第148話:紅い馬車はグランデリアへ
クラウゼン商会の馬車列がグランデリアへ入ったのは、王都を発ってから二日目の昼過ぎだった。
王都の石畳とは違い、グランデリアの道には商人町らしいざわめきがある。
荷車の車輪が鳴り、倉庫の扉が開き、布包みを抱えた奉公人が小走りに道を渡る。
香辛料の匂い、干し肉の匂い、革と油の匂い、焼きたてのパンの匂い。
人が動き、荷が動き、金が動く町の空気が、ミレイユの胸へ懐かしい重さを運んできた。
馬車の窓から外を見ながら、ミレイユは少しだけ息を吐いた。
王都本家の整った静けさも嫌いではない。
だが、自分が実際に手を動かして道を作ってきた場所は、やはりここだった。
ソータが最初に商会へ関わり、荷を運び、リーナの村や北の砦へ道を伸ばしていった拠点。
紅い髪紐を揺らしながら、彼女は膝の上の帳面を閉じた。
「戻ったわね。」
向かいに座るアルベールが、静かに一礼した。
「はい、ミレイユ様。」
「グランデリア支部への到着は予定より半刻ほど早うございます。」
「御者が頑張ったわね。」
「あとで手当を出しておいて。」
「承知いたしました。」
ミレイユは窓の外へ目を戻した。
通りの先に、自分の商会の看板が見えてくる。
クラウゼン商会グランデリア支部。
表の荷捌き場にはすでに人が集まり、馬車列を迎える準備をしていた。
支部長、帳簿係、倉庫番、古参番頭、見習いの若者たち。
彼らの顔には緊張がある。
王都からミレイユが戻り、しかも北方行きの荷を積んでいる。
それがただの視察ではないことくらい、商会の者ならすぐに分かる。
馬車が止まる。
扉が開く前に、アルベールが滑るように降り、白手袋の手を差し出した。
「ミレイユ様。」
「ありがとう。」
ミレイユはその手を取り、馬車から降りた。
紅い髪が昼の光を受け、少し強く輝く。
支部の者たちは一斉に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様!」
声が揃う。
ミレイユは頷き、すぐに仕事の顔になった。
「ただいま。」
「挨拶は短くするわ。」
「北方行きの準備を今日中に終わらせます。」
「王都から持ってきた荷を一度すべて下ろして検品。」
「不足分はこの支部から追加。」
「明日の朝には出るつもりよ。」
支部長が一歩前へ出た。
「承知しました。」
「王都からの先触れで、北方補給用の在庫は仮押さえしております。」
「遮光布、油布、縄、釘、補修板、保存食、薬草、すべて倉庫三番へ。」
「早いわね。」
「お嬢様が戻られる時は、だいたい急ぎの用ですので。」
ミレイユは少しだけ口元を動かした。
「よく分かっているわ。」
「なら、すぐ始めましょう。」
「アルベール、王都からの荷の検品を。」
「私は倉庫三番を見るわ。」
「かしこまりました、ミレイユ様。」
アルベールが一礼する。
その瞬間、支部の若い見習いが少し不思議そうな顔をした。
王都から来た馬車に乗っていたはずの老執事が、なぜ昨日の時点で北の砦にも行っていたらしいのか。
その疑問が顔に出ていた。
アルベールはそれに気づいたように、穏やかに微笑んだ。
「何か?」
「い、いえ。」
「荷の扱いは丁寧にお願いいたします。」
「はい!」
見習いは背筋を伸ばして走っていった。
ミレイユは横目でそれを見ながら言う。
「あなた、また何か妙な噂を増やしているのではないでしょうね?」
「事実のみが適切に伝わっているものと存じます。」
「それが一番怖いのよ。」
「恐れ入ります。」
ミレイユはため息をついた。
だが、立ち止まっている暇はない。
北の砦へ向かうには、ここでの半日が大事になる。
グランデリアから北の砦までは三日。
途中で男たちの村への連絡も考えるなら、荷の積み方を間違えられない。
夜の城に必要なもの、北の砦に渡すもの、男たちの村で下ろすもの、ソータに直接確認させるもの。
それぞれを混ぜれば、現場で混乱が起きる。
ミレイユは倉庫三番へ向かった。
扉が開かれると、乾いた木の匂いと布の匂いが広がる。
棚には厚手の布束、縄束、木箱、薬草袋が整然と並んでいた。
ただ、ミレイユの目から見れば、まだ粗い。
商会員たちはよくやっている。
だが、夜の城という特殊な行き先に向けた荷としては、まだ足りない。
「遮光布は二種類に分けて。」
「厚手の黒布は城の窓と休息場所用。」
「薄手で扱いやすいものは移動用。」
「油布は水洗い用と雨除け用で紐の色を変える。」
「薬草は人間用、吸血鬼族への使用可否未確認、外用限定で箱を分けて。」
「黒薔薇の蜜に触れる可能性があるものは、別の小箱にして記録をつけること。」
帳簿係が慌てて書き留める。
「黒薔薇の蜜、でございますか。」
「夜の城の特産になり得るものよ。」
「ただし、効果が読めない。」
「甘味として扱う前に、薬品として扱う。」
「検査用の小瓶はある?」
「はい、少量なら。」
「足りないわ。」
「薬師通りから追加で二十本。」
「栓は蝋で密閉できるもの。」
「すぐに。」
倉庫番が走る。
ミレイユは次の箱を開けた。
中には乾燥野菜と干し肉が入っている。
状態は悪くない。
ただし、夜の城へ持っていくには、食べる者が誰なのかを考える必要がある。
ルシアは食べなくても平気。
チャールズは骨なので食べない。
スケルトンも食べない。
だがソータは食べる。
人間の客人が来るなら食べる。
そしてルシアは、人間の食事を学ぼうとしている。
「柔らかく煮られる乾燥野菜を増やして。」
「硬すぎる干し肉ばかりでは駄目。」
「卵の保存品は?」
「少量ならございます。」
「増やすわ。」
「アルベールが言っていたわ。」
「吸血鬼の姫は、人間用の朝食に興味があるそうよ。」
帳簿係が一瞬手を止めた。
「吸血鬼の姫、ですか。」
「ええ。」
「朝食を。」
「そうよ。」
「吸血鬼族が、朝食を…」
「不思議な顔をしない。」
「商会に必要なのは、相手が誰であれ、必要な品を考えることよ。」
「吸血鬼族が朝食を学ぶなら、初心者向けの食材を用意する。」
「それだけ。」
帳簿係は慌てて頭を下げた。
「失礼しました。」
「いいわ。」
「驚くのは分かる。」
「でも、現場では顔に出さないように。」
「はい。」
ミレイユは箱を閉じた。
自分でも不思議だった。
吸血鬼族の姫の朝食を商会令嬢として考えている。
数週間前なら、こんなことを想像もしなかった。
だが今は現実だ。
ルシアはソータを連れ去った。
それは許されない。
しかし、男たちの村を救い、大教会に傷つけられ、オルドアイに謝罪し、ミレイユへ不器用な手紙を書いた。
そして、人間の謝り方の本を欲しがった。
(本当に、何なのかしら。)
(怒る準備をしていたのに、荷を考えている。)
(謝罪の本に、朝食の材料に、羽の傷の布。)
(私は説教に行くのか、支援に行くのか。)
(両方ね。)
(どちらかだけでは足りない。)
その時、アルベールが倉庫へ入ってきた。
「ミレイユ様。」
「王都からの荷の検品は完了いたしました。」
「不足はございません。」
「ただし、北の砦用の甘味がやや少ないかと。」
「オルドアイ用?」
「はい。」
「オルドアイ様、ガルナ様、砦の皆様への手土産として、保存性のある甘味を少々追加されるのがよろしいかと。」
「そうね。」
「あの子たち、肉ばかり食べていそうだもの。」
「偏見でございますが、おおむね間違ってはおりません。」
「失礼ね。」
「恐れ入ります。」
ミレイユは考える。
保存の利く焼き菓子。
蜂蜜を固めた小菓子。
干し果物。
そして、オルドアイには革紐と針、丈夫な布もいる。
あのアマゾネス姫は贈り物に素直に喜ぶ顔をしない。
だが、実用的なものなら受け取る。
ミレイユはそれを知っている。
「甘味は箱二つ。」
「一つは砦全体用。」
「もう一つはオルドアイへ。」
「ただし、贈り物らしくしすぎない。」
「補給品の一部として渡すわ。」
「照れ隠しでございますか。」
「違うわ。」
「恐れ入ります。」
アルベールは涼しい顔で一礼した。
ミレイユは軽く睨む。
「あなた、本当に最近、私をからかうわね。」
「まさか。」
「まさかではないわ。」
「ミレイユ様が、北の砦の方々をよくご覧になっておられることを喜ばしく思っているだけでございます。」
その言い方に、ミレイユは言い返しかけて止まった。
確かに、自分はオルドアイを見ている。
ただの競争相手ではなく、ソータを待ち、守り、怒りながらもルシアを砦へ入れた女として見ている。
だから荷を用意している。
それを否定する必要はなかった。
「……必要だからよ。」
「はい、ミレイユ様。」
アルベールは、それ以上何も言わなかった。
◆◇◆
夕方には、グランデリアの家へ移動した。
支部の裏手から少し離れた場所にあるミレイユの家は、王都本家ほど大きくはない。
だが、実務のための部屋と小さな応接室、荷の一時保管庫、書類棚、客室がよく整っている。
ソータも何度も出入りした場所だった。
玄関へ入ると、懐かしい木の匂いがした。
廊下の奥には、ソータが以前使った荷置き場がある。
ミレイユは無意識にその方を見た。
そこには、空の木箱がいくつか積まれていた。
ソータが使いやすいように、以前から置いてある箱だった。
大きさの違う箱。
紐の予備。
荷札。
油紙。
布袋。
彼が戻ってくれば、すぐに使えるようにしてある。
ソータがいない間も、誰もその配置を崩していなかった。
ミレイユは足を止めた。
(そうね。)
(私は待っていた。)
(ただ心配していただけじゃない。)
(戻ってきた時に、また動ける場所を残していた。)
(ソータの荷置き場。)
(ソータの道具。)
(ソータが戻る家。)
胸の奥に、少し鈍い痛みがあった。
ソータは帰ると言った。
戻ると言った。
だが、オルドアイのもとへも行く。
ルシアの城へも戻る。
それを分かっている。
分かっているのに、この空の箱を見ると、どうしても思ってしまう。
ここだけを帰る場所にしてくれたら楽だったのに、と。
ミレイユはゆっくり息を吐いた。
(楽な道ではないわね。)
(でも、私が選んだ。)
(あの夜、なかったことにしないと決めた。)
(オルドアイを認めた。)
(なら、ルシアも見なければならない。)
(見てから決める。)
(商人なら当然のことよ。)
後ろから、アルベールの声がした。
「ソータ様の荷置き場は、そのままにしてございます。」
「見れば分かるわ。」
「はい。」
「誰にも触らせていないのね。」
「ミレイユ様のご指示でしたので。」
「そうだったかしら。」
「はい。」
「ソータ様が戻られた際、すぐに仕事へ戻れるように、とのことでした。」
ミレイユは少しだけ顔を背けた。
「よく覚えているわね。」
「執事でございますので。」
「便利な言葉。」
「恐れ入ります。」
ミレイユは荷置き場へ入り、棚の荷札を一枚取った。
そこには、以前ソータが走り書きした文字が残っていた。
最初の村。
薬草。
急ぎ。
少し癖のある字。
ソータらしい字だった。
指先でその文字をなぞる。
「アルベール。」
「はい、ミレイユ様。」
「必要最小限の報告、もう一度確認するわ。」
「承知いたしました。」
「あなたは北の砦で、ソータ、オルドアイ、ルシアの間に何か進展があったと判断した。」
「そのうえで、詳細には踏み込まず、私へ戻った。」
「はい。」
「詳細は。」
「ミレイユ様が直接ご確認なさるべき内容かと。」
「つまり、聞けばあなたは答えるけれど、私に聞かせたいわけではない。」
「その通りでございます。」
「私が怒るから?」
「怒りだけではなく、判断が先入観に傾く恐れがございます。」
「ソータ様、オルドアイ様、ルシア様、それぞれがご自身の言葉でお伝えすべきかと存じます。」
ミレイユは黙った。
それは正しい。
腹立たしいほど正しい。
アルベールが勝手に全部説明すれば、その瞬間からミレイユは三人の言葉を聞く前に判断を固めてしまうかもしれない。
だから、老執事はぼかした。
必要最小限。
つまり、ミレイユが向かうべきだと判断できるだけの情報。
それ以上は、現地で聞けということだ。
「あなた、時々本当に腹が立つほど有能ね。」
「恐れ入ります、ミレイユ様。」
「褒めているけれど、少し怒っているわ。」
「承知しております。」
ミレイユは荷札を棚へ戻した。
「分かったわ。」
「直接聞く。」
「逃げずに話すのは、ソータたちだけではないわね。」
「私も聞く準備をする。」
「はい。」
「ただし、ソータには説教する。」
「必要かと。」
「あなたにもよ。」
「承知しております。」
アルベールは一礼した。
あまりにも素直なので、ミレイユはそれ以上言えなくなった。
◆◇◆
その夜、グランデリアの家では遅くまで灯りが消えなかった。
支部から追加された荷の一覧が届き、ミレイユは食事の後も帳面と向き合った。
明日の朝、北へ出る。
グランデリアから北の砦までは三日。
途中で一泊目は街道沿いの宿場。
二泊目は森手前の補給小屋。
三泊目は状況次第で男たちの村か、その手前の野営地。
馬の疲労、荷馬車の速度、護衛の交代、雨の場合の油布の使い方。
すべて計算する。
机の上には、ルシアの手紙が置かれていた。
ミレイユは何度も読まないつもりだった。
だが、気づけばまた開いている。
私はソータが好きです。
でも、奪うだけは嫌です。
怖いけれど逃げません。
人間の謝り方の本があれば、持ってきてほしいです。
ミレイユは小さくため息をついた。
「本当に、ずるい手紙ね。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
悪意がない。
計算もない。
だからこそ、怒りのぶつけ方が難しい。
もっと狡猾なら楽だった。
敵として切り捨てられた。
だが、ルシアは違う。
自分が間違えたことを、下手な言葉で認めている。
そのうえで、ソータが好きだと隠さない。
それはミレイユにとって、腹立たしくも、どこか眩しいものだった。
(好きと書けば済むわけではないわ。)
(謝れば済むわけでもない。)
(でも、書かないよりはずっとまし。)
(逃げるよりは、ずっといい。)
(あなたが本当に逃げないなら、私も聞く。)
(ただし、甘くはしない。)
扉が軽く叩かれた。
「ミレイユ様。」
「お茶をお持ちいたしました。」
入ってきたのはアルベールだった。
盆の上には紅茶と、保存食の試作品らしい小さな焼き菓子がある。
アルベールは静かにカップを置いた。
「夜分に甘味を?」
「明日、北の砦へお持ちする品の一部でございます。」
「味見を。」
「あなた、こういうところは抜け目ないわね。」
「商会の品でございますので。」
ミレイユは焼き菓子を一つ取った。
硬めだが、香ばしい。
干し果物が入っていて、長旅でも崩れにくそうだった。
甘さは控えめ。
オルドアイが文句を言いながら食べる姿が想像できた。
「悪くないわ。」
「砦全体用にはこれでいい。」
「オルドアイ用には、もう少し蜂蜜を強くしてもいいかもしれない。」
「承知いたしました。」
「ルシアには?」
「柔らかいものの方がよろしいかと。」
「食感に驚かれる可能性がございます。」
「吸血鬼の姫が焼き菓子の食感に驚くのね。」
「はい。」
ミレイユは思わず少し笑った。
すぐに表情を戻す。
「笑っていません。」
「はい、ミレイユ様。」
「今、分かった顔をしたでしょう。」
「いいえ。」
「嘘が下手ではないのに、そういう時だけわざと下手にするのはやめなさい。」
「恐れ入ります。」
アルベールは静かに一礼した。
ミレイユは紅茶を飲んだ。
温度がちょうどいい。
王都本家でも、グランデリアの家でも、アルベールの紅茶は変わらない。
それが少し悔しく、少し落ち着く。
「明日は早いわ。」
「はい。」
「あなたは今夜、妙な近道で北へ行かないでしょうね?」
「ミレイユ様に随行いたします。」
「本当に?」
「はい。」
「今回は、ミレイユ様が直接向かわれることに意味がございますので。」
「ならいいわ。」
ミレイユはカップを置いた。
窓の外には、グランデリアの夜が広がっている。
王都ほど高い建物はない。
だが、倉庫の灯りや夜番の明かりが点々と見える。
荷は夜も守られている。
道は夜も眠らない。
ソータが何度も走った町。
ミレイユが道を広げた町。
ここからまた、北へ行く。
「アルベール。」
「はい、ミレイユ様。」
「私は怒っているわ。」
「はい。」
「心配もしている。」
「はい。」
「嫉妬もしている。」
「はい。」
「でも、それだけでは行かない。」
「荷を持っていく。」
「条件を持っていく。」
「道を作れるかどうかを見る。」
「それが私のやり方よ。」
アルベールの目が少し柔らかくなった。
「ミレイユ様らしいご判断でございます。」
「褒めても説教は減らないわ。」
「承知しております。」
「本当にあなたは承知ばかりね。」
「執事でございますので。」
ミレイユは少しだけ笑った。
それから、机の上のルシアの手紙を丁寧に畳み直した。
怒りに任せて握り潰すことはしない。
これは証拠であり、約束であり、始まりの書類でもある。
ならば、扱いは丁寧にするべきだ。
◆◇◆
翌朝、グランデリア支部の荷捌き場は夜明け前から動いていた。
馬には水が与えられ、車輪の軸には油が差され、荷馬車の積み方が最終確認される。
荷札には色紐がつけられていた。
黒は夜の城。
緑は北の砦。
茶は男たちの村。
紅はミレイユ直接確認。
ソータが見れば、すぐに分かるように。
ミレイユ自身が考えた分類だった。
支部長が一覧を読み上げる。
「夜の城用、遮光布六束、油布四束、補修板二十枚、釘と金具一箱、薬草三箱、外用軟膏二箱、検査用小瓶三十本、柔らかい保存食二箱、礼法書二冊、若商人向け謝罪文例集一冊、子供向け生活絵本三冊。」
「北の砦用、干し肉五箱、塩二袋、針と糸、革紐、保存菓子二箱、薬草一箱。」
「男たちの村用、補修材、縄、水袋、干し野菜。」
「ミレイユ様直接確認、黒薔薇関連記録帳、契約書雛形、商会印、特殊取引覚書。」
「よろしい。」
ミレイユは頷いた。
「紅の荷は絶対に先に開けないこと。」
「黒の荷は夜の城へ渡すまで湿気を避ける。」
「緑の荷は北の砦到着後、オルドアイに直接確認を取る。」
「茶の荷は途中で男たちの村に寄る場合、村長のメバドスへ。」
「承知しました。」
護衛たちも頷く。
アルベールは馬車の横で、出発準備を静かに見ていた。
その姿はいつも通りだ。
だが、ミレイユは知っている。
この老執事は、必要なら一瞬で北方へ飛ぶような真似をする。
それでも今回は、自分の隣に乗る。
ミレイユが直接行くことを支えるために。
出発前、ミレイユは自分の家を一度振り返った。
ソータの荷置き場がある家。
彼が戻る場所。
しばらく空けることになる。
だが、鍵は閉ざすためではなく、守るためにかける。
「行くわよ。」
「はい、ミレイユ様。」
アルベールが扉を開く。
ミレイユは馬車に乗り込んだ。
紅い髪紐が朝の風に揺れる。
荷馬車が続き、護衛が配置につく。
支部の者たちが頭を下げる。
「お嬢様、ご無事で!」
「留守を頼むわ。」
「何かあれば通常便で王都と連絡を。」
「北方便の準備も怠らないで。」
「はい!」
御者が手綱を取る。
車輪が動き出す。
グランデリアの通りを、クラウゼン商会の馬車列が北へ向かって進む。
ミレイユは窓の外を見た。
町が少しずつ後ろへ流れていく。
胸の奥には、怒りも、不安も、覚悟もある。
ソータに何を言うか。
オルドアイにどう礼を言うか。
ルシアをどう見るか。
すべてはまだ決まっていない。
だが、逃げないことだけは決めている。
(待っていなさい。)
(ソータ。)
(オルドアイ。)
(ルシア。)
(紅い髪紐は、北へ行くわ。)
馬車列は朝の光の中を進んでいく。
荷台には、布と薬と食料と本。
そして、まだ形になっていない新しい道の可能性が積まれていた。




