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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第146話:湯気の向こうで、紫は夜を知る

 湯屋の扉が閉まると、外のざわめきが少し遠くなった。

 北の砦の湯屋は、夜の城の浴場とはまるで違っていた。

 黒石も紫灯もない。

 床は堅い石で、壁は太い木材で組まれ、桶や布が実用的に並んでいる。

 湯気は白く、熱く、遠慮なく肌にまとわりつく。

 窓は小さく、外からの光はほとんど入らない。

 その代わり、壁にかけられた灯火が橙色に揺れ、湯面を柔らかく照らしていた。


 ソータは扉の前で一度深く息を吸った。

 胸の奥に、まだ妙な熱がある。

 《男気》というふざけたような名前のスキルは、名前に反してかなり厄介だった。

 身体の芯が重く、声が低くなる。

 視線が強くなる。

 相手を守りたい気持ちも、触れたい気持ちも、普段よりずっと外へ押し出される。

 抑えようとすればするほど、かえって言葉や仕草に滲み出る。


(落ち着け。)

(ここにいるのはオルドアイとルシアだ。)

(大事な相手だ。)

(勢いで傷つけるな。)

(でも、逃げるな。)

(ちゃんと向き合え。)


 振り返ると、オルドアイとルシアが並んで立っていた。

 オルドアイは腕を組み、いつものように強気な顔をしている。

 だが、目元にはわずかな緊張があった。

 ルシアは黒い外套の前を両手で押さえ、薄紫の瞳で湯気の向こうを見ている。

 彼女は怖がってはいない。

 むしろ、知らない扉の先へ招かれた子供のように、期待と不安を一緒に抱えている顔だった。


「ソータ。」


 オルドアイが低く言った。


「今からすることは、お前を落ち着かせるためだ。」

「だが、私たちは薬ではない。」


 ソータはまっすぐ頷いた。


「分かってる。」

「二人を道具みたいに扱うつもりはない。」


「ならいい。」


 オルドアイは少しだけ視線を逸らした。

 その横で、ルシアが首を傾げる。


「私は道具ではないわ。」

「でも、ソータを満足させたいとは思っている。」

「それは道具?」


「違う。」


 ソータが即答した。

 声が思ったより低く響く。

 ルシアの肩が小さく震えた。

 怖がったのではない。

 その声に、胸の奥を触れられたような顔をした。


「それは、君が選んでくれるなら気持ちだ。」

「俺も、君たちをちゃんと見てる。」

「ただ欲に流されるだけにはしない。」


 オルドアイがソータを見る。

 ルシアも見る。

 湯気の中で二人の視線を受けると、ソータの中の熱がまた少し強くなった。

 だが、今度は逃げなかった。

 逃げれば余計に歪む。

 だから、正面から受け止める。


「二人とも。」

「嫌なら、すぐ言ってくれ。」

「俺も、危ないと思ったら止まる。」

「でも……今の俺は、たぶん少し強引になる。」


 オルドアイの喉が小さく動いた。


「分かっている。」

「それを見張るためにも、ここにいる。」


 ルシアは外套を握る指に力を込めた。


「少し強引なソータは、嫌ではないわ。」

「昨日、私を庇った時も、声が強かった。」

「怖いのに、胸が熱くなったもの。」


 ソータはルシアへ一歩近づいた。

 彼女は逃げなかった。

 その薄紫の瞳が揺れる。

 ソータは手を伸ばし、ルシアの頬に触れた。

 冷たいと思っていた肌は、湯気のせいか、ほんのり温かい。

 ルシアは息を止めた。


「ルシア。」

「本当にいいのか。」


「いいわ。」


「オルドアイの前でも。」


 ルシアはオルドアイを見た。

 オルドアイは黙っていた。

 怒っているわけではない。

 ただ、自分の中で何かを測っている顔だった。


「オルドアイが嫌なら、私は待つ。」


 ルシアが言った。

 その言葉に、オルドアイの目が少し変わった。

 昨日までなら言えなかったはずの言葉だった。

 欲しいから奪うのではなく、相手を見る。

 少しずつ、本当に少しずつだが、ルシアは学んでいる。


「……嫌ではない。」


 オルドアイは低く言った。


「ただし、勝手に先へ進むな。」

「知らぬままでは危ない。」

「お前は、知らなすぎる。」


「知っていることもあるわ。」


 ルシアは少し胸を張った。


「私は夜なら、どんなところでも外からでも見ることができるもの。」

「ソータとオルドアイとミレイユが三人で愛し合っていた夜も、少し見えたわ。」


 湯屋の空気が凍った。


 ソータは動けなかった。

 オルドアイの表情が、ゆっくりと変わる。

 眉が上がり、次に目が据わる。

 ルシアは自分が何を言ったのか、まだよく分かっていない顔だった。


「ルシア。」


 オルドアイの声が低く沈んだ。


「覗いていたのか。」


「覗く?」

「違うわ。」

「夜だから見えたの。」

「私は夜だと、外からでも見たいものが見えることがあるの。」

「窓や壁があっても、気配や熱や影で分かるのよ。」

「あの時、ソータがとても温かそうで、ミレイユの紅い髪紐と、あなたの緑の組み紐が光っていて、とても綺麗だったわ。」


「覗いているではないか!」


 オルドアイが一歩踏み出した。

 ルシアは驚いて羽を少し広げかけ、慌てて畳む。


「ご、ごめんなさい。」

「悪いことだと知らなかったの。」

「綺麗だったから見てしまったわ。」

「今は悪いことだと分かったわ。」

「次からは見ない。」

「たぶん。」


「たぶんではない!」


「見ないわ!」


 ルシアは両手を上げて降参した。

 ソータは額を押さえた。

 ミレイユがこの場にいなくて本当によかった。

 いや、あとで知られたらさらに悪いかもしれない。


 オルドアイはしばらくルシアを睨んでいたが、やがて深く息を吐いた。


「まったく……。」

「夜の種族というのは、どこまで厄介なのだ。」


「ごめんなさい。」


「謝ったから今はよい。」

「だが、覚えろ。」

「人が二人きり、三人きりで触れ合う時間は、勝手に見てよいものではない。」


「分かったわ。」

「大事なものだから、隠しているのね。」


「そうだ。」


「でも、綺麗だったわ。」


「それはもう言うな。」


「はい。」


 ルシアは素直に頷いた。

 オルドアイはまだ少し頬を赤くしている。

 怒りのせいだけではなかった。

 自分たちのあの夜をルシアが見ていたという事実が、恥ずかしさになって体に残っているのだ。


 ソータは、その赤みに胸を揺さぶられた。

 《男気》のせいだけではない。

 オルドアイの強さも、恥じらいも、怒りながらもルシアに教えようとする誠実さも、すべてが眩しかった。

 彼は一歩近づき、オルドアイの腕を掴んだ。

 少し強引だった。

 オルドアイが驚いて振り向く。

 ソータはそのまま彼女を抱き寄せた。


「ソータ。」


「怒るのは後でいい。」

「今は、俺の方を見てくれ。」


 自分でも驚くほど真っ直ぐな言葉だった。

 オルドアイの瞳が揺れる。

 普段なら言い返すところだ。

 だが、ソータの腕の力と、低い声と、逃げない目に押され、彼女は言葉を失った。


「……強引だな。」


「今はそうなるって言った。」


「言ったが……。」


「嫌か。」


 オルドアイはソータの胸に手を当てた。

 押し返せる。

 彼女なら簡単に押し返せる。

 だが、その手は押さなかった。

 むしろ、服を掴んだ。


「嫌ではない。」


 ソータはその答えを聞いてから、彼女に口づけた。

 短いものではなかった。

 湯気の中で、二人の息が重なる。

 オルドアイは最初こそ硬かったが、すぐに肩から力が抜けた。

 強い腕がソータの背中へ回り、逃がさないように抱き返してくる。

 彼女の熱はまっすぐだった。

 戦う時の熱ではなく、待っていた女がようやく触れられた時の熱だった。


 ルシアはそれを見て、唇に指を当てた。

 薄紫の瞳が大きく開かれている。

 覗いてはいけないと言われたばかりだ。

 だが今は、目の前で許されている。

 それでも見ているだけで胸が苦しくなった。

 ソータがオルドアイを抱く腕。

 オルドアイがソータに身を預ける瞬間。

 唇が離れた後の、少し濡れた息。

 全部が本で読んだ恋とは違っていた。


 オルドアイはソータの胸に額を預け、少し息を整えた。

 そして、ルシアを見る。

 まだ恥ずかしさは残っている。

 だが、目には覚悟があった。


「ルシア。」

「お前は知らなすぎる。」

「なら、見せてやるのではなく、教えてやる。」


 ルシアは瞬いた。


「教えてくれるの?」


「覗き見の罰だ。」

「それと、これからソータのそばにいたいなら、知らないままでは駄目だからだ。」


「男が喜ぶこと?」


 ルシアが素直に聞く。

 ソータは顔を覆いそうになったが、オルドアイが先に答えた。


「それだけではない。」

「男を喜ばせることだけ覚えるな。」

「相手を見ることだ。」

「どこで息を詰めるか。」

「何を嫌がらないか。」

「何を待っているか。」

「強く触れる時も、優しく触れる時も、相手を置き去りにしないことだ。」


 ルシアは真剣に聞いていた。

 まるで森で足跡の読み方を教わっていた時と同じ顔だった。

 オルドアイは頬を赤くしながらも、言葉を続ける。


「そして、自分のことも隠しすぎるな。」

「怖いなら怖いと言え。」

「嬉しいなら嬉しいと言え。」

「分からないなら聞け。」

「ソータは……聞けば待つ男だ。」


 ソータはオルドアイを見た。

 その言葉が嬉しかった。

 信じられている。

 それは、欲を向けられるよりもずっと重い。


 ルシアはゆっくり頷いた。


「分かったわ。」

「では、今、私はソータに触れたい。」

「嬉しいけれど、少し怖い。」

「どうすればいいか分からないから、教えてほしい。」


 その言葉に、ソータの中の熱がまた強く揺れた。

 だが、今度は暴れない。

 熱に輪郭ができる。

 ルシアが選んでくれた。

 オルドアイが見ている。

 なら、乱暴に奪う必要はない。

 強くても、乱さずに抱けるはずだ。


 ソータはルシアの前へ行った。

 彼女は逃げない。

 ただ、羽が小さく震えている。

 ソータはその震えを見て、声を落とした。


「ルシア。」

「手を出して。」


 ルシアは両手を差し出した。

 ソータはその手を取り、自分の胸へ当てた。

 鼓動が速い。

 ルシアの瞳が揺れる。


「速いわ。」


「君のせいだ。」


 ルシアの頬が一気に赤くなった。


「私のせい?」


「ああ。」

「君が怖がりながらも逃げないから。」

「俺の前で、ちゃんと選ぼうとしてくれるから。」

「そういう君が、綺麗だから。」


 ルシアは声を失った。

 湯気の中で、薄紫の瞳が潤む。

 ソータはそのまま彼女の腰を抱き寄せた。

 少し強く。

 けれど、羽には触れないように。

 ルシアの体が近づく。

 夜の城で抱きしめた時より、ずっと意識してしまう距離だった。


「ソータ。」


「嫌なら止める。」


「嫌じゃない。」

「でも、胸が忙しい。」


「それは俺もだ。」


 ルシアは小さく笑った。

 その笑いが消える前に、ソータは彼女に口づけた。

 最初は確かめるように。

 次は少し深く。

 ルシアはどう返せばよいか分からず、息を詰める。

 オルドアイが横から静かに言った。


「息を止めすぎるな。」

「苦しくなる。」


 ルシアは唇を離し、小さく息を吸った。


「こう?」


「そうだ。」

「肩に力を入れすぎるな。」


「難しいわ。」


「慣れる。」


 ソータは思わず笑った。

 ルシアも笑った。

 その笑いの隙間で、緊張が少しほどける。

 今度はルシアの方から、そっとソータの首に腕を回した。

 羽が揺れる。

 ソータは彼女を支え、もう一度口づけた。


 湯気が三人を包んでいく。

 衣擦れの音が、湯の音に紛れる。

 肌に触れる空気が熱い。

 だが、その熱はただの欲だけではなかった。

 オルドアイの手がソータの背に触れる。

 ルシアの指が迷いながら胸元を掴む。

 ソータは二人を順に見て、どちらかを置いていかないように触れた。

 時に強く抱き寄せ、時に額を寄せ、時に言葉で確かめた。


「オルドアイ。」

「こっちへ。」


「命令か。」


「今は、お願いより命令っぽくなる。」


「自覚があるならよい。」


 そう言いながら、オルドアイは近づいた。

 ソータが腕を伸ばし、彼女の腰を引き寄せる。

 オルドアイは驚き、次に熱い息を吐いた。

 戦士としてなら簡単にいなせる力だ。

 だが、恋人として向けられた強引さには、別の弱さが生まれる。

 彼女はそれを悔しそうに受け入れた。


「本当に、今日は男の顔をするな。」


「嫌か。」


「だから、嫌ではないと言っている。」


「なら、もっとこっちを見てくれ。」


 オルドアイは赤くなった。

 ルシアが隣で真剣に見ている。


「これが、男が喜ぶこと?」


「今はソータが喜んでいるだけではない。」


 オルドアイは少し息を乱しながら言った。


「私も……嬉しい。」

「だから、相手だけではない。」

「自分も一緒に落ちていくものだ。」


「落ちるの?」


 ルシアが尋ねる。


「怖い落ち方ではない。」

「受け止めてもらえるなら。」


 ソータはその言葉に応えるように、オルドアイを抱く腕へ力を込めた。


「受け止める。」


「言ったな。」


「ああ。」


「では、ルシアもだ。」

「受け止めてやれ。」


 ルシアの目が揺れた。

 自分の番だと分かったのだ。

 ソータはオルドアイを抱いたまま、もう片方の手でルシアの手を取った。

 二人の間に、紫の羽がそっと近づく。

 ルシアは怖がっていた。

 けれど、逃げなかった。


「ルシア。」

「怖いなら、ここで止まってもいい。」


「止まりたくない。」

「私は、ソータのことをもっと知りたい。」

「オルドアイが知っているソータも、ミレイユが知っているソータも、少しずつ知りたい。」

「でも、私のソータもほしい。」


 その言葉は、胸の奥から出たものだった。

 オルドアイが横で小さく息を吐く。

 嫉妬がないわけではない。

 だが、今のルシアの言葉は奪うためのものではなかった。

 並びたいという願いだった。


「なら、覚えろ。」

「欲しがるだけではなく、渡すこともだ。」


「渡す?」


「心も、体も、言葉もだ。」

「ただし、全部一度に渡そうとするな。」

「壊れる。」


「私は壊れたくないわ。」

「ソータも壊したくない。」


「なら、少しずつだ。」


 ルシアは頷いた。

 ソータは彼女の髪に触れた。

 薄紫の髪は湯気を含んで柔らかい。

 その髪を指で梳くと、ルシアが小さく震えた。


「それ、好き。」


「これが?」


「ええ。」

「頭の奥が静かになる。」


「じゃあ、覚えておく。」


「覚えていて。」


 ソータは頷き、ルシアを抱いた。

 強く。

 だが、潰さないように。

 ルシアの頬がソータの胸に触れる。

 彼女は鼓動を聞きながら、ゆっくり目を閉じた。

 オルドアイの手が、そんなルシアの背にそっと触れる。

 ルシアは驚いて目を開けた。


「オルドアイ?」


「震えている。」


「ええ。」


「なら、支える。」


「怒っているのに?」


「怒っていても、支える時は支える。」


 ルシアの瞳に涙が浮かんだ。


「本当にお姉さんみたい。」


「今それを言うな。」


「でも、ありがとう。」


 オルドアイは何も言わず、ルシアの背を支えた。

 その手があることで、ルシアの震えは少しずつ落ち着いていく。

 ソータは二人を見た。

 自分の腕の中で、緑と紫が同じ熱の中にいる。

 奇跡のようで、危うい。

 だからこそ、壊してはいけないと思った。


 それでも、夜は進んだ。

 湯の熱は肌を緩め、言葉は少しずつ低く甘くなり、三人の距離は戻れないところまで近づいていく。

 ソータの《男気》は、最初のように無差別に溢れる熱ではなくなっていた。

 向かう場所を見つけた熱だった。

 オルドアイに向かい、ルシアに向かい、二人を傷つけないように、それでも強く抱き寄せる熱だった。


 ソータは時々、強引にオルドアイの顎を向けさせた。

 オルドアイはそのたびに目を鋭くしたが、最後には唇を受け入れた。

 悔しそうに、嬉しそうに。

 ルシアはその様子を見て、同じようにされる番を待つようになった。

 待つだけでは足りなくなり、自分からソータの袖を引いた。

 その仕草があまりにも可愛くて、ソータは思わず彼女を引き寄せた。


「ソータ。」

「私にも。」


「分かってる。」


 低い声に、ルシアの体が小さく震える。

 ソータは彼女へ口づけた。

 ルシアは今度は息を忘れない。

 オルドアイに教わった通り、力を抜き、自分の手でソータの肩を掴む。

 ぎこちなく、けれど必死に応えようとする。

 その一つ一つが、ソータの胸をさらに熱くした。


 やがて、湯から上がる頃には、三人とも言葉が少なくなっていた。

 のぼせないように冷たい水を飲み、用意された布で体を包む。

 だが、そこで終わりにはならなかった。

 湯屋の奥には休むための小部屋があり、ガルナが気を利かせて厚い布と灯りを用意していた。

 もちろん、ガルナは余計なことは言わなかった。

 ただ、三人が静かに入れるよう、外の人払いだけをしてくれていた。


 小部屋の灯りは淡かった。

 湯気は少なく、代わりに木の香りがした。

 外の夜は深い。

 扉の向こうには砦があり、さらに遠くには森がある。

 けれど、その部屋の中だけは、三人の呼吸だけが世界のようだった。


 ソータはそこで、もう一度二人へ確認した。


「ここから先は、もっと戻れない。」

「本当にいいのか。」


 オルドアイは迷わなかった。


「私はもう、お前と戻れない夜を越えている。」

「今さらだ。」


 その言葉には、少し誇らしさがあった。

 ルシアは胸の前で手を握った。

 薄紫の瞳が揺れている。


「私は初めてよ。」

「怖いわ。」

「でも、ソータがいい。」

「オルドアイがいてくれるなら、もっと怖くない。」


 オルドアイは驚いたようにルシアを見た。

 ルシアは真剣だった。

 ソータだけではなく、オルドアイの存在にも支えられている。

 それを隠さなかった。


「……なら、私が見ている。」

「危なくなったら止める。」

「分からないことは聞け。」


「ええ。」


 ソータはルシアの手を取った。

 その指先は少し冷たく、少し震えていた。

 彼はそれを両手で包む。


「急がない。」

「でも、逃げない。」


「私も。」


 ルシアはそう答えた。

 そして、自分から一歩近づいた。


 そこから先の夜は、湯気よりも柔らかく、灯火よりも熱かった。

 ソータは男らしい強さで二人を抱いた。

 時に迷いを断つように引き寄せ、時に名前を呼び、時に額や唇へ確かめるように触れた。

 オルドアイはその強さに抗うようでいて、やがて自分から熱を返した。

 ルシアは戸惑い、何度も息を乱し、何度もオルドアイへ視線で助けを求めた。

 そのたびにオルドアイは短く教え、時には手を添え、時には「ソータを見ろ」と言った。


「怖い時ほど、目を逸らすな。」

「ソータは、お前が見れば止まれる。」

「だから見ろ。」


 ルシアは涙を浮かべながらソータを見た。

 ソータも彼女を見た。

 その視線が重なった時、ルシアの中で何かがほどけた。

 吸血鬼族の姫としてではなく、夜の城の主としてでもなく、ただ恋を知り始めた女として、彼女はソータへ身を委ねた。


「ソータ。」

「私、あなたが好き。」


「俺も好きだ。」

「ルシア。」


 その言葉を受けて、ルシアは静かに夜を越えた。

 叫ぶような激しさではなく、長く閉じられていた扉が内側から開くような夜だった。

 痛みも不安もあった。

 だが、それ以上に、自分で選んだ相手に受け止められる温かさがあった。

 オルドアイの手がそばにあり、ソータの腕が離れない。

 ルシアは涙をこぼしながら、けれど幸せそうに笑った。


「私、ソータのものになったの?」


 その問いに、ソータはすぐ首を横に振った。


「違う。」

「君は君のままだ。」

「でも、俺は君を大事にする。」


 ルシアは少し考え、それから頷いた。


「その方がいいわ。」

「ものではなく、大事にされたい。」


「そうしろ。」


 オルドアイが言った。

 声は少し乱れていたが、強さは残っている。


「所有されるな。」

「選ばれろ。」

「そして、お前も選べ。」


 ルシアはオルドアイを見た。


「オルドアイ。」

「ありがとう。」


「礼は後でいい。」

「今は、ちゃんとソータを見ていろ。」


「ええ。」


 夜はさらに深くなった。

 三人は互いの名を呼び、何度も確かめ合った。

 ソータの中の荒い熱は、二人に受け止められ、少しずつ穏やかな力へ変わっていった。

 無差別に外へ漏れていた《男気》は、抱きしめる腕の中に収まり、守るための熱に戻っていく。

 オルドアイはその変化を肌で感じ、満足そうに目を細めた。

 ルシアは疲れきりながらも、初めて知った温もりを離すまいとソータの胸に頬を寄せた。


 やがて、三人は重なり合うように休んだ。

 湯上がりの肌はまだ温かく、外の夜風は小さな窓を揺らしている。

 オルドアイはソータの腕の中で、ルシアをちらりと見た。

 紫の羽は柔らかく畳まれ、薄紫の髪が頬にかかっている。

 その寝顔は、昨日砦へ飛んできた無謀な吸血鬼姫ではなく、初めて誰かの腕の中で眠ることを覚えた女のものだった。


「手のかかる妹だ。」


 オルドアイが小さく呟いた。


 ルシアは眠りかけながら、ぼんやり返した。


「お姉さん……。」


「寝言でも言うな。」


 そう言いながら、オルドアイはルシアの羽に布がかからないよう、少しだけ直してやった。

 ソータはそれを見て、胸が温かくなった。


「オルドアイ。」


「何だ。」


「ありがとう。」


「何度も礼を言うな。」

「私は私のためにもした。」


「うん。」


「それに……。」


 オルドアイは少し顔を赤くした。


「悪くなかった。」


 ソータは笑いそうになったが、笑わなかった。

 代わりに、彼女を強く抱き寄せる。

 オルドアイは文句を言わず、その胸に収まった。


◆◇◆


 その頃、湯屋の外にいるはずのアルベールは、すでに北の砦にはいなかった。

 もちろん、誰も彼が出ていくところを見ていない。

 見張りも気づかなかった。

 霧の森にも足跡はない。

 湯屋の入口付近には、ただ一枚の小さな紙が残されていた。


 皆様へ。

 状況が一定の安定に至ったものと判断し、私はミレイユ様のもとへ戻ります。

 ソータ様におかれましては、節度と水分補給をお忘れなきよう。

 オルドアイ様、ルシア様におかれましては、明朝の体調確認をお願いいたします。

 なお、本件につきましては、必要最小限の範囲でミレイユ様へご報告いたします。

 アルベール。


 その紙を最初に見つけたのはガルナだった。

 彼女は内容を読み、しばらく目を閉じた。

 そして、紙をそっと畳む。


「必要最小限、とはどの範囲なのでしょうね。」


 誰も答えられなかった。

 バルクは近くで落ち着かない顔をしていたが、ガルナに見られてすぐ背筋を伸ばした。


「俺は何も聞いていない。」


「聞いていなくても、顔に出ています。」


「すまん。」


「謝るなら静かに見張りに戻りなさい。」


「はい。」


 ガルナは湯屋の扉を見た。

 中からはもう声は聞こえない。

 ただ、湯屋の奥に穏やかな気配があるだけだった。

 彼女は小さく息を吐き、外の見張りへ人払いを続けるよう指示した。


 北の砦の夜は、何事もなかったかのように更けていく。

 だが、その夜の奥で、紫の姫はソータと確かに結ばれた。

 緑の姫はそれを見届け、支え、そして自分もまた愛された。

 ソータの新しい力は暴走ではなく、二人の腕の中でようやく形を得た。


 そして老執事は、いつものように何もかも見透かした顔で、すでに紅い髪紐の令嬢のもとへ向かっていた。

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