第153話:霧の森で、紫は紅に先走る
北の砦の見張り台で、最初にそれを見つけたのは若いアマゾネスだった。
夕暮れが森の上に沈みかけ、空の端が濃い藍色へ変わり始めた頃だった。
霧の森の向こうで、細い光がひとつ上がった。
火の色ではない。
魔力を含んだ淡い金色の光が、空へ向かってまっすぐ伸び、途中で小さく弾けた。
弾けた光は三つに分かれ、すぐに消えた。
その形は、アルベールが事前に決めていた合図だった。
「信号弾!」
「霧の森の手前、南西側!」
「クラウゼン商会の馬車列と思われます!」
見張りの声が砦の中庭へ響いた。
食堂の入り口で荷を確認していたソータは、思わず顔を上げた。
胸の奥がどんと鳴る。
ミレイユが来た。
ついに来た。
そう思った瞬間、胃のあたりがきゅっと縮むような感覚も同時に来る。
(来た。)
(本当に来た。)
(逃げない。)
(逃げないけど、胃は痛い。)
(いや、これは逃げたいんじゃない。)
(緊張してるだけだ。)
(たぶん。)
中庭では、すぐにアマゾネスたちが動き始めた。
門の開閉の準備。
馬の確認。
霧の森へ向かう護衛の選定。
北の砦では、合図が一つ上がっただけで全員が自分の役割を理解する。
オルドアイは大広間から出てくると、信号弾の消えた方角を見上げた。
茶色の髪が夕風に揺れ、薄茶色の肌に炉の明かりがまだ残っている。
彼女の顔には、いつもの強気さと少しの緊張があった。
「来たか。」
オルドアイは短く言った。
その横にルシアが飛び出してきた。
薄紫の髪を揺らし、紫の羽を外套の下で落ち着きなく動かしている。
彼女の目は大きく開かれ、完全に不安と期待と好奇心が混ざっていた。
「ミレイユ?」
「ミレイユが来たの?」
「信号弾はアルベールからの合図だ。」
「おそらく馬車列は霧の森の手前にいる。」
「じゃあ、迎えに行くのね?」
「私が行く。」
「数人連れて霧の森の入口まで迎える。」
「ソータは砦に残れ。」
ソータが驚いてオルドアイを見る。
「俺も行かなくていいのか。」
「お前が行くと、話が増える。」
「まずは馬車列の安全確認と誘導だ。」
「それに、ここで迎える準備をしておけ。」
「逃げるなよ。」
「逃げないって。」
「顔が逃げたがっている。」
「胃が逃げたがってるだけだ。」
「同じようなものだ。」
オルドアイは少しだけ口元を動かした。
その横で、ルシアがそわそわと両手を握ったり開いたりしている。
「私は?」
「私はどうするの?」
「お前は待て。」
オルドアイが即答した。
ルシアの顔が不満そうになる。
「待つの?」
「そうだ。」
「ミレイユに会いたいのは分かる。」
「だが、霧の森の中でいきなり紫の羽が飛んできたら、商会の護衛が驚く。」
「まず私が迎える。」
「その後、砦で正式に会う。」
「でも、私、謝る練習をしたわ。」
「言い訳を減らす練習もした。」
「順番も覚えた。」
「だから、早く会いたい。」
「早く会えばよいというものではない。」
「でも、逃げないって決めたもの。」
「逃げないことと、飛び出すことは違う。」
ルシアはその言葉を聞いて、真剣に考える顔をした。
ソータは少し安心した。
考えている。
なら、たぶん大丈夫だ。
そう思ったのが甘かった。
オルドアイが迎えに行く者を選び、ガルナが薬草袋と水袋を用意し、見張りが馬の位置を確認している間、ルシアはじっと霧の森の方角を見ていた。
その薄紫の瞳が、だんだん輝きを増している。
怖がっているのではない。
わくわくしている。
不安を、期待が追い越し始めている。
ソータはそれに気づいた。
「ルシア。」
「何?」
「待つんだぞ。」
「ええ。」
「待つわ。」
返事はした。
だが、目は森から離れていない。
ソータの背筋に、嫌な予感が走る。
次の瞬間、ルシアは一歩下がった。
そして、まるで思いつきが体を追い越したように、外套の下から紫の羽を広げた。
「ルシア!」
ソータが叫ぶ。
近くのアマゾネスたちも気づいた。
「ルシア様、待ってください!」
「オルドアイ様がまだ準備を!」
「一人で行っては駄目です!」
呼び止める声が重なる。
だが、ルシアにはほとんど届いていないようだった。
彼女は顔を明るくし、霧の森の方角を見つめている。
「ミレイユが来たのよ。」
「私、ちゃんと謝るわ。」
「早く、ちゃんと。」
「早くじゃなくて順番!」
ソータの声も届かない。
ルシアは地面を蹴った。
紫の羽が大きく風を打つ。
中庭の砂が舞い、見張り台の布が揺れた。
彼女の体はふわりと浮き、そのまま砦の門を越えて霧の森へ向かって飛んでいく。
オルドアイが振り返った時には、すでにルシアは柵の上を越えていた。
「ルシア!」
オルドアイの声が飛ぶ。
ルシアは振り返らない。
いや、聞こえてはいるのかもしれない。
だが、今の彼女の頭の中は、ミレイユに会うことだけでいっぱいなのだろう。
紫の羽は夕暮れの空に美しく広がり、霧の森へ吸い込まれていった。
オルドアイの顔が険しくなる。
「あの馬鹿。」
ソータも同じ気持ちだった。
「悪い予感しかしない。」
「私もだ。」
「すぐ出る。」
「予定より早めるぞ!」
オルドアイが声を張る。
選ばれていたアマゾネスたちが一斉に動いた。
数人が馬を引き、数人は徒歩でつく。
ガルナも行こうとしたが、オルドアイが手で止めた。
「ガルナは砦で待て。」
「ルシアが何かやらかした時、帰ってきてすぐ対応できる者がいる。」
「分かりました。」
「バルク、あなたは砦側の荷と門の手伝いを。」
「分かった。」
バルクは頷いた。
そして、ソータをちらりと見た。
「ソータは。」
「残る。」
ソータは答えた。
オルドアイが自分を残す理由は分かる。
自分が今行けば、ミレイユと霧の森の中で顔を合わせることになる。
そこでルシアが何かを言い、オルドアイが追いつき、アルベールがいて、全員が霧の中で話し始める。
混乱しかない。
まずミレイユの馬車列を安全に迎え入れる。
その場を作る。
ソータは砦で待つべきだった。
オルドアイは馬に乗る前に、ソータへ一度視線を向けた。
「逃げるな。」
「何度も言わなくても逃げない。」
「なら、門で待て。」
「ミレイユが着いた時、お前がいないとさらに面倒だ。」
「分かった。」
オルドアイは頷き、数人のアマゾネスを連れて砦を出た。
馬の蹄が地面を打ち、霧の森へ向かっていく。
ソータはその背を見送った。
胸の中で嫌な予感が渦巻いている。
ルシアは悪意ではなく善意でやらかす。
それが一番怖い。
◆◇◆
ソータは門の近くでそわそわしていた。
立っているだけでは落ち着かないので、荷の位置を確認する。
黒紐の荷。
緑紐の荷。
茶色紐の荷。
紅紐の荷。
確認はもう三回目だった。
それでも手が止まらない。
バルクが横で腕を組んで見ていた。
「ソータ。」
「何?」
「その箱、さっきも見てたぞ。」
「念のため。」
「その前も見てた。」
「念には念を。」
「その前の前も見てた。」
「……記憶力がいいな。」
「お前が分かりやすすぎるんだ。」
バルクはにやりと笑った。
ソータは少し嫌な顔をする。
「からかいに来たのか。」
「少しな。」
「少しか。」
「だいぶ。」
「正直だな。」
バルクは大きく笑った。
そして、少し声を落とす。
「紅い女が来るんだろ。」
「怖いか。」
「怖い。」
ソータは即答した。
バルクはさらに笑った。
「男らしくなったと思ったら、そこは正直なんだな。」
「怖いものは怖い。」
「ミレイユは剣で斬らないけど、言葉で逃げ道を塞ぐ。」
「オルドアイ様も似たようなことを言ってたな。」
「みんな同じ認識なんだよ。」
「でも、逃げないんだろ。」
「逃げない。」
ソータは荷札を結び直しながら言った。
バルクはその横顔を見て、少し真面目な顔になった。
「なら大丈夫だろ。」
「怒られる時は、堂々と怒られればいい。」
「逃げる男よりは、怒られる男の方がましだ。」
「それ、慰めになってる?」
「たぶん。」
「たぶんか。」
ガルナが少し離れたところから言う。
「バルク、変な慰め方をしない。」
「じゃあ、どう言えばいい。」
「ソータさんは、まず深呼吸です。」
「それから、荷を四回目に確認するのはやめてください。」
「周りの者が不安になります。」
ソータは手を止めた。
「四回目でしたか。」
「はい。」
「すみません。」
ガルナは少し微笑んだ。
「ミレイユ様が到着されたら、まず無事を伝えるのがよいと思います。」
「それから、謝るべきことは謝る。」
「説明すべきことは説明する。」
「ルシアさんのことも、オルドアイ様のことも、順番に。」
「順番。」
「はい。」
「ルシアさんにも言っていたでしょう。」
ソータは頷いた。
その通りだった。
自分も同じだ。
焦って全部言おうとすれば崩れる。
荷と同じで、順番がいる。
「ありがとう、ガルナ。」
「いえ。」
バルクが横でにやにやしていた。
「ガルナはいい女だろ。」
「うん。」
ソータが普通に頷くと、バルクが照れた。
「そこは否定しないんだな。」
「否定する理由がない。」
「……そういうところ、たまに男前だな。」
「今はその言葉が怖い。」
「男気か。」
「言うな。」
ソータは少しだけ笑った。
緊張は消えない。
だが、砦に残った者たちの何気ない会話で、胸の中の硬さが少しほどけた。
それでも、霧の森の方角から目は離せなかった。
◆◇◆
霧の森の手前では、ミレイユの馬車列が一時停止していた。
アルベールが上げた信号弾の光はすでに消えている。
周囲には薄い霧が流れ始め、夕暮れと夜の境目が森の奥を曖昧にしていた。
護衛たちは周囲を警戒し、御者は馬を落ち着かせている。
ミレイユは馬車の外に立っていた。
先ほどの盗賊団の処理もあり、予定より少し神経を尖らせている。
しかし、彼女の立ち姿は乱れていない。
紅い髪紐が霧の中で鮮やかに見えた。
「アルベール。」
「信号は届いたと思う?」
「はい、ミレイユ様。」
「北の砦の見張りであれば確認しているはずでございます。」
「間もなく迎えが参るかと。」
「そう。」
ミレイユは霧の森を見つめた。
この先にソータがいる。
そう思うと、胸が少し落ち着かない。
だが、先ほどの盗賊の件で、怒りの一部は別の方向へ向いていた。
道を狙う者。
村を狙う者。
物流路が広がるほど、そういう者が寄ってくる。
北の砦へ着いたら、まずソータに会う。
その後、警備網の見直しについても話さなければならない。
恋愛問題だけで済む状況ではない。
その時、霧の奥で何かが揺れた。
護衛たちが一斉に身構える。
アルベールの目もわずかに動く。
次の瞬間、紫の羽が霧を裂くように現れた。
「ミレイユ!」
明るい声がした。
ミレイユは動かなかった。
護衛たちは驚き、剣に手をかける。
アルベールが片手を上げて制した。
「お待ちを。」
「ルシア様でございます。」
霧の中から飛び出してきたルシアは、馬車列の少し前に着地した。
紫の羽を大きく広げ、薄紫の髪を霧に濡らし、目を輝かせている。
怖がっているようにも見える。
しかし、それ以上にわくわくしている。
ミレイユはその姿を見て、まず最初に思った。
(先に来たわね。)
(順番。)
(減点。)
ルシアは息を整える前に、勢いよく頭を下げた。
「ミレイユ!」
「私はルシアよ!」
「ソータを勝手に連れて行って、ごめんなさい!」
護衛たちがまたざわめく。
あまりにも直球だった。
ミレイユは腕を組んだまま、静かにルシアを見る。
「顔を上げなさい。」
ルシアはぱっと顔を上げた。
「はい。」
「まず聞くわ。」
「どうして一人で来たの。」
ルシアは一瞬止まった。
それから、胸に手を当てる。
「早く謝りたかったの。」
「迎えが来るまで待てなかったのね。」
「待つつもりだったわ。」
「でも、信号弾が上がって、ミレイユが近くにいると分かったら、胸が熱くなって。」
「今、会わなければと思ってしまったの。」
「つまり、待てなかったのね。」
「ええ。」
「待てなかったわ。」
ミレイユの目が細くなる。
ルシアは慌てて言葉を続けた。
「でも、逃げていないわ。」
「私は逃げないと決めたの。」
「オルドアイにも謝った。」
「まだ許されていないけれど、話を聞いてくれた。」
「オルドアイは怖いけれど、優しいわ。」
「お姉さんみたいなの。」
ミレイユの眉がわずかに動いた。
「オルドアイが、お姉さん。」
「ええ。」
「本人は違うと言うけれど、私にはそう見えるわ。」
「森の字を教えてくれたし、肉の味も教えてくれたし、言う場所を選ぶことも教えてくれたの。」
「今、その教えは守れているのかしら。」
ルシアは固まった。
しばらく考えた。
そして、少ししょんぼりした顔になる。
「守れていないかもしれないわ。」
「そうね。」
「減点?」
「減点。」
ルシアは両手で胸を押さえた。
「やっぱり。」
アルベールが静かに一歩前へ出た。
「ミレイユ様。」
「ルシア様は、順番に関しまして現在学習途上でございます。」
「本来であれば北の砦で正式なご対面となる予定でしたが、謝罪への意欲が行動に先んじたものと推察いたします。」
「意欲が先んじるのは分かるわ。」
「けれど、護衛付きの馬車列の前へ突然飛び降りるのは、意欲ではなく危険行動よ。」
「ごもっともでございます。」
アルベールは一礼した。
ルシアは素直に頭を下げる。
「ごめんなさい。」
「危険行動だったわ。」
「次からは、飛ぶ前に聞く。」
「たぶんではなく、聞く。」
ミレイユは少しだけ目を細めた。
この子は、本当にすぐ謝る。
それも表面だけではない。
言われたことを、頭の中で必死に並べ替えようとしている。
扱いにくい。
腹立たしい。
だが、悪意はない。
それがまた厄介だった。
「ルシア。」
「はい。」
「あなたの手紙は読んだわ。」
ルシアの顔がぱっと明るくなる。
「読んでくれたのね。」
「読んだわ。」
「何度か。」
「何度も?」
「何度かよ。」
「嬉しいわ。」
「嬉しがる前に、内容を思い出しなさい。」
「あなたはソータを勝手に連れて行った。」
「ええ。」
「ごめんなさい。」
「私たちに心配をかけた。」
「ええ。」
「ごめんなさい。」
「ソータを帰したくなかった。」
ルシアの肩が小さく震えた。
しかし、逃げなかった。
「ええ。」
「帰したくなかった。」
「寂しかった。」
「ソータが笑うと嬉しくて、ずっといてほしいと思った。」
「でも、それは間違っていたわ。」
「ソータには戻る場所があった。」
「ミレイユ、あなたがその場所だった。」
「オルドアイも待っていた。」
「私は、それを知らなかった。」
「知ってから、怖くなった。」
「でも、怖いから隠れていたら、また奪う女になると思ったの。」
ミレイユは黙って聞いていた。
護衛たちも、いつの間にか剣から手を離している。
アルベールは静かに見守っている。
「私はソータが好き。」
ルシアは真っ直ぐ言った。
ミレイユの眉がまた動く。
それでもルシアは止まらなかった。
「でも、ソータをものにしたいわけではない。」
「前は、そう思っていたかもしれない。」
「城に連れてきたから私のもの、助けたから私のもの。」
「でも、チャールズとアルベールとソータとオルドアイが教えてくれたわ。」
「ものではない。」
「選ぶのだと。」
「私は、ソータに選んでほしい。」
「でも、あなたの場所を壊したくない。」
「だから、謝りに来たの。」
「順番を間違えたけれど。」
最後の一言が少し小さくなる。
ミレイユは深く息を吐いた。
まったく、と思った。
本当に、まったく。
この子は危なっかしすぎる。
謝罪のために順番を破る。
人の気持ちを学んだと思えば、次の瞬間には飛び出す。
言葉は直接すぎる。
好きですと真正面から言う。
だが、ここまで真正面に来られると、怒りだけで押し返すこともできない。
「あなたね。」
ミレイユは静かに言った。
「謝る気があるなら、まず相手が安心して聞ける場所を作りなさい。」
「いきなり霧の森で飛び降りるのは、謝罪ではなく奇襲に近いわ。」
ルシアは真剣に頷く。
「謝罪と奇襲は違う。」
「当然よ。」
「覚えるわ。」
「本当に覚えなさい。」
「はい。」
「次に、言葉が真っ直ぐすぎる。」
「真っ直ぐなのは悪いことではないけれど、相手の胸に刺さることもある。」
「刺さった?」
「刺さったわ。」
ルシアの顔が不安になる。
「痛かった?」
「かなり。」
「ごめんなさい。」
「だからといって、全部隠せという意味ではないわ。」
「包み方を覚えなさい。」
「オルドアイにも言われたのでしょう。」
「言われたわ。」
「言葉も荷物みたいに包むのだと。」
ミレイユは少しだけ目を見開いた。
言葉も荷物みたいに包む。
それは、ルシアにしてはなかなか良い理解だった。
誰が教えたのか、おそらくソータとオルドアイだろう。
少し悔しいが、ちゃんと学んでいる。
「そう。」
「なら、そこは続けなさい。」
「褒められた?」
「注意したの。」
「でも、続けなさいと言われたわ。」
「少し嬉しい。」
「嬉しがるのが早い。」
「ごめんなさい。」
ミレイユは額に指を当てた。
怒っている。
間違いなく怒っている。
だが、目の前のルシアがあまりにも一生懸命で、怒りの角が少しずつ削られていく。
それがまた腹立たしい。
アルベールが小さく口を開いた。
「ミレイユ様。」
「ルシア様は、北の砦にて多くを学ばれました。」
「オルドアイ様の監督のもと、謝罪、順番、言葉の選び方、血に関する説明、砦の暮らし、そして夜の城を外へ開くための考えを整理されつつあります。」
「未熟ではございますが、逃げてはおられません。」
「分かっているわ。」
ミレイユは少し強めに言った。
分かっている。
だから困っているのだ。
「ルシア。」
「はい。」
「私はあなたをまだ許していない。」
「ええ。」
「ソータを勝手に連れて行ったことは、重いわ。」
「心配した。」
「腹も立った。」
「今も立っている。」
「ええ。」
「ごめんなさい。」
「でも、話は聞く。」
「北の砦で、正式に。」
「オルドアイとソータの前で。」
「チャールズからも聞く。」
「あなたの城のことも、今後の道のことも。」
ルシアの目が大きく開かれた。
そして、少しずつ潤んでいく。
「話を聞いてくれるのね。」
「そう言っているでしょう。」
「ありがとう。」
「ミレイユ。」
「礼を言うのは早いわ。」
「許すとは言っていない。」
「オルドアイにも同じことを言われたわ。」
「でしょうね。」
ミレイユは思わずそう返した。
まったく同じ反応をしてしまった自分に、少しだけ腹が立つ。
ルシアはそれを嬉しそうに受け止める。
「ミレイユとオルドアイは、少し似ているわ。」
「似ていないわ。」
「そうなの?」
「二人とも、許していないけれど話は聞くと言うわ。」
ミレイユは黙った。
確かに、その一点では似ているかもしれない。
認めたくはないが。
「……そこだけよ。」
「そこだけでも嬉しいわ。」
ルシアは本当に嬉しそうに笑った。
その笑顔は、夜の種族の妖艶さよりも、初めて許される可能性を見つけた子供のような明るさに近かった。
ミレイユは小さく息を吐いた。
「アルベール。」
「はい、ミレイユ様。」
「この子、放っておくとまた飛ぶわね。」
「はい。」
「北の砦まで、馬車の近くを飛ばせるのは危険かしら。」
「護衛の方々へ事前に説明すれば、上空警戒として利用可能かと。」
「ただし、ルシア様が興奮して前後左右へ飛び回られると、馬が驚く恐れがございます。」
「ルシア。」
「はい。」
「馬車の上を飛び回らない。」
「馬を驚かせない。」
「霧の中へ勝手に消えない。」
「合図なしで近づかない。」
「私の馬車の窓へ突然顔を出さない。」
ルシアは真剣に指折り数え始めた。
「馬車の上を飛び回らない。」
「馬を驚かせない。」
「霧に勝手に消えない。」
「合図なしで近づかない。」
「窓に突然顔を出さない。」
「そう。」
「分かったわ。」
「窓に突然顔を出すのは駄目なのね。」
「駄目よ。」
「やってみたかったわ。」
「やらないで。」
「はい。」
アルベールが静かに目を伏せた。
おそらく笑っている。
ミレイユは見逃さなかった。
「アルベール。」
「はい、ミレイユ様。」
「笑っているわね。」
「いいえ。」
「ルシア様の学習速度を喜ばしく思っているだけでございます。」
「便利な言い方ね。」
「恐れ入ります。」
◆◇◆
しばらくして、霧の奥から蹄の音が聞こえた。
オルドアイたちが到着したのだ。
薄い霧を裂いて、茶色の髪のアマゾネス姫が現れる。
その後ろには数人のアマゾネスたち。
オルドアイはミレイユの馬車列と、その前で大人しく立っているルシアを見て、一瞬だけ状況を理解しようとした。
「……もう話していたのか。」
声には疲れが混じっていた。
ミレイユは振り返る。
「ええ。」
「あなたが来る前に、紫の羽が降ってきたわ。」
オルドアイはルシアを見る。
「待てと言っただろう。」
「ごめんなさい。」
「待てなかったわ。」
「胸を張るな。」
「張っていないわ。」
「少ししか。」
「少しも張るな。」
オルドアイは馬から降り、ミレイユへ向き直った。
少しだけ緊張した顔になる。
ミレイユも彼女を見る。
紅と緑。
二人は少しの間、黙って向かい合った。
「オルドアイ。」
「ミレイユ。」
「ルシアを砦へ入れてくれたこと、礼を言うわ。」
「まだ話を聞く段階とはいえ、斬らずにいてくれて助かった。」
オルドアイは少し目を見開いた。
そして、視線を逸らす。
「礼を言われるほどではない。」
「私も怒っていたが、話を聞く価値はあると思っただけだ。」
「それが難しいことよ。」
「……そうか。」
オルドアイの頬が少し赤くなる。
ルシアが嬉しそうに二人を見る。
「ほら、二人は似ているわ。」
「似ていない。」
「似ていないわ。」
二人が同時に言った。
ルシアは目を輝かせる。
「同じことを言ったわ。」
ミレイユとオルドアイが同時にルシアを見る。
ルシアは慌てて口を押さえた。
「言う場所を間違えた?」
「場所というより、タイミングだ。」
オルドアイが言う。
「覚えることが多いわ。」
「増やしているのはあなたよ。」
ミレイユが言った。
その声は冷たいようで、完全には冷たくなかった。
オルドアイはそれに気づいたのか、少しだけ表情を緩める。
「砦へ案内する。」
「霧の中は慣れている者が先導する。」
「お願いするわ。」
ミレイユは頷いた。
それからルシアを見る。
「あなたは、私の馬車の上を飛ばない。」
「オルドアイの近くで低く飛ぶか、歩く。」
ルシアはオルドアイを見る。
「オルドアイ、近くで飛んでもいい?」
「低く、ゆっくりだ。」
「勝手に前へ出るな。」
「分かったわ。」
「私は今、順番を守るルシア。」
「さっき破ったばかりだろう。」
「今から守るわ。」
オルドアイはため息をついた。
ミレイユも額に指を当てた。
「本当に、疲れる子ね。」
ルシアは少し不安そうにする。
「嫌いになった?」
「まだ判断中よ。」
「判断中。」
「ええ。」
「呆れてはいる。」
「呆れると、嫌いは違う?」
「違うわ。」
ルシアはほっとしたように笑った。
「よかった。」
「呆れられたわ。」
「喜ぶところではないわ。」
「でも、嫌いではないのでしょう?」
ミレイユは一瞬言葉に詰まった。
アルベールが穏やかに目を伏せる。
オルドアイが少し面白そうに見る。
ミレイユは咳払いをした。
「まだ判断中と言ったわ。」
「はい。」
「砦で続きを聞く。」
「そこでまた減点するかもしれない。」
「はい。」
「でも、話を聞いてもらえるなら嬉しいわ。」
ルシアは深く頭を下げた。
今度は勢いではなく、少し不器用でも丁寧な礼だった。
ミレイユはそれを見て、小さく頷いた。
「行きましょう。」
馬車列が動き出す。
オルドアイが先頭に立ち、アマゾネスたちが霧の道を示す。
ルシアは約束通り、低くゆっくりとオルドアイの近くを飛ぶ。
時々、嬉しそうにミレイユの馬車を見そうになるが、そのたびにオルドアイが睨み、ルシアは慌てて前を見る。
アルベールは馬車の横を歩くように進み、涼しい顔で周囲を確認している。
ミレイユは馬車の窓からその様子を見た。
紫の羽が霧の中で揺れる。
緑の組み紐の姫がその横を進む。
その先に、ソータが待つ北の砦がある。
(本当に、何なのかしら。)
(危なっかしくて、順番を破って、言葉が真っ直ぐすぎて。)
(でも、一生懸命で、逃げない。)
(オルドアイが斬らなかった理由は、分かった気がする。)
(許したわけではない。)
(でも、話は聞ける。)
馬車の揺れに合わせて、紅い髪紐が小さく揺れた。
ミレイユは息を整える。
この先にソータがいる。
霧の森の中で、すでに一波乱あった。
だが、本番はこれからだった。
北の砦の灯が、霧の向こうにぼんやりと見え始める。
紅い馬車列は、緑と紫に導かれながら、ついに砦へ近づいていった。




