)
(……攻撃になる。)
ソータの喉が鳴った。
今まで、自分の力を直接誰かを傷つけるために使うことは避けていた。
扉板を盾にする。
絨毯で滑らせる。
足場を崩す。
それらも戦いではあったが、まだ逃げ道があった。
しかし、重い壁を敵の頭上に出すというのは違う。
明確に潰すための使い方だ。
勇者ではない。
剣を振るう者でもない。
でも、今ここで、避難列へ向かう兵を止めなければ、弱い人たちが斬られる。
(使うのか。)
(俺が。)
(荷を落として、人を倒す。)
(できる。)
(でも、やるのか。)
(……命を守るためだ。)
(殺さない場所へ落とす。)
(直撃じゃなく、前へ。)
(足を止める。)
(それでも危険だ。)
(でも、止める。)
ソータは息を吸った。
「エルシア姫! 避難者を右奥へ寄せてください! 左側は空けて!」
「何をなさるつもりですか。」
「重いものを落とします!」
エルシアの目が一瞬細くなる。
人を見下すような冷たさではなく、危険な判断を見極める目だった。
「敵の頭上へ?」
「直撃は避ける。足元と前列を潰す。動きを止める。」
「……承知しました。」
彼女は一瞬だけ迷った。
だが、今は迷う時間ではないと判断したのだろう。
「避難者を右奥へ! 動ける者は子供と老人を抱えなさい! 左側には誰も出ないでください!」
リシェラもすぐに叫ぶ。
「怖くても右へ! 泣くなら右へ行ってから泣いて! 走れる人は走って、走れない人を置かないで!」
「リシェラ。言葉遣い。」
「今はこれで通じます!」
「……後で直します。」
ソータは外庭へ駆け出した。
反乱兵が十数名、避難列を目がけて走ってくる。
彼らは軽装で、動きが速い。
避難者を人質に取るつもりなのか、槍よりも短剣や縄を持つ者が多い。
ソータは彼らの前方、少し右寄りの空間を見た。
そこへ、格納していた壁の破片を出す。
空中に、焦げた壁片が現れた。
反乱兵たちが顔を上げる。
次の瞬間、石と漆喰の塊が地面へ落ちた。
轟音。
石畳が割れ、粉塵が舞う。
先頭の兵士たちは直撃を免れたが、足を取られて転倒し、後続が突っ込んで乱れた。
「何だ!」
「上から壁が!」
「なぜ壁が降る!」
ソータは歯を食いしばった。
もう一つ。
今度は折れた柱を、敵の進路を遮るよう斜め上から出す。
落下した柱が地面を叩き、土埃と火の粉を巻き上げる。
反乱兵たちは完全に足を止めた。
数人が転び、数人が慌てて後退する。
直撃は避けた。
だが、破片が当たって腕を押さえる者もいる。
ソータは胸の奥が冷えるのを感じた。
(やった。)
(やってしまった。)
(でも、止まった。)
(避難列には行かせない。)
「王家側の兵士! 前へ! 倒れた敵は殺すな、武器を取れ!」
ソータが叫ぶと、近衛兵たちが一斉に動いた。
リシェラが指先に氷の矢を作り、逃げようとした反乱兵の足元へ撃つ。
石畳が白く凍り、兵が滑って転ぶ。
「今のは外してないわ!」
「見ています。続けなさい。」
エルシアが短く言った。
リシェラは一瞬嬉しそうにしたが、すぐに次の氷を作る。
未熟でも、足止めには十分だ。
エルシアは負傷兵へ回復魔法をかけながら、視線だけで外庭を見ている。
ソータはさらに門扉の残骸を敵の横へ落とし、退路を一方向へ誘導した。
反乱兵たちは、挟まれる形になり、王家側の兵士に取り押さえられていく。
誰も無傷ではない。
だが、避難列は守られた。
「ソータ様……。」
リシェラが結界の内側から声をかけた。
彼女の顔には驚きと、少しの怖さがあった。
先ほどまで頼れる人だと無邪気に近づいていた相手が、壁を空から落とした。
それは当然の反応だった。
ソータは少しだけ目を伏せる。
「怖かったか?」
「怖かったです。」
リシェラは正直に答えた。
そして、すぐに言葉を続ける。
「でも、助かりました。」
ソータは息を吐いた。
「そう言ってもらえると、少し助かる。」
「私は、あなたに頼ると決めましたから。怖いところも見ます。」
リシェラはそう言って、無理に笑った。
その笑顔は、先ほどより少しだけ大人びて見えた。
エルシアは遠くからソータを見ていた。
その目は、まだ観察している。
しかし、そこには見下しだけではないものが混じっていた。
危険な力を持つ者への警戒。
そして、それを弱者のために使った者への評価。
彼女はゆっくり頭を下げた。
「判断は苛烈でしたが、必要でした。避難者を守ってくださったこと、感謝します。」
「苛烈か。」
「ええ。ですが、戦場では柔らかな善意だけでは足りないことがあります。」
「姫様に言われると、重いな。」
「わたくしも、言いながら重いと思っています。」
エルシアは淡々と言った。
その声は少しだけ疲れていた。
◆◇◆
避難列を守った後、ソータは再び城内へ戻った。
東礼拝堂、洗濯棟、西厨房。
残っている人々を、ひとつずつ拾っていく。
洗濯棟では、煙に巻かれて倒れかけていた使用人たちを見つけた。
水桶をひっくり返し、濡れ布を配り、塞がった裏口の扉を格納して外へ逃がす。
西厨房では、火が回った貯蔵棚を片づけながら、料理人たちと小間使いを誘導した。
重い鍋や壊れた竈の一部を収納し、燃える油壺には砂袋を落として火を抑える。
途中で反乱兵と鉢合わせた時には、もう迷わなかった。
頭上ではなく、彼らの前へ石材を落とす。
進路を塞ぎ、足を止め、必要なら肩口をかすめる位置へ梁を落とす。
相手が怯んだ隙に、味方の兵が取り押さえる。
殺すためではない。
止めるため。
それでも、ソータの手は少しずつ重くなっていった。
(慣れるな。)
(これは、慣れちゃいけない。)
(でも、迷いすぎるな。)
(俺が迷った分、誰かが斬られる。)
(止める。)
(止めて、運ぶ。)
(それだけだ。)
身体はすでに疲れていた。
《神速積載庫》は便利だが、無限に気力を消耗しないわけではない。
重い瓦礫を何度も入れ、出し、また入れる。
火の近くで走り、煙を吸い、負傷者へ声をかける。
目の奥が熱くなり、足元が時々ふらつく。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
東門へ戻るたび、リシェラが心配そうに近づこうとし、エルシアがそれを制しながらもソータの顔色を見ていた。
ヨーダは護符をいくつも作る余裕はなく、代わりに遠くから結界の薄い膜を張ってくれた。
アルベールはまだ城内の別通路で動いている。
グラードもどこかで兵を押さえているらしい。
だが、城の奥はまだ混乱していた。
そんな中で、ソータは一人の侍従から大広間の情報を聞いた。
王と王妃、それに数名の重臣たちが、大広間に追い詰められているという。
反乱軍だけではない。
教会の法衣を着た者たちが混ざっている。
王位の証や印章を奪うため、王に何かを書かせようとしているらしい。
宝物庫の警鐘も鳴っていた。
だが、まず王が捕まれば、偽の退位文書も王命も作られてしまう。
「大広間はどこだ!?」
ソータが聞くと、侍従は震える手で奥の回廊を指した。
「中央回廊を抜け、赤絨毯の階段を上がった先です。しかし、そこはもう……。」
「道はあるか!?」
「半分崩れています。反乱兵もいます。」
「なら、半分はあるんだな!」
ソータは走り出した。
疲労で足が重い。
胸が焼けるように痛い。
だが、止まれない。
中央回廊には崩れた壁があり、反乱兵が二人、逃げる侍女を追っていた。
ソータは躊躇なく、敵の前へ石材を落とした。
轟音に驚いた兵が足を止める。
次に、上から小さめの瓦礫を肩口へ落とす。
二人は悲鳴を上げて倒れた。
ソータは侍女を通路の外へ押しやる。
「東門へ! 王女様たちがいる!」
「王女様が……。」
「生きてる! 走れ!」
侍女は泣きながら走った。
ソータは赤絨毯の階段へ向かう。
階段は半分焦げており、絨毯は煙を上げていた。
彼は燃えている部分を格納し、水袋を床へ投げて火を抑える。
上から怒号が響く。
大広間は近い。
(間に合え。)
(頼む。)
(まだ間に合え。)
(王様がどんな人か分からない。)
(いい王か悪い王かも知らない。)
(でも、今ここで脅されて終わらせちゃ駄目だ。)
(エルシア姫もリシェラ姫も、生きてから変えるって言った。)
(なら、王も生きて責任を取るべきだ。)
(死んだら終わる。)
(終わらせるな。)
階段の上に反乱兵が三人いた。
一人は弓を持っている。
ソータは壁の装飾柱を格納し、そのまま弓兵の足元へ落とす。
柱は階段に斜めに刺さり、弓兵の体勢を崩した。
続けて、格納していた長椅子を横から出す。
残りの二人が足を取られ、階段を転げ落ちた。
ソータはその横を駆け上がる。
もう、息が上がっていた。
視界の端が少し暗い。
大広間の扉は半分開いていた。
中から男の声が響く。
「署名なさいませ、陛下。これ以上、無用な血を流す必要はございません。」
穏やかな声だった。
それがかえって不快だった。
ソータは扉の隙間から中を見た。
広い大広間。
かつては舞踏会や謁見に使われたのだろう。
高い天井にはシャンデリアがあり、壁には王家の歴代肖像が並んでいる。
だが今、床には割れた皿や倒れた椅子が散らばり、赤い絨毯には煤と血がついていた。
中央には王と王妃らしき人物がいた。
王は五十代ほどの男で、立派な衣装を乱しながらも背筋を伸ばしている。
王妃はその横で、数名の侍女を庇うように立っていた。
周囲を囲むのは、反乱軍の兵士たち。
そして、白と灰の法衣を着た教会関係者らしき者たちだった。
その中の一人が、机の上に文書を広げ、羽ペンを差し出している。
「これは退位ではない。国を救うための委任でございます。陛下のお命も、王妃様のお命も、姫君たちの名誉も、すべて守られます。」
「娘たちを襲わせておいて、名誉を語るか。」
王の声は低かった。
「襲ったのは不心得な兵でございます。我々は秩序を取り戻す側にあります。」
「秩序とは、王城を焼くことか?」
「古いものを浄める火でございます。」
ソータの奥歯が鳴った。
この声。
この理屈。
人を燃やしておきながら、浄めると言う。
救うと言いながら、脅す。
グラードの怒りとは違う。
信念の形をした欲だ。
聖なる言葉で包んだ汚れだ。
王妃が一歩前へ出た。
「下がりなさい。あなた方の法衣は、血と煙の匂いが強すぎます。」
「王妃様。お言葉を慎まれませ。新たな秩序において、あなた様のお立場を守るかどうかは――」
「黙れ。」
王が言った。
その声には疲れがあった。
だが、まだ折れてはいない。
「余は無能だったかもしれぬ。判断を誤り、遅らせ、多くを苦しめたかもしれぬ。だが、貴様らにこの国を渡すほど落ちてはおらぬ。」
教会の男の顔から笑みが消えた。
「では、仕方ありません。」
反乱兵が剣を上げる。
王妃の前にいた若い騎士が一人、傷だらけの体で立ちはだかる。
だが、彼の足はもう震えていた。
間に合わない。
ソータの体が先に動いた。
「伏せろ!」
彼は大広間へ飛び込んだ。
反乱兵たちが振り向く。
教会の男が目を見開く。
ソータは格納していた大きな壁片を、兵士たちの頭上ではなく、彼らと王たちの間へ落とした。
轟音。
石と漆喰が床を砕き、兵士たちが左右へ吹き飛ぶ。
王と王妃は若い騎士に押されるように伏せ、間一髪で破片を避けた。
大広間に粉塵が立ち込める。
「何者だ!?」
教会の男が叫ぶ。
ソータは息を切らしながら、王たちの前へ立った。
「運送屋だ!」
「また運送屋か!」
なぜか反乱兵の一人が叫んだ。
ソータは少しだけ苛立った。
「そろそろ覚えろ!」
反乱兵たちは体勢を立て直す。
数は多い。
十人以上。
法衣の男たちも数名いる。
ソータは手持ちの瓦礫を頭の中で確認した。
壁片。
柱。
扉板。
壊れた階段材。
石材。
全部ある。
だが、王たちが近い。
不用意に落とせば味方を巻き込む。
しかも、ソータの体力はもうかなり削れている。
手が震え、頭が少し重い。
「陛下、王妃様、動けますか!」
「貴殿は……。」
「説明は後で! 東門へ逃げ道があります!」
「娘たちは!」
「無事です! エルシア姫もリシェラ姫も生きています!」
王の顔が大きく変わった。
王妃も口元を押さえる。
その瞬間、法衣の男が怒鳴った。
「惑わされるな! その者を殺せ!」
反乱兵が一斉に動いた。
ソータは小さな石材を彼らの足元へ連続して出した。
踏み出す場所へ、石が現れる。
転ぶ。
崩れる。
盾を構えた兵には、上から扉板を落として視界を塞ぐ。
槍を持つ兵には、横から柱を出して柄を弾く。
それでも、数が多い。
一人がソータの横をすり抜け、王妃へ向かおうとした。
ソータは咄嗟に、その男の前へ壁の塊を落とした。
近すぎた。
破片がソータの頬をかすめ、血が滲む。
男は悲鳴を上げて後ろへ倒れた。
(危ない。)
(近い。)
(もう少しで巻き込むところだった。)
(集中しろ。)
(でも、頭が重い。)
(息が苦しい。)
(まだだ。)
(まだ終わってない。)
教会の男が懐から聖具を取り出した。
小さな銀の輪。
そこに刻まれた文字が光る。
ルシアの城へ向けられた聖結界具とは別物かもしれないが、似た嫌な気配があった。
「浄化の光を――」
「させるか!」
ソータは銀の輪へ向けて、壊れた鉄金具を投げ出すように出した。
鉄が聖具へぶつかり、光が乱れる。
男は怯んだ。
だが、すぐに別の法衣の者が詠唱を始める。
反乱兵は左右から迫る。
王たちはまだ動けない。
このままでは押し切られる。
ソータの胸の奥で、重い鼓動が鳴った。
あの感覚。
ゴブリン退治の時。
男たちの村を包囲した連中を吹き飛ばした時。
全身の力が一気に抜ける、危険なスキル。
使えば倒れる。
今の疲れた体で使えば、なおさら危ない。
だが、ここで使わなければ、王たちが斬られる。
教会の男たちが文書を奪う。
偽の王命が生まれ、もっと多くの人が死ぬ。
(使うしかない。)
(でも、ここは屋内だ。)
(壁ごと吹き飛ばすかもしれない。)
(王たちは後ろ。)
(俺の前だけに向けろ。)
(まとめて押し出す。)
(壁の外まで。)
(荷台じゃない。)
(車体。)
(あの幻影。)
(前へ。)
(全部、前へ。)
ソータは足を踏みしめた。
膝が震える。
それでも、前を見る。
反乱兵たちが迫る。
法衣の男が叫ぶ。
王妃が誰かの名を呼ぶ。
王が剣を拾おうとする。
ソータは息を吸った。
「《車体爆裂突進》!」
空気が変わった。
大広間の床が低く唸る。
ソータの背後に、巨大な車体の幻影が現れた。
黒く、重く、現実には存在しないはずの鉄の塊。
それは一瞬だけ、王城の大広間にはあり得ない異世界の影を帯びて輝いた。
次の瞬間、幻影は前へ爆ぜるように突進した。
反乱兵たちが悲鳴を上げる。
盾も槍も、聖具の光も、法衣の詠唱も、まとめて押し潰すように吹き飛ばされる。
大広間の向こう側の壁が砕けた。
石壁が外へ破裂し、煙と瓦礫が空へ吐き出される。
反乱軍の兵士たちは壁ごと外廊下へ弾き出され、法衣の男たちも机や文書と一緒に転がった。
聖具が砕け、銀の輪が床を跳ねる。
風圧でシャンデリアが大きく揺れ、肖像画が壁から落ちた。
静寂が、一瞬だけ大広間を支配した。
ソータは立っていた。
立っていたが、すぐに視界が揺れた。
耳鳴りがする。
足の感覚が遠い。
胸の奥が空っぽになっていく。
もともと疲れていた。
何度も瓦礫を入れ、出し、人を助け、火の中を走った。
そこへ、この大技だ。
体が耐えきれなかった。
(やばい。)
(立ってられない。)
(でも、王様たちは……。)
(助かった、か?)
(壁、吹き飛んだ。)
(やりすぎた。)
(ミレイユに……怒られる……。)
ソータの膝が折れた。
床が近づく。
誰かが名前を呼んだ気がした。
リシェラではない。
エルシアでもない。
もっと遠く、紅い髪紐の記憶の中から聞こえる声だった。
ソータはそのまま倒れた。
◆◇◆
大広間の壁は、巨大な獣に食い破られたように外へ開いていた。
粉塵の向こうでは、反乱兵たちが瓦礫の中で呻いている。
何人かは気を失い、何人かは動こうとしてまた倒れる。
法衣の男は砕けた机の下で呻き、手から離れた文書が風にあおられて広間を滑った。
王と王妃は若い騎士に支えられ、呆然とその光景を見ていた。
目の前に立っていたはずの黒髪の運送屋は、もう床に倒れている。
王妃が青ざめた。
「その者を!」
若い騎士が慌ててソータへ駆け寄る。
しかし、それより早く、砕けた壁の向こうから黒い影が走ってきた。
アルベールだった。
老執事は、いつもの優雅さを残しながらも、明らかに急いでいた。
肩の裂けた執事服。
血の滲む白いシャツ。
片方だけ汚れた白手袋。
それでも、彼の足取りは乱れない。
だが、ソータの倒れた姿を見た瞬間、その目だけがわずかに鋭くなった。
「ソータ様!」
アルベールは膝をつき、ソータの首筋へ指を当てた。
脈を確かめ、呼吸を見て、すぐに小さく息を吐く。
「消耗による失神でございます。命に別状はございません。」
その声を聞いて、王妃が胸を押さえた。
王も深く息を吐く。
「この者は、何者だ?」
王が問う。
アルベールはソータの体を慎重に横向きにし、呼吸しやすい姿勢に整えながら答えた。
「運送屋でございます。」
「……本当に運送屋なのか?」
「はい。少々、荷扱いが広範囲ではございますが。」
王は言葉を失った。
大広間の吹き飛んだ壁。
瓦礫の向こうで呻く反乱兵。
砕けた聖具。
倒れたソータ。
そのすべてを見れば、少々という言葉がいかに控えめすぎるかは明らかだった。
少し遅れて、ヨーダが息を切らして駆け込んできた。
彼は大広間の惨状を見るなり、杖を取り落としそうになった。
「何が起きたのですか!?」
「ソータ様が、少々。」
「少々で壁が消えますか!」
「消えたのではございません。吹き飛びました。」
「説明が悪化しております!」
ヨーダは顔を引きつらせながらも、すぐに法衣の男たちへ視線を向けた。
その目に怒りが宿る。
「聖具を持っておりますな。」
ヨーダが低く言う。
倒れた教会の男たちが震えた。
大神官の声には、先ほどまでの怯えはなかった。
自分の教会の名を使い、王を脅し、偽の秩序を作ろうとした者たちへの怒りだけがあった。
「拘束しなさい。聖具を回収。文書もすべて押さえるのです。」
王家側の兵士たちが動く。
反乱兵は抵抗できる状態ではなく、法衣の者たちも聖具を失っていた。
アルベールはソータの胸元からミレイユの紅い紐が覗いているのを見つけ、ほんの少しだけ目を細めた。
それを汚れないように、そっと服の内側へ戻す。
「ミレイユ様に、また叱られてしまいますね。」
小さく呟いた声は、誰にも聞こえないほど静かだった。
その時、王城の上方から重い足音のような響きがした。
屋上へ向かう石段の方角で、何かが砕ける音がする。
アルベールが顔を上げる。
「グラード様は。」
ヨーダが息を整えながら答えた。
「屋上へ向かったようです。王城の上に、軍務派の旗を掲げるつもりか、あるいは別の誰かを追っているのか……。」
「放っておくわけには参りませんね。」
アルベールは立ち上がろうとして、一度ソータを見た。
倒れたソータを置いていくわけにはいかない。
だが、グラードも止めなければならない。
王と王妃は救えた。
大広間は押さえた。
しかし、謀反はまだ終わっていない。
その時、エルシアとリシェラが大広間へ駆け込んできた。
二人とも煤で汚れ、衣装は乱れていたが、無事だった。
リシェラは倒れているソータを見るなり、顔色を変える。
「ソータ様!」
彼女は近衛の制止を振り切り、ソータのそばへ膝をついた。
手を伸ばし、けれど触れていいのか迷い、アルベールを見る。
「生きているの?」
「はい、リシェラ様。消耗による失神でございます。」
「よかった……。」
リシェラはその場で力が抜けたように座り込んだ。
エルシアは一歩遅れて近づき、まず父王と王妃の無事を確認した。
それからソータを見下ろす。
その目には、もう最初のような見下す冷たさはなかった。
警戒はある。
驚きもある。
そして、認めざるを得ないという静かな感情があった。
「この方が、父上と母上を救ったのですね。」
「そのようです。」
王が答えた。
声にはまだ衝撃が残っている。
「運送屋だそうだ。」
エルシアは少しだけ眉を動かした。
「わたくしも、まだその説明には納得できておりません。」
「私もよ。」
リシェラがソータのそばで呟く。
「でも、頼れる方です。」
アルベールは屋上へ続く方角を見た。
その顔は再び老執事のものに戻っている。
ただし、目の奥には厳しい光があった。
「ヨーダ様。ソータ様をお願いいたします。王族の皆様には、この場から安全な位置へ移動していただきます。」
「あなたは?」
ヨーダが問う。
「屋上へ。」
「グラードを止めるのですな。」
「はい。」
「お一人で?」
「可能な限り。」
ヨーダは苦い顔をした。
「可能な限り、という言葉は便利ですが、今回は少々心臓に悪いですぞ。」
「心得ております。」
アルベールはソータへ一度だけ視線を落とした。
「ソータ様。少々、お待ちくださいませ。」
意識のないソータは答えない。
だが、その手は無意識に胸元の紅い紐を握っていた。
アルベールは静かに一礼し、砕けた壁の向こうから吹き込む風の中を、屋上へ向かって歩き出した。
グラードは城の屋上へ向かった。
謀反の火はまだ消えていない。
そして、運送屋が開けた大きな穴から、燃える隣国王都の空が赤く見えていた。




