第155話:湯気の奥で、紅はほどける
宴の熱は、少しずつ北の砦の大広間に馴染んでいった。
最初は張り詰めていた空気も、肉の香りと笑い声と、少しばかりの酒の力で柔らかくなっている。
炉の火は赤く揺れ、長卓には食べ終えた皿や、まだ手をつけられていない干し果物、温かいスープの器が並んでいた。
アマゾネスたちは久しぶりの賑わいに声を弾ませ、商会の護衛たちも最初の緊張を解いて、砦の者たちとぎこちなく杯を交わしている。
チャールズは食事をしないにもかかわらず、誰よりも丁寧に皿を整え、時折アマゾネスたちに骨の劇団の段取りを聞かれて律儀に答えていた。
ヤンガルドアイはその全体を見渡し、満足そうに酒杯を傾けている。
ソータの近くには、ミレイユ、オルドアイ、ルシアがいた。
さっきまでミレイユとルシアは、謝罪文例集の難しさや、言葉を包むということについて話していた。
ルシアは真剣に聞き、ミレイユは少し呆れながらも答え、オルドアイは横から「そこは大事だ」「また飛び出すな」と補足する。
その様子は、まだ完全な和解とは言えない。
けれど、最初の頃の刺すような緊張はもうなかった。
ルシアはミレイユを怖がりながらも、同時に知りたいと思っている。
ミレイユはルシアに腹を立てながらも、見捨てようとはしていない。
その二つが、同じ卓の上で何度も交差していた。
ミレイユはふと杯を置き、肩に手を当てた。
長旅の疲れが、緊張がほどけたことで一気に出てきたのだろう。
王都を出て、グランデリアへ寄り、荷を整え、盗賊団の件まであり、霧の森を越えてきた。
気を張り続けていた体が、今になって重くなっているのが見て取れた。
「少し、旅の疲れを取りたいわね。」
ミレイユは小さく言った。
その声は独り言に近かったが、ルシアはすぐに反応した。
「なら、ソータと一緒に湯浴みすればいいわ。」
大広間の一角が一瞬静かになった。
ソータは飲んでいた水を危うく吹き出しそうになった。
オルドアイは額に手を当てた。
ガルナが遠くで「あ」と小さく声を漏らした。
バルクは面白そうにこちらを見て、すぐガルナに睨まれて姿勢を正した。
ミレイユはゆっくりルシアを見た。
頬にはまだ酒の名残が少しある。
だが、目はかなりはっきりしていた。
「ルシア。」
「あなた、今何と言ったの?」
「ソータと一緒に湯浴みすればいいと言ったわ。」
「旅の疲れには湯がいいもの。」
「私もこの間、ソータと入って、とても温かくなったわ。」
「オルドアイも一緒だったから、今日はミレイユと二人で行くといいと思うの。」
空気が完全に止まった。
ソータは頭を抱えたくなった。
ルシアは本当に悪気がない。
純粋に、旅の疲れを取るなら湯浴みがいいと言っている。
しかも、自分たちはこの間入ったから、今度はミレイユの番だと考えている。
公平。
いや、彼女なりの公平なのだ。
しかし、言い方があまりにも直接すぎた。
ミレイユの目が細くなる。
「この間?」
「ソータと?」
「オルドアイも一緒に?」
ルシアは少しだけ不安そうにしながら頷いた。
「ええ。」
「でも、香は使っていないわ。」
「アルベールも外にいたし、あとでいなくなったわ。」
「ガルナが冷たい水を用意してくれたの。」
「ソータの男気が――」
「ルシア!」
ソータとオルドアイが同時に叫んだ。
ルシアはびくっとして、両手で口を押さえた。
「また、言う場所を間違えた?」
ミレイユは静かに微笑んだ。
その微笑みは綺麗だった。
そして、とても怖かった。
「いいえ。」
「今のは、場所だけではなく、順番も説明も全部足りないわ。」
「減点?」
「大幅減点。」
ルシアはしゅんとした。
「ごめんなさい。」
「謝る相手は私だけではないわね。」
ミレイユの視線がソータへ向いた。
ソータは背筋を伸ばした。
「はい。」
「ソータ。」
「はい。」
「ゆっくり聞くわ。」
そう言いながら、ミレイユはソータの腕を強く握った。
細い指なのに、驚くほど力がこもっている。
逃がさないという意思がはっきり伝わってきた。
ソータは反射的に頷くしかなかった。
「今から?」
「今からよ。」
「ちょうど旅の疲れを取る必要があるもの。」
「湯浴みで、ゆっくり、聞くわ。」
言葉の一つ一つが丁寧だった。
丁寧すぎて怖い。
オルドアイは腕を組み、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
ルシアは心配そうにソータを見る。
「ソータ、無事で戻ってきてね。」
「湯浴みで死ぬ予定はない。」
「でも、ミレイユは言葉で斬るのでしょう?」
ミレイユがにこりと笑った。
「斬らないわ。」
「きちんと聞くだけよ。」
ルシアはさらに不安そうになった。
「聞くだけの方が怖い時もあるのね。」
「よく分かってきたな。」
オルドアイが低く言った。
ソータはミレイユに腕を掴まれたまま立ち上がった。
ミレイユは周囲の視線に気づいて、また少し赤くなる。
だが、今度は止まらなかった。
照れて引き返すには、ルシアの発言が大きすぎたのだろう。
彼女は堂々とした顔を作り、しかし耳だけは赤いまま、ソータを引いて大広間を出た。
背後でヤンガルドアイの愉快そうな声がした。
「若い者は湯で話すとよい。」
「ただし、湯あたりには気をつけるのじゃ。」
ミレイユの歩みが一瞬だけ乱れた。
だが、何も言わずに進んだ。
ソータは引かれながら、ただ小さく息を吐いた。
(これは説教だ。)
(でも、たぶん本気で責めるつもりだけじゃない。)
(ミレイユも分かってる。)
(分かったうえで、聞こうとしてる。)
(なら、逃げるな。)
(ちゃんと話せ。)
◆◇◆
北の砦の湯屋は、宴の熱から離れると驚くほど静かだった。
木の扉を開けると、温かな湯気がふわりと流れてくる。
石の床は昼のうちに洗われており、桶や布はきちんと並べられていた。
ガルナが気を利かせたのか、湯はすでに張られている。
香はない。
薬湯でもない。
ただ、旅の疲れをほどくための清潔な湯だった。
壁にかけられた灯火が橙色に揺れ、湯面を柔らかく照らしている。
ミレイユは扉を閉めると、ようやくソータの腕を離した。
だが、すぐに正面へ回る。
彼女の頬は赤い。
酒のせいだけではない。
怒り。
羞恥。
心配。
そして、少しの寂しさ。
その全部が混ざっている顔だった。
「さて。」
ミレイユは腕を組んだ。
「聞かせてもらうわ。」
「ソータの男気とは何かしら。」
ソータは視線を逸らしかけ、すぐに戻した。
「……新しく増えたスキル。」
「いつ気づいたの?」
「北の砦で。」
「ミレイユが来る前に。」
「なんとなく、砦のアマゾネスたちに妙な言い方をしてる気がして、久しぶりにステータスを確認したら増えてた。」
「妙な言い方。」
「口説いてるみたいになってた。」
ミレイユの目が細くなる。
「砦中の女の子を?」
「つもりはなかった。」
「でも、そう見えたと思う。」
「ガルナにも注意された。」
「ガルナが注意したなら、かなりだったのね。」
「うん。」
ミレイユは深く息を吐いた。
怒りはある。
だが、彼女はそれだけで言葉を叩きつけたりはしなかった。
「それで、オルドアイとルシアと湯浴みしたのね。」
「うん。」
「そのスキルが、欲求不満とか、情緒的な不足で外へ漏れるみたいで。」
「このままだと周りに迷惑をかけると思った。」
「だから、二人に説明して、落ち着く場所で話そうとした。」
「結果的に……。」
「その先も進んだ。」
ミレイユが静かに言った。
ソータは頷いた。
「うん。」
ミレイユは目を閉じた。
湯気が二人の間をゆっくり流れる。
ソータは何も言わずに待った。
言い訳をしたくなる気持ちはある。
でも、言い訳では届かない。
事実を言い、判断はミレイユに委ねるしかない。
ミレイユはしばらく黙っていた。
やがて、目を開けた。
「本当は、分かっていたわ。」
「え?」
「アルベールの報告はぼかしていたけれど、ぼかしたからこそ分かった。」
「オルドアイとルシアの様子を見ても分かった。」
「ルシアの距離感も、オルドアイの妙な落ち着きも。」
「何かあったのだろうとは思っていたわ。」
「怒ってる?」
「怒っているわ。」
即答だった。
だが、声は思ったよりも穏やかだった。
「でも、あなたたちが逃げずに向き合ったことも分かる。」
「オルドアイがルシアを支えたことも。」
「ルシアがただ奪う女ではなくなろうとしていることも。」
「あなたが、流されただけではなく、選んで受け止めたことも。」
ミレイユは少しだけ苦しそうに笑った。
「それが分かるから、余計に腹が立つのよ。」
「全部を否定できないから。」
ソータの胸が痛んだ。
「ごめん。」
「謝るのは必要よ。」
「でも、謝ればなかったことになるわけではない。」
「私は、あなたを独占できないことを少しずつ受け入れてきた。」
「オルドアイのことも、ただの敵としては見なくなった。」
「でも、ルシアは急だったわ。」
「手紙で知って、報告で知って、霧の森で本人に会って、今夜ここにいる。」
「私の心の準備より、全部が早い。」
その言葉は責めるというより、正直な吐露だった。
ソータは一歩近づいた。
「ミレイユ。」
「何?」
「抱きしめてもいいか?」
ミレイユは目を見開いた。
少し前なら、いきなり抱き寄せていたかもしれない。
でも、今は聞いた。
彼女の疲れも、怒りも、恥ずかしさも、全部ここにある。
だから、選んでもらう必要があると思った。
ミレイユは視線を逸らした。
「……聞くのはずるいわ。」
「嫌なら止める。」
「嫌とは言っていない。」
ソータはそっと腕を伸ばした。
ミレイユは抵抗しなかった。
彼女の体を優しく抱き寄せる。
旅装の布越しに、疲れた体の重みが伝わる。
ミレイユは最初こそ硬かったが、やがてソータの胸に額を預けた。
「本当に、心配したのよ。」
「うん。」
「手紙を読んでも、無事だと聞いても、顔を見るまで落ち着かなかった。」
「うん。」
「戻ったと思ったら、増えているし。」
「うん。」
「あなたは、どうしてそうなの。」
「自分でも時々思う。」
「そこは否定してほしかったわ。」
「ごめん。」
ミレイユは小さく笑った。
その笑いは、少しだけ震えていた。
ソータは彼女の髪に触れた。
紅い髪紐の近くに指を添え、乱れた髪を少し整える。
「ミレイユ。」
「俺は、君の場所を軽く見てない。」
「君が守ってくれた道も、家も、商会も、俺が戻る場所も。」
「全部、ちゃんと大事だ。」
「オルドアイも、ルシアも大事になった。」
「でも、それで君が小さくなるわけじゃない。」
ミレイユは顔を上げた。
紅い瞳が近い。
「言葉だけなら、いくらでも言えるわ。」
「うん。」
「だから、これから行動で示す。」
「逃げずに説明する。」
「仕組みも作る。」
「勝手に消えない。」
「何かを選ぶ時、君に見せる。」
ミレイユはじっとソータを見た。
そして、少しだけ目を細める。
「本当に?」
「本当に。」
「また荷を増やすのに?」
「増えたら、一緒に積み方を考える。」
「私に積ませる気?」
「一緒に。」
「……ずるい言い方。」
ミレイユの声が柔らかくなった。
ソータは彼女の頬に手を添えた。
軽く叩かれた方の頬に、まだわずかに熱が残っている。
その熱が、今度は別の温かさへ変わっていく。
「キスしていいか。」
ミレイユは少しだけ目を伏せた。
「聞きすぎよ。」
「嫌?」
「嫌とは言っていないでしょう。」
それが答えだった。
ソータはゆっくり顔を近づけ、ミレイユに口づけた。
最初は短く。
次に、少し深く。
湯気が二人を包み、灯火が揺れる。
ミレイユの手がソータの服を掴んだ。
怒りも、心配も、寂しさも、その手の力の中にまだ残っている。
けれど、唇が重なるうちに、その角が少しずつ丸くなっていく。
ミレイユは唇を離すと、少し息を乱してソータを見上げた。
「説教の途中よ。」
「うん。」
「なのに、何をしているの?」
「ミレイユが可愛かったから。」
ミレイユは一瞬固まり、次に頬を真っ赤にした。
「馬鹿。」
「二回目だ。」
「何度でも言うわ。」
そう言いながら、ミレイユは離れなかった。
ソータはもう一度、今度は彼女の額に軽く唇を落とした。
ミレイユは小さく息を吐き、ようやく肩の力を抜いた。
◆◇◆
湯浴みは、思ったより穏やかな時間になった。
もちろん、問い詰めは続いた。
ミレイユは湯に肩まで浸かりながら、ソータへ細かく聞いた。
ルシアの城で何があったのか。
オルドアイがどう受け止めたのか。
《男気》の効果はどこまでなのか。
今後、欲求不満が溜まるとまた砦中を口説くのか。
その質問だけは、ソータも湯に沈みたくなった。
「そこは、ちゃんと気をつける。」
「気をつけるで済むなら、スキル確認は不要でしょう。」
「兆候は?」
「言葉が妙に格好つけた感じになる。」
「相手の目を見すぎる。」
「声が低くなる。」
「守りたいとか、休めとか、そういうことを無駄に近い距離で言う。」
ミレイユはじっと見た。
「今は?」
「ミレイユ相手だから、少し出てるかもしれない。」
「正直ね。」
「嘘をついたら絶対ばれるから。」
「分かっているならいいわ。」
ミレイユは少し湯を手ですくった。
湯気が頬を濡らし、紅い髪がしっとりと肩へ落ちている。
湯浴み布をまとった姿は、普段の商会令嬢の鎧を少し脱いだようだった。
強さは残っている。
けれど、旅の疲れと酒の名残と湯の温かさで、表情は普段よりずっと柔らかい。
ソータはその横に座り、彼女がのぼせないよう水の入った桶を近くに置いていた。
ミレイユはそれを見て、少しだけ笑う。
「気が利くのね。」
「怒られたくないから。」
「それだけ?」
「ミレイユに倒れてほしくないから。」
「……そう。」
ミレイユは湯面を見る。
耳が赤い。
ソータはその横顔が愛しくて、また少し近づいた。
「近いわ。」
「遠い方がいい?」
「……遠いとは言っていない。」
「難しいな。」
「分かりなさい。」
「努力する。」
ソータは彼女の肩に触れた。
ミレイユは一瞬だけ固くなったが、すぐに力を抜いた。
湯の中で寄り添い、ただ静かに呼吸を合わせる。
それだけで、さっきまでの緊張が少しずつ溶けていった。
しばらくして、ミレイユが小さく言った。
「ルシアは、純粋ね。」
「うん。」
「危なっかしいけれど。」
「かなり。」
「順番を間違えるけれど。」
「本当に。」
「でも、悪意がない。」
「それが一番厄介ね。」
「そうだな。」
「嫌いになれない。」
ソータは黙って聞いた。
ミレイユは湯気の向こうを見るような顔で続ける。
「霧の森で、あの子は本当に一生懸命だったわ。」
「謝りたくて、待てなくて、飛んできてしまった。」
「それは駄目。」
「でも、逃げなかった。」
「オルドアイが斬らなかった理由も、少し分かった。」
「ミレイユ。」
「許したわけではないわ。」
「うん。」
「でも、見捨てる気もない。」
「話を聞く。」
「必要なら教える。」
「減点もしながら。」
「厳しいな。」
「当然よ。」
ミレイユはそこでソータを見る。
「あなたにも減点は山ほどあるわ。」
「はい。」
「でも、加点もある。」
ソータは驚いた。
「加点?」
「逃げなかったこと。」
「ルシアを守ったこと。」
「オルドアイの怒りを受け止めたこと。」
「夜の城の道を考え始めていること。」
「それから……私の前で、ちゃんと謝ったこと。」
ソータの胸が温かくなる。
「ありがとう。」
「まだ合計点は出していないわ。」
「厳しい。」
「当然よ。」
二人は小さく笑った。
湯屋の外では、宴の賑わいが遠くに聞こえる。
だが、この場所だけは別の時間が流れていた。
怒りを溶かし、心配を言葉にし、触れながら確かめる時間。
ソータはミレイユをそっと抱き寄せた。
彼女は今度は何も言わず、肩を預けた。
湯気の奥で、もう一度唇が重なった。
深くはない。
けれど、長かった。
ミレイユの指がソータの腕に触れ、少しずつ力を抜いていく。
ソータはその重みを受け止めた。
今日だけでは全部は解けない。
けれど、今夜ひとつほどけたものがある。
それで十分だった。
◆◇◆
湯屋から出る頃には、ミレイユの顔はかなり穏やかになっていた。
まだ説教の残りはある。
まだ聞くことも多い。
だが、最初に湯屋へ入った時の刺すような気配は薄れていた。
ソータは彼女の髪を簡単に拭くのを手伝い、ミレイユは文句を言いながらもされるままになっていた。
「自分でできるわ。」
「旅の疲れを取るんだろ。」
「そういう時だけもっともらしいことを言うのね。」
「もっともらしい?」
「少し嬉しいという意味よ。」
「それ、分かりにくいな。」
「分かりなさい。」
「努力する。」
ミレイユは少しだけ笑った。
ソータも笑った。
湯屋の扉を開けると、廊下の空気が少し冷たい。
その先に、ルシアが立っていた。
ルシアは両手に杯を持っていた。
湯気ではなく、冷たい白い霧のようなものが杯の縁にかかっている。
冷やしたハーブティーだった。
ガルナに教わったのか、香りは柔らかく、刺激の少ないものが選ばれている。
ルシアは少し緊張した顔で、二人を待っていた。
「ミレイユ。」
「ソータ。」
「冷たいハーブティーを持ってきたわ。」
「湯浴みの後は水分補給が大事だと、ガルナとアルベールが言っていたの。」
「アルベールはいないけれど、言っていた気がするの。」
「それから、香は入れていないわ。」
「薬も入れていない。」
「ただの、冷たいハーブティーよ。」
ミレイユは立ち止まった。
ルシアは少し不安そうに杯を差し出す。
「飲んでくれる?」
「私、また余計なことを言って、ミレイユを怒らせたから。」
「でも、怒らせたいわけではなかったの。」
「旅の疲れを取ってほしかっただけなの。」
「だから、これを持ってきたわ。」
「順番として合っているかは分からないけれど。」
ミレイユはルシアを見た。
薄紫の髪。
薄紫の瞳。
大きな紫の羽。
吸血鬼族の姫。
ソータを勝手に連れて行った相手。
自分を大きく心配させた相手。
そして今、冷たいハーブティーを両手に持ち、叱られた子供のように一生懸命立っている相手。
ミレイユは小さく息を吐いた。
「順番としては、悪くないわ。」
ルシアの顔がぱっと明るくなった。
「本当?」
「謝って、相手の状態を見て、必要なものを渡す。」
「これは悪くない。」
「できた?」
「今回はね。」
ルシアは嬉しそうに笑った。
その笑顔に、ミレイユの胸のどこかがふっと緩んだ。
この子は本当に危うい。
だけど、本当に一生懸命だ。
それが分かってしまった以上、もう単純に遠ざけることはできない。
ミレイユは杯を受け取った。
冷たいハーブティーを一口飲む。
湯上がりの体に、すっと染みていく。
優しい香り。
強すぎない苦み。
喉を通る冷たさ。
思っていたより、ずっとちょうどいい。
「美味しいわ。」
ミレイユが言うと、ルシアは両手を胸の前で握った。
「よかった。」
「ガルナに教えてもらったの。」
「冷やしすぎるとお腹が驚くから、少しだけ冷たいくらいにするのだって。」
「よく覚えたわね。」
「ミレイユに飲んでほしかったから。」
また真っ直ぐな言葉だった。
だが、今度の真っ直ぐさは痛くなかった。
むしろ、温かかった。
ミレイユは少しだけ困ったように笑った。
「あなたは、本当に包むのが下手ね。」
「ごめんなさい。」
「でも、今のはそのままでいいわ。」
ルシアの瞳が揺れた。
「そのままでいい?」
「ええ。」
「嬉しいわ。」
「それも、そのままでいいわ。」
ルシアは今にも抱きつきそうな顔をしたが、途中で止まった。
そして、ミレイユを見る。
「ミレイユ。」
「抱きついてもいい?」
ミレイユは少し目を見開いた。
ソータも驚いた。
ルシアが、聞いた。
飛びつく前に、ちゃんと聞いた。
ミレイユはしばらく黙った。
それから、少しだけ苦笑する。
「今日は、軽くなら。」
ルシアの顔が花が開いたように明るくなった。
彼女は杯を落とさないようソータに預け、そっとミレイユへ近づいた。
本当に軽く。
羽が当たらないように気をつけながら、ミレイユの肩に腕を回す。
抱きつくというより、確かめるような抱擁だった。
「ありがとう、ミレイユ。」
「許したわけではないわ。」
「ええ。」
「でも、抱きつかせてくれたわ。」
「軽くだけよ。」
「軽くだけでも嬉しい。」
ミレイユは困った顔をした。
だが、押しのけなかった。
むしろ、ほんの少しだけルシアの背に手を添えた。
紫の羽には触れないように、布の上からそっと。
ソータはその光景を見て、胸がいっぱいになった。
紅と紫が、湯屋の廊下で軽く抱き合っている。
こんな日が来るとは思わなかった。
まだ危なっかしい。
まだ減点も多い。
でも、確かに一歩進んだ。
そこへ、廊下の向こうからオルドアイが現れた。
彼女はその光景を見て、一瞬立ち止まる。
そして、少しだけ笑った。
「ほう。」
「紅い女も、ついに紫の妹に捕まったか。」
ミレイユはルシアから少し離れ、すぐに表情を整えた。
「妹ではないわ。」
「私も違うと言っているが、聞かん。」
オルドアイが言うと、ルシアが嬉しそうに振り返る。
「オルドアイ。」
「ミレイユが軽くなら抱きついていいと言ってくれたわ。」
「よかったな。」
「ええ。」
「今日は減点だけではなかったわ。」
ミレイユは杯を持ったまま、少し疲れたように笑った。
「加点も少しだけよ。」
「加点!」
ルシアが目を輝かせる。
オルドアイが腕を組んだ。
「調子に乗るな。」
「乗らないわ。」
「少ししか。」
「少しも乗るな。」
そのやり取りに、ミレイユはつい小さく笑った。
本当に、調子が狂う。
怒っていたはずなのに。
問い詰めるつもりだったのに。
いつの間にか、湯上がりの廊下で冷たいハーブティーを飲み、紫の羽の姫を少しだけ抱き返している。
ソータはその横で杯を持ち、静かに息を吐いた。
(少しずつだ。)
(本当に少しずつ。)
(でも、ちゃんと進んでる。)
(ミレイユも、ルシアも、オルドアイも。)
(俺も、逃げずに運ばないと。)
大広間からは、まだ宴の声が聞こえている。
肉の匂いと、笑い声と、遠くで鳴る誰かの杯の音。
その賑わいへ戻る前に、ミレイユはもう一度ハーブティーを飲んだ。
そして、ルシアへ言った。
「明日、謝罪文例集を一緒に見るわ。」
ルシアは一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。
次に、嬉しさが顔いっぱいに広がる。
「本当に?」
「ただし、途中で飛ばないこと。」
「飛ばないわ。」
「勝手に窓から覗かないこと。」
「覗かないわ。」
「ソータに甘えすぎて説明を忘れないこと。」
「……頑張るわ。」
「そこは即答しなさい。」
「即答するわ。」
「頑張る。」
ミレイユは呆れながらも頷いた。
オルドアイは満足そうに笑う。
ソータは、もう一度胸の奥が温かくなるのを感じた。
紅い髪紐は、まだ完全に紫の羽を許したわけではない。
けれど、冷たいハーブティーを受け取り、軽い抱擁を許し、明日の約束をした。
それは十分に大きな一歩だった。
四人は並んで、大広間へ戻っていった。
ソータの隣にはミレイユ。
その少し先にオルドアイ。
横でルシアが嬉しそうに羽を小さく揺らしている。
廊下の灯りが三色を淡く照らす。
北の砦の夜は、宴の奥で、またひとつ新しい形へほどけていった。




