第159話:東門の退路と、姫君たちの温度差
東門へ向かう通路は、王城の中でも比較的広いはずだった。
物資の搬入、馬車の出入り、兵士の移動。
平時なら、王城の胃袋へ食料や薪や布を流し込むための道であり、いざという時には王族を逃がすための退路でもある。
だが今、その道は半分以上が死んでいた。
崩れた石壁が床を塞ぎ、焼け落ちた梁が斜めに突き刺さり、割れた荷樽から穀物がこぼれて石畳の上に散っている。
ところどころに落ちた火種が麦粉や布に移り、小さな炎を作っている。
煙は低く流れ、視界を奪い、息をするたびに喉を刺した。
ソータは走りながら、目の前の障害を次々と見極めた。
瓦礫は入れる。
火種は水で消す。
使える木板は退路の補強に回す。
負傷者はヨーダの結界側へ渡す。
通れないなら道を作る。
作れないなら、別の道を開ける。
(落ち着け。)
(荷場と同じだ。)
(何が邪魔で、何が必要かを見る。)
(全部は助けられない。)
(でも、通れる道を一本作れば、人は動ける。)
(動ければ、助かる命が増える。)
ソータは崩れた柱の根元へ手を当てた。
重さはかなりある。
だが、完全に建物を支えている柱ではなく、すでに折れて落ちた残骸だ。
周囲を素早く確認し、支えになっていないことを見てから《神速積載庫》へ格納する。
視界が開く。
奥に倒れていた若い兵士が顔を上げた。
足に梁が乗っている。
そのそばで年配の侍従らしき男が必死に梁を動かそうとしていた。
「下がって!」
ソータが叫ぶと、侍従は驚いて手を離した。
ソータは梁に触れ、格納する。
若い兵士の足が自由になった。
すぐに水袋と布を取り出し、侍従へ投げる。
「止血して、結界の方へ! 歩けないなら二人で肩を貸して!」
「あなたは……。」
「運送屋!」
「運送屋?!」
近くで別の兵士が叫んだ。
どうやら、すでに広場でソータが道を作っているという噂が、戦場の中で変な形で広がり始めているらしい。
ソータは少しだけ困ったが、説明している暇はなかった。
「運送屋だろうが何だろうが、道を空ける! 動ける人は動いて!」
声を張ると、周囲の者たちが反射的に動き始めた。
戦場では、明確な指示があるだけで人は動ける。
誰が言ったかより、今何をすべきかの方が先になる。
ソータはその流れを利用した。
兵士には負傷者の搬送を。
侍従には水と布の配布を。
逃げてきた侍女には子供や老人をまとめる役を頼む。
自分は障害物の処理に集中する。
その背後から、ヨーダの結界がゆっくりと進んできた。
金色の光に包まれた簡易の避難区画の中に、エルシアとリシェラ、負傷した近衛兵たちがいる。
ヨーダは杖を両手で握り、額に汗を浮かべていた。
震えはある。
だが、結界は揺れても破れない。
「ソータ殿! 東門はまだか!」
「もう少しです!」
「もう少しという言葉は、祈りの場では大変便利ですが、戦場では少々心臓に悪いですぞ!」
「俺もそう思います!」
ソータは叫び返し、今度は横倒しになった補給馬車へ向かった。
車輪が片方外れ、荷台が通路を完全に塞いでいる。
馬はすでに逃がされた後らしい。
荷台には麦袋、塩樽、布束、矢束が残っていた。
全部をまとめて格納したいところだが、矢束と油の染みた布が混ざっている。
火が回れば危ない。
ソータはまず矢束だけを回収し、次に麦袋、最後に壊れた荷台を入れた。
塩樽は割れていないものだけ横へ出し、使えない割れ樽は格納する。
荷が消えたことで、東門へ向かう通路の先が見えた。
だが、そこには別の問題があった。
東門の内側に、反乱側の小隊が陣取っていた。
数は十数名。
門を開けるための巻き上げ機の周囲を押さえ、弓兵が二階の張り出しからこちらを狙っている。
彼らは王族を逃がす気がない。
むしろ、ここで捕らえるつもりなのだろう。
ソータは足を止めた。
(正面は無理。)
(弓がある。)
(門を開けるには巻き上げ機。)
(巻き上げ機の周りに敵。)
(戦えない。)
(なら、何を運ぶ?)
(何をどかす?)
(何を置く?)
ソータが考えている間に、エルシアが結界の内側から状況を見た。
彼女の顔から、先ほどまで妹に向けていた細かな表情が消える。
王族としての判断が戻っていた。
背筋は伸び、豊かな胸元を包む白銀の衣装は煤で汚れているのに、その立ち姿だけは不思議と崩れていない。
ただ、その目にはどこか、人を遠くから測る冷たさがあった。
危機の中でなお、彼女は自分が命じる側の人間だと理解している。
それは誇りであり、同時に距離でもあった。
「東門を押さえられていますわね。」
「別の門は?」
ソータが聞くと、エルシアはすぐ答えた。
「南門は正門ですから、最も戦闘が激しいはずです。北門は王族専用の通路がありますが、王城内を大きく戻る必要があります。西側は先ほどの塔側で、火と崩落が広がっています。」
「つまり、東門が一番まし。」
「ええ。まし、というだけですわ。」
リシェラが結界の内側から身を乗り出すようにして東門を見た。
彼女は姉より少し動きやすい衣装に直しているのか、腰布を片側で結び、足さばきが軽い。
騎士団の訓練場に混じるという話は本当なのだろう。
肩や腕には細いながらも鍛えた気配があり、姿勢も逃げる者というより前に出る者のそれだった。
しかし、その華やかな体つきと明るい顔立ちは、戦場の黒い煙の中で妙に目立つ。
騎士団の若者たちに人気があるというのも、ソータには何となく分かった。
「ソータ様。門ごと消せますか?」
「さすがに門は固定されてるから無理だと思う。」
「固定されていなければ?」
「邪魔なら運べる。」
「なら、固定しているものを外せばいいじゃない。」
エルシアが妹を見た。
「リシェラ。言い方は乱暴ですが、考え方は悪くありません。」
「褒めるなら素直に褒めてくださいな。」
「今はそういう場面ではありません。」
「姉様はいつもそう言います。」
「あなたはいつも余計なことを言います。」
ソータは二人のやり取りを聞きながら、改めて東門を見た。
門そのものは無理でも、巻き上げ機の周囲にあるもの。
敵の足場。
弓兵が立つ張り出しの床板。
固定されているように見えて、壊れかけている物。
運べるものはあるかもしれない。
「姫様、あの弓兵がいる張り出し、構造は?」
ソータが聞くと、エルシアがすぐ壁面を見上げた。
人見知りなのか、視線はソータをまっすぐ見ず、建築物と敵の配置を追っている。
それでも答えは早かった。
「木製の作業足場に石の化粧板を張ったものですわ。もとは門の修繕用の仮設足場でしたが、予算の都合でそのままになっています。」
「また予算か。」
「わたくしは撤去案を出していました。もっとも、財務官たちはわたくしの意見を、若い王女の机上論だと笑っていましたけれど。」
その言葉には、少しだけ冷えた怒りが混じっていた。
人を見下す目をしているのは、彼女自身が見下されてきたからでもあるのかもしれない。
王族でありながら、若い女だからと軽く扱われたことがある。
それが彼女の中に、相手を先に値踏みする癖を作っているようにも見えた。
「今、その案が通ってなかったせいで困ってるな。」
「ええ。残念ながら、わたくしの正しさが証明されました。」
リシェラが小声で言う。
「姉様は、こういう時だけすごく嬉しそうに正論を言うのよ。」
「聞こえています。」
「聞かせました。」
「リシェラ。」
「ごめんなさい。」
リシェラは口では謝ったが、あまり反省していない顔だった。
その軽さが、張り詰めた空気の中で少しだけ息をしやすくする。
ソータは小さく息を吐いた。
「ヨーダ大神官。少しの間、弓を防げますか?」
「少しなら可能です。長くは無理ですぞ。」
「十分です。合図したら、張り出しの方へ結界を寄せてください。」
「何をするおつもりで?」
「足場を外します。」
「物騒ですな!」
「アルベールよりは穏やかです!」
「比較対象が悪い!」
ヨーダが叫びながらも、結界の形を変えた。
金色の光が弓兵のいる張り出しへ向けて厚くなる。
反乱側の弓兵が矢を放つ。
矢は結界に当たり、次々に弾かれた。
ソータはその瞬間に走り出す。
門脇の壁沿いに低く走り、矢の角度から外れる。
足場の支柱の根元へ手を伸ばした。
固定具が錆びている。
木材は焦げ、釘も緩んでいた。
(これならいける。)
(ただし、一気に外すと落ちる。)
(下に人がいる。)
(なら、支えるものを出す。)
ソータは先ほど回収した扉板を下へ斜めに出した。
足場が落ちても反乱兵の頭上へ直接落ちないよう、滑り台のように角度をつける。
次に、支柱の根元へ触れて格納した。
一本。
二本。
足場が軋む。
弓兵たちが慌てる。
「何だ! 床が!」
「下がれ!」
ソータは最後の支柱を外した。
張り出しが大きく傾き、弓兵たちは悲鳴を上げながら斜めの扉板を滑り落ちた。
落下の衝撃は抑えられたが、彼らは転がり、弓を手放す。
反乱小隊の陣形が乱れた。
「今です!」
ソータが叫ぶ。
王家側の兵士たちが一斉に動いた。
近衛兵が結界の外へ飛び出し、敵の槍を弾く。
ヨーダが結界を前へ押し出し、敵を壁際へ追いやる。
ソータは巻き上げ機の前に転がった樽や壊れた盾を格納し、動ける空間を作った。
エルシアが近衛へ鋭く指示を出す。
「巻き上げ機を確保なさい。弓兵は捕縛を優先。門外に王家旗を出してください。無駄に斬れば、こちらの正統性まで汚れます。」
その声は、先ほどまで扉の陰からソータを観察していた姫と同じ人物とは思えないほど凛としていた。
兵士たちの顔が変わる。
姫がいる。
姫が生きて指示を出している。
それだけで、王家側の兵士たちは力を取り戻す。
リシェラも負けていなかった。
彼女は結界の内側から片手を前に出し、指先に小さな氷の矢を作った。
まだ細く、魔力も安定していない。
だが、放たれた氷は巻き上げ機へ近づこうとした反乱兵の足元に突き刺さり、石畳を白く凍らせた。
兵は足を滑らせて転び、近衛に取り押さえられる。
「今のは狙い通りよ。」
リシェラが誇らしげに言った。
「今回は、です。」
エルシアが冷静に返す。
「姉様、もう少し褒めてもよろしいのでは。」
「今の状況で浮かれれば、次を外します。」
「むう。」
リシェラは少し頬を膨らませたが、すぐに周囲の侍女たちへ声をかける。
「泣くのは後にしましょう。今は水を配って。そこのあなた、小さい子を集めて。あなたは白い布を振って、門外の味方へこちらを知らせて。大丈夫よ、姉様が生きているし、私もまだ氷を撃てるわ。」
「リシェラ姫。」
ソータが思わず声をかけると、リシェラは振り返って笑った。
「怖い人のふりをしているの。そうすると、本当に少しだけ怖くなくなるわ。」
「十分すごい。」
「そう? なら、もっと頼っていいわよ。」
「頼る側なのか、頼られる側なのか分からないな。」
「両方よ。私は頼れる人に頼るし、頼ってくる人には少し格好をつけるの。」
エルシアが小さくため息をつく。
「それを王女としての言葉に直すなら、支え合う、です。」
「そう。それ。」
「省略しないでください。」
姉は戦術を整え、妹は人の心を動かす。
ソータは二人の指示を聞きながら、思わず感心した。
双子はただ守られるだけの姫ではない。
性格は違うが、それぞれの場所で人を動かせる。
それも、こんな火の中で。
だが、東門が開き始めた瞬間、城壁の外から重い音が響いた。
門外にも反乱兵がいる。
東門を開けても、外が安全とは限らない。
むしろ、待ち伏せている可能性が高い。
ソータは門の隙間から外を見た。
外側の広場には、反乱側の騎兵が数騎見える。
さらに、その奥に歩兵。
完全に包囲ではないが、突破するには厳しい。
(門を開けただけじゃ駄目だ。)
(外の道を作る必要がある。)
(でも、騎兵相手にどうする?)
(馬を傷つけたくない。)
(足を止める。)
(滑らせる?)
(遮る?)
その時、ソータの視界の端に、塩樽が映った。
先ほど回収したものだ。
王城の保存庫から運ばれていた塩。
さらに、割れた穀物袋。
布束。
縄。
これらを道具として使える。
「ヨーダ大神官! 門の外へ一瞬だけ結界を広げてください!」
「また一瞬ですか!」
「一瞬です!」
「最近の若者は、一瞬に多くを求めすぎる!」
ヨーダは文句を言いながらも杖を振った。
金色の結界が門の外へ半円状に広がる。
反乱騎兵が一瞬たじろいだ。
その隙に、ソータは門外の石畳へ塩樽を出して割り、塩と穀物を広げた。
さらに布束を細長く伸ばし、縄で固定して低い障害を作る。
馬を転ばせるのではない。
進路を乱し、速度を落とすための帯だ。
反乱騎兵の馬が踏み込むと、塩と穀物で足元が滑り、布の障害で速度が落ちる。
騎兵たちは慌てて手綱を引いた。
「何だ、この道は!」
「塩だ!」
「なぜ戦場に塩が!」
「運送屋の仕業だ!」
誰かが叫んだ。
ソータは少しだけ嫌な顔をした。
(運送屋の仕業って何だ。)
(いや、間違ってないけど。)
騎兵の足が止まったことで、王家側の兵士たちが外へ出る余地が生まれた。
門の外にいた味方もこちらへ気づき、王家旗を掲げて合流しようとしている。
東門の退路が、完全ではないが開き始めた。
◆◇◆
一方、王城外郭の広場では、アルベールとグラードの戦いが続いていた。
白手袋の老執事と、巨大な戦斧を持つ屈強な戦士。
互いの姿はまるで違う。
だが、ぶつかる力の重さは同じだった。
アルベールが空間を折り、光の刃を斜めから走らせる。
グラードはそれを戦斧の腹で受け、力任せではなく角度を合わせて弾いた。
魔法の刃が城壁に逸れ、石が薄く削れる。
アルベールは次に足元へ拘束陣を展開したが、グラードは一瞬早く踏み込み、陣の中心を戦斧の柄で打ち砕く。
魔力の線が散った。
「相変わらず、術式の嫌なところを見るのが上手い。」
アルベールが言う。
「お前と何度もやったからな。」
グラードが答える。
「勇者の背を追っていた頃、お前はいつも後ろから嫌な魔法を置いた。」
「後方支援は重要でございます。」
「俺は前で全部叩き割る方が性に合っていた。」
「存じております。」
二人の声はどこか昔を懐かしむようで、しかし刃と魔法は一切緩まなかった。
グラードの戦斧が床を叩く。
衝撃波が走り、アルベールの足元を崩そうとする。
アルベールは浮遊魔法でわずかに足を浮かせ、同時に背後へ三つの魔法陣を展開する。
そこから放たれた光の鎖がグラードの肩、腰、戦斧へ絡みついた。
グラードは低く唸り、筋肉を軋ませながら鎖を引きちぎる。
しかし一本だけは残り、彼の左腕をわずかに止めた。
アルベールはその隙を逃さず、細い光弾を放つ。
グラードは受け切れず、肩に一発を受けた。
鎧が砕け、血が散る。
「浅いな。」
グラードは笑った。
「浅く撃ちました。」
アルベールは答える。
「まだ説得の余地を残しているのか?」
「できれば。」
「甘い。」
「昔のあなたなら、甘いと言いながら笑っておられました。」
「昔の俺は、まだ待てると思っていた。」
グラードの目が暗くなる。
その怒りは、単なる野心ではない。
長い時間をかけて積もった諦めだ。
「アルベール。俺は見たぞ。北の干ばつで、税を納められぬ村が兵に倉を空けられるのを。南の砦で、補給が届かず兵が馬の革を煮て食うのを。王都の舞踏会で、その報告書が銀皿の下敷きにされるのを。」
「それらを変えるために、王族を殺すのですか?」
「殺すのではない。退かせる。」
「剣を持った退位勧告を、世は殺害と呼びます。」
「言葉の飾りは不要だ。」
「言葉を捨てれば、残るのは力だけでございます。」
「力がなければ、言葉は届かん。」
グラードが再び踏み込む。
今度の一撃は重いだけではなかった。
速い。
アルベールは障壁を三重に張った。
一枚目が砕け、二枚目が割れ、三枚目が深くたわむ。
戦斧の刃がアルベールの肩口へ迫る。
老執事は顔色ひとつ変えず、白手袋の指を開いた。
小さな転移陣が刃の軌道に現れ、斧の先だけを数寸ずらす。
刃はアルベールの肩をかすめ、黒い執事服の布を裂いた。
白いシャツに赤がにじむ。
ヨーダが遠くから叫んだ。
「アルベール殿!」
「問題ございません。」
「出血しておりますぞ!」
「染み抜きが少々面倒でございます。」
「そこではありません!」
グラードは戦斧を引いた。
「腕は落ちていないな。」
「あなたも。」
「そうか。」
「ですが、体力は昔ほど無限ではございませんでしょう。」
「それはお互い様だ。」
グラードの呼吸も荒くなっていた。
肩から血が流れ、鎧の下で筋肉が震えている。
だが、戦意はまったく落ちていない。
彼は己の信念で立っている。
だから折れない。
「グラード様。」
アルベールは静かに言った。
「民を救うためと仰るなら、まず火を止めなさい。」
「火を止めれば、この腐った城はまた閉じる。」
「閉じた城を開く方法は、焼く以外にもございます。」
「お前たちはいつも、方法があると言う。だが、その方法を持っているのは、お前たちのような者だけだ。」
「では、持つ者が使えばよろしい。」
「使わなかったから、俺がここにいる。」
アルベールは口を閉じた。
その沈黙は、否定できない部分があるということだった。
グラードはそれを見て、少しだけ悲しそうに笑った。
「昔のお前なら、もっとすぐ言い返した。」
「年を取りましたので。」
「違う。お前も分かっているのだ。この国も、王国も、教会も、放っておけばまた誰かを踏む。」
「だからといって、踏み返すことを許すわけには参りません。」
アルベールの足元に大きな魔法陣が広がった。
今までより複雑で、密度が高い。
グラードもそれを見て、戦斧を両手で構える。
「来い、老魔法使い。」
「参ります、老戦士。」
二人の力が再びぶつかろうとした瞬間、東門の方角から王家旗が上がった。
金の紋章が煙の中で翻る。
グラードの目が一瞬だけそちらへ動いた。
「姫たちを逃がしたか。」
「そのようでございます。」
アルベールの声に、ほんの少しだけ安堵が混じった。
「運送屋、やるな。」
「はい。ソータ様は、よく運ばれます。」
「それは褒め言葉か?」
「最大級でございます。」
グラードは短く笑った。
「ならば、まだ終わらん。」
彼は戦斧を下げ、しかし退く気配は見せなかった。
「王族が逃げたなら、次は民を王城から出す。俺の部下も、お前たちの兵も関係なくな。」
アルベールの目がわずかに細くなる。
「目的を変えられるのですか?」
「目的は変わらん。腐った王城を壊す。だが、焼け死ぬ民は俺の目的ではない。」
「では、一時休戦を。」
「勘違いするな。俺は止まらん。」
「ならば、同じ方向に走る時間だけでも。」
グラードはアルベールを睨んだ。
長い沈黙の後、戦斧を肩に担ぐ。
「東門の外に、俺の名で動く兵がいる。王族を追わせるなと命じる。その代わり、民の避難を妨げるな。」
「承知いたしました。」
「ただし、王を見つけたら、俺は行く。」
「その時は止めます。」
「止めてみろ。」
「もちろん。」
二人は笑わなかった。
だが、わずかに呼吸が変わった。
決着はついていない。
互いの信念も折れていない。
ただ、今この瞬間、燃える城の中で優先すべき荷だけが一致した。
◆◇◆
東門の外では、避難が始まっていた。
王家側の兵士と、グラード派の一部兵士が睨み合いながらも、負傷者や侍女、下働きの者たちを外へ出している。
ヨーダは結界をいくつも小さく分け、避難者の集団ごとに光の覆いをかけた。
顔はますます青いが、杖は倒れない。
ソータは門の脇で、救護に必要な布、水、塩、麦袋、毛布を出していた。
リシェラがその横へ寄ってくる。
かなり近い。
結界の外へ出ようとして、近衛に止められたので、結界の縁ぎりぎりまで来たらしい。
「ソータ様。」
「結界から出るなよ。」
「出ません。今は。」
「今は?」
「必要なら出ます。」
「出ないでくれ。」
「では、あなたが私のところへ来て。」
リシェラは悪びれずに言った。
ソータは一瞬、返事に困る。
その様子を見て、リシェラは少し楽しそうに笑った。
「頼れる方を近くに置くのは、王女として当然の判断です。」
「それは王女としてなのか?」
「半分くらい。」
「残り半分は?」
「怖いから。」
その素直さに、ソータは言葉を失った。
リシェラは強がるが、怖くないわけではない。
怖いから近づく。
怖いから甘える。
怖いから、頼れる相手を見つけると、とことん頼ろうとする。
それは弱さにも見えるが、誰かを選んで頼ることができる強さでもあった。
「分かった。ここから離れすぎないようにする。」
「ありがとう。」
リシェラはぱっと明るくなった。
その笑顔に、近くの若い騎士が一瞬見惚れて、隣の兵士に肘で突かれている。
確かに、騎士団にファンが多いという話は本当らしい。
エルシアは少し離れた場所でそれを見ていた。
彼女はソータへ近づかない。
ただ、避難者の流れ、兵士の配置、リシェラの様子、そしてソータの手元を静かに観察している。
人見知りというには冷たすぎるが、無関心ではない。
信用しきれない相手を、必要な距離から測っている。
「エルシア姫。」
ソータが声をかけると、彼女は少しだけ目を上げた。
「何でしょう。」
「西厨房の下働き、洗濯棟の人、東礼拝堂の侍女がまだ確認できてないって聞いた。場所は分かるか。」
「分かります。」
エルシアは即座に答えた。
近くの板切れを取り、煤を指につけて簡単な王城図を描き始める。
線は速いが正確だった。
その指先は細く白いが、震えていない。
王族として育った手でありながら、草原で薬草を摘み、怪我人へ回復魔法をかけてきた手でもある。
彼女は東礼拝堂、西厨房、洗濯棟の位置を示し、危険な通路に印をつけた。
「東礼拝堂には、王妃様が向かったという報がありました。ただし、確定ではありません。洗濯棟には年配の使用人が多い。西厨房は火元に近いので、急がなければなりません。」
「ありがとう。行ってくる。」
「一人で?」
「動ける人を連れていくと、戻りが遅くなる。道を開けて、人を見つけたら誘導する。」
エルシアはソータをじっと見た。
その目はまだ遠い。
だが、最初に会った時ほど冷たくはない。
「あなたの力は便利ですわね。」
「そう言われると少し複雑だな。」
「便利な力は、使い方を間違えなければ尊いものです。」
「それは褒めてる?」
「評価しています。」
「評価か。」
「褒め言葉が欲しいのですか?」
「いや、そういうわけじゃない。」
「なら、今は評価で十分でしょう。」
リシェラが横から口を挟む。
「姉様は照れているのよ。」
「照れていません。」
「姉様は初対面の男性を褒めるのが苦手なの。」
「リシェラ。」
「ほら。」
エルシアの頬がわずかに赤くなる。
ソータは見なかったふりをした。
姉姫は確かに人見知りなのかもしれない。
それを高い場所から人を見る癖で隠しているだけで。
「ソータ様。」
リシェラがまた呼ぶ。
「戻ってきてね。」
「戻る。」
「私はまだ、あなたに聞きたいことがたくさんあります。」
「エルシア姫にも言われたな。」
「姉様の聞きたいことは国のこと。私の聞きたいことはあなたのこと。」
「それは後でいい。」
「ええ。後で。」
リシェラはにこりと笑った。
その笑顔は無邪気だが、距離が近い。
ソータは胸の奥でミレイユの顔を思い浮かべ、少しだけ胃が痛くなった。
(違う。)
(これは救助だ。)
(姫様を助けてるだけ。)
(妹姫が近いだけ。)
(近いだけって何だ。)
(ミレイユに説明できるか?)
(……今は考えるな。)
ソータは地図を握り直した。
東礼拝堂、洗濯棟、西厨房。
まだ人が残っている。
救えるかもしれない命がある。
「ヨーダ大神官!」
ソータが呼ぶと、ヨーダが振り返った。
「まだ行くのですか、ソータ殿!」
「残っている人がいます!」
「でしょうな! 私もそんな気がしておりました!」
「結界を少し貸してください!」
「結界は貸し出し物ではありませんぞ!」
「じゃあ、同行支援で!」
「言い換えましたな!」
ヨーダは文句を言いながらも、ソータの前に小さな金色の護符を浮かべた。
「一度だけ強い衝撃を防ぎます。二度目は祈ってください。」
「ありがとうございます!」
「祈りも大事ですぞ!」
「覚えておきます!」
リシェラが結界の内側から身を乗り出す。
「私も行けます。氷なら少し使えますし、草原で魔物を追ったこともあります。」
「駄目だ。」
ソータとエルシアが同時に言った。
リシェラはむっとした。
「二人で言わなくてもいいでしょう。」
「危険です。」
エルシアが冷静に言う。
「あなたはここで避難者を落ち着かせなさい。あなたが笑っていると、騎士も侍女も少し落ち着きます。」
「姉様がそう言うなら、残ります。」
「わたくしが言わないと残らないのですか。」
「ソータ様だけだと、ついて行ったかもしれないわ。」
「リシェラ。」
「冗談です。半分くらい。」
ソータは苦笑した。
「半分は本気なんだな。」
「頼れる方の近くは安全ですから。」
「俺が今から向かう場所は安全じゃない。」
「だから、戻ってきて。」
「分かった。」
エルシアが静かに言う。
「ソータ様。あなたが戻れば、わたくしのあなたへの評価は少し改まります。」
「まだ改まってなかったのか。」
「まだ観察中です。」
「正直だな。」
「王族が不確かなものを軽々しく信用してはなりません。」
「それは正しい。」
「ただし。」
エルシアはほんの少しだけ視線を逸らした。
「リシェラがここまで懐く相手は、そう多くありません。そこは、判断材料に加えます。」
リシェラがぱっと笑った。
「姉様、今のはかなり褒めているわ。」
「黙っていなさい。」
ソータは少しだけ笑った。
戦場の中で、二人の姉妹のやり取りは妙に温かかった。
高慢に見える姉。
人懐こく少し乱暴な妹。
どちらも怖がっている。
どちらも王女として立とうとしている。
その事実が、ソータの中でこの二人をただの救助対象ではなく、名前のある荷へ変えていく。
ソータは再び燃える王城の中へ走った。
背後では、エルシアが避難者を整理し、リシェラが泣いている子供へ笑いかけている。
アルベールとグラードは一時的に別々の方向へ動き、民の避難路を開け始めていた。
敵と味方。
謀反と王家。
教会と裏切り。
すべてがまだ絡まったままだ。
だが、この瞬間だけは、ひとつの荷札が全員の前に置かれていた。
命を逃がす。
その荷だけは、誰も取り違えてはいけなかった。
ソータは煙の中へ踏み込み、次の瓦礫へ手を伸ばした。
火の熱が頬を焼く。
喉が痛い。
腕は重い。
それでも、足は止まらない。
(勇者じゃない。)
(でも、運ぶ。)
(生きている人を、次の場所へ。)
(まだ間に合うなら、何度でも。)
燃える王城の奥へ、運送屋は再び走っていった。




