第150話:紫の姫、骨の執事を運ぶ
ミレイユの馬車列が北へ向かっているという知らせが届いてから、北の砦の空気は少しだけ変わった。
いつも通り訓練の声は響いている。
いつも通り肉は焼かれ、見張りは森を見て、荷は倉庫から倉庫へ動いている。
だが、その合間に誰かがふと北の道を見る。
紅い髪紐の令嬢が、三日後にはこの砦へ来る。
それを知っているだけで、砦の女たちはどこか落ち着かない。
そして、その落ち着かなさの中心にいるのは、当然ソータだった。
ソータは補給倉庫の前で荷札をつけながら、何度目か分からないため息をついた。
黒い紐は夜の城用。
緑の紐は北の砦用。
茶色の紐は男たちの村用。
紅い紐はミレイユ直接確認用。
ミレイユがグランデリアで積み直した荷にも同じような分類があるらしいと聞いて、ソータは少し感心した。
やはり彼女は現場を見る前から、現場で迷わないように仕組みを作ってくる。
怒っていても、心配していても、準備は怠らない。
その恐ろしさと頼もしさを考えると、胃が痛くなると同時に胸が温かくなる。
(ミレイユが来る。)
(直接話す。)
(怒られる。)
(たぶん、かなり怒られる。)
(でも、荷も持ってきてくれる。)
(ルシアの謝罪の本まで持ってくる。)
(あの人らしいな。)
荷札を結び終えたところで、背後から羽の気配がした。
振り返ると、ルシアが立っていた。
薄紫の髪を軽く結び、黒い外套の下で紫の羽を畳んでいる。
ここ数日の休養とガルナの薬草布のおかげで、羽の傷はかなり癒えていた。
白銀の聖結界に焼かれた痕はまだ薄く残っているが、昨日までのような痛々しさはない。
ルシア自身も、それを嬉しそうに何度も確かめている。
「ソータ。」
「どうした?」
「私、今日の夜に一度城へ戻るわ。」
ソータは手を止めた。
「夜の城へ?」
「ええ。」
「チャールズを連れてくる。」
「ミレイユが来るのでしょう?」
「なら、チャールズもいた方がいいと思うの。」
それは確かにそうだった。
ルシアの城との今後を話すなら、城側の実務を知るチャールズは必要だ。
彼はルシアの側近であり、夜の城の窓口になるべき存在でもある。
ミレイユが商談や支援条件を詰めるなら、ルシア一人よりチャールズがいた方が話は進む。
ただし、問題は移動方法だった。
「チャールズさんを連れてくるって、どうやって?」
「私が抱えて飛ぶわ。」
ルシアは当然のように言った。
ソータはしばらく黙った。
「抱えて。」
「ええ。」
「あの、品のある骨の執事を。」
「ええ。」
「空から。」
「ええ。」
ソータは想像した。
月夜の空。
紫の羽を広げた吸血鬼姫。
その腕に抱えられ、黒い執事服を整えたハイ・スケルトン。
品よく一礼したまま空を飛んでくるチャールズ。
想像した瞬間、口元が勝手に緩んだ。
「ソータ、笑っているわ。」
「いや、ちょっと絵面が。」
「絵面?」
「すごい光景になりそうだなって。」
ルシアは不思議そうに首を傾げた。
「チャールズは軽いわ。」
「骨だから。」
「そこじゃない。」
「それに、チャールズは姿勢がいいから抱えやすいと思うの。」
「抱えやすい骨の執事。」
ソータはつい声に出してしまった。
すると、横から低い声がした。
「何の話だ。」
オルドアイがやって来た。
茶色の髪を後ろで結び、腕を組んでいる。
ルシアは嬉しそうに振り返った。
「オルドアイ。」
「私、今夜チャールズを連れてくるわ。」
「チャールズを?」
「ええ。」
「抱えて飛ぶの。」
オルドアイの表情が止まった。
しばらく黙る。
それから、ゆっくりとソータを見た。
「骨を抱えて飛んでくるのか。」
「うん。」
「それは……。」
オルドアイは言葉を探した。
強いアマゾネスの姫が、真剣に言葉を探している。
ソータはそれだけで少し笑いそうになる。
「目立つな。」
ようやく出た言葉はそれだった。
「夜だから大丈夫よ。」
ルシアは明るく言う。
「いや、夜でも紫の羽と骨の執事が空から来れば目立つ。」
「でも、チャールズは来た方がいいでしょう?」
「それはそうだ。」
「なら、抱えてくるわ。」
オルドアイは額に手を当てた。
「待て。」
「羽はもう大丈夫なのか。」
「大丈夫よ。」
「昨日も少し飛んでみたけれど痛くなかったわ。」
「アルベールの紙では、長距離飛行は三日以上禁止とあったけれど、もう過ぎたわ。」
「本当に数えたのか。」
「ええ。」
「ソータが数えてくれたもの。」
オルドアイの視線がソータに向く。
ソータは頷いた。
「一応、無理はさせてない。」
「今日は夕方まで休ませて、夜に行って戻るだけなら何とかなると思う。」
「ただ、チャールズさんを抱えて飛ぶのがどれくらい負担か分からない。」
「チャールズは軽いわ。」
「骨だから。」
「その説明を気に入っているな。」
「事実だもの。」
ルシアは真面目な顔だった。
オルドアイはため息をついた。
「分かった。」
「ただし、飛ぶ前にガルナに羽を見せろ。」
「戻ってきた後もだ。」
「途中で痛んだら無理をせず、城で一晩休んでから戻れ。」
「ええ。」
「でも、ミレイユが来る前に戻りたいわ。」
「チャールズも、ミレイユに会う準備が必要でしょう?」
「準備とは。」
「礼儀と、お茶と、謝罪の立ち位置。」
「お茶はともかく、立ち位置は大事だな。」
ソータが言うと、ルシアは大きく頷いた。
「チャールズは立ち位置に厳しいわ。」
「骸骨劇団でも、王役が姫役より前に出すぎると叱っていたもの。」
「謝罪を劇団基準で考えるな。」
オルドアイが言った。
ルシアはまた真剣に頷いた。
「分かったわ。」
「謝罪は劇ではない。」
「そこからか。」
ソータは思わず呟いた。
◆◇◆
その日の午後、砦では密かに噂が広まっていた。
紫の姫が今夜、夜の城へ戻る。
そして、骨の執事を抱えて飛んでくるらしい。
最初に聞いた者は笑った。
次に聞いた者は疑った。
その次に聞いた者は見張り台の場所取りを考え始めた。
北の砦のアマゾネスたちは強い。
戦も狩りも恐れない。
だが、珍しいものを見たいという好奇心は普通にある。
むしろ、強いからこそ面白いものには遠慮がない。
夕方になる頃には、見張り台周辺に妙に人が増えていた。
普段なら交代の者だけがいればいい場所に、非番の者まで集まっている。
誰も露骨には言わない。
だが、視線は東の空や森の上へ向いている。
バルクも何となくその場にいた。
当然のようにガルナに見つかった。
「バルク。」
「いや、俺は見張りの様子をだな。」
「あなたは北の砦の見張りではありません。」
「そうだった。」
「見たいのですね。」
「見たい。」
バルクは正直だった。
ガルナは少し呆れたが、怒りはしなかった。
「私も少し見たいです。」
「だよな。」
「でも、邪魔はしません。」
「もちろんだ。」
そのやり取りを聞いたソータは、気持ちがよく分かった。
自分も正直、かなり見たい。
ルシアがチャールズを抱えて飛んでくる。
それは見逃せない。
ただ、笑いすぎるとチャールズに失礼な気もする。
チャールズは非常に真面目な骨の執事なのだ。
たとえ空を抱えられて飛んできても、たぶん礼儀正しく挨拶する。
そこが余計に面白い。
ルシアはガルナに羽の状態を確認してもらっていた。
中庭の端で外套を少し開き、紫の羽を広げる。
傷跡は薄くなり、羽ばたきも滑らかだった。
ガルナが触れる前に確認する。
「触ってもいい?」
「ええ。」
ガルナは丁寧に羽の根元と傷の痕を見た。
ルシアは少しくすぐったそうにしている。
「痛みは?」
「ないわ。」
「引きつる感じは?」
「少しだけ。」
「でも、飛べるわ。」
「長く飛びすぎないでください。」
「帰ってきたらすぐ温めます。」
「分かったわ。」
「ガルナは優しいわね。」
「怪我人には優しくします。」
「私はもう怪我人ではないわ。」
「油断する人は怪我人に戻ります。」
ルシアは目を丸くした。
「言葉が怖いわ。」
「怖くしているのです。」
ガルナはにっこり笑った。
ルシアは真剣に頷く。
「分かったわ。」
「油断しない。」
オルドアイが横で腕を組んでいた。
「ソータ。」
「何?」
「ついて行かなくていいのか。」
「行きたいけど、俺がついて行くと余計に遅くなる。」
「それに、ルシアの城へ行って戻るだけなら、ルシア一人の方が早い。」
「心配ではないのか。」
「心配だよ。」
ソータは正直に答えた。
ルシアがこちらを見る。
「でも、信じる。」
「ルシアは戻ってくるって言ったから。」
ルシアの薄紫の瞳が柔らかくなった。
彼女はソータの前へ歩いてきて、少しだけ背伸びする。
そして、彼の頬に軽く口づけた。
周囲のアマゾネスたちが一斉に視線を逸らしたふりをした。
実際には全員見ていた。
「行ってくるわ。」
「ああ。」
「気をつけて。」
「ええ。」
「チャールズを落とさないようにする。」
「本当に落とさないでくれ。」
ソータが真顔で言うと、ルシアは胸を張った。
「大丈夫。」
「私はかなり進んだルシアだから。」
「そこは進んだかどうかより握力だな。」
「握力も進んでいるわ。」
オルドアイがため息をつく。
「さっさと行け。」
「暗くなりきる前に森を越えろ。」
「ええ。」
「行ってくるわ、お姉さん。」
「誰がお姉さんだ。」
ルシアは笑いながら羽を広げた。
紫の羽が夕暮れの光を受けて大きく開く。
その姿は、何度見ても美しかった。
次の瞬間、彼女は地面を蹴り、風を巻いて空へ上がる。
黒い外套が翻り、薄紫の髪が流れる。
砦の上をひと回りするように飛ぶと、ルシアは東の森へ向かって滑るように飛んでいった。
見送る者たちの間に、小さな感嘆が広がった。
「綺麗だな。」
誰かが呟いた。
別の誰かが言う。
「でも、帰りは骨を抱えてくるんだろう?」
その一言で、感嘆は笑いに変わった。
◆◇◆
夜が深くなるまで、砦の者たちはどこか落ち着かなかった。
食堂でも話題はチャールズのことばかりだった。
骨の執事は本当に抱えられて来るのか。
横抱きなのか。
縦に抱えるのか。
背負うのか。
紐で吊るすのか。
もし腕が外れたらどうするのか。
そんな失礼極まりない予想が、肉の皿を囲みながら飛び交った。
ソータは最初は止めようと思った。
だが、自分も想像してしまっているので強く言えなかった。
オルドアイは呆れている。
ガルナは笑いを堪えている。
バルクは普通に笑っていた。
「もし骨の腕が空から落ちてきたらどうする?」
バルクが言う。
「拾って返すしかないだろ。」
アマゾネスの一人が答える。
「それは失礼ではないのか。」
「落ちた方が悪い。」
「チャールズさんはそんな雑な骨じゃない。」
ソータが思わず言った。
周囲がこちらを見る。
ソータは咳払いをした。
「たぶん、姿勢よく抱えられてくる。」
「姿勢よく抱えられるとは何だ。」
オルドアイが言う。
「チャールズさんならできる気がする。」
「否定できないのが困るな。」
ヤンガルドアイは酒杯を片手に笑っていた。
「よいではないか。」
「北の砦に骨の執事が空から来るなど、長く生きてもなかなか見られぬ。」
「母上まで。」
「面白いものは見ておかねば損じゃ。」
「砦の長としてそれでいいのですか。」
「警戒は怠っておらぬ。」
「見物と警戒は両立できる。」
確かに、見張りは普段より多かった。
弓を持つ者もいる。
ただ、全員がやや楽しそうなのが問題だった。
夜がさらに濃くなった頃、見張り台から声が上がった。
「来たぞ!」
「東の空、紫の羽!」
食堂にいた者たちが一斉に立ち上がった。
さすがに全員が走るわけにはいかないが、かなりの人数が中庭へ出る。
非番の者まで扉から顔を出す。
ソータ、オルドアイ、ガルナ、バルク、ヤンガルドアイも見張り台の下へ向かった。
夜空の向こうから、紫の羽が近づいてくる。
月明かりの中、ルシアの輪郭が見えた。
そして、その腕に何か白いものがある。
白い骨。
黒い執事服。
ぴんと伸びた背筋。
抱えられているのに、妙に品がある。
ソータは腹に力を入れた。
笑ってはいけない。
チャールズは真面目だ。
敬意を払うべき相手だ。
だが、空を飛ぶルシアに横抱きにされ、黒い執事服の裾を夜風にはためかせているハイ・スケルトンの姿は、どう考えても強かった。
絵面が強すぎた。
「……本当に横抱きだ。」
バルクが呟いた。
ガルナが口元を押さえる。
オルドアイは肩を震わせている。
ヤンガルドアイはすでに笑っていた。
ルシアは砦の中庭へゆっくり降りてきた。
着地の時、チャールズを落とさないように慎重に足をつく。
羽が風を払い、砂埃が少し舞う。
そして、ルシアは得意げに言った。
「連れてきたわ。」
彼女の腕の中で、チャールズは実に優雅に頭を下げた。
「皆様、夜分に失礼いたします。」
「チャールズ、ただいま参上いたしました。」
その声はいつも通り丁寧だった。
しかし、横抱きのままだ。
ソータは限界だった。
口元を押さえたが、肩が震える。
周囲のアマゾネスたちも次々に笑いを堪えきれなくなる。
ついにバルクが吹き出した。
「す、すまん。」
「いや、立派だ。」
「立派なんだが……。」
チャールズは横抱きのまま、静かに首を傾げた。
「何か不備がございましたでしょうか。」
その一言で、笑いはさらに広がった。
オルドアイもついに顔を背けた。
ヤンガルドアイは声を上げて笑っている。
ガルナは必死に礼儀を保とうとしているが、目元が笑っている。
ルシアは不思議そうに周囲を見た。
「どうしてみんな笑うの?」
「チャールズは落としていないわ。」
「そこではない。」
オルドアイが何とか言った。
「では、抱え方?」
「そこだ。」
「だって、横抱きが一番安定したの。」
「背負うと骨が当たって痛いし、縦に抱えると足が風で揺れるし、紐で吊るすのはチャールズが嫌がったわ。」
チャールズが横抱きのまま言う。
「吊るされる形での移動は、執事としての品位に関わりますので。」
ソータはもう駄目だった。
声を殺して笑う。
バルクも笑う。
アマゾネスたちも笑う。
中庭全体が笑いに包まれた。
チャールズはしばらくその様子を見ていたが、やがて丁寧に言った。
「ルシア様。」
「そろそろ降ろしていただけますと、私の威厳が必要以上に減少する恐れがございます。」
「威厳が減っていたの?」
「若干。」
「ごめんなさい。」
ルシアは慌ててチャールズを地面へ下ろした。
チャールズは着地すると、まず執事服の裾を整え、次に袖を直し、最後に頭部の角度を確認するように首を軽く動かした。
骨であるはずなのに、なぜか身だしなみを整えているように見える。
それがまたおかしかった。
「改めまして。」
チャールズは優雅に一礼した。
「北の砦の皆様。」
「お招き、誠にありがとうございます。」
「ルシア様の側近、チャールズでございます。」
笑っていたアマゾネスたちも、その礼の美しさには少し感心した。
ただ横抱きの余韻が強すぎて、全員の口元はまだ緩んでいる。
オルドアイが一歩前へ出た。
顔は何とか真面目に戻している。
「よく来た、チャールズ。」
「ミレイユが来る前に、話を聞けるのは助かる。」
「恐れ入ります、オルドアイ様。」
「ルシア様より、ミレイユ様が北の砦へ向かわれていると伺いました。」
「夜の城の現状、修復状況、物資必要量、ならびに今後の窓口につきまして、ご説明する用意がございます。」
「さすがだな。」
「執事でございますので。」
その言い方に、ソータはアルベールを思い出した。
同じような言葉なのに、チャールズが言うと骨の響きがある。
いや、骨の響きとは何なのか自分でも分からない。
ルシアは少し得意そうに胸を張った。
「チャールズはすごいのよ。」
「それは分かった。」
オルドアイが言う。
「ただし、次からは到着前に抱え方を考えろ。」
「砦中が見物に来る。」
「もう来ているわ。」
ルシアが周囲を見る。
確かに、見物に来ている。
中庭の周り、見張り台、食堂の扉、倉庫の影。
かなりの人数が集まっていた。
チャールズは静かに周囲を見回す。
「これほど多くの方にお迎えいただけるとは、光栄でございます。」
バルクがまた吹き出しそうになった。
ガルナが肘で止める。
だが、ガルナ自身も笑っている。
ヤンガルドアイが前へ出た。
「骨の執事よ。」
「なかなか愉快な登場であった。」
「恐れ入ります、ヤンガルドアイ様。」
「意図した演出ではございませんが、皆様の緊張を和らげる一助となりましたなら幸いでございます。」
「言い方が上手いのう。」
「執事でございますので。」
「その言葉を使う者がもう一人おるが、どちらも厄介じゃ。」
ヤンガルドアイは楽しそうに笑った。
チャールズは丁寧に一礼するだけだった。
ソータはチャールズへ近づいた。
「チャールズさん、来てくれてありがとうございます。」
「ソータ様。」
「ご無事で何よりでございます。」
「また、ルシア様を北の砦にてお預かりいただき、誠にありがとうございます。」
「俺が預かったというより、オルドアイたちが見てくれてます。」
「そのようでございますね。」
「ルシア様のお顔が、以前よりも随分と柔らかくなられました。」
チャールズの声には、骨でありながら深い安堵があった。
ルシアは少し照れたように顔を逸らす。
「私はかなり進んだルシアだから。」
「はい、ルシア様。」
「ただし、私を横抱きで空輸なさる件につきましては、今後改善の余地がございます。」
「ごめんなさい。」
「落下しなかった点は大変見事でございました。」
「そこは褒められたわ。」
「はい。」
そのやり取りに、また笑いが起きた。
◆◇◆
チャールズが来たことで、その夜の北の砦はさらに賑やかになった。
急きょ食堂に席が設けられ、チャールズ用の椅子も用意された。
もちろん、彼は食べない。
それでも、ルシアが「チャールズも座るの」と言い張ったため、席は必要だった。
チャールズは椅子に腰かけ、目の前に空の皿を置かれても、少しも動じなかった。
「私は骨でございますので、食事は不要でございます。」
「しかし、同席はできます。」
その堂々とした態度に、アマゾネスたちは妙に感心していた。
食べないのに食卓に座る骨の執事。
普通なら不気味なはずだが、横抱き空輸の後では、もはや親しみの方が勝っていた。
チャールズはすでに、砦の中で「飛んできた骨の執事」として記憶されつつあった。
オルドアイは卓の上に地図を広げた。
ソータも隣に座る。
ルシアはチャールズの近くに座り、何となく嬉しそうだ。
久しぶりに自分の城の家族のような存在が隣にいることで、安心しているのだろう。
「まず、夜の城の被害状況を聞きたい。」
オルドアイが言う。
「承知いたしました。」
チャールズは背筋を伸ばした。
「城門の外側に焦げ跡が残っております。」
「黒薔薇の庭は三割ほど葉を落としましたが、ルシア様の魔力循環により再生傾向にございます。」
「外壁の聖粉は一部除去済みですが、細部には残留がございます。」
「スケルトンたちはおおむね回復。」
「骸骨楽団および骸骨劇団の練度は維持されております。」
「最後は必要な情報か?」
オルドアイが聞く。
「ルシア様の心的安定に関わる重要事項でございます。」
「なら必要か。」
ルシアが頷いた。
「必要よ。」
「骸骨劇団が下手になると悲しいもの。」
「悲しむほどなのか。」
「ええ。」
ソータは笑った。
チャールズは続ける。
「必要物資としては、遮光布、油布、水袋、洗浄布、外壁補修材、低刺激の薬草、簡単な人間用食材が有用でございます。」
「また、今後人間の方を迎える可能性を考えるなら、客人用の寝具、椅子、食器、火を扱う場所の整備が必要かと。」
ソータは少し身を乗り出した。
「ルシアも言ってたんです。」
「夜の城に、砦みたいに誰かが座って話す場所を作りたいって。」
チャールズはルシアを見る。
ルシアは少し照れながら頷いた。
「北の砦には声がたくさんあるわ。」
「私の城にも、少しそういう場所がほしいの。」
「ソータが来た時に座れる場所。」
「オルドアイが来た時に肉を出せる場所。」
「ミレイユが来た時に怒れる頑丈な椅子。」
「ミレイユ様用の椅子は頑丈なものがよろしいかと存じます。」
チャールズは真顔で言った。
「チャールズさんまで。」
ソータが呟く。
オルドアイは少し笑った。
「皆、同じ判断だな。」
チャールズは地図の端に骨の指を置いた。
「夜の城は孤立しておりました。」
「しかし、ルシア様が外を知り、皆様と関わることを望まれるなら、城の構造も少し変える必要がございます。」
「閉じるための城から、迎えるための城へ。」
「大きな改築ではなく、まずは場所の意味を変えることから始めるべきかと。」
その言葉に、ソータは静かに頷いた。
閉じるための城から、迎えるための城へ。
それはまさに、ルシアが今進もうとしている変化だった。
ただ寂しさを守るための城ではなく、誰かが来られる場所にする。
そのために必要なのは、壁を壊すことではない。
道を作り、椅子を置き、火を灯し、荷を届けることだ。
「ミレイユが聞いたら、たぶん商会としての条件を出すと思います。」
ソータが言う。
「望むところでございます。」
チャールズは一礼した。
「夜の城側としても、正式な窓口と記録が必要であると考えております。」
「ルシア様のご意思を尊重しつつ、無秩序な往来は避けねばなりません。」
「ちゃんとしてるな。」
バルクが感心したように言う。
「骨なのに。」
ガルナがすぐに肘を入れた。
「失礼です。」
「すまん。」
チャールズは穏やかに言った。
「私は骨でございますので、事実でございます。」
また笑いが起きた。
チャールズはその笑いを不快に思う様子もない。
むしろ、砦の空気に自然に馴染み始めているようだった。
◆◇◆
話し合いが一段落した後、ルシアはチャールズを連れて中庭へ出た。
夜空には月があり、砦の灯が木柵を照らしている。
見張り台にはまだ数人のアマゾネスがいて、時々こちらを見ている。
おそらく、もう一度飛ぶのではないかと期待しているのだろう。
ルシアはそれに気づき、少し得意そうに羽を揺らした。
「チャールズ。」
「皆、私たちが飛ぶところを見たいみたい。」
「ルシア様。」
「本日はもう飛行をお控えください。」
「ガルナ様とのお約束もございます。」
「少しだけでも?」
「少しだけ、が積み重なると羽に負担がかかります。」
「オルドアイみたいなことを言うわ。」
「オルドアイ様のご判断は的確でございます。」
「お姉さんが増えたと思ったら、チャールズまでお姉さんみたいになったわ。」
「私は執事でございます。」
「執事とお姉さんは違う?」
「大きく異なります。」
ソータは後ろで聞いていて笑った。
オルドアイも少し口元を緩めている。
ルシアは振り返り、二人に向かって言った。
「チャールズも来たわ。」
「これで、ミレイユを迎える準備が少し進んだ?」
「ああ。」
ソータは頷いた。
「かなり進んだ。」
「私みたいね。」
「そうだな。」
「かなり進んだルシアと、かなり姿勢よく運ばれたチャールズさんだ。」
チャールズが一礼する。
「恐れ入ります、ソータ様。」
「次回は、より品位ある空輸方法を検討いたします。」
「次回があるのか。」
オルドアイが呟いた。
ルシアは明るく言う。
「あるかもしれないわ。」
「チャールズは軽いもの。」
「ルシア様。」
「軽量であることと、運搬に適していることは同義ではございません。」
「ソータみたいなことを言うわ。」
「ソータ様は運送の専門家でございますので。」
ソータは妙なところで感心された気がして、少し困った。
中庭の外れでは、アマゾネスたちがまだちらちらこちらを見ている。
誰かが小声で「もう飛ばないのか」と言い、別の誰かが「羽を休ませろ」と返す。
砦の空気は温かかった。
骨の執事が来ても、紫の姫が空を飛んでも、笑いに変え、席を作り、話を聞く。
それは北の砦の強さだった。
チャールズは静かに砦を見回した。
「良い場所でございますね。」
ルシアが嬉しそうに言う。
「でしょう?」
「オルドアイが案内してくれたの。」
「ガルナがハーブティーをくれたの。」
「バルクはガルナに叱られているの。」
「ヤンガルドアイは面白いの。」
「皆、声があるわ。」
「そのようでございます。」
チャールズの声は穏やかだった。
「ルシア様がここで多くを学ばれたこと、よく分かります。」
「ええ。」
「夜の城にも、少し持って帰りたいわ。」
「では、そのためにもミレイユ様とのお話が重要でございます。」
「怖いわ。」
「怖くとも、逃げないのでございましょう。」
ルシアは少し背筋を伸ばした。
「ええ。」
「逃げないわ。」
ソータはその横顔を見た。
夜の城から一人で飛んできた時のルシアは、無謀で、怖がりで、それでも逃げなかった。
今のルシアは、少しだけ違う。
自分の後ろにはオルドアイがいて、ガルナがいて、チャールズがいて、ソータがいる。
だから逃げないのではない。
支えてくれる相手がいることを知ったうえで、自分の足で立とうとしている。
オルドアイが静かに言った。
「明日から、ミレイユを迎える準備を本格的にする。」
「チャールズ、お前にも手伝ってもらう。」
「承知いたしました、オルドアイ様。」
「まず、その登場の仕方について聞かれた時の説明を考えておけ。」
「必要でしょうか。」
「絶対に聞かれる。」
ソータが言った。
「ミレイユなら、どうやって来たのか、なぜその方法にしたのか、危険はなかったのか、次回改善案はあるのかまで聞くと思います。」
チャールズは少し考えた。
「では、空輸報告書を作成いたします。」
「作るんですか。」
「はい。」
「件名、ルシア様によるハイ・スケルトン抱き上げ空輸に関する移動報告。」
ソータは吹き出した。
オルドアイも顔を背ける。
ルシアは目を輝かせた。
「すごいわ。」
「報告書になるのね。」
「ミレイユ様へ提出するのであれば、正式な形式が望ましいかと。」
「やめた方がいい気もする。」
ソータは腹を押さえながら言った。
だが、チャールズは大真面目だった。
「では、簡易報告に留めます。」
「そうしてください。」
北の砦の夜に、また笑いが広がった。
紫の羽の姫。
骨の執事。
緑の組み紐の姫。
そして、運送屋のソータ。
奇妙な取り合わせだった。
けれど、その奇妙さはもう異物ではなくなりつつある。
笑いながら受け入れ、必要なら記録し、明日の準備へつなげる。
それが今、この砦で起きていることだった。
遠く北の道の先では、紅い馬車列がこちらへ向かっている。
ミレイユが来れば、笑ってばかりでは済まない。
謝罪も、説明も、条件も、契約も必要になる。
だが今夜だけは、骨の執事が横抱きで空から来たという、あまりにも妙な出来事に、砦中が笑っていた。
ソータは夜空を見上げた。
月の下、ルシアの羽が静かに畳まれている。
その隣でチャールズが背筋よく立っている。
この光景をミレイユにどう説明するのか。
考えるとまた胃が痛くなる。
けれど、少しだけ楽しみでもあった。
(道が増えると、変な荷も増える。)
(骨の執事を空輸する日が来るとは思わなかった。)
(でも、これも運ぶことなんだろうな。)
(ルシアが、チャールズを連れてきた。)
(夜の城の声を、砦へ運んできた。)
(次は俺たちが、その声をミレイユへ渡す番だ。)
中庭の灯が揺れる。
笑い声が石壁に反響する。
北の砦は今夜、少しだけ夜の城に近づいていた。
そして夜の城もまた、骨の執事ひとり分だけ、北の砦に近づいていた。




