第157話:老執事の裏荷札
白い光が薄れていくと、ソータの足元には磨き込まれた白石の床が広がっていた。
北の砦の荒い石畳とは違う、冷たく、整いすぎた床だった。
高い天井には色硝子の窓が並び、朝の光が青や金や赤に分かれて床へ落ちている。
空気には香の匂いがあり、どこか甘く、どこか息苦しい。
王都の大教会。
ソータは、その場所を初めて見た。
名前だけは何度も聞いていた。
ミレイユからも、ランパーニの話からも、アルベールの報告からも、そしてルシアの城に向けられた聖結界の件でも聞いていた。
けれど、実際にその白く巨大な回廊へ立つと、想像していたよりもずっと重い場所だった。
祈りの場というより、祈りを石で固め、そこへ権威という鎖を巻いたような場所だった。
廊下の先では神官たちがこちらに気づき、ぎょっとしたように足を止める。
その視線はソータではなく、隣に立つ白髪の老執事へ向いていた。
「到着いたしました、ソータ様。」
アルベールは何事もなかったかのように一礼した。
黒い執事服には皺ひとつなく、白手袋にも魔法陣の光の名残すらついていない。
王都の大教会の中央回廊へ、いきなり転移で現れたというのに、その態度はまるで知人の屋敷を訪ねただけのようだった。
ソータは少し遅れて息を吐いた。
「ここが、大教会か?」
「はい。」
「思ったより、圧があるな。」
「権威を石材に置き換えますと、このような建築になるのでございます。」
「言い方。」
「率直な感想でございます。」
アルベールは穏やかに答えた。
遠くで若い神官が一人、慌てて駆けていく。
おそらく、大神官ヨーダへ知らせに行ったのだろう。
その背中を見ながら、ソータは胸の奥に落ち着かないものを感じていた。
(初めて来た場所なのに、妙に息が詰まる。)
(ここから、ルシアの城に痛い光が向けられた。)
(教会全体が敵ってわけじゃないんだろうけど。)
(それでも、ここにはそういう力がある。)
(だから釘を刺す必要がある。)
(……でも、それだけじゃない。)
ミレイユには、夜の城と吸血鬼族に関する教会への再確認だと説明してきた。
それは嘘ではない。
実際に、教会が二度とルシアの城へ勝手に手を出さないよう、釘を刺す必要がある。
吸血鬼族だからといって、話も聞かずに聖具を向けるようなことを止めなければならない。
そのためにソータが同行する意味もある。
夜の城に運ぶ者として。
ルシアと関わった者として。
北方の物流路を整える者として。
だが、アルベールが自分だけを連れ出した理由が、それだけで済むはずがなかった。
「アルベール。」
「はい、ソータ様。」
「ここへ来た本当の理由、そろそろ聞いていいか?」
アルベールはすぐには答えなかった。
高い天井から降りる色硝子の光が、彼の白髪に淡く映る。
老執事は廊下の先を見たまま、静かに口を開いた。
「ソータ様には、これから少々、表に出せぬ荷札をご覧いただきます。」
「荷札?」
「はい。荷とは、品物だけではございません。情報、人命、約束、罪、秘密。運ばれるべきものには、それぞれ札が必要でございます。」
「それを、俺に見せるのか?」
「はい。ミレイユ様には、まだお見せできません。」
ソータの眉が動いた。
「ミレイユなら、むしろちゃんと整理してくれると思うけど。」
「だからでございます。」
アルベールの声は穏やかだったが、その奥に少しだけ重みがあった。
「ミレイユ様は、整理できてしまわれます。帳面に載せ、責任の線を引き、ご自身の荷として積まれます。ですが、今回の件は、ミレイユ様が今すぐ背負うべき荷ではございません。」
「隠したら怒るぞ。」
「存じております。」
「かなり怒るぞ。」
「はい。」
「俺も一緒に怒られるんだけど。」
「その点につきましては、深くお詫び申し上げます。」
「お詫びで済むか?」
「済まないかと存じます。」
ソータは額に手を当てた。
ミレイユの顔が目に浮かぶ。
戻ったら全部聞く、と彼女は言った。
その約束は守らなければならない。
けれど、今のアルベールの声を聞き、ソータは直感した。
これは、ミレイユに話せばいいという種類の荷ではない。
少なくとも今すぐ、北の砦から夜の城へ向かおうとしている彼女へ投げる荷ではない。
アルベールが抱えてきた世界の裏側。
勇者一行の残した仕事。
教会内部の腐れ。
隣国の謀反の兆し。
そんなものを一気に渡せば、ミレイユはきっと止まらない。
夜の城視察を中止し、王都へ戻り、自分の責任として全部を背負おうとする。
そして、疲れも怒りも心配も無視して、また帳面を開く。
その姿があまりにも簡単に想像できた。
(これは、今ミレイユに言わない方がいい。)
(言いたくないんじゃない。)
(隠して得をしたいわけでもない。)
(でも、今渡したら、ミレイユは絶対に背負う。)
(夜の城は夜の城で大事だ。)
(ルシアの城を見て、あの場所を迎える城に変える役目は、ミレイユにしかできない。)
(なら、こっちは俺とアルベールで受けるしかない。)
(説明は、戻ってから。)
(名目は、夜の城と吸血鬼族に関する教会への釘刺し。)
(それは本当だ。)
(今は、それで通す。)
ソータは顔を上げた。
「分かった。」
アルベールがソータを見る。
「ミレイユには、今は話さない方がいい。」
「ソータ様。」
「ただし、ずっと隠すわけじゃない。戻ったら、話すべき範囲をちゃんと決める。でも今は、アルベールの言う通りにする。俺たちは夜の城と吸血鬼族に関するところへ、教会が二度と勝手に手を出さないよう釘を刺しに来た。表向きはそれでいい。」
アルベールは、ほんのわずかに目を細めた。
それは微笑みではなく、認めるような表情だった。
「ありがとうございます、ソータ様。」
「感謝されると怖いな。」
「恐れ入ります。」
「それで、何が起きてる。」
アルベールは少しだけ歩調を緩めた。
廊下の両側には、聖人の像が並んでいる。
その像の顔は穏やかだが、今はどこか見張っているようにも見えた。
「隣国の一部貴族、軍内部の強硬派、そして大教会の中に潜んでいた者たちが繋がっております。」
ソータは足を止めかけた。
「大教会の中?」
「はい。全体ではございません。大神官ヨーダ様も関与しておりません。ですが、聖具の流通、結界具の移送、北方に関する情報の照会記録に、外部へ流した痕跡がございます。」
「夜の城のことか。」
「それも含まれます。霧の領域、吸血鬼族の城、北の砦、ノルドバル村、リーフェン村、そしてソータ様の運搬能力に関する断片情報。」
「ノルドバル村? リーフェン村?」
ソータは思わず聞き返した。
アルベールがわずかに首を傾げる。
「男たちの村がノルドバル村、リーナ様のおられる村がリーフェン村でございます。」
「正式な名前、あったのか。」
「もちろんでございます。」
「俺、今初めて知った。」
「そうでございましたか。」
「誰も言わなかったぞ。」
「皆様、通称で足りておりましたので。」
ソータは少しだけ遠い目をした。
男たちの村。
最初の村。
リーナがいる村。
それでずっと通じていた。
自分が何度も荷を運び、助け、道をつないできた場所に、ちゃんと正式な名前があった。
ノルドバル村。
リーフェン村。
初めて聞いたその名前は、少しよそよそしく、しかし不思議と重かった。
(ノルドバル村。)
(リーフェン村。)
(そうか。)
(俺、名前も知らずに運んでたのか。)
(でも、名前を知ると急に場所が近くなるな。)
(荷札に、ちゃんと書ける。)
(男たちの村じゃなくて、ノルドバル村。)
(最初の村じゃなくて、リーフェン村。)
(リーナの村は、リーフェン村。)
「その二つの村の情報まで流れてるのか。」
「はい。特にリーフェン村は薬草、ノルドバル村は北方通行路の中継として注目されております。」
ソータの背中に冷たいものが走った。
運ぶ力。
大量の物資を瞬時に収納し、必要な場所へ出せる力。
それは村を救う力であり、砦をつなぐ力だった。
しかし、戦争を望む者から見れば、補給線そのものを変える力でもある。
そして、その線上にある村の名前が、敵の帳面にも載っている。
それが、たまらなく嫌だった。
(そうか。)
(道ができると、狙われる。)
(荷が動けば、欲しがるやつが出る。)
(ミレイユが言ってた通りだ。)
(リーフェン村も、ノルドバル村も、ただの通過点じゃない。)
(そこには人がいる。)
(リーナがいる。)
(メバドスがいる。)
(バルクたちの暮らしがある。)
「隣国で何をするつもりなんだ?」
「正確には、隣国そのものではございません。隣国内の一部勢力が、現王家に対し謀反を起こそうとしております。成功すれば、王国との国境地帯に争乱を起こし、その混乱を利用して北方の道を押さえるつもりかと。」
「ノルドバル村を襲った連中も、その流れか?」
「はい。どくろ旗の盗賊軍団は、隣国のせいにするための捨て駒でございました。もっとも、その背後には本当に隣国軍の一部とつながる者がいたようでございます。」
「ややこしいな。」
「闇とは、たいてい雑に絡まり合っております。」
「それをほどくのがアルベールの仕事?」
ソータがそう言うと、アルベールは少しだけ目を伏せた。
「表向きは、ミレイユ様の執事でございます。」
「表向きは。」
「はい。」
「裏では?」
「昔の荷を、まだ少々運んでおります。」
その言い方に、ソータは胸の奥がざわついた。
アルベールはいつも飄々としている。
元勇者一行の大魔法使い。
大教会を震え上がらせ、吸血鬼族の城に心当たりがあり、チャールズを生み出した老執事。
しかし、彼の過去は断片的にしか知らない。
その過去が、今もどこかで動いている。
「勇者たちと、まだ繋がってるのか。」
アルベールは静かに頷いた。
「はい。」
ソータは息を呑んだ。
軽い答えだった。
だが、その一言の重さは軽くなかった。
「勇者一行は、魔王を倒して終わりではございませんでした。魔王という大きな影が消えた後、世界には小さな闇が無数に残りました。禁呪を売る者、戦争を長引かせたい者、孤児を材料にしようとする者、聖なる名を使って私腹を肥やす者。そういったものは、討伐の記録には残りません。」
「それを、アルベールたちが?」
「私だけではございません。かつての仲間、王都の一部、各地の協力者。それぞれが、それぞれの場所で掃除を続けております。」
「掃除って言い方、怖いんだけど。」
「実際、あまり綺麗な仕事ではございませんので。」
アルベールは穏やかに微笑んだ。
その微笑みが、いつもより少し遠く見えた。
ソータは言葉に迷った。
責めるべきなのか。
感謝すべきなのか。
どちらでもないのか。
分からない。
ただ、ひとつだけ分かったことがある。
ミレイユが知らない理由は、彼女を軽んじているからではない。
守ろうとしている。
ただし、その守り方は、きっとミレイユが一番嫌うものでもある。
「それで、ヨーダ大神官に会うんだな。」
「はい。表向きは、夜の城へ教会が手出ししないための再確認。実際には、教会内に残る隣国派の枝を折ります。」
「折るって、具体的には?」
「まずは証拠を突きつけ、ヨーダ様に内部粛清の権限を行使していただきます。」
「穏やかだな。」
「可能であれば。」
「可能じゃなかったら?」
アルベールは笑顔のまま答えた。
「掃除でございます。」
ソータは遠い目をした。
「ミレイユが聞いたら、絶対に額を押さえる。」
「はい。」
「俺も押さえたい。」
「どうぞ。」
「いや、今は歩く。」
二人が廊下を進むと、正面の大扉が慌ただしく開いた。
中から青ざめた顔の神官たちが出てきて、左右へ避ける。
その奥から、大神官ヨーダが姿を現した。
白と金の法衣をまとい、立派な杖を持ち、見た目だけなら威厳ある老人だった。
しかし、顔色は明らかに悪い。
アルベールを見た瞬間、杖を持つ手が小さく震えた。
「ア、アルベール殿……。」
「お久しゅうございます、ヨーダ様。」
アルベールは深く丁寧に一礼した。
「急な訪問となりましたこと、お詫び申し上げます。」
「い、いえ、その、こちらこそ、ようこそお越しくださいました。」
ヨーダの声は少し裏返っていた。
周囲の神官たちは目を丸くしている。
大神官が、老執事に対して明らかに怯えている。
その異様な光景に、ソータはどう反応すればいいか分からなかった。
「ヨーダ様、こちらはソータ様でございます。」
「存じております。北方における物資輸送の要、夜の城の件でも中心となられた方ですな。」
ヨーダはソータへ向き直り、思ったより丁寧に頭を下げた。
「ソータ殿。このたびは、大教会内の一部が軽率な行動を取った件、大神官として深くお詫び申し上げる。」
「え、あ、はい。こちらこそ……いや、こちらこそではないか。」
ソータは慌てて頭を下げ返しそうになり、途中で止まった。
謝るのはこちらではない。
だが、目の前で大神官が真剣に頭を下げていると、つい恐縮してしまう。
「夜の城への接触禁止については、すでに通達を出しております。吸血鬼族という言葉に過剰反応する者もおりますが、少なくとも大教会として無断討伐や結界展開を認めることはございません。」
「その再確認に来ました。」
ソータはできるだけ落ち着いて言った。
「ルシアの城を、今後は閉じた場所ではなく、人と荷が行き来できる場所に変えていく予定です。もちろん、安全確認はします。危険なところもあるし、教会が心配する理由も分からなくはない。でも、勝手に聖具を持ち込まれたり、攻撃されたりしたら、話し合いも何もなくなります。」
「ごもっともです。」
ヨーダは真剣に頷いた。
「教会内部にも、古い認識が残っております。吸血鬼族を一律に邪悪とする書物、夜の領域を浄化対象と決めつける説教、魔物と異種族を区別しない教え。これらは見直す必要がある。」
「そこまでしてもらえるなら助かります。」
ソータは少し驚いた。
ヨーダは思ったより話が通じる。
少なくとも、アルベールに震えているだけの人物ではない。
大神官として、自分の組織の問題を理解している。
ただし、彼の額には汗が浮いていた。
それは夜の城の件だけではないように見えた。
アルベールが一歩進んだ。
「ヨーダ様。表向きの確認は以上でございます。」
ヨーダの肩がぴくりと跳ねた。
「……表向き。」
「はい。」
「やはり、そちらでございますか。」
「はい。」
アルベールは懐から小さな封筒を取り出した。
封は黒い蝋で閉じられている。
その蝋には、見慣れない紋章が刻まれていた。
ヨーダはそれを見た瞬間、顔色をさらに悪くした。
「それは……。」
「隣国軍務派の私信でございます。流通経路は、南西支部を経由し、大教会記録局の一部へ。そこから聖具管理庫の副責任者へ渡っております。」
ヨーダが口を閉じた。
周囲の神官たちがざわつきかける。
アルベールは穏やかに続けた。
「さらに、夜の城へ向けられた聖結界具の部材の一部は、正規台帳とは別の帳面で処理されております。名目は北方浄化用。実際には、霧の領域の魔力反応を測定し、隣国側へ送るための試験具でございました。」
「何だって?」
ソータは思わず声を上げた。
「じゃあ、ルシアの城を攻撃したのは、ただ吸血鬼だからじゃなくて。」
「口実としては吸血鬼族への聖伐でございます。実態の一部は情報収集でございました。」
アルベールの声は冷静だった。
冷静すぎて、逆に腹立たしいほどだった。
ヨーダは目を閉じ、深く息を吐いた。
「名を。」
「こちらに。」
アルベールはもう一枚の紙を出した。
そこには細かい文字で名前が並んでいる。
部署、役職、送金記録、接触日、関係人物。
ソータがちらりと見ただけでも、相当な量だった。
ヨーダはそれを受け取り、震える指で読み進める。
「……聖具管理庫副責任者、ベルトラン。記録局照会役、マルダ。南西支部連絡官、ヘス。巡回神官、オルテ。」
名前を読むたびに、周囲の神官たちの表情が変わった。
知っている者。
同僚。
上司。
部下。
教会の中に普通にいた者たちの名なのだろう。
「証拠は。」
ヨーダの声が低くなった。
「すべてございます。」
アルベールは淡々と答えた。
「送金証書、暗号文、聖具部材の実数差、霧の領域に関する照会記録、隣国軍務派との接触記録。なお、一部はすでに王都のしかるべき部署へ写しを提出済みでございます。」
「いつの間に。」
「昨夜でございます。」
「昨夜。」
「はい。」
ソータはアルベールを見た。
「北の砦にいたよな。」
「少々、近道を。」
「近道って言葉の意味、あとで辞書で確認した方がいい。」
「恐れ入ります。」
ヨーダは紙を握りしめた。
その顔には、先ほどまでの怯えだけではなく、大神官としての怒りが浮かんでいた。
「これは、教会への裏切りであり、王国への危険であり、信徒への背信です。」
「その通りでございます。」
「即刻、拘束します。」
「恐れながら、すでに動いている者もおります。」
ヨーダの顔がこわばった。
「逃げたのですか。」
「いいえ。逃げる準備をしております。おそらく、隣国内の動きと合わせるつもりでございましょう。」
「隣国の動き。」
アルベールはそこで、初めて少しだけ声を落とした。
「隣国内で、謀反が始まる可能性が高うございます。」
その場の空気が凍った。
ソータは拳を握った。
話としては聞いていた。
だが、教会の中央でその言葉を聞くと、現実味が一気に増す。
「目的は、現王家の排除。国境地帯に戦火を起こし、王国側の北方防衛を揺さぶること。王国と隣国の双方に混乱を作り、その隙に北方物流路と霧の領域を押さえることでございます。」
「なぜ、そこまでして霧の領域を。」
ヨーダが問う。
アルベールはソータを一度だけ見た。
「夜の城、吸血鬼族領域、旧魔力流の結節点、未開の霧。そして、ソータ様の運搬能力。戦を望む者にとって、これらはただの辺境ではございません。」
「補給路になる。」
ソータが言った。
「兵も物資も、傷病者も、情報も、全部動かせる場所になる。俺の力も、その一部として見られている。」
「はい、ソータ様。」
アルベールが頷く。
「運ぶ力は、戦を終わらせる力にも、始める力にもなり得ます。」
ソータは唇を噛んだ。
自分は勇者ではない。
運送屋だ。
その言葉は、これまで自分を支える言葉だった。
剣で勝つのではなく、荷で支える。
人と人をつなぐ。
それが自分の仕事だと思っていた。
だが、運ぶ力そのものが狙われるなら、ただ善意だけで荷を積むわけにはいかない。
道には、守りがいる。
荷には、選別がいる。
誰へ運ぶのか。
何を運ばないのか。
そこから逃げてはいけない。
その時、廊下の奥から慌ただしい足音が響いた。
若い神官が顔を真っ青にして駆け込んでくる。
礼も忘れ、息を切らしながら叫んだ。
「大神官様! 緊急報です!」
「何事です。」
ヨーダが振り向く。
若い神官は震える手で封書を差し出した。
封は乱れ、移送の途中で何度も開かれかけたように傷んでいる。
「隣国王都にて、軍務派の一部が蜂起! 王城外郭が襲撃を受け、王族の一部が城内に孤立との報です!」
ソータの心臓が強く鳴った。
始まった。
構えていたはずなのに、実際に言葉として聞くと、体の奥が重くなる。
「現王は?」
ヨーダが問う。
「所在不明。王妃は東礼拝堂へ退避したとの情報がありますが、確定せず。双子の姫君は西塔にて近衛とともに籠城中とのことです!」
「双子の姫……。」
アルベールの目が少し細くなる。
ヨーダは封書を読み、額に汗を浮かべた。
「教会支部は?」
「隣国王都教会の一部が、蜂起側に門を開いたとの情報もございます。」
「愚かな。」
ヨーダの声が低く震えた。
それは恐怖ではなく怒りだった。
自分の管轄ではない隣国教会であっても、聖職者が謀反に加担した。
その事実は大神官として見過ごせないものなのだろう。
アルベールは静かに言った。
「ヨーダ様。」
「分かっております。」
ヨーダは法衣の袖を整えた。
先ほどまでアルベールに怯えていた老人とは違う顔になっていた。
大神官の顔だ。
「教会内部の拘束は、副大神官へ命じます。証拠はここにある。逃がしてはならぬ。私は隣国へ向かいます。」
周囲の神官たちがざわめいた。
「大神官様自らですか。」
「聖職者が謀反に加担したなら、私が行かずに誰が行くのです。」
ヨーダはアルベールを見た。
「アルベール殿。転移は可能ですか。」
「可能でございます。」
「私は足手まといになりますか。」
「震えなければ、多少は。」
「震えます。」
「では、震えながらでも結界を張っていただきます。」
「承知しました。」
ソータは思わず二人を見比べた。
このやり取りをしている場合なのかと思う一方で、妙に呼吸が合っている。
ヨーダはアルベールを怖がっている。
だが、それでも同行を申し出ている。
アルベールはそれを拒まない。
つまり、ヨーダの力が必要なのだ。
「ソータ様。」
アルベールが振り返る。
「申し訳ございません。予定より早く、荷が変わりました。」
「何を運ぶ。」
ソータは聞いた。
アルベールの答えは静かだった。
「王族の命でございます。」
ソータは目を閉じた。
ミレイユの顔が浮かぶ。
夜の城へ向かったミレイユ。
オルドアイ。
ルシア。
ガルナ。
バルク。
それぞれが今、自分の場所で荷を抱えている。
自分はここで、別の荷を渡された。
隣国の王族。
双子の姫。
謀反。
教会の裏切り。
戦になるかもしれない火種。
重い。
重すぎる。
だが、見なかったことにはできない。
(また増えた。)
(本当に、次から次へと増える。)
(でも、これは命だ。)
(命なら、運ぶ。)
(ミレイユ、ごめん。)
(これは夜の城と吸血鬼族の釘刺しに来たら、隣国の緊急事態に巻き込まれた。)
(うん。)
(嘘じゃない。)
(……たぶん、怒られる。)
(でも、ちゃんと戻って話す。)
(だから今は、行く。)
ソータは目を開けた。
「行く。」
アルベールは深く一礼した。
「ありがとうございます、ソータ様。」
「ただし、俺は勇者じゃない。戦うためじゃなくて、救うために行く。」
「承知しております。」
「荷を間違えるなよ、アルベール。」
アルベールは少しだけ微笑んだ。
「もちろんでございます。」
ヨーダが杖を握り直す。
「私も参ります。教会の名を汚した者たちを止めねばならぬ。」
アルベールは床へ杖の先を軽く触れさせた。
白石の上に幾重もの魔法陣が広がる。
今度の光は、北の砦から大教会へ来た時よりも深い。
白の中に青が混じり、その奥に赤い火のような線が走っている。
転移先が安全ではないからだろう。
ソータは無意識に身構えた。
「ソータ様。到着後、まず周囲の負傷者と退路をご確認ください。私とヨーダ様で初期結界を張ります。」
「分かった。」
「瓦礫、扉、負傷者、物資。必要に応じて《神速積載庫》をお使いください。」
「人は入れられない。」
「存じております。ですが、道を塞ぐ物、必要な物、救助を妨げる物は運べます。」
「任せろ。」
アルベールは頷いた。
ヨーダは小さく祈りの言葉を唱えた。
周囲の神官たちは膝をつき、大神官を見送る。
その中には、怯える者も、泣きそうな者も、怒りに震える者もいた。
大教会は今、自分たちの内側にあった腐れを知った。
それを放置するか、切り捨てるか。
その選択もまた、ここに残る者たちの荷なのだろう。
光が強くなる。
ソータは拳を握った。
胸の奥で、ミレイユの紅い紐が温かい。
彼はそれを一度だけ指で押さえた。
(逃げない。)
(選んで、背負って、運ぶ。)
次の瞬間、王都の大教会の白い床は消えた。
代わりに、赤い煙と、遠くの悲鳴と、燃える王城の影がソータの視界へ飛び込んできた。




