第152話:紅い馬車と、消えた盗賊ども
ミレイユの馬車列が北方の森道へ入ったのは、グランデリアを出てから三日目の夕方近くだった。
空はすでに少し赤く、木々の影が街道に長く伸びている。
荷馬車の車輪は乾いた土を踏み、護衛たちは周囲の気配に目を配りながら進んでいた。
ここからさらに進めば、霧の森へ近づく。
その先には北の砦があり、ソータがいて、オルドアイがいて、ルシアがいる。
ミレイユは馬車の中で帳面を閉じ、窓の外を見た。
胸の奥は落ち着いていなかった。
ここまで来る道中、何度も言葉を整理した。
ソータに言うこと。
オルドアイに礼を言うこと。
ルシアに問うこと。
チャールズから確認すること。
夜の城へ渡す荷の条件。
北の砦との連携。
男たちの村への中継。
頭の中では整っている。
しかし、感情は帳面のようには整わない。
(もうすぐね。)
(逃げるなと言ったのは私だけれど、逃げたいのはこちらも同じかもしれないわ。)
(怒る準備はできている。)
(心配していたことも伝える。)
(でも、顔を見たら、最初に何を言うのかしら。)
(お母様は、無事でよかったと言えと言っていた。)
(……言えるわよ。)
(言えるはずよ。)
向かいにはアルベールが座っていた。
白髪の老執事は、揺れる馬車の中でも姿勢が少しも崩れない。
黒い執事服、白手袋、穏やかな目。
つい先日まで王都と北の砦を普通ではない距離感で往復していた者とは思えないほど涼しい顔をしている。
「アルベール。」
「はい、ミレイユ様。」
「霧の森までは、あとどのくらい?」
「この速度であれば、半刻ほどで森の手前に到着いたします。」
「ただし、日暮れが近うございますので、霧の濃さ次第では進入前に一度停止するのがよろしいかと。」
「そうね。」
「夜道で無理に入る必要はないわ。」
「北の砦側にも、私たちの到着予定は届いているはず。」
「はい。」
ミレイユは頷いた。
その時、馬車の外で護衛の一人が小さく声を上げた。
「前方、煙です。」
ミレイユの視線が窓の外へ向いた。
街道から少し外れた森の奥に、細い煙が上がっている。
野営の煙にしては位置がおかしい。
霧の森へ向かう手前、かつてゴブリンの村だった場所の方角だった。
アルベールの目がわずかに細くなる。
「ミレイユ様。」
「見えているわ。」
「あそこは、以前ゴブリンの村があった辺りね。」
「はい。」
「ソータ様が最初に《車体爆裂突進》をお使いになった場所に近いかと。」
「今は空き地のはず。」
「そのはずでございます。」
煙は一筋ではなかった。
よく見ると、木々の隙間から複数の煙が上がっている。
焚き火。
それも一時休憩ではなく、少し腰を据えた者たちの火だ。
ミレイユはすぐに御者へ声をかけた。
「馬車を止めなさい。」
「荷馬車も後続も止めて。」
「音を立てないように。」
馬車列は静かに止まった。
護衛たちが周囲へ散る。
ミレイユは扉を開け、外へ降りた。
夕方の森の空気が肌に触れる。
鳥の声が少ない。
代わりに、遠くから人の笑い声のようなものがかすかに聞こえた。
アルベールがミレイユの横に立つ。
「複数名おります。」
「声の数からして、二十を超えるかと。」
「盗賊?」
「可能性は高うございます。」
「正規兵なら、あの位置に無許可で野営はいたしません。」
「また、気配が粗い。」
「見張りの置き方も雑でございます。」
ミレイユは冷静に周囲を見た。
この位置はまずい。
霧の森の手前。
北の砦へ向かう道。
そして、ここから南東へ下れば、リーナのいる村へ続く道にも出られる。
あの村は、以前よりは備えがある。
だが、数十名の盗賊が景気づけをして襲いかかれば、被害は避けられない。
「目的は。」
「煙の数、荷の匂い、酒の気配から、仮拠点化を始めたばかりかと。」
「周囲の下見を終え、今夜か明朝にどこかを襲うつもりの可能性がございます。」
「リーナの村ね。」
「おそらく。」
ミレイユの目が冷えた。
リーナのいる村。
ソータが何度も荷を運び、薬草を届け、道をつないだ場所。
そこを最初の獲物にしようとしている。
しかも、かつてゴブリンの村だった場所を使って。
ソータが命を削るような思いで開いた場所を、盗賊どもが次の略奪の足場にしようとしている。
ミレイユは短く言った。
「確認してきなさい。」
「人数、配置、目的。」
「可能なら捕縛に必要な情報も。」
「かしこまりました、ミレイユ様。」
「ただし、危険ならすぐ戻りなさい。」
「あなたが危険になるとは思っていないけれど、私の命令として言っておくわ。」
「恐れ入ります。」
アルベールは一礼した。
次の瞬間、彼の姿は木々の影へ溶けるように消えた。
護衛の一人が目を丸くする。
ミレイユは慣れた顔で言った。
「見張りを続けなさい。」
「アルベールの移動を基準にしないこと。」
「あれは参考にならないわ。」
「は、はい。」
◆◇◆
かつてゴブリンの村だった場所には、確かに盗賊たちがいた。
数は三十を少し超える。
粗末な革鎧、錆びた剣、短弓、棍棒、盗んだらしい荷袋。
中央には大きな焚き火があり、その周りで男たちが酒を飲んで騒いでいる。
周囲の古い柵は修理されかけており、倒れた小屋の一部は雑に組み直されていた。
どうやら本当に、ここを一時的な根城にするつもりらしい。
「おい、明日の朝には村をいただくぞ!」
鼻の赤い盗賊が酒瓶を掲げた。
「女と食料と薬草だ!」
「あの村は小さいが、薬草があるって話だ!」
「北へ行く連中の荷もここで狙える!」
「へへ、いい場所見つけたもんだぜ!」
別の盗賊が笑う。
「ゴブリンの巣跡だって聞いた時は臭そうだと思ったが、案外使えるな。」
「柵を直せば立派な砦だ。」
「砦?」
「こんな穴蔵が砦かよ。」
「俺たちの城だ、城!」
下品な笑いが上がる。
彼らはまったく気づいていなかった。
焚き火の影のさらに奥に、老執事が一人立っていることに。
アルベールは、倒れかけた柱の陰からその様子を見ていた。
顔にはいつもの穏やかな微笑み。
だが、その目だけは少し冷たい。
(隣の村。)
(薬草。)
(北へ向かう荷。)
(なるほど。)
(これは、ミレイユ様へお戻りしてご判断を仰ぐまでもございませんね。)
その時、見張り役らしい盗賊の一人が、偶然アルベールの方を向いた。
薄暗さの中に、黒い執事服の老紳士が立っている。
盗賊はしばらく理解できなかったらしい。
まばたきを一つし、酒気の残る声で言った。
「……おい。」
「何だ、じじい。」
周囲の盗賊が振り返る。
ざわめきが起きる。
アルベールは一歩前へ出て、丁寧に一礼した。
「失礼いたします。」
盗賊たちはぽかんとした。
森の奥、盗賊の根城に、白手袋の老執事。
状況があまりに不釣り合いだった。
「どっから入ってきやがった。」
「歩いてまいりました。」
「見張りはどうした?」
「少々、眠っていただいております。」
「眠って?」
盗賊の一人が外側の見張り場を見る。
そこには、見張り役二人が仲良く木にもたれて寝息を立てていた。
気絶ではない。
妙に安らかな顔で眠っている。
盗賊たちは顔を見合わせた。
「おい、何者だ、てめぇ。」
「アルベールと申します。」
「あるべーる?」
盗賊の頭目らしい大柄な男が鼻で笑った。
髭は荒く、片目に傷があり、首からは盗んだらしい銀の飾りを下げている。
「じじいの名前なんざ聞いてねえよ。」
「ここは俺たちの場所だ。」
「命が惜しけりゃ、有り金置いて消えな。」
アルベールは穏やかに首を傾げた。
「ここはあなた方の所有地ではございません。」
「また、明朝に南東の村を襲う予定であると伺いましたが、認識に誤りはございますか?」
盗賊たちの空気が変わった。
酒で緩んでいた顔が少し険しくなる。
「聞いてやがったのか。」
「はい。」
「大変聞き取りやすい声量でございました。」
「舐めてんのか、じじい。」
「いえ。」
「事実を申し上げております。」
別の盗賊が笑った。
「こいつ、貴族の屋敷の執事か何かだろ。」
「身代金取れるんじゃねえか。」
「いや、服も上等だ。」
「売れるぞ。」
「白手袋も売れるか?」
「汚れたら価値が下がるんじゃねえか。」
盗賊たちは勝手なことを言い始めた。
アルベールは自分の白手袋を見下ろし、少しだけ指先を整える。
「残念ながら、この手袋はミレイユ様より管理を任されている身支度の一部でございます。」
「売却はご遠慮願います。」
「何言ってんだ、じじい!」
盗賊の一人が棍棒を振り上げて近づいてくる。
アルベールは動かなかった。
ただ、盗賊の足元に小さな魔法陣が浮かぶ。
次の瞬間、その盗賊はその場でくるりと回転し、見事に尻餅をついた。
「いてぇ!」
「何だ、今の!」
「足元が乱れておられましたので、少々整えました。」
「整ってねえよ!」
盗賊たちがどっと騒ぐ。
頭目が剣を抜いた。
「魔法使いか。」
「じじい一人で調子に乗りやがって。」
「おい、囲め!」
盗賊たちが一斉に武器を構えた。
短剣、棍棒、錆びた槍、弓。
数だけは多い。
だが、アルベールは少しも慌てなかった。
むしろ、困ったように一つ息を吐いた。
「本来であれば、ミレイユ様へご報告し、ご指示を仰ぐべきところでございますが。」
彼はゆっくり顔を上げた。
「あなた方の目的地が最初の村であり、薬草と人命を狙うものであり、さらに北方物流路への被害が想定される以上、ここで猶予を差し上げる理由はございません。」
「何をごちゃごちゃ言ってやがる!」
頭目が怒鳴る。
アルベールの声は静かだった。
「キーワードを確認いたしました。」
足元に、薄い光が広がる。
盗賊たちはそこで初めて、地面に幾重もの紋様が走っていることに気づいた。
自分たちを囲むように。
焚き火を避け、古い柵を越え、逃げ道を塞ぐように。
いつ描かれたのか、誰も分からない。
アルベールが現れた時には、もう準備は終わっていたのだ。
「殲滅。」
その一言で、空気が凍った。
盗賊の一人が叫ぶ。
「やべぇ、逃げろ!」
「遅うございます。」
アルベールが白手袋の指を軽く鳴らした。
ぱちん、という小さな音。
それだけで、盗賊たちの足元の光が一気に強くなる。
頭目が剣を振り上げたまま固まる。
酒瓶を持っていた盗賊が酒をこぼす。
尻餅をついていた男は、座ったまま目を白黒させる。
誰も何が起きているのか分からない。
「お、おい。」
「地面が光ってるぞ!」
「俺、こういうの嫌いだ!」
「逃げ道どこだ!」
「じじいが笑ってる!」
「笑ってはおりません。」
アルベールは穏やかに訂正した。
次の瞬間、盗賊たちの姿が一斉に消えた。
焚き火の周りから、古い柵の内側から、見張り場の近くから。
三十数名の盗賊が、まるで布を引き剥がしたようにその場から消えた。
残ったのは、空の酒瓶、粗末な荷袋、焼けかけの肉、そして少しの土埃だけだった。
◆◇◆
盗賊たちが次に見たものは、赤い空だった。
夕焼けではない。
火山の赤だった。
足元は黒い岩。
空気は熱く、硫黄の匂いが鼻を刺す。
遠くで地鳴りがしている。
盗賊たちは一斉に転がるように現れ、互いにぶつかり、怒鳴り合った。
「どこだここ!」
「暑い!」
「何だこの臭い!」
「森はどこだ!」
「じじいは?」
頭目が立ち上がる。
剣を握ったまま、周囲を見回す。
そして、目を見開いた。
岩山の上に、大きな影があった。
翼。
爪。
鱗。
燃えるような瞳。
ドラゴンだった。
一頭ではない。
岩場の向こうにも、谷の影にも、何頭もの竜がいる。
盗賊たちは、数秒だけ完全に静かになった。
最初に口を開いたのは、さっき白手袋を売れるかと言っていた男だった。
「……これは、話し合いでいけるか?」
隣の盗賊が叫ぶ。
「いけるわけねえだろ!」
ドラゴンの一頭が鼻先から煙を吐いた。
盗賊たちは一斉に悲鳴を上げて走り出す。
だが、ここは森ではない。
隠れる木もない。
逃げ込む小屋もない。
彼らが景気づけに飲んだ酒の勢いは、火山の熱風に一瞬で吹き飛んだ。
「じじいに謝る!」
「謝るから戻してくれ!」
「おい、誰か魔法使える奴!」
「盗みはできるが魔法は無理だ!」
「何の自慢だ!」
竜の影が近づく。
盗賊たちの悲鳴は、火山の轟きとともに飲み込まれていった。
彼らは最後まで、自分たちに何が起こったのか理解できなかった。
ただ一つだけ理解したことがある。
あの老執事を、じじいと呼ぶべきではなかったということだった。
◆◇◆
ゴブリンの村跡では、静けさが戻っていた。
焚き火だけがぱちぱちと音を立てている。
盗賊たちの気配は完全に消えた。
アルベールは周囲を軽く見回し、残された荷袋を一つずつ確認した。
盗品らしいものがいくつかある。
村から奪ったものではないようだが、どこかの旅人や小商人から奪ったものだろう。
武器は粗悪。
食料は少量。
酒は多すぎる。
計画性に欠ける集団だった。
「景気づけより先に、補給計画を立てるべきでございましたね。」
アルベールは誰に言うでもなく呟いた。
それから、古い柵に触れる。
雑に直された跡。
北方物流路を狙うにはあまりに粗い。
しかし、粗いから安全というわけではない。
無知で粗暴な者ほど、弱い場所へまっすぐ向かう。
リーナの村が襲われていれば、被害は出ただろう。
だからこそ、放置できなかった。
アルベールは懐から小さな紙を取り出し、簡単に記録をつけた。
盗賊集団三十二名。
目的、最初の村襲撃および北方物流路妨害。
処置、空間転送により戦闘不能化。
詳細報告、必要に応じて。
彼は少し考え、「ドラゴン火山地帯」の文字を小さく添えた。
そして、さらに少し考えて、その横に「推定生還困難」と記した。
「簡潔でよろしいでしょう。」
そう言って紙を畳む。
次に、足元についたわずかな土埃を払った。
黒い執事服の裾を整え、白手袋を確認する。
汚れはない。
彼は焚き火へ軽く指を向け、水の魔法で火を消した。
煙が小さく上がる。
残された粗末な酒瓶が転がる。
もう誰も騒がない。
アルベールは何事もなかったかのように森を戻った。
◆◇◆
馬車列の待機場所では、ミレイユが腕を組んで待っていた。
護衛たちは警戒を続けている。
夕方の森はさらに暗くなり始めていた。
そこへ、アルベールが木々の間から静かに現れる。
まるで少し散歩してきただけのような顔だった。
「戻りました、ミレイユ様。」
「報告。」
「盗賊集団三十二名を確認いたしました。」
「かつてのゴブリン村跡を拠点化し、明朝に南東の村、すなわちリーナ様のおられる村を襲撃する予定でございました。」
「また、北方へ向かう荷も狙う意図がございました。」
ミレイユの目が鋭くなる。
「現在は。」
「処置済みでございます。」
「処置?」
「はい。」
「捕縛したの?」
「いいえ。」
「では、どこに。」
「火山地帯へ。」
ミレイユは一瞬だけ黙った。
「火山地帯。」
「はい。」
「ドラゴンの生息域でございます。」
護衛の一人が小さく咳き込んだ。
別の護衛が目を見開く。
ミレイユはゆっくりアルベールを見た。
「あなた、全員を転移させたの。」
「はい。」
「ドラゴンのいる火山地帯へ。」
「はい。」
「生きて戻れる可能性は。」
「極めて低いものと存じます。」
「でしょうね。」
ミレイユは額に指を当てた。
驚きはある。
だが、怒りとは少し違う。
盗賊たちはリーナの村を襲おうとしていた。
北方物流路を狙っていた。
もし見逃せば、取り返しのつかないことになったかもしれない。
アルベールの判断は過剰に見えて、状況によっては最短で最も確実な排除だった。
「私の指示を待たなかった理由は。」
「キーワードが成立したためでございます。」
「キーワード?」
「殲滅。」
ミレイユは目を閉じた。
「……それ、いつ決めたの。」
「ミレイユ様の利益、人命、物流路、リーナ様の村への直接的脅威が同時に確認された場合、私の裁量で処置してよいものと判断しております。」
「私はそんな物騒な規定を承認した覚えはないわ。」
「明文化はされておりません。」
「でしょうね。」
「ただし、ミレイユ様なら、同様の結論に至られるかと。」
ミレイユは黙った。
確かに、時間があれば捕縛を考えたかもしれない。
だが、三十名以上の盗賊。
夜が近い。
馬車列には荷がある。
相手は村を襲う気で景気づけまでしていた。
下手に逃がせば、リーナの村か街道の旅人に被害が出る。
ならば、即時排除。
商会令嬢としても、道を守る者としても、その判断は否定しきれなかった。
「証拠は。」
ミレイユは切り替えた。
「盗品らしき荷を一部確認いたしました。」
「また、現場に野営跡、修理中の柵、襲撃計画の痕跡がございます。」
「必要であれば、後続の護衛に確認させることも可能です。」
「確認させるわ。」
「ただし、長居はしない。」
「盗品は回収。」
「食料は使えるものだけ分ける。」
「酒は捨てなさい。」
「あんな連中が飲んでいた酒を荷に混ぜたくないわ。」
「承知いたしました。」
「それから、リーナの村へ早馬を出して。」
「周辺警戒を強めるように。」
「盗賊の本隊が別にいる可能性もゼロではないわ。」
「はい。」
アルベールが一礼する。
ミレイユは少しだけ目を細めた。
「アルベール。」
「はい、ミレイユ様。」
「白手袋は汚れていないわね。」
「はい。」
「その顔は、何か隠している顔ね。」
「いえ。」
「本当に?」
「盗賊の方々が、白手袋の売却価値について議論しておられました。」
ミレイユは一瞬固まった。
そして、小さく息を吐く。
「……愚かね。」
「はい。」
「それで少し腹が立ったの?」
「白手袋は、ミレイユ様にお仕えする執事としての身支度でございますので。」
「あなた、そういうところだけ妙に律儀ね。」
「恐れ入ります。」
ミレイユは少しだけ口元を緩めた。
すぐに仕事の顔へ戻る。
「急いで処理するわ。」
「日が落ちる前に、少しでも進みたい。」
「ただし、霧の森へ入るかどうかは、現地で判断。」
「かしこまりました。」
護衛たちが動き出した。
数名がアルベールの案内でゴブリン村跡へ向かう。
ミレイユは馬車のそばに立ち、北の方角を見た。
ソータがこの話を聞いたら、きっと複雑な顔をするだろう。
リーナの村が狙われたことに怒り、アルベールの処置に驚き、そしてまた、自分が見ていないところで道が危険に晒されていたことを悔やむかもしれない。
だが、それを一人で背負わせるつもりはない。
(ソータ。)
(あなたが作った道は、狙われる。)
(人が通り、荷が通り、価値が生まれるから。)
(でも、だから守るのよ。)
(あなた一人ではなく、商会も、砦も、村も、私も。)
ミレイユは紅い髪紐に触れた。
北へ進む前に、もう一つ片づけるべき荷が見つかった。
盗賊のような汚れた荷は、道に残しておけない。
アルベールがやったことは乱暴だ。
だが、結果として道は守られた。
それを認めたうえで、次の備えを考える。
それが自分の仕事だ。
◆◇◆
しばらくして、護衛たちが戻ってきた。
盗品らしき荷を少量、粗末な武器、襲撃予定を書いたとは言えないほど雑な地図、そして酒瓶をいくつか持っている。
地図には、南東の村へ向かう矢印が描かれていた。
横には「薬草」「女」「食い物」と乱雑な文字がある。
ミレイユの目がさらに冷えた。
「十分ね。」
彼女は地図を畳んだ。
「酒は捨てて。」
「武器は使えないものは処分。」
「盗品は後で照合。」
「地図は証拠として保管。」
「この件は北の砦と男たちの村にも共有するわ。」
「はい。」
アルベールが静かに頷いた。
「それから、アルベール。」
「はい。」
「次から、ドラゴンの火山地帯へ送る前に、可能なら一言だけ報告しなさい。」
「可能であれば、承知いたしました。」
「可能であれば、ね。」
「はい。」
「あなたの可能であればは、だいたい不可能だったという報告になりそうだわ。」
「状況次第でございます。」
「でしょうね。」
ミレイユはため息をつき、馬車へ戻った。
アルベールが扉を開ける。
彼女が乗り込む前に、ふと振り返る。
「アルベール。」
「はい、ミレイユ様。」
「リーナの村が無事でよかったわ。」
「はい。」
「誠に。」
その言葉だけは、二人とも茶化さなかった。
馬車列は再び動き出した。
夕暮れの森道を、クラウゼン商会の馬車が北へ進む。
後ろには、盗賊たちの消えた空き地が残る。
焚き火は消され、酒は捨てられ、粗末な計画も終わった。
彼らがどこへ消えたのか、街道を行く者には分からない。
ただ、道の危険が一つ減っただけだ。
ミレイユは馬車の中で、盗賊の地図をもう一度開いた。
稚拙な線。
リーナの村へ向かう矢印。
北方物流路を狙う印。
腹立たしいほど雑だ。
だが、雑な悪意ほど防ぎにくい時もある。
「北方の道は、やはり警備網を見直す必要があるわね。」
「はい、ミレイユ様。」
「ソータにも話すわ。」
「本人がまた一人で走り回る前に。」
「それがよろしいかと。」
「あなたも止める側よ。」
「承知しております。」
「本当に?」
「はい。」
ミレイユは少しだけ疑わしそうにアルベールを見た。
老執事は涼しい顔で一礼するだけだった。
外の空は赤から紫へ変わり始めている。
もうすぐ霧の森だ。
その先には、笑っているかもしれない北の砦がある。
ソータたちはまだ知らない。
紅い馬車が到着する前に、ひとつ盗賊団がこの世から消えたことを。
そして、それを行った老執事が、白手袋の埃を軽く払っただけで、何事もなかったかのように戻ってきたことを。
ミレイユは静かに目を閉じた。
(本当に、次から次へと。)
(でも、進むわ。)
(道を狙う者がいるなら、道を守る仕組みを作る。)
(ルシアのことも、ソータのことも、オルドアイのことも、その後よ。)
(いいえ、全部同時ね。)
(まったく、忙しいったらないわ。)
馬車の車輪が夜の街道を鳴らす。
北の砦は、もう遠くない。
紅い髪紐の令嬢は、怒りと荷と新たな警戒を積んだまま、さらに北へ進んでいった。




