第156話:夜の城への招待状
宴の翌朝、北の砦はいつもより少しだけ遅く目覚めた。
普段なら、日の出と同時に訓練場から槍の打ち合う音が響き、若いアマゾネスたちの掛け声が石壁に跳ね返る。
だが、その朝の砦には、昨夜の宴の余韻がまだ残っていた。
大広間の隅には片づけきれなかった木皿が積まれ、炉の灰にはまだ赤い熱が眠り、通路の奥では眠たげなアマゾネスが水桶を抱えたままあくびをしていた。
それでも北の砦は砦であり、朝になれば誰かが見張り台へ上がり、誰かが馬に水を飲ませ、誰かが台所で粥を煮る。
賑やかさの中に規律があり、疲れの中にも動く力がある。
ソータは中庭の荷置き場に立ち、昨日ミレイユの馬車から下ろした荷を見ていた。
黒紐の荷は夜の城用。
緑紐の荷は北の砦用。
茶紐の荷は男たちの村用。
紅紐の荷はミレイユ直接確認用。
色分けされた紐と札は、朝の光の下でもひと目で分かりやすく、誰が扱っても迷いにくいようになっている。
ソータは黒紐の箱のひとつに手を置き、荷札の文字を指でなぞった。
遮光布、油布、補修板、釘、縄、水袋、薬草、軟膏、保存食、礼法書、謝罪文例集、生活絵本、記録帳。
ただの物資ではない。
そこには、夜の城で誰かが困らないための想像が詰まっていた。
(こういうところだよな。)
(ミレイユは、荷物を送るだけじゃない。)
(着いた後の時間まで見てる。)
(俺がその場で何とかする荷じゃなくて、向こうでちゃんと使える荷になってる。)
ソータは小さく息を吐いた。
昨夜、湯屋でミレイユと話したことを思い出す。
怒られた。
問い詰められた。
でも、責め切られたわけではなかった。
ミレイユは分かっていた。
自分が、オルドアイが、ルシアが、それぞれ逃げずに向き合ったことを。
そのうえで怒り、心配し、許せないところをきちんと残したまま、それでも隣に立つ選択をしてくれた。
その重さが、今になってじんわりと胸の中へ戻ってくる。
「朝から荷札を見つめているのね。」
背後から声がした。
ソータが振り返ると、ミレイユが立っていた。
紅い髪はいつもより少しだけ柔らかく結ばれており、旅装の上から北の砦で借りた薄手の上着を羽織っている。
顔にはまだ長旅の疲れが残っていたが、昨夜より目元は穏やかだった。
それでも、立ち姿は崩れていない。
中庭の朝の光を受ける紅い髪紐が、いつも通りきちんと彼女を彼女らしく見せていた。
「おはよう、ミレイユ。」
「おはよう、ソータ。荷の確認?」
「うん。黒紐の荷を見てた。すごく分かりやすい。」
「当然よ。分かりにくい荷札は、それだけで現場の時間を奪うわ。」
「本当にそう思う。夜の城に着いた後のことまで考えてある。」
「考えなければ意味がないでしょう。向こうは人間の拠点ではないし、ルシアはまだ人間の生活の順番を覚えている途中なのだから。」
ミレイユは黒紐の荷の前にしゃがみ、札のひとつを確認した。
指先が迷いなく紙の端を整え、紐の締まりを確かめる。
その仕草は商会令嬢というより、すでに現場を動かす者の手だった。
ソータはそれを見て、少し笑ってしまった。
「何を笑っているの。」
「ミレイユらしいなと思って。」
「それ、昨日も言ったわね。」
「何度でも思うから。」
「褒めても説教の残りは減らないわ。」
「残ってるんだ。」
「当然でしょう。」
ミレイユはそう言ったが、声は険しくなかった。
ソータはそれが少し嬉しくて、しかし嬉しそうにしすぎるとまた何か言われそうで、口元だけで笑った。
その時、大広間の方から軽い足音が近づいてきた。
廊下の角から薄紫の髪がふわりと現れ、次に大きな紫の羽が少し遅れて見えた。
ルシアだった。
胸元には本を抱えている。
その後ろから、チャールズが黒い礼装姿で静かについてきていた。
骨の指先には紙片がいくつか挟まれており、どうやら本当に朝から何かを整理していたらしい。
「ミレイユ、ソータ、おはよう。」
「おはよう、ルシア。」
「おはよう。朝から本を持っているのね。」
「ええ。謝罪文例集よ。難しいわ。」
ルシアは本を両手で差し出すように見せた。
表紙には若い商人向けの実用的な題名が書かれている。
ルシアの表情は真剣そのものだったが、目の下に少し眠そうな影がある。
どうやら夜に読み始めようとして、数行で眠ったものの、朝起きてすぐまた開いたらしい。
「どこが難しいの?」
ミレイユが尋ねると、ルシアは本を開き、挟んでいた紙片を見せた。
「『このたびは多大なるご迷惑をおかけし』というところ。私はソータを勝手に連れて行ったから、多大なるで合っていると思うの。でも、『今後このようなことがないよう』というところで困ったわ。」
「なぜ?」
「私はもうソータを勝手に連れて行かない。でも、ソータが危ない時には連れて行くかもしれない。それは、このようなことなの? 違うことなの?」
ソータは思わず黙った。
ミレイユも少し目を細める。
ルシアは本気で悩んでいた。
謝罪文例集の言葉を丸写しにするのではなく、自分の行動に合わせようとしている。
方向は不器用だが、考え方は間違っていない。
「それは、こう書き換えればいいわ。」
ミレイユはルシアの持つ紙片を受け取り、腰の筆入れから小さな筆を出した。
そして、余白にさらさらと書きつける。
「『今後は、相手の意思と周囲の状況を確認せず、独断で連れ出すことのないよう努めます』。こうね。」
ルシアは目を輝かせた。
「すごいわ。私の間違いにぴったり合っている。」
「喜ぶ文章ではないわ。」
「でも、分かりやすい。」
「なら覚えなさい。」
「はい。」
ルシアは紙片を大事そうに受け取った。
その後ろでチャールズが深く一礼する。
「ミレイユ様。ルシア様の謝罪文作成にお力添えいただき、誠にありがとうございます。」
「まだ作成の入り口よ。あなたも見ていたなら、もっと早く止めるべきでしょう。」
「はい。ですが、ルシア様が『自分で考える紫』になりたいと仰いましたので、まずはお見守りしておりました。」
「また妙な段階名が増えているのね。」
「現在は『少し反省した紫』とのことでございます。」
「反省は段階名ではなく状態よ。」
ミレイユの返しに、チャールズは静かに頭を下げた。
ルシアは真剣に頷いている。
ソータは笑いを堪えた。
中庭の反対側から、オルドアイが歩いてきた。
長いブラウンの髪を後ろへ流し、小麦色の肌に朝の光が乗っている。
左腕には緑の組み紐。
昨夜より少しだけ眠そうだったが、足取りはしっかりしていた。
彼女の後ろにはガルナがいて、水袋と薬草袋を抱えている。
「朝から謝罪か。偉いな、ルシア。」
「ええ。私は今、少し反省した紫よ。」
「その呼び名はやめろ。」
「ミレイユにも状態だと言われたわ。」
「なら、なおさらやめろ。」
オルドアイはそう言いながら、ミレイユへ視線を向けた。
「体は平気か。昨日は長旅の後に宴だっただろう。」
「ええ。湯も借りたし、休めたわ。」
その言葉に、ルシアが少し嬉しそうに羽を揺らした。
ミレイユはそれを横目で見て、すぐに言う。
「羽を広げすぎない。」
「はい。」
「中庭だから少しはよいけれど、人や荷に当たらないように。」
「はい。」
「返事だけにならない。」
「気をつけるわ。」
オルドアイが肩をすくめた。
「私が言うより効くな。」
「あなたも十分効いていると思うわ。特に、『言う場所を選べ』は何度も口にしているのでしょう。」
「口が酸っぱくなるほどな。」
「酸っぱい口になるの?」
ルシアが首を傾げる。
オルドアイは額に手を当てた。
「比喩だ。」
「また比喩。」
「人間の言葉には比喩が多いわ。」
ミレイユが淡々と言う。
「吸血鬼族の言葉には少ないのかしら。」
「古い本の言葉は多いわ。でも、人間が会話の中で急に使う比喩は難しい。『腹を割る』と聞いた時は、とても怖かった。」
「それは怖いだろうな。」
ソータが言うと、ルシアは大きく頷いた。
「チャールズに、お腹を切らなくても話せると教わったわ。」
「左様でございます。会話のための開腹は不要でございます。」
「当然よ。」
ミレイユが即答した。
中庭にいた若いアマゾネスたちが、少し離れたところで笑いを堪えている。
朝から不思議な会話が始まっていたが、この砦ではもうそれも受け入れられつつあった。
◆◇◆
朝食後、正式な協議は大広間の奥の長卓で行われた。
昨夜の宴の皿は片づけられ、代わりに地図と帳面と荷札の控えが広げられている。
卓の中央には北方の簡易地図が置かれ、北の砦、男たちの村、グランデリア、最初の村、霧の森、そして夜の城が粗い線で結ばれていた。
ミレイユは帳面を開き、黒紐の荷の一覧を読み上げる。
ソータはその横で、物資の運搬順と格納の位置を確認している。
オルドアイは北の砦側の通行可能な道と、護衛をつける場合の人数を出す。
ルシアは一生懸命聞いているが、時々分からない言葉に首を傾げる。
チャールズはその都度、小さな紙に注釈を書き込んでいた。
「まず夜の城へ送る荷は、生活環境を整えるものを優先するわ。」
ミレイユの声はすでに仕事の声だった。
「遮光布と補修板は、客人用区画に使う。油布は湿気と隙間対策。薬草と軟膏はルシアの羽と、今後人間が滞在する場合の怪我に備えるもの。保存食は、人間の滞在訓練用も兼ねるわ。」
「滞在訓練?」
ルシアが手を上げた。
「人間があなたの城で倒れずに過ごせるか確認するための訓練よ。食事、灯り、休憩場所、眠る場所、湯や水、危険区域との境目。全部、実際に使える形にしなければならない。」
「私の城は、まだ人間に優しくないのね。」
「今のところは、かなり不親切ね。」
ミレイユは遠慮なく言った。
ルシアは少ししょんぼりしたが、すぐに顔を上げる。
「では、優しくするわ。」
「あなたが言葉で言うだけでは駄目よ。場所を変える。道を示す。扉に印をつける。危ない場所へ入れないようにする。休む場所には椅子と火と水を用意する。」
「火は置きたいわ。」
ルシアの声が少し明るくなった。
「北の砦みたいに、誰かが座って話す場所が欲しい。火があって、肉の匂いがして、誰かに叱られる場所。」
「叱られる場所を欲しがるのは珍しいな。」
オルドアイが苦笑する。
「叱られると、誰かがいると分かるもの。」
その一言で、卓の上の空気が少し静かになった。
ルシアは本気でそう言っていた。
長い夜の城で、ひとりと一体だけで過ごしてきた彼女にとって、叱られることすら誰かとの関係の証なのだろう。
ミレイユは筆を止め、ルシアを見た。
「叱られたいから間違えるのはやめなさい。」
「はい。」
「でも、間違えた時に教える者は必要ね。」
「ミレイユも教えてくれる?」
「必要なら。」
「嬉しいわ。」
「礼が早い。」
「でも、嬉しいのは本当だから。」
ミレイユは少しだけ視線を逸らした。
ソータはその横顔を見て、胸が小さく温かくなる。
昨日より、少し近い。
まだ遠い。
でも確実に、一歩分だけ近い。
チャールズが骨の指を丁寧に上げた。
「ミレイユ様。夜の城には、かつて客人用と思われる広間がございます。長らく使用されておりませんが、天井は高く、煙抜きの古い設備も確認済みでございます。」
「場所は?」
「黒薔薇の庭に面した東回廊の奥でございます。」
「ルシア、その場所は安全?」
「魔法罠はないわ。古い燭台と絵があるだけ。昔は誰かを招く場所だったのかもしれない。」
「なら、まずそこを客人用の食堂兼荷受け場にしましょう。」
ミレイユは地図の隅に印をつけた。
「夜の城へ着いた荷は、まずここに集める。勝手に城の奥へ運ばない。危険区域へ持ち込まない。人間が入れる場所と、まだ入れない場所を分ける。チャールズ、管理できますか。」
「承知いたしました。荷受け場、客人食堂、暫定名『迎えの広間』として管理いたします。」
「名前は後で決めればいいわ。」
「しかし、ルシア様が気に入りそうでございます。」
「迎えの広間。」
ルシアが小さく繰り返した。
その目がゆっくり輝き始める。
「いいわ。誰かを迎える場所なのね。」
「まだ仮よ。」
「仮でも嬉しい。」
「仮で浮かれすぎない。」
「はい。」
ミレイユは帳面に淡々と書き込んでいく。
その横でソータは、夜の城へ最初に運ぶ荷の順番を頭の中で組み替えていた。
黒紐の箱を全部一度に入れても、自分の《神速積載庫》なら問題はない。
だが、取り出す順番と現地で置く場所を間違えれば、結局混乱する。
まず掃除道具と灯り。
次に補修材。
その次に遮光布。
その後で水と食材。
最後に本や記録帳。
生活を作るには、見栄えの前に土台がいる。
(荷を運ぶだけじゃない。)
(場所を使える形にする。)
(ミレイユが帳面で道を作って、俺が荷でその道を埋める。)
(チャールズが城で受け取って、ルシアが覚える。)
(オルドアイが安全を見る。)
(少しずつ、つながっていく。)
ソータが考えていると、ミレイユがこちらを見た。
「ソータ。」
「はい。」
「あなたは何を考えていたの。」
「最初に出す荷の順番。」
「言ってみなさい。」
「まず掃除道具と灯り。次に補修材と遮光布。水袋と保存食は作業場所が決まってから。薬草と軟膏はチャールズの管理にして、礼法書と謝罪文例集は最後。記録帳は最初に出す一冊だけ手元に置いて、残りは濡れない場所へ。」
ミレイユは少しだけ目を細めた。
「悪くないわ。」
「加点?」
「少し。」
ソータは少し嬉しくなった。
ルシアがすぐに反応する。
「ソータも加点なのね。」
「ルシア、今は協議中よ。」
「はい。でも、加点は嬉しいものだと思ったの。」
「嬉しがる前に、自分の役割を確認しなさい。」
「私の役割。」
ルシアは自分の胸に手を当てた。
薄紫の瞳が地図の上を追う。
「勝手に飛ばない。人間を驚かせない。危険な場所を隠さない。城の中で、入っていい場所と駄目な場所を教える。血を必要とする時は、先に言う。人間の血は吸わない。魅了は使わない。夜に遠くまで見えても、勝手に覗かない。」
最後の一言で、オルドアイがじろりとルシアを見た。
「それは特に守れ。」
「守るわ。」
ミレイユも筆を止めた。
「覗き見の件は、後で詳しく聞くわ。」
ルシアの羽がぴくりと動いた。
「はい。」
「今、羽が逃げようとしたわ。」
「羽だけよ。」
「体も逃げない。」
「はい。」
ソータはそっと目を逸らした。
その話題は自分にも関係がある。
ミレイユの視線がこちらへ来る前に、地図を見つめているふりをした。
「ソータ。」
「はい。」
「あなたも後で聞くわ。」
「はい。」
逃げられなかった。
オルドアイが少し笑う。
ミレイユはその笑いにも気づき、静かに言う。
「オルドアイもよ。」
「私もか?」
「当然でしょう。」
「……分かった。」
ルシアが三人を見比べる。
「みんなで聞かれるのね。」
「あなたが原因の一部よ。」
「ごめんなさい。」
素直に謝るルシアを見て、ミレイユは小さく息を吐いた。
叱ることは多い。
減点も多い。
だが、謝る時に逃げないという一点だけは、確かに彼女の中に根づき始めている。
それを認めないほど、ミレイユは狭くなかった。
◆◇◆
協議が一区切りついた頃、ルシアは椅子の上で少しそわそわし始めた。
何かを言いたい。
だが、言う場所と順番を考えている。
そんな顔だった。
ミレイユは帳面を閉じる前に、それに気づいた。
「ルシア。言いたいことがあるなら、今言いなさい。」
「今は言う場所?」
「協議中だから、内容によっては合っているわ。」
「内容によって。」
「用件は?」
ルシアは姿勢を正した。
紫の羽をきゅっと小さく畳み、両手を膝の上に置く。
その仕草は昨日より少し丁寧だった。
「ミレイユ、オルドアイ、ガルナを私の城に招待したいわ。」
卓の上が静かになった。
ルシアは続ける。
「ソータにも来てほしいけれど、ソータは荷を運ぶ役目があるから、来るのは当然かもしれない。けれど、私は今回は、ミレイユとオルドアイに来てほしい。私の城を見てほしい。私がどこで暮らしていたか、どこを変えたいか、どこが危ないか、見てから教えてほしい。」
ミレイユはルシアをじっと見た。
「私とオルドアイを?」
「ええ。ソータだけではなく、あなたたちに見てほしいの。私は、ミレイユに怖がられる場所ではなく、ミレイユが荷札をつけられる場所にしたい。オルドアイには、危ない道や戦える場所を見てほしい。ガルナには、人間が休める場所を見てほしい。バルクにも……骸骨たちを見ると笑ってくれるから、来てほしいわ。」
バルクは少し離れた席で水を飲んでいたが、名前を出されて顔を上げた。
「俺か?」
「ええ。あなたが笑うと、骨たちが張り切るわ。」
「そうなのか。」
チャールズが一礼する。
「はい。昨夜の劇団一同、バルク様の笑い声を非常に高く評価しておりました。」
「評価される笑い声って何だ?」
「士気向上に資する笑声でございます。」
ガルナが横で小さく笑った。
「よかったですね、バルク。」
「褒められてるのか、よく分からん。」
「褒められております。」
チャールズは真面目に答えた。
ルシアはミレイユへ向き直る。
「どうかしら。」
ミレイユはすぐには答えなかった。
夜の城へ行く。
それは危険でもあり、必要でもある。
ルシアの城を今後の拠点にするなら、現地を見ずに判断することはできない。
書面と聞き取りだけでは限界がある。
だが、吸血鬼族の城。
長い夜。
未知の魔法設備。
危険区域。
大教会や隣国の目。
考えるべきことは多い。
「チャールズ。」
「はい、ミレイユ様。」
「客人を迎える準備はどこまでできるの?」
「本日中に骸骨たちを先行させ、迎えの広間予定地の清掃を行います。危険区域には仮封鎖を設け、客人用通路には灯を配置いたします。食事につきましては、ソータ様に物資をお運びいただければ、ガルナ様のご助言を得て人間用に整えることが可能かと存じます。」
「移動の安全は?」
「ルシア様の飛行案内、オルドアイ様側の地上警戒、ソータ様の物資運搬を組み合わせれば、比較的安全に到着可能でございます。ただし、夜の城周辺は昼夜の感覚が人間と異なりますので、休憩時刻の管理が必要でございます。」
「ソータ。」
「うん。俺が行くなら、水と食料、毛布、灯り、薬、予備の縄、目印布を多めに持つ。途中で休む場所も決めておく。」
「オルドアイ。」
「護衛をつけるなら、少数精鋭だな。大人数で入ればかえって迷う。私とガルナ、バルク、あと二人ほどで十分だろう。夜の城まではルシアが案内し、森の中では私が前を見る。」
「私は行くのですね。」
ガルナが落ち着いた声で言う。
オルドアイが頷いた。
「お前の目がいる。人が休めるかどうかは、私よりお前の方が分かる。」
「承知しました。」
バルクも腕を組んだ。
「俺は荷運びと護衛と、骨たちを笑わせる係か?」
「だいたい合っているわ。」
ルシアが真面目に答えた。
「そうか。なら行く。」
ミレイユは少しだけ目を細めた。
「決断が早いわね。」
「ガルナが行くなら、俺も行く。」
「分かりやすい理由ね。」
「はい。」
ガルナが少し赤くなり、バルクの足を軽く踏んだ。
バルクは痛そうにしながらも嬉しそうだった。
ミレイユは呆れたように見てから、ルシアへ視線を戻した。
「分かったわ。視察として行きます。」
ルシアの顔が一気に明るくなった。
「本当?」
「ただし、招待ではなく視察よ。浮かれないこと。危険区域を隠さないこと。見せたい場所だけではなく、見せたくない場所も報告すること。」
「はい。」
「客人を驚かせる演出は禁止。」
「骸骨楽団は?」
「到着直後は禁止。」
「到着後、少し落ち着いてからなら?」
ミレイユは一瞬黙った。
チャールズが静かに控えている。
オルドアイが笑いを堪えている。
ソータも、あの骸骨劇団がミレイユに与える影響を想像して少しだけ胃が痛くなった。
「協議後なら、短縮版を許可するわ。」
「鐘は?」
チャールズが静かに聞いた。
「鐘は管理者をつけなさい。」
「承知いたしました。鐘、管理対象。」
チャールズが紙に書き込む。
ルシアはとても嬉しそうだった。
ミレイユはその顔を見て、少しだけ口元を緩めそうになり、すぐに引き締めた。
「ルシア。」
「はい。」
「これは信頼したから行くのではないわ。」
「はい。」
「確認するために行くの。」
「分かっているわ。でも、確認してもらえるなら嬉しい。」
「また嬉しがるのが早い。」
「でも、嬉しいの。」
ミレイユはため息をついた。
しかし、それ以上は言わなかった。
ソータは、その沈黙が答えだと分かった。
◆◇◆
協議が終わると、それぞれが準備に動き始めた。
中庭では黒紐の荷がさらに細かく分けられ、ソータは《神速積載庫》へ入れる順番を確認していく。
夜の城に到着してすぐ使うものは意識の手前側へ。
後で使う補修材はまとめて奥へ。
ただし、取り出す時に迷わないよう、用途ごとに心の中で棚を作る。
このスキルは物の前後に縛られない。
どこに入れても取り出せる。
それでも、意識の整理を怠れば自分が迷う。
荷物はただ積むだけでは駄目だ。
使う順番で、思考の中にも道を作る必要がある。
ミレイユは横で帳面を片手に指示を出していた。
旅の疲れが残っているはずなのに、荷を前にすると目が冴えていく。
オルドアイは護衛に連れていく者を選び、若いアマゾネスたちへ砦の留守を任せている。
ガルナは薬草と水袋、湯冷まし用の布、簡易の寝具を整えている。
バルクは大きな箱を軽々と運びながら、ガルナに褒められたいのか、妙に張り切っている。
ルシアはその間をうろうろし、手伝いたくて仕方ない顔をしていた。
「ルシア。」
ミレイユが呼ぶ。
「はい。」
「今、あなたがするべきことは?」
「勝手に荷を触らない。必要な時だけ手伝う。城の危険な場所を思い出して、チャールズに書かせる。」
「よろしい。」
ルシアは少し誇らしげに頷いた。
そしてチャールズの方へ行く。
「チャールズ。危ない場所を書きましょう。」
「はい、ルシア様。まず、月光回廊の三番目の扉は床が抜けております。」
「そうだったわ。」
「地下の黒水槽は、客人立入禁止でございます。」
「あれは私もあまり好きではないわ。」
「西塔の鏡の間は、夜半に古い幻影が出ます。」
「それは綺麗よ。」
「客人が悲鳴を上げる可能性がございます。」
「では、危ない場所ね。」
ミレイユは遠くからそれを聞き、顔をしかめた。
「綺麗な幻影と危険な幻影を同じ箱に入れないでほしいわ。」
「分類が必要ね。」
ルシアは真剣に頷いた。
ソータは苦笑しながら荷を積み込む。
夜の城。
閉じられた城。
ルシアがずっと一人でいた場所。
そこが今、誰かを迎えるために変わろうとしている。
それはきっと簡単ではない。
だが、最初の荷はもうここにある。
運ぶ者も、受け取る者も、見守る者も揃いつつある。
その時、アルベールが静かに中庭へ現れた。
いつの間に来たのか、足音はほとんどなかった。
白髪の老執事は、黒い執事服を一分の乱れもなく着こなし、白手袋の指先を軽く揃えている。
いつもの穏やかな微笑み。
だが、ソータはなぜか、その顔の奥にいつもと違う静けさを感じた。
「ミレイユ様。」
「アルベール。どこへ行っていたの。」
「少々、王都方面の連絡を確認しておりました。」
「また少々ね。」
「はい。」
ミレイユは疑わしそうに見たが、今は夜の城視察の準備が優先だった。
「夜の城へ視察に行くわ。私、オルドアイ、ルシア、ガルナ、バルク。ソータは荷を運ぶ。あなたはどうするの。」
アルベールは静かに一礼した。
「私は別件にて、王都の大教会へ赴く必要がございます。」
ミレイユの眉が動く。
「大教会?」
「はい。夜の城に対する接触禁止の再確認、および教会内部での意識改革に関する手続きでございます。」
「今?」
「今後、夜の城を物流拠点として扱うのであれば、早急に釘を刺しておく必要がございます。」
ミレイユは少し黙った。
言っていることは正しい。
大教会がまた勝手に動けば、夜の城の整備などできない。
大神官ヨーダの通達が出ているとはいえ、現場の意識まではすぐに変わらない。
確認は必要だ。
だが、アルベールがわざわざ自分から行くと言う時は、たいてい表に出していない何かがある。
「一人で行くの?」
「可能であれば、ソータ様に同行をお願いしたく存じます。」
その場の空気が少し変わった。
ソータも手を止めた。
ミレイユの視線がソータへ向かい、それからアルベールへ戻る。
「ソータを?」
「はい。夜の城と教会の件につきましては、ソータ様が当事者であり、また今後の物流路の責任者でもございます。大神官ヨーダ様へ直接確認を取る意味は大きいかと。」
ミレイユは腕を組んだ。
その目が細くなる。
「理屈は通っているわね。」
「恐れ入ります。」
「理屈はね。」
アルベールは微笑みを崩さない。
ソータは少し胃が重くなるのを感じた。
(これ、何かあるな。)
(アルベールが俺を名指しする時は、だいたい何かある。)
(でも、大教会の確認が必要なのは本当だ。)
(ミレイユに隠し事はしたくない。)
(でも、アルベールの顔が、全部をここで言う顔じゃない。)
ミレイユはソータを見た。
「ソータ。」
「はい。」
「あなたはどう考えるの。」
「大教会への確認は必要だと思う。夜の城に荷を運ぶなら、教会がまた動くのは困る。俺が行って直接話す意味もあると思う。」
「そう。」
「でも、夜の城にも行くつもりだった。」
「荷は?」
「初回分は俺が積んで、出発前に出せるものは出す。夜の城側で必要なものは、チャールズとルシアに渡しておける。後で追いつくこともできる。」
ミレイユはじっとソータを見た。
その視線は、昨夜の湯屋の時と少し似ていた。
逃げ道を探す目ではないかを見ている。
言葉の裏に何か隠していないかを見ている。
ソータは視線を逸らさなかった。
「ミレイユ。戻ったら、ちゃんと話す。」
「今、隠していることがあるの?」
鋭かった。
ソータは一瞬だけ息を止めた。
アルベールが静かに目を伏せる。
嘘はつきたくない。
だが、何も知らないものを知っているようにも言えない。
「分からないことがある。」
ソータは正直に言った。
「アルベールが何か掴んでいる気はする。でも、俺はまだ聞いてない。大教会へ行く理由が本当にそれだけじゃないなら、俺もそこで聞くことになると思う。」
ミレイユはアルベールを見た。
「アルベール。」
「はい、ミレイユ様。」
「私に言えないこと?」
「現時点では、確定情報ではございません。」
「便利な言葉ね。」
「恐れ入ります。」
「褒めていないわ。」
「承知しております。」
ミレイユはしばらく黙った。
紅い髪紐が朝風に小さく揺れる。
彼女は怒っているというより、計算していた。
夜の城視察を止めるべきか。
大教会への確認を優先すべきか。
ソータを行かせるべきか。
アルベールを信じるべきか。
そして、どこまで問い詰めれば今この場が崩れないか。
ミレイユは深く息を吐いた。
「分かったわ。」
ソータは少し驚いた。
「いいのか?」
「よくはないわ。でも、必要性はある。夜の城には私とオルドアイが行く。あなたは大教会へ行きなさい。」
「ミレイユ。」
「ただし。」
ミレイユは一歩近づき、ソータの胸元の服を軽く掴んだ。
昨夜の湯屋ほど柔らかくはない。
しかし、怒りだけでもない。
「戻ったら、全部聞くわ。」
「うん。」
「全部よ。」
「分かった。」
「アルベール。」
「はい、ミレイユ様。」
「ソータを妙な場所へ置き去りにしないこと。」
「もちろんでございます。」
「火山地帯へ送らないこと。」
「ソータ様を、でございますね。」
「誰の話をしていると思っているの。」
「失礼いたしました。」
ミレイユは額に指を当てた。
ルシアが不安そうに手を上げる。
「ソータは大教会へ行くの?」
「そうなる。」
ソータが答えると、ルシアは少し寂しそうな顔をした。
「夜の城へ来てほしかったわ。」
「あとで必ず行く。まずは、大教会に話をつけてくる。」
「教会がまた私の城に痛い光を送らないように?」
「うん。」
「なら、行ってほしいわ。」
ルシアは少しだけ我慢するように頷いた。
「でも、戻ってきてね。」
「戻る。」
「ミレイユも、そう言っていたわ。」
「うん。」
「では、私も言うわ。逃げないこと。」
ソータは苦笑した。
「分かった。逃げない。」
オルドアイが腕を組む。
「私たちは夜の城を見ておく。ソータ、お前は教会の方を片づけてこい。」
「分かった。」
「ただし、変な女を増やすなよ。」
ソータは固まった。
ミレイユの目がすっと細くなる。
ルシアは首を傾げる。
「変な女は増えるものなの?」
「増えない。」
ソータは即答した。
「増やさない。」
ミレイユが静かに言う。
「その言葉、覚えておくわ。」
「はい。」
アルベールは穏やかに微笑んでいた。
その微笑みが、どこか少しだけ遠いものを見ているように見えた。
◆◇◆
準備は二手に分かれて進んだ。
ミレイユ、オルドアイ、ルシア、ガルナ、バルク、チャールズは、夜の城へ向かうための荷と護衛を整える。
ソータはその初回物資を《神速積載庫》へ入れ、必要なものを一部チャールズへ預けた。
チャールズは一つずつ受け取り、まるで王侯貴族の宝を扱うように丁寧に確認していく。
遮光布を抱えた骸骨が一体、練習のために姿勢よく歩いていたが、布が大きすぎて前が見えず、柱にぶつかりそうになってガルナに止められていた。
ルシアはそれを見て笑い、ミレイユに「作業中に笑いすぎない」と注意されていた。
それでも、空気は明るかった。
夜の城へ向かう組は、未知の場所へ行く緊張と、そこを変え始める期待を抱えていた。
一方で、ソータはアルベールとともに大教会へ向かう支度をしていた。
支度といっても、アルベールの移動は普通の旅支度ではない。
彼が展開する魔法陣は、歩く距離を一気に折りたたむ。
ソータは最低限の荷を身につけ、緊急用の食料と水、記録用の紙、そしてミレイユから渡された小さな紅い紐を懐に入れた。
ミレイユは何も言わずにそれを渡した。
ただ、見れば分かる。
戻ってこいという荷札だ。
中庭の端で、ミレイユはソータを見た。
「教会では、相手の言葉をそのまま信じないこと。」
「うん。」
「ヨーダ大神官が相手でも、書面を残すこと。」
「分かった。」
「アルベールが笑顔で物騒なことを言い始めたら、止められる範囲で止めること。」
「止められる範囲で?」
「無理に止めて巻き込まれないこと。」
アルベールが静かに一礼する。
「ミレイユ様。私が物騒なことを申し上げるなど。」
「あるでしょう。」
「否定は控えます。」
「控えるのね。」
ミレイユはため息をついた。
ソータはその横顔を見て、少しだけ笑った。
するとミレイユがすぐに睨む。
「何を笑っているの。」
「いや、やっぱりミレイユがいると安心するなって。」
ミレイユは一瞬だけ言葉に詰まり、頬をわずかに赤くした。
「そういうことを出発前に言わない。」
「ごめん。」
「戻ったら聞くことが増えたわ。」
「増えたのか。」
「増えたわ。」
ミレイユはそう言いながらも、最後にソータの袖を少しだけ直した。
それは叱る手ではなく、送り出す手だった。
ソータはその手を見て、静かに頷いた。
「行ってくる。」
「行ってらっしゃい。必ず、戻りなさい。」
「うん。」
ルシアも近づいてきた。
「ソータ。教会で痛い光を見つけたら、壊してね。」
「壊すかどうかは状況次第だな。」
「アルベールなら壊す?」
「アルベールなら、たぶん壊す前に説教する。」
「それは怖いわ。」
アルベールが微笑む。
「必要な説教であれば、誠心誠意務めさせていただきます。」
「教会の人たち、かわいそうね。」
「ルシアが言うのか。」
オルドアイが呆れる。
ルシアは真剣に頷いた。
「私は最近、叱られる側の気持ちが分かるようになったわ。」
「成長だな。」
「ええ。少し進んだ紫よ。」
「だから、その名はやめろ。」
砦の者たちが小さく笑う。
その笑いの中で、ソータとアルベールは魔法陣の中央へ立った。
足元に淡い光が広がる。
アルベールの表情はいつも通り穏やかだった。
だが、ソータにはやはり、彼が何かを抱えているように見えた。
表に出さない荷。
ミレイユにも見せていない荷。
それを、今から自分だけが少し覗くことになる。
そう思うと、胸の奥が重くなった。
(また、荷が増える。)
(でも、逃げない。)
(ミレイユにも戻って話す。)
(今は、教会だ。)
(夜の城を守るためにも。)
光が強くなる。
北の砦の石畳が淡く揺れた。
ミレイユの紅い髪紐。
オルドアイの緑の組み紐。
ルシアの紫の羽。
三つの色が、光の向こうでぼやける。
次の瞬間、ソータの視界は白く塗り替えられた。
◆◇◆
ソータとアルベールが消えた後、中庭には一瞬だけ静けさが残った。
ミレイユはその場所を見つめていた。
胸の奥に、小さな不安がある。
アルベールは信頼している。
ソータも逃げないと言った。
それでも、知らされていない何かがあることは分かる。
分かるからこそ、落ち着かない。
だが、今ここで立ち止まるわけにはいかない。
「ミレイユ。」
オルドアイが声をかけた。
「こちらも行くぞ。」
「ええ。」
ミレイユは帳面を閉じた。
紅い髪紐を整え、夜の城へ向かう荷を見た。
ルシアが少し不安そうにこちらを見ている。
ミレイユはその視線を受け止めた。
「ルシア。」
「はい。」
「案内は慎重に。浮かれない。危険な場所は先に言う。私の質問には隠さず答える。」
「はい。」
「それができれば、あなたの城を見に行くわ。」
ルシアの顔が明るくなった。
「ありがとう、ミレイユ。」
「礼は、城を案内し終えてからにしなさい。」
「はい。でも、今も嬉しいわ。」
「分かっているわ。」
ミレイユは少しだけ柔らかく言った。
ルシアはその声に、また羽を広げかけた。
すぐに自分で気づいて、羽を小さく畳む。
「今、我慢したわ。」
「加点ね。」
ルシアは目を輝かせた。
「加点!」
「浮かれすぎると減点よ。」
「はい。」
オルドアイが笑い、ガルナが荷を肩にかけ、バルクが大きな箱を持ち上げた。
チャールズは優雅に一礼し、夜の城への道案内役としてルシアの横に立つ。
北の砦の門が開く。
朝の光の中、紅と緑と紫の一行は、閉じられた城を迎える場所へ変えるために歩き出した。
そして同じ頃、ソータとアルベールは、王都の大教会へ向けて、誰にも見えない別の道を進み始めていた。




