第149話:北の砦、紫の居場所
ミレイユの馬車列がグランデリアを出た頃、北の砦では朝の訓練の声が響いていた。
木剣がぶつかる乾いた音が中庭へ広がり、見張り台の上では交代のアマゾネスが空と森を確かめている。
炉の煙は細く上がり、食堂の裏手からは肉を焼く匂いと、薬草を煮出す匂いが混ざって流れていた。
そのいつもの砦の朝に、ひとつだけいつもと違うものがある。
薄紫の髪と紫の羽を持つ吸血鬼の姫が、オルドアイの隣で真剣な顔をして立っていた。
ルシアは黒い外套を羽織り、羽を小さく畳んでいる。
飛ぶことはまだ禁じられている。
アルベールの書いた別紙にも、長距離飛行はしばらく控えるようにはっきり書かれていた。
そのため、彼女は砦の中を歩いて覚えることになった。
最初は歩くことそのものに少し不満そうだったが、最近では歩くことでしか見えないものがあると分かり始めている。
床板の軋み。
炉の熱。
誰かが手を伸ばしやすい高さに置かれた水桶。
見張りが戻ってすぐ手を洗える位置。
弓や槍がただ飾られているのではなく、取りやすく、邪魔にならないよう置かれていること。
砦はただ強い者たちが住む場所ではなく、生きるための工夫が積み重なった場所だった。
「オルドアイ。」
「これはどうしてここに置いてあるの?」
ルシアが中庭の隅に積まれた短い木材を指さした。
オルドアイは腕を組んだまま答える。
「急な補修用だ。」
「柵が壊れた時や、訓練場の足場が割れた時にすぐ使う。」
「倉庫に入れないの?」
「倉庫まで取りに行く時間が惜しい時がある。」
「雨に濡れて困るものではないし、目につく場所にあった方が減りも分かる。」
ルシアは真剣に頷いた。
「すぐ使うものは、すぐ取れる場所。」
「でも、邪魔にならない場所。」
「荷物にも居場所があるのね。」
「そうだ。」
「ソータみたい。」
オルドアイが眉を上げる。
「どうしてそこでソータになる。」
「ソータは、どこに何を置けば誰が助かるかを考えていたわ。」
「男たちの村でも、ルシアの城でも。」
「物には行き先があり、置き場所があり、使う人がいると教えてくれた。」
「だから、ソータみたいだと思ったの。」
オルドアイは少し黙った。
それから、ほんのわずかに口元を緩める。
「あいつは、そういうところだけは妙に頼りになる。」
「そういうところだけ?」
「他は心配事を増やす。」
「でも、昨夜は頼りになったわ。」
「朝からそれを言うな。」
「言う場所を選ぶのだったわね。」
「ここは中庭だから駄目?」
「駄目だ。」
「分かったわ。」
ルシアは素直に頷いた。
その素直さに、近くで荷を運んでいたアマゾネスたちが小さく笑う。
もう、笑いの中に昨日までの鋭い警戒は少なかった。
もちろん、ルシアの力を忘れたわけではない。
夜ならどこからでも見ることができるなどという危険すぎる能力を、本人は悪びれもなく言ってしまう。
吸血鬼族としての力は本物だ。
だが、それ以上に、彼女はすぐ謝る。
すぐ質問する。
すぐ嬉しそうにする。
その危なっかしさと素直さが、砦の女たちの態度を少しずつ変えていた。
オルドアイはルシアを連れて訓練場へ向かった。
訓練場では、若いアマゾネスたちが二人一組で木剣を打ち合わせている。
土が踏み固められた地面に、朝の光が斜めに差していた。
ルシアはその様子をじっと見つめる。
「昨日も思ったけれど、人間は本当に朝から戦うのね。」
「訓練だ。」
「私は城で朝を待つことが少ないわ。」
「夜が長いから。」
「でも、ここでは朝になると体を動かすのね。」
「体を起こす。」
「目を覚ます。」
「仲間の動きを知る。」
「武器の手入れだけでは、いざという時に動けん。」
「仲間の動きを知る。」
ルシアはその言葉を繰り返した。
そして、少し考える。
「私の城には、私とチャールズとスケルトンたちがいるわ。」
「でも、スケルトンたちは命令すれば動く。」
「仲間の動きを知るという感じではなかった。」
「チャールズだけは、私が何も言わなくても色々してくれるけれど。」
「命令で動く者と、共に動く者は違う。」
オルドアイが言う。
「砦では、全員が自分で考える。」
「だから、互いの癖を知らねばならん。」
「誰が右へ避けるか。」
「誰が無理をするか。」
「誰が声を出すのが遅いか。」
「戦いでも、暮らしでも、それは大事だ。」
ルシアはオルドアイを見上げた。
「オルドアイは、私の癖も見ている?」
「見ている。」
「どんな癖?」
「驚くと羽が広がる。」
「嬉しくなると礼を言いすぎる。」
「分からない時、すぐ首を傾げる。」
「それから、言わなくていいことを言う。」
「最後が多い気がするわ。」
「一番大事だ。」
ルシアは少ししょんぼりした。
「私は言わなくていいことが多いのね。」
「言うなとは言っていない。」
「言う場所を選べと言っている。」
「難しいけれど、覚えるわ。」
オルドアイは頷いた。
その時、訓練中の若いアマゾネスが木剣を滑らせ、足を取られて尻餅をついた。
周囲が笑う。
転んだ本人も悔しそうに笑って立ち上がった。
ルシアは目を丸くする。
「転んでも笑うの?」
「訓練だからな。」
「本番で転べば死ぬ。」
「ここで転んで覚えればよい。」
「失敗しても、ここならやり直せるのね。」
「ああ。」
ルシアはその言葉を胸の奥で何度も繰り返した。
失敗しても、ここならやり直せる。
自分はソータを勝手に連れて行った。
オルドアイを怒らせ、ミレイユを心配させた。
大きな失敗だった。
それでも、謝る場所をもらった。
学ぶ場所をもらった。
もしかすると、自分もここで転んで覚えている途中なのかもしれない。
そう考えると、砦の土の匂いが少しだけ胸に優しかった。
◆◇◆
昼前になると、オルドアイはルシアを森の手前まで連れていった。
本格的な狩りではない。
羽の傷を考えて、今日は薬草摘みと罠の確認だけだ。
同行するのはオルドアイ、ルシア、ソータ、ガルナ、それから数人のアマゾネスだった。
ソータは荷袋を背負い、罠の縄や水袋、布を持っている。
《男気》は昨日よりずっと落ち着いていたが、油断はしない。
周囲のアマゾネスに妙な言い方をしないよう、言葉を一度飲み込んでから話すようにしていた。
森の入口では、湿った土の匂いが強くなる。
葉の隙間から落ちる光は細かく、足元には昨夜の露が残っていた。
オルドアイは腰を落とし、土に残る小さな跡を指さした。
「これは兎の足跡だ。」
ルシアはしゃがみ込んだ。
「小さいわ。」
「軽いからな。」
「こちらが後ろ足。」
「ここで止まって、向きを変えている。」
「どうして分かるの?」
「跡の深さが違う。」
「止まった時に後ろへ少し土が押されている。」
ルシアは顔を近づける。
「本当だわ。」
「森は、地面にも字が書いてあるのね。」
「読める者にはな。」
「オルドアイは森の字が読めるのね。」
「そういう言い方をすると妙だが、間違いではない。」
ソータはその会話を聞きながら、少し微笑んだ。
ルシアの世界の捉え方は独特だ。
けれど、時々とても綺麗に本質を言う。
森の字。
確かに、足跡も折れた枝も、風の向きも、読める者には言葉なのだろう。
運送屋にとっての道の轍や荷札と同じだ。
ガルナが薬草を摘みながら言った。
「これは傷口の腫れを抑えるものです。」
「でも、強く煮出すと刺激が出るので、ルシアさんには薄めに使います。」
「私の羽にも使える?」
「アルベール様の書いた紙では、外から当てる程度ならよいと。」
「アルベールは本当にたくさん書くのね。」
「ええ。」
「字も綺麗でした。」
「チャールズも字が綺麗よ。」
「骨なのに。」
ソータは思わず笑った。
「骨なのには余計じゃないか。」
「でも、本当に骨なのに綺麗なの。」
ガルナも少し笑う。
砦のアマゾネスたちも、ルシアの言葉に慣れてきていた。
悪意がない。
ただ、思ったことをそのまま言う。
だから時々危ないが、時々場を柔らかくする。
罠の確認を終える頃、ルシアが森の奥をじっと見つめた。
その表情が少しだけ静かになる。
オルドアイが気づく。
「どうした。」
「あちらに小さな魔物がいるわ。」
「傷ついている。」
「でも、こちらへは来ない。」
アマゾネスたちが身構える。
ソータも荷袋の位置を直した。
オルドアイはルシアを見る。
「分かるのか?」
「夜ほどはっきりではないけれど、気配が濁っている。」
「血の匂いが少しするわ。」
「でも、襲う力はなさそう。」
「案内できるか?」
「ええ。」
ルシアはゆっくり歩き出した。
無理をしないよう、ソータが横へつく。
オルドアイは前に出て、いつでも動けるようにしている。
少し進むと、木の根元に小さな角兎の魔物が倒れていた。
獣に襲われたのか、脚に傷がある。
人に害を出すほどの魔物ではないが、放っておけば苦しむだろう。
オルドアイは短く判断した。
「仕留める。」
それが森の掟だった。
苦しませずに終わらせる。
だが、ルシアが小さく言った。
「待って。」
オルドアイは振り返る。
「何だ。」
「血を少しもらってもいい?」
「このまま死なせるなら、無駄にしたくないわ。」
「私は三日に一度くらい魔物の血を飲めば大丈夫なの。」
「人間の血は吸わない。」
「でも、魔物の血なら飲める。」
その言葉に、周囲が少し緊張した。
吸血鬼族が血を飲む。
分かっていたことでも、目の前で言われると空気が変わる。
ルシアもそれに気づいたのか、少し肩を縮めた。
「怖い?」
誰もすぐには答えなかった。
ソータは一歩前に出た。
「ルシア。」
「聞いてくれてありがとう。」
ルシアの瞳が揺れる。
「勝手に飲まない方がいいと思ったの。」
「ここはオルドアイの森だから。」
オルドアイはルシアを見た。
長くは迷わなかった。
「よい。」
「ただし、見えるところで、必要な分だけだ。」
「そして、終わったら私が仕留める。」
「ええ。」
ルシアは膝をついた。
その姿は静かだった。
妖艶でも、恐ろしくもあった。
しかし、それ以上に慎重だった。
傷ついた魔物へ手を添え、短く祈るように目を伏せる。
そして必要な分だけ血を口にした。
アマゾネスたちは黙って見ていた。
ソータも見ていた。
血を飲むルシアを初めて見た者も多いはずだった。
だが、彼女は貪らなかった。
命を弄ばなかった。
必要な分で止め、静かに身を引いた。
「ありがとう。」
ルシアは魔物へ小さく言った。
オルドアイが前へ出る。
一撃で、角兎の魔物を苦しませずに終わらせた。
森に短い沈黙が落ちる。
ルシアは口元を布で拭い、周囲を見た。
「怖かった?」
ガルナが少し考えてから言った。
「怖くないと言えば嘘になります。」
「でも、勝手にしなかったことは分かりました。」
ルシアはほっとしたように息を吐いた。
「よかった。」
「私は、人間の血は吸わないわ。」
「吸ったら、その人は私のしもべになると聞いている。」
「それは嫌。」
「対等に話せなくなるから。」
若いアマゾネスの一人が、少し驚いた顔をした。
「吸えば、従わせられるのに?」
「ええ。」
「それをしないのか?」
「しないわ。」
「従う人は、私を好きなのではないもの。」
「それでは寂しい。」
その言葉は、森の中で静かに響いた。
アマゾネスたちは互いに顔を見合わせる。
吸血鬼族の恐ろしさを語るなら、この能力は確かに恐ろしい。
だが、その力を持つ本人が、寂しいから嫌だと言った。
支配ではなく、対等でありたいと言った。
それは、砦の者たちがルシアを見る目をまた少し変える言葉だった。
オルドアイは短く言った。
「なら、その言葉を守れ。」
「守るわ。」
「破れば、私はお前を斬る。」
「ええ。」
「その時は、斬られても仕方ないわ。」
「軽く言うな。」
「重く言っているわ。」
ルシアは真剣だった。
オルドアイもそれ以上は言わなかった。
ソータはそのやり取りを見て、静かに息を吐いた。
ルシアが何者なのかを隠すことはできない。
吸血鬼族である以上、血の問題は避けられない。
でも、避けないことで道ができる。
見せて、説明して、約束する。
怖さをなかったことにしない。
そのうえで、信じられる部分を積み上げる。
それは物流と似ていた。
危険な荷ほど、表示を曖昧にしてはいけない。
中身を知り、扱い方を決め、誰が責任を持つかを明らかにする。
そうすれば、運べるものになる。
(ルシアも、少しずつ自分を運べるようになってる。)
(隠さずに。)
(怖がらせたままにせずに。)
(ちゃんと説明して。)
ソータはルシアへ水袋を差し出した。
「口、ゆすぐか。」
「ええ。」
「ありがとう。」
ルシアは水で口をすすぎ、少し照れたように笑った。
「ソータ。」
「私、変ではなかった?」
「変ではない。」
「ちゃんと聞いて、ちゃんと止まれた。」
「それは大事だと思う。」
ルシアは嬉しそうに目を細めた。
「なら、覚えておくわ。」
オルドアイが横から言う。
「褒められて浮かれるな。」
「帰り道で転ぶぞ。」
「転んだら、訓練場みたいにやり直せる?」
「森で転ぶと怪我をする。」
「足元を見ろ。」
「はい。」
ルシアは素直に足元を見た。
その後ろ姿を見て、ガルナが小さく笑う。
「本当に、少しずつ砦の子みたいになっていますね。」
オルドアイが即座に言った。
「砦の子ではない。」
「でも、見捨てる気もないでしょう?」
「……監視だ。」
「はい。」
ガルナは優しく頷いた。
オルドアイは不満そうにしたが、否定しきれなかった。
◆◇◆
午後、砦へ戻ると、ルシアは少し疲れていた。
羽の傷が痛んだわけではないが、慣れない森歩きと、魔物の血の件で気を張っていたのだろう。
ガルナが薬草を薄く煮出した湯を用意し、羽の周りに温めた布を当てる。
ルシアは中庭の端に座り、珍しく大人しくしていた。
オルドアイはその横で、狩りの獲物と薬草を仕分けしている。
ソータも手伝いながら、荷札をつけていた。
魔物素材は砦用。
薬草は乾燥用。
一部は夜の城へ持たせる候補。
ルシアが好んだハーブティー用の草も、少し別に分けている。
ルシアはその仕分けをじっと見ていた。
「ソータ。」
「夜の城にも、こういう場所を作れるかしら?」
「こういう場所?」
「火があって、誰かが座って、何かを分けて、話す場所。」
「私の城にも大広間はあるわ。」
「食堂もある。」
「黒薔薇の庭も、月光の回廊も、天使の泉もある。」
「でも、砦の中庭みたいに、誰かが戻ってきて、荷を下ろして、肉を焼いて、叱られて、笑う場所は少ないわ。」
ソータは手を止めた。
オルドアイも黙ってルシアを見る。
「チャールズはいてくれる。」
「スケルトンたちもいる。」
「でも、私が知らなかったから、そういう場所を作ろうとしなかった。」
「食堂は本で読んで真似しただけだった。」
「家族は食卓を囲むらしいから、食堂を作った。」
「でも、何を置けばいいか、どう座ればいいか、誰が何をするのか、私は知らなかった。」
「ここに来て、少し分かった気がするわ。」
「場所は、形だけでは足りないのね。」
「使う人の声が必要なのね。」
ソータはゆっくり頷いた。
「作れると思う。」
「最初から砦みたいにはならないかもしれない。」
「でも、椅子の置き方とか、火の場所とか、食事を置く棚とか、荷を分ける場所とか。」
「少しずつなら、作れる。」
ルシアの顔が明るくなる。
「本当に?」
「ああ。」
「夜の城には夜の城に合う形があるはずだ。」
「黒薔薇の庭の近くに、火は危ないかもしれない。」
「でも、魔石灯を使えば人が集まれる。」
「食堂も、ただ大きな卓を置くだけじゃなくて、誰が座るか、誰が配るか、どう片づけるかを決めれば変わる。」
「チャールズさんなら、きっとすぐ覚える。」
「チャールズはすごいもの。」
「骸骨劇団も三日で覚えさせたわ。」
「そこは本当にすごい。」
オルドアイが少し呆れたように言う。
「夜の城に、砦のような場所を作るのか。」
「そのままではないわ。」
「でも、ソータが来た時、座る場所があるようにしたい。」
「オルドアイが来た時、肉を出せるようにしたい。」
「ミレイユが来た時、お茶を出せるようにしたい。」
「怒られる場所もいるかもしれない。」
「ミレイユ用の席だな。」
ソータが呟くと、オルドアイが少し笑った。
「頑丈な椅子にしろ。」
「言葉が重いからな。」
ルシアは真剣に頷いた。
「頑丈な椅子。」
「記録しておくわ。」
「冗談だ。」
「でも必要そうだわ。」
「否定はしない。」
三人の間に笑いが生まれた。
その笑いは、昨日より自然だった。
ルシアは夜の城へ戻ることを怖がっていない。
むしろ、持ち帰りたいものができている。
それは大きな変化だった。
ソータは中庭に並ぶ荷を見た。
北の砦で覚えたことを夜の城へ運ぶ。
夜の城から黒薔薇や魔物素材、霧の情報を砦や商会へ運ぶ。
男たちの村を中継点にする。
グランデリアで管理する。
王都の通達も確認する。
道が見えてきた。
まだ細い。
危険も多い。
だが、ただ恋愛のもつれとして終わらせるには、もったいない道だった。
(定期便。)
(夜の城への便。)
(表向きは北方夜間補給路調査便とか、そんな名前になるだろうけど。)
(でも、実際には、ルシアの城と人の世界をつなぐ道だ。)
(運ぶものは布や薬だけじゃない。)
(謝罪の本。)
(ハーブティー。)
(朝食の作り方。)
(砦の笑い声。)
(そういうものも、運べるかもしれない。)
その考えは、ソータの中で静かに形を持ち始めていた。
◆◇◆
夕方、砦の食堂では小さな夕食が始まった。
狩りの獲物が鍋に入り、薬草を混ぜた香りの良いスープが配られる。
ルシアには薄めのハーブティーと、柔らかく煮た肉が少しだけ出された。
彼女はそれを大事そうに口へ運び、ゆっくり味わう。
最初の頃のように驚きすぎることはなくなった。
それでも、まだ一口ごとに新しい発見がある顔をする。
「これは、昨日の肉より柔らかいわ。」
ルシアが言う。
「煮てあるからな。」
オルドアイが答える。
「焼くと力の味がする。」
「煮ると、優しい味がする。」
「変な言い方だが、分からなくもない。」
「オルドアイもそう思う?」
「少しだけだ。」
「少しでも嬉しいわ。」
ルシアはにこにこした。
近くのアマゾネスたちがそれを見て小さく笑う。
ガルナはスープを配りながら言った。
「明日はもう少し野菜を増やしましょうか。」
「野菜。」
ルシアは少し不安そうにした。
「肉とは違うの?」
「違います。」
「でも、体には必要です。」
「私は吸血鬼族だから、体に必要かは分からないわ。」
「では、ソータさんが食べるものを知るために。」
「それなら食べるわ。」
即答だった。
ソータは少し照れた。
「無理しなくていいんだぞ。」
「無理ではないわ。」
「ソータが生きるものを知りたいの。」
また食堂が一瞬静かになる。
オルドアイが額に手を当てた。
「ルシア。」
「言う場所。」
「食堂は駄目?」
「駄目というほどではないが、声がまっすぐすぎる。」
「曲げた方がいい?」
「曲げなくていい。」
「少し包め。」
「言葉も荷物みたいに包むのね。」
「そうだ。」
「分かったわ。」
ルシアは真剣に頷いた。
そのやり取りに、ヤンガルドアイが愉快そうに笑う。
「よいではないか。」
「紫の姫は、砦に来てずいぶん言葉を覚えた。」
「まだ危なっかしいです、母上。」
「危なっかしいものを育てるのも、長の仕事じゃ。」
「私は長ではなく、監視役です。」
「同じようなものだ。」
「違います。」
ルシアは二人を見比べた。
「ヤンガルドアイは、オルドアイのお母さんなのね。」
「そうじゃ。」
「お母さんは、子供が照れていると分かるの?」
「よく分かる。」
「母上。」
オルドアイの声が低くなる。
ヤンガルドアイは笑って酒杯を傾けた。
「照れるな、オルドアイ。」
「その紫の姫は、お前を慕っておるぞ。」
「慕われる理由が分かりません。」
「教え、叱り、支えたからじゃ。」
「それで慕われぬなら、世の姉は全員泣く。」
「だから姉ではありません。」
「オルドアイはお姉さんよ。」
ルシアが言った。
「強くて、怖くて、優しい。」
「森の字を読めるし、肉を分けてくれるし、怒っていても支えてくれる。」
「私はオルドアイみたいな人を知らなかった。」
「だから、少しお姉さんだと思う。」
食堂の空気が柔らかくなった。
オルドアイは完全に黙った。
頬が赤い。
ソータは笑いそうになるのを必死で堪える。
ガルナも少し微笑んでいる。
ヤンガルドアイは満足そうだった。
「……勝手にしろ。」
オルドアイはようやくそう言った。
ルシアの顔がぱっと明るくなった。
「勝手にしていいの?」
「呼んでいいとは言っていない。」
「でも、思っていていい?」
「……思うだけなら。」
「ありがとう、オルドアイ。」
「礼を言うな。」
ルシアは嬉しそうにハーブティーを飲んだ。
その姿を見ながら、ソータは思った。
ルシアは居場所を作り始めている。
北の砦を自分のものにしようとしているのではない。
ほんの少し座る場所をもらい、教わり、叱られ、礼を言い、覚えている。
それはとても危なっかしいけれど、大切な第一歩だった。
食事の後、ソータは中庭へ出た。
夜の空には星が出ている。
遠く、北の道の先には、三日後にミレイユの馬車列が来る。
グランデリアを出た紅い髪紐が、荷を積んでこちらへ向かっている。
そのことを思うと胃が少し痛くなる。
だが、以前より逃げたいとは思わなかった。
背後から足音がした。
オルドアイとルシアだった。
ルシアは少し疲れているが、まだ眠くはなさそうだ。
オルドアイは夜風に茶色の髪を揺らしながら、ソータの隣に立つ。
「考え事か。」
「うん。」
「夜の城との定期便のことを考えてた。」
「もうそこまで考えるのか。」
「考えないと間に合わない気がして。」
「ミレイユが来たら、たぶんそういう話になる。」
「ルシアの城をどう扱うか。」
「支援だけで終わらせるのか。」
「ちゃんと道を作るのか。」
ルシアが少し緊張した。
「道を作れる?」
「作れるかどうかを、みんなで考える。」
「俺一人では無理だ。」
「オルドアイも、ミレイユも、メバドスさんも、チャールズさんも必要になる。」
「私は?」
「もちろん、ルシアも。」
ルシアはほっとしたように笑った。
「よかった。」
「私の城の道なのに、私がいなかったら寂しいわ。」
「いなくていいわけないだろ。」
ソータがそう言うと、ルシアは少し頬を赤くした。
オルドアイが横から言う。
「ただし、勝手に飛んで先回りするな。」
「分かっているわ。」
「順番を守る。」
「本当だな。」
「たぶん。」
「たぶんではない。」
「守るわ。」
ルシアは言い直した。
オルドアイは頷く。
ソータは二人を見て笑った。
「ミレイユが来るまでに、話すことを整理しよう。」
「ルシアが何を望んでいるか。」
「オルドアイが何を心配しているか。」
「砦として何ができるか。」
「俺が何を運べるか。」
「そして、何を怒られるか。」
オルドアイが言う。
ソータは苦笑した。
「それも。」
ルシアが真剣に手を上げる。
「私は、覗き見を怒られると思う。」
「それは確実だ。」
オルドアイが即答した。
「それから、ソータを勝手に連れて行ったこと。」
「当然だ。」
「ソータと結ばれたことは?」
ソータがむせた。
オルドアイがルシアを見る。
「言う場所。」
「ここは中庭で、三人だけだからいい?」
オルドアイは少し黙った。
「……今はよい。」
「よかった。」
ルシアは嬉しそうにした。
ソータは夜空を見上げた。
問題は山積みだった。
けれど、こうして一つずつ言葉にできるなら、たぶん進める。
荷札をつけるように。
道を確かめるように。
不安にも、怒りにも、望みにも、それぞれ名前をつけて運んでいけばいい。
北の砦の夜風が、三人の間を通り抜けた。
緑の組み紐が揺れる。
紫の羽が静かに畳まれる。
紅い髪紐はまだ遠い道の先にある。
だが、確かにこちらへ向かっている。
ソータは胸の奥で、静かに覚悟を結び直した。
次に運ぶのは、荷だけではない。
ルシアの居場所。
オルドアイの信頼。
ミレイユへの説明。
そして、夜の城へ続く新しい道だった。




