第154話:紅い髪紐は、馬車を飛び出しかける
北の砦の門前に、クラウゼン商会の馬車列が姿を現した。
霧の森を抜けてきた車輪には白い湿り気が残り、護衛たちの外套にも細かな霧がまとわりついている。
馬たちは少し疲れていたが、足取りは乱れていなかった。
先頭にはオルドアイが立ち、数人のアマゾネスたちが馬車列を守るように左右へついている。
その少し上を、ルシアが約束通り低くゆっくり飛んでいた。
紫の羽は霧を払い、薄紫の髪が夜風に揺れている。
何度かミレイユの馬車の窓を覗き込みたそうにして、そのたびにオルドアイの鋭い視線を受け、慌てて前を向いていた。
砦の門はすでに開いていた。
中庭には、ソータが立っている。
その横にはバルクとガルナ。
少し奥にはチャールズ。
さらに後ろには、迎えと警戒を兼ねたアマゾネスたちが並んでいた。
中庭の灯はすでに点り、炉の煙がゆっくりと夜空へ上っている。
ソータは馬車列が見えた瞬間、胸の奥が大きく鳴るのを感じた。
(来た。)
(ミレイユだ。)
(本当に来た。)
(逃げない。)
(まず、無事を伝える。)
(それから謝る。)
(順番。)
(順番だ。)
頭の中で何度も確認した。
だが、馬車が近づくにつれ、確認した言葉は霧のように薄くなっていく。
代わりに湧いてきたのは、ただひとつの感情だった。
会いたかった。
心配をかけた。
怒られる。
それでも、会いたかった。
馬車が止まった。
アルベールが先に降り、いつものように扉の横へ立つ。
白髪の老執事は一切乱れていない。
まるで盗賊団を火山地帯へ送ったことなど、この世に存在しなかったかのような顔をしていた。
そして、扉が開く。
ミレイユが姿を現した。
紅い髪。
紅い髪紐。
旅装に近い上着を着ているが、身のこなしは少しも崩れていない。
ただ、顔には疲れと緊張があった。
そして、その目がソータを捉えた瞬間、彼女の表情が大きく揺れた。
「ソータ……。」
声は小さかった。
だが、ソータにははっきり聞こえた。
ミレイユは馬車の段を降りるより早く、ほとんど飛び出すように身を乗り出した。
アルベールが手を添えようとしたが、その手を待つ余裕もないようだった。
彼女は真っ直ぐソータへ向かおうとした。
抱きつくつもりだった。
それは誰が見ても分かった。
ソータも反射的に両手を広げた。
受け止める気だった。
何を言うかより先に、まず彼女を抱きしめるつもりだった。
怒られてもいい。
その前に、一度だけでも無事に戻ってきたことを確かめたい。
そう思って、腕を広げて待った。
だが、ミレイユはあと数歩というところで止まった。
ぴたりと。
まるで目の前に見えない壁があったかのように。
ソータは広げた両手の行き場を失った。
「……ミレイユ?」
ミレイユの目が、横へ動いていた。
中庭には、オルドアイがいる。
ルシアがいる。
ヤンガルドアイがいる。
バルクとガルナがいる。
アマゾネスたちがいる。
チャールズもいる。
商会の護衛も、御者も、荷運びの者たちも見ている。
つまり、全員が見ていた。
ミレイユの頬が一気に赤くなった。
彼女は数秒、固まった。
そして、広げられたソータの両腕を見た。
その拍子抜けした顔を見た。
さらに赤くなる。
「何をしているの?」
「いや、こっちの台詞というか……。」
「腕を広げないで。」
「ミレイユが来ると思ったから。」
「飛びつくわけないでしょう。」
「いや、来ようとしてたよな?」
「していないわ。」
即答だった。
だが、誰も信じていなかった。
後ろでバルクが明らかに笑いを堪えている。
ガルナが肘で止める。
オルドアイは腕を組んで、面白そうに見ている。
ルシアは目を輝かせていた。
「ミレイユも、ソータに抱きつきたかったのね。」
ルシアが素直に言った。
その瞬間、ミレイユの視線が鋭く飛ぶ。
「ルシア!」
「はい。」
「今は言う場所とタイミングが違うわ。」
ルシアははっとして、両手で口を押さえた。
「ごめんなさい。」
「また間違えたわ。」
「減点よ。」
「はい。」
ソータは笑いそうになった。
だが、その前にミレイユが一歩近づいた。
彼女はソータの前に立つ。
紅い瞳が少し潤んでいるように見えた。
でも、顔は怒っている。
怒っているのに、どこか安心しきれず、今にも崩れそうな顔でもあった。
ソータは何か言おうとした。
「ミレイユ、俺――」
ぱちん、と軽い音がした。
ミレイユの手が、ソータの頬を軽く叩いていた。
痛くはない。
むしろ、触れたと言った方が近い。
それでも、その音は中庭に妙に響いた。
「馬鹿。」
ミレイユの声は震えていた。
「心配かけて。」
ソータは叩かれた頬に手を当てた。
そこには、彼女の手の熱が残っている。
ソータは深く頭を下げた。
「ごめん。」
「本当に、心配かけた。」
「謝るのは後でたっぷり聞くわ。」
「はい。」
「でも……。」
ミレイユはそこで言葉を切った。
少しだけ視線を逸らす。
それから、ほとんど聞こえないくらい小さく言った。
「無事でよかった。」
ソータの胸が締めつけられた。
両手はまだ広げたままではない。
抱きしめることもできない。
けれど、その一言だけで十分だった。
「ただいま、ミレイユ。」
ミレイユは顔を背けたまま答えた。
「おかえり、ソータ。」
その言葉を聞いた瞬間、オルドアイが少しだけ柔らかい顔をした。
ルシアも、嬉しそうに胸の前で手を合わせた。
ヤンガルドアイは満足そうに笑った。
アルベールは静かに目を伏せている。
「さて。」
ミレイユはすぐに仕事の顔へ戻った。
頬はまだ赤いが、声には芯が戻っている。
「再会の茶番は終わり。」
「荷を下ろすわ。」
「夜の城用、北の砦用、男たちの村用、直接確認用で分けてある。」
「ソータ。」
「はい。」
「あなたは荷下ろしを手伝いなさい。」
「自分の顔を見せるだけで仕事が終わると思わないこと。」
「もちろん。」
ソータは少し笑った。
その顔を見て、ミレイユはまた少しだけむっとする。
「何を笑っているの?」
「ミレイユらしいなと思って。」
「褒めても説教は減らないわ。」
「分かってる。」
「なら動きなさい。」
「はい。」
ソータは馬車の荷台へ向かった。
すると、ルシアがすぐにその後を追おうとする。
ミレイユが目で止めた。
「ルシア!」
「はい。」
「あなたは勝手に荷へ触らない。」
「何がどこへ行くものか説明を聞いてから。」
「分かったわ。」
「荷にも順番があるのね。」
「ええ。」
「荷にも、言葉にも、謝罪にも、順番があるわ。」
「覚えるわ。」
ルシアは真剣に頷いた。
ミレイユはほんの少しだけ目を細めた。
「期待はまだしないけれど、見てはいるわ。」
「見てもらえるのね。」
「そうよ。」
「嬉しいわ。」
「だから、喜ぶのが早い。」
「はい。」
そのやり取りを聞いていたオルドアイが、小さく笑った。
ミレイユはその笑いに気づき、オルドアイを見る。
「何か?」
「いや。」
「お前も苦労しそうだと思ってな。」
「もうしています。」
「だろうな。」
二人は短く視線を交わした。
そこにはまだ緊張がある。
だが、以前のような棘だけではない。
ルシアを挟んで、少し奇妙な共犯めいた空気が生まれていた。
◆◇◆
荷下ろしは、思ったより早く進んだ。
ミレイユの荷札分類は実に分かりやすかった。
黒紐は夜の城用。
緑紐は北の砦用。
茶紐は男たちの村用。
紅紐はミレイユ直接確認用。
ソータはそれを見て、思わず感心した。
「すごいな。」
「現場で迷わない。」
ミレイユは当然のように言う。
「迷うような荷札をつけたら、それだけで時間の損よ。」
「黒は夜の城。」
「緑は北の砦。」
「茶は男たちの村。」
「紅は私が見るもの。」
「あなたなら一目で分かるでしょう。」
「うん。」
「すごく分かる。」
「でしょうね。」
ミレイユは少し得意そうだった。
ソータはその顔を見て、また胸が温かくなる。
こういうところがミレイユだ。
怒っていても、心配していても、現場が動く形にしてくる。
感情を荷に混ぜないのではない。
感情があるからこそ、荷を崩さないようにするのだ。
ルシアは黒紐の荷をじっと見ていた。
「これは、私の城のもの?」
「そう、あなたの城用よ。」
ミレイユが答える。
「遮光布、油布、補修板、薬草、洗浄布、柔らかい保存食。」
「それから、あなたが欲しがった本もあるわ。」
ルシアの瞳が輝いた。
「謝り方の本?」
「若い商人向けの謝罪文例集と、初歩の礼法書。」
「子供向けの生活絵本も入れてある。」
「恋愛の本は入れていないわ。」
「どうして?」
「今のあなたに渡すと、余計なことを覚えるからよ。」
「余計なこと。」
ルシアは真剣に考え込む。
オルドアイが横で言う。
「今は謝罪と順番を覚えろ。」
「分かったわ。」
「恋愛は後。」
ソータは何とも言えない顔をした。
ミレイユがそれを見逃さない。
「ソータ。」
「はい。」
「何か言いたそうね。」
「何も。」
「嘘ね。」
「恋愛の本がなくてよかったなと。」
「本当にそう思っている顔ではないわ。」
「すみません。」
ミレイユは目を細めたが、それ以上は追及しなかった。
荷下ろし中は仕事が優先だ。
後でいくらでも聞ける。
チャールズは黒紐の荷を見て深く一礼した。
「ミレイユ様。」
「夜の城へのご配慮、誠にありがとうございます。」
ミレイユは初めてチャールズと正面から向き合った。
ハイ・スケルトンの執事。
骨でありながら、動きは優雅で、言葉は丁寧だ。
不気味さがないわけではない。
だが、昨日までの話を聞いていた以上、単純に怖いものとしては見られなかった。
「あなたがチャールズね。」
「はい。」
「ルシア様の側近、チャールズでございます。」
「後で詳しく話を聞くわ。」
「夜の城の修復状況、必要物資、今後の窓口、スケルトンの管理体制。」
「承知いたしました。」
「なお、空輸報告書も必要であれば提出いたします。」
ミレイユの目が止まった。
「空輸報告書?」
ソータが素早く間に入る。
「その話は後で!」
オルドアイも同時に言う。
「今は荷下ろしが先だ!」
ルシアはきょとんとしている。
「チャールズを抱えて飛んだ報告書よ。」
「ルシア!」
ソータとオルドアイが叫んだ。
ミレイユはゆっくりルシアを見る。
「あなた、チャールズを抱えて飛んだの?」
「ええ。」
「落とさなかったわ。」
ミレイユは額に指を当てた。
「……後で聞くわ。」
「順番。」
「まず荷。」
「はい。」
ルシアは素直に頷いた。
ミレイユはすでに疲れた顔をしていた。
だが、その目の奥には少しだけ、笑いを堪えているような気配もあった。
ソータは見なかったことにした。
◆◇◆
荷下ろしが終わる頃には、完全に夜になっていた。
北の砦の大広間には火が入れられ、長卓には肉、パン、野菜の煮込み、干し果物、温かいスープ、そしていくつかの酒が並べられていた。
ミレイユの一行にも食事が必要だった。
長旅の疲れ、霧の森の緊張、盗賊団の件。
どれも軽くはない。
それを察したヤンガルドアイは、大広間の中央で声を張った。
「何にせよ、事は無事に終わり、みなが揃った。」
「紅い髪紐の娘も、長旅で腹が減っただろう。」
「細かい話は腹に何か入れてからでも遅くはあるまい。」
「今夜は宴としよう。」
アマゾネスたちが歓声を上げた。
ミレイユは一瞬だけ何か言いかけたが、ヤンガルドアイの顔を見てやめた。
この場の長は彼女だ。
そして、彼女の判断は間違っていない。
疲れた者たちに、いきなり重い会談を始めさせても良い結果にはならない。
「お言葉に甘えます。」
「ですが、飲みすぎるつもりはありません。」
ミレイユが言うと、ヤンガルドアイは面白そうに笑った。
「そう言う者ほど、面白いことになるものじゃ。」
「なりません。」
「そうかのう。」
ミレイユは嫌な予感を覚えた。
だが、すでに宴の準備は始まっている。
ガルナが温かいスープを配り、バルクが肉の皿を運び、チャールズは食べないのに配膳の手伝いをしようとしてガルナに「ありがとうございます」と普通に受け入れられている。
骸骨の執事が北の砦の食卓で皿を並べている。
ミレイユはその光景を見て、少しだけ頭を押さえた。
「アルベール。」
「はい、ミレイユ様。」
「私が来る前に、何がどこまで進んでいたの。」
「必要に応じて、後ほどご説明いたします。」
「その返事、今いちばん嫌いだわ。」
「恐れ入ります。」
ミレイユはため息をついた。
しかし、食卓の匂いは確かに空腹を刺激した。
長旅の後の温かい食事ほどありがたいものはない。
彼女は椅子に座った。
座る位置は、自然とソータの近くになった。
反対側にはオルドアイ。
その向こうにルシア。
少し離れてチャールズ。
アルベールはミレイユの後ろに控えようとしたが、ヤンガルドアイに座れと言われ、結局少し離れた席に座った。
ソータの前には、ミレイユ、オルドアイ、ルシアの三人が揃っていた。
紅。
緑。
紫。
その三色が同じ卓に並んでいる。
ソータは正直、落ち着かなかった。
(ついに揃った。)
(ここからが本番だ。)
(まず、落ち着いて話す。)
(宴だけど、浮かれすぎない。)
(順番。)
(謝罪。)
(説明。)
(条件。)
(……でも、肉がうまそうだ。)
オルドアイがソータの顔を見て言う。
「食え。」
「腹が減っている顔だ。」
「緊張してる顔じゃない?」
「緊張しながら腹も減っている顔だ。」
「正確だな。」
ミレイユが横から言う。
「あなたは昔から、緊張していても食べる時は食べるもの。」
「そうかな。」
「そうよ。」
「荷の到着が遅れて胃が痛いと言いながら、パンを二つ食べたことがあるわ。」
「覚えてるのか?」
「商会の記録ほどではないけれど、覚えているわ。」
ルシアが目を輝かせる。
「ソータは緊張しても食べるのね。」
「食べないと動けないから。」
「大事なことね。」
「そうだな。」
ルシアは真剣に肉を見つめた。
「私も少し食べるわ。」
「ソータが生きるものを知りたいから。」
ミレイユが一瞬だけルシアを見る。
その言葉は直接的すぎるが、以前手紙で読んだものと同じ種類の真っ直ぐさだった。
オルドアイが先に口を開く。
「ルシア。」
「言葉を包め。」
「今のは駄目?」
「悪くはないが、少し強い。」
ルシアは少し考えた。
「では、私はソータが食べるものを少し知りたいわ。」
「それでよい。」
「ミレイユ、今の方がいい?」
突然聞かれたミレイユは、少しだけ目を瞬かせた。
「……ええ。」
「今の方が聞きやすいわ。」
ルシアの顔が明るくなる。
「できたわ。」
「一回できたくらいで満足しない。」
「はい。」
ミレイユの声は厳しい。
だが、ルシアは嬉しそうだった。
オルドアイも少し誇らしげにしている。
ソータはその様子を見て、胸の奥が少し和らいだ。
緊張はある。
でも、会話ができている。
少なくとも、剣や怒号から始まってはいない。
真面目な話は、食事をしながら少しずつ始まった。
ルシアがソータを連れ去ったこと。
オルドアイが怒っていたこと。
ルシアが北の砦へ直接謝罪に来たこと。
チャールズを連れてきたこと。
ミレイユが霧の森で先走ったルシアと会ったこと。
その度に、ルシアは素直に謝り、ミレイユは減点を口にし、オルドアイが横から補足した。
ソータは自分の非も説明した。
ルシアの城へ戻ったこと。
大教会の件。
男たちの村と夜の城の道。
ミレイユは途中で何度も質問を挟んだ。
その質問は鋭く、逃げ道がなかった。
「ソータ。」
「あなたは、ルシアの城へ戻る判断を自分でしたのね。」
「うん。」
「誰かに言われたからではなく。」
「自分で決めた。」
「その判断自体を否定するつもりはないわ。」
「大教会の動きがあった以上、戻る必要はあった。」
「でも、連絡を残す手段はもっと考えるべきだった。」
「その通りだと思う。」
「思うだけではなく、次から仕組みにしなさい。」
「うん。」
「うん、ではなく、どうするの。」
「男たちの村、北の砦、グランデリア、夜の城で緊急連絡の手段を決める。」
「骨の使者、信号弾、商会便、霧の道の合図。」
「それぞれ使う条件を決める。」
ミレイユは少しだけ目を細めた。
「それならいいわ。」
「後で書面にする。」
「はい。」
ソータが返事をすると、オルドアイが少し感心したように見る。
「よく即答したな。」
「考えてはいた。」
「なら最初からそうしろ。」
「はい。」
ルシアが手を上げる。
「私も連絡の練習をするわ。」
「勝手に飛ばない練習も。」
ミレイユが言う。
「それは最優先ね。」
「はい。」
ルシアは真剣だった。
その真剣さに、ミレイユは少しだけ肩の力を抜いた。
そして、卓の上の杯を手に取った。
中身を水だと思った。
色は薄く、香りも料理の匂いに紛れていた。
長旅と緊張で喉が渇いていたこともある。
ミレイユは何の気なしに一口飲んだ。
次の瞬間、ほんのわずかに目を見開いた。
(しまった。)
(ワイン。)
気づいた時には遅かった。
強い酒ではない。
北の砦で出された軽い果実酒に近いものだ。
だが、ミレイユは酒に強くない。
特に空腹と長旅の疲れがある時は、回るのが早い。
彼女は静かに杯を置いた。
何事もなかった顔をしようとした。
だが、ソータは気づいた。
「ミレイユ?」
「それ、酒じゃないか?」
「……少しだけよ。」
「大丈夫か。」
「大丈夫よ。」
その返事がすでに少し柔らかかった。
オルドアイの眉が動く。
「ミレイユは酒に弱いのか。」
「弱くないわ。」
ミレイユはすぐに否定した。
だが、頬が少し赤くなっている。
「弱いのね。」
ルシアが素直に言った。
「弱くないと言っているでしょう。」
「顔が赤いわ。」
「旅の疲れよ。」
「声が柔らかいわ。」
「気のせいよ。」
ソータは嫌な予感と、少し懐かしい感覚を同時に覚えた。
ミレイユは普段きっちりしている。
だが、ほんの少し酒が入ると、強い理性の蓋が緩む。
怒りが消えるわけではない。
ただ、甘えが隠れきらなくなる。
ミレイユはソータを見た。
紅い瞳が、いつもより少し潤んでいる。
「ソータ。」
「はい。」
「近いわ。」
「え?」
「俺、離れてるけど。」
「遠いわ。」
「どっち?」
「遠いのに、近い顔をしているわ。」
ソータは困った。
オルドアイが横で面白そうにしている。
ルシアは完全に興味津々だ。
「ミレイユ、それは甘えているの?」
ルシアが聞く。
ミレイユは少しむっとした顔でルシアを見る。
「甘えていないわ。」
「でも、ソータを見ている目が柔らかいわ。」
「見ていない。」
「見ているわ。」
「ルシア。」
「はい。」
「減点。」
「また?」
「またよ。」
ルシアは少ししょんぼりする。
だが、次に杯を見る。
中身は同じ果実酒だった。
彼女は興味を持ってしまった。
「これを飲むと、ミレイユみたいになるの?」
ソータが慌てて言う。
「ルシア、待て。」
だが、ルシアはもう杯を手に取っていた。
「少しだけ。」
「その少しだけが危ない。」
「ミレイユも少しだけだったわ。」
ルシアは一口飲んだ。
そして、目を丸くした。
「甘いわ。」
「でも、喉の奥がふわっとする。」
オルドアイが額に手を当てた。
「お前まで。」
「大丈夫よ。」
「私は吸血鬼族だから。」
「それは酒に強い理由になるのか。」
「分からないわ。」
「分からないなら飲むな。」
しかし、ルシアの頬もすぐに薄く赤くなった。
吸血鬼族だから強いというわけではなかったらしい。
むしろ、普段人間の食事や酒に慣れていない分、反応が素直すぎた。
ルシアはソータを見た。
にこりと笑う。
「ソータ。」
「はい。」
「私も近くがいいわ。」
ソータは深く息を吸った。
「ここで?」
「ここで。」
「今、真面目な話の途中で。」
「真面目な話は難しいわ。」
「でも、ソータの近くは分かりやすい。」
ミレイユがそれを聞いて、少しだけ眉を上げた。
「ずるいわ。」
「ずるい?」
ルシアがミレイユを見る。
「あなた、すぐそうやって素直に言うのね。」
「ミレイユも言えばいいわ。」
「言わないわ。」
「どうして?」
「恥ずかしいからよ。」
言ってから、ミレイユは固まった。
ソータも固まった。
オルドアイは肩を震わせている。
ルシアはぱっと笑顔になった。
「ミレイユ、今すごく素直だったわ。」
「……違うわ。」
「違わないわ。」
「恥ずかしいのね。」
「ルシア。」
「はい。」
「減点。」
「でも、今のは嬉しい減点かもしれないわ。」
「減点に嬉しいも何もないわ。」
「あるわ。」
「ミレイユのことが少し分かったもの。」
ルシアは杯を両手で持ち、にこにこしている。
ミレイユは頬を赤くしながら、少し視線を逸らした。
「あなた、本当に調子が狂うわね。」
「オルドアイにも言われたわ。」
「でしょうね。」
ミレイユとオルドアイが同時に同じような顔をした。
ルシアは嬉しそうに二人を見比べる。
「やっぱり似ているわ。」
「似ていない。」
「似ていないわ。」
二人の声が重なった。
大広間のあちこちで笑いが起きる。
ミレイユは赤くなり、オルドアイは少し照れくさそうにそっぽを向く。
ルシアは楽しそうだった。
ソータは三人を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
最初は真面目な話だった。
今も解決したわけではない。
謝罪も、条件も、夜の城の扱いも、盗賊団の件も、まだ正式には話しきれていない。
だが、今この卓には笑いがある。
ミレイユが少し甘えた声になり、ルシアがそれを真似するように素直になり、オルドアイが呆れながら見守っている。
それは、危ういけれど、悪くない空気だった。
ミレイユはソータの袖を軽くつまんだ。
ほんの少し。
だが、はっきりと。
ソータは驚いて彼女を見る。
ミレイユは視線を逸らしたまま言う。
「……逃げなかったわね。」
「うん。」
「戻ってきた。」
「うん。」
「でも、また増えた。」
「うん。」
「本当に、あなたは荷を増やすのが得意ね。」
「ごめん。」
「褒めていないわ。」
「分かってる。」
「でも……。」
ミレイユは少しだけ指に力を込めた。
「運ぶなら、私にも見せなさい。」
「勝手に背負って、勝手に遠くへ行かないで。」
ソータの胸に、その言葉が深く落ちた。
「分かった。」
「一緒に考える。」
「一緒に運ぶ。」
ミレイユは小さく頷いた。
そのやり取りを、ルシアがじっと見ていた。
そして、自分もソータの反対側の袖をつまむ。
「私も。」
「ルシア?」
「私も、一緒に運ぶ。」
「まだ下手だけれど。」
「順番も間違えるけれど。」
「でも、覚えるわ。」
「ミレイユ、教えてくれる?」
ミレイユはルシアを見た。
酒で少し柔らかくなった顔に、真面目な色が戻る。
「教えるかどうかは、あなたの態度次第よ。」
「はい。」
「でも、覚える気があるなら、見捨てはしないわ。」
ルシアの瞳が潤んだ。
「ありがとう、ミレイユ。」
「だから、礼が早い。」
「でも、嬉しいもの。」
「……まったく。」
ミレイユは呆れたように言った。
だが、声は優しかった。
ルシアはそれを感じ取ったのか、さらに嬉しそうに笑った。
オルドアイが酒杯ではなく水の杯を持ち、二人を見ながら言う。
「ミレイユ。」
「ルシアは手がかかるぞ。」
「見れば分かるわ。」
「すぐ飛ぶ。」
「さっき見たわ。」
「すぐ言う。」
「今も見ているわ。」
「でも、逃げない。」
ミレイユは少しだけ黙った。
ルシアも静かになる。
「それも、見たわ。」
ミレイユはそう答えた。
オルドアイは満足そうに頷く。
「ならよい。」
「あなたも随分とこの子を庇うのね。」
「監視しているだけだ。」
「そう。」
「何だ?」
「何でもないわ。」
ミレイユは少しだけ笑った。
オルドアイは眉を寄せる。
「笑ったな。」
「笑っていないわ。」
「笑った。」
「気のせいよ。」
「ソータ、笑ったよな。」
「笑ってた。」
「ソータ。」
ミレイユが睨む。
ソータは両手を上げた。
「事実確認です。」
「あなたも減点。」
「俺も?」
「当然よ。」
ルシアが楽しそうに言う。
「減点仲間ね、ソータ。」
「仲間になりたくない。」
「でも、一緒だわ。」
大広間の笑いがまた広がった。
ヤンガルドアイは酒杯を掲げ、満足そうにその光景を眺めている。
チャールズはなぜか卓の端で「紅、緑、紫、初回宴席における会話進行」と題した記録を取り始めている。
アルベールはそれを見て、静かに口元を抑えた。
「チャールズ。」
「はい、アルベール……いえ、ミレイユ様の執事殿。」
「その記録は後で拝見する。」
「承知いたしました。」
「ただし、余計なことは書くな。」
「余計なことの定義をご教示願えますか。」
「ミレイユ様が後で読まれて私を睨む部分だ。」
「それは範囲が広うございます。」
「分かっているではないか。」
骨の執事と老執事の静かなやり取りに、ソータはまた別の胃痛を感じた。
だが、今夜はもう少しだけ、この空気に浸っていたかった。
ミレイユはワインをそれ以上飲まないよう、ソータがそっと杯を水に替えた。
ルシアの杯もオルドアイが取り上げ、代わりに薄いハーブティーを渡した。
二人は少し不満そうだったが、すでに十分柔らかくなっている。
ミレイユはソータの袖を離さず、ルシアはハーブティーを飲みながらミレイユへあれこれ質問し始めた。
「ミレイユ。」
「謝罪文例集は難しい?」
「最初は難しいかもしれないわ。」
「一緒に読んでくれる?」
「時間があれば。」
「時間を作るわ。」
「あなたが作るの?」
「チャールズとソータと相談するわ。」
「まず自分で予定を覚えなさい。」
「はい。」
「返事だけはいいのね。」
「オルドアイにも言われたわ。」
「でしょうね。」
二人はいつの間にか、普通に会話していた。
ぎこちなく、危なっかしく、時々減点が入る。
それでも、会話は途切れない。
ミレイユは呆れながらも答え、ルシアは嬉しそうに聞く。
そこに、ほんの少し和解の芽が見えた。
ソータはそれを見て、静かに息を吐いた。
(まだ終わってない。)
(むしろ、これから決めることの方が多い。)
(でも、今夜は揃った。)
(ミレイユが来た。)
(オルドアイが迎えた。)
(ルシアが謝った。)
(みんなで同じ卓についた。)
炉の火がぱちりと鳴る。
北の砦の大広間は、笑い声と肉の匂いと酒の香りに包まれている。
紅い髪紐、緑の組み紐、紫の羽。
三つの色が、同じ灯りの下に並んでいた。
ソータは自分の両手を見た。
馬車の前では抱きしめ損ねた。
けれど今、ミレイユの指が袖をつまみ、ルシアの視線がこちらへ甘く向き、オルドアイが隣で呆れながらも笑っている。
それだけで、十分すぎるほど重い。
そして、運ぶ価値のある重さだった。
宴はまだ続く。
真面目な話は、明日から本格的に始まる。
だが今夜だけは、紅と紫が少し酔って笑い、緑がそれを見守り、ソータがその中心で困った顔をしながら幸せを噛みしめる夜になった。




