第145話:『男気』という荷札
グランデリアから北の砦までは、急いでも三日はかかる。
王都からグランデリアへ戻り、商会の家と支部を確認し、そこから北方へ向かうなら、さらに段取りがいる。
ミレイユは無駄を嫌う女だが、無理な行軍で護衛や荷を乱すほど愚かではない。
それに、今回の馬車にはただの私物ではなく、夜の城に必要な遮光布、薬草、補修材、食料、本、記録帳、契約書の雛形まで積まれている。
急げばよいという荷ではなかった。
だからこそ、アルベールは先に知らせに行くことになった。
「アルベール。」
「はい、ミレイユ様。」
「あなたは先に北の砦へ行きなさい。」
「私がグランデリアへ寄り、そこから三日ほどで北へ向かうこと。」
「必要物資を持っていくこと。」
「ルシアには、勝手にこれ以上動かないよう伝えること。」
「オルドアイには、私が礼を言うつもりでいること。」
「ソータには……。」
馬車の中で、ミレイユはそこで一度言葉を切った。
アルベールは静かに続きを待つ。
紅い髪紐が窓から差す朝の光を受け、ほんのわずかに揺れた。
「ソータには、逃げないように言いなさい。」
「承知いたしました、ミレイユ様。」
「それから、余計な香や薬を使わない。」
「心得ております。」
「本当に?」
「はい。」
「あなたの心得ておりますは、時々信用できないのよ。」
「恐れ入ります。」
「褒めてないわ。」
ミレイユは少しだけ目を細めた。
だが、アルベールを止める選択肢はない。
この老執事なら、普通の道を三日かけて行く必要はない。
それを合理的だと思ってしまう自分もどうかしていると、ミレイユは内心で少しだけ思った。
「先に行って、場を見ておきなさい。」
「ただし、私が着く前に話を勝手にまとめないこと。」
「私が直接見るわ。」
「ルシアも、オルドアイも、ソータも。」
「かしこまりました。」
「あと、ソータが妙な方向に流されていたら止めなさい。」
アルベールは一瞬だけ沈黙した。
「……承知いたしました。」
「また間があったわね。」
「ソータ様の状況確認項目が増えましたので。」
「嫌な言い方をしないで。」
アルベールは一礼した。
次の瞬間には、馬車の扉が静かに開き、彼は外へ降りていた。
御者が驚く間もなく、アルベールの姿は街道脇の木陰へすっと消える。
足音はなかった。
風もほとんど動かなかった。
ミレイユは窓からそれを見送り、深く息を吐いた。
(本当に、どうやって移動しているのかしら。)
(問い詰めても、少々近道を、で済ませるのでしょうね。)
(でも、今はそれでいいわ。)
(先に知らせが届けば、ソータも少しは覚悟を決めるはず。)
ミレイユは膝の上の帳面を開いた。
北の砦へ持っていく荷の確認。
グランデリアで追加する物資。
男たちの村への補給品。
夜の城に渡す仮支援品。
やることは多い。
だが、筆を持つ手はいつもより少し強かった。
(待っていなさい、ソータ。)
(今回は私から行くわ。)
(逃げられると思わないことね。)
◆◇◆
一方その頃、北の砦では不思議な日常が始まっていた。
ルシアが砦に滞在して二日目。
最初の緊張はまだ残っている。
吸血鬼族の姫が砦の中を歩けば、アマゾネスたちの視線は自然と集まる。
だが、それは昨夜のような刺す視線ばかりではなくなっていた。
好奇心。
警戒。
少しの笑い。
そして、意外にも面倒を見たくなる気配。
ルシアは、どうにもそういう反応を引き出す女だった。
朝になると、オルドアイはルシアを伴って狩りに出ると言い出した。
ソータは耳を疑った。
「狩り?」
「ああ。」
「ルシアも?」
「ええ。」
ルシアは黒い外套をまとい、羽を小さく畳みながら、なぜか得意そうに頷いた。
羽の傷はまだ完全ではないため長距離飛行は禁止されている。
だが、歩きながら近場の森へ出る程度なら問題ないと、アルベールの別紙にも書かれていた。
もちろん、それは「安静を前提とした短時間の外出」であって、「オルドアイと一緒に狩りへ行く」という意味ではなかったはずだ。
「大丈夫なのか?」
ソータが聞くと、オルドアイは当然のように答えた。
「私が見る。」
「そういう意味じゃなくて。」
「砦の近場だ。」
「危ない獣が出れば私が仕留める。」
「ルシアには森を見ることを覚えさせる。」
「森を見る?」
ルシアが目を輝かせた。
「ええ。」
「オルドアイが言ったの。」
「狩りは殺すことだけではなく、足跡を見ること、匂いを読むこと、風の向きを知ることだと。」
「私は飛べば上から見えると思っていたけれど、歩く森には別の見え方があるらしいわ。」
「本当に楽しそうだな。」
「楽しいわ。」
「オルドアイは怖いけれど、たくさん教えてくれるもの。」
「怖いは余計だ。」
オルドアイが言う。
だが、完全に嫌そうではなかった。
むしろ、ルシアが自分の説明を真剣に聞くことを少し楽しんでいるように見える。
彼女はルシアを許したわけではない。
怒りも残っている。
だが、面倒を見る対象として受け入れ始めているのは確かだった。
ガルナが弁当代わりの包みを持ってきた。
「無理をしないでくださいね。」
「特にルシアさん。」
「さん?」
ルシアは嬉しそうにした。
「今、さんがついたわ。」
「そこに反応するの?」
ガルナは少し笑う。
「昨日よりは知っている相手になりましたから。」
「嬉しいわ。」
「その代わり、勝手に飛ばない。」
「傷が痛んだらすぐ言う。」
「喉が渇いたら飲む。」
「分かりました?」
「分かったわ。」
「ガルナも少しお姉さんみたいね。」
ガルナは一瞬固まり、次に困ったように笑った。
「お姉さんが増えるのですね。」
「ええ。」
「北の砦にはお姉さんが多いわ。」
オルドアイが低く言う。
「私は違う。」
「オルドアイは一番お姉さん。」
「違うと言っている。」
ルシアはくすくす笑い、オルドアイについて中庭を出ていった。
アマゾネスたち数人も同行する。
その後ろ姿を見送りながら、ソータは不思議な気持ちになった。
数日前には考えられなかった光景だった。
紫の羽の姫と、緑の組み紐の姫が並んで森へ入っていく。
怒りと謝罪の間に、もう少し別のものが芽生え始めている。
(これは良いことだ。)
(良いことなんだけど……。)
ソータは胸の奥に、妙な落ち着かなさを感じた。
オルドアイとルシアが一緒に出かける。
それ自体は嬉しい。
だが、二人がいない砦に自分だけ残されると、何かが内側で空回りし始めるような感覚があった。
気のせいだと思った。
最初は。
◆◇◆
昼前、ソータは砦の補給倉庫で荷の整理を手伝っていた。
男たちの村へ送る補修材。
北の砦で使う薬草。
狩りで使う縄。
ソータの得意分野だった。
仕分けをし、重さを確認し、使いやすい位置へ置く。
そうしている間は、余計なことを考えなくて済む。
だが、その日はなぜか周囲のアマゾネスたちが妙に近かった。
いや、近いのは彼女たちの方ではない。
ソータ自身が、いつの間にか距離を詰めていた。
「その木箱、持とうか。」
「あ、ありがとう、ソータ。」
「無理するなよ。」
「君の腕は剣を振るための腕だろ。」
「荷で痛めるのはもったいない。」
言ってから、ソータは固まった。
相手のアマゾネスの頬が少し赤くなる。
隣の女戦士がにやりと笑った。
「おや、ソータ。」
「今日は随分と口が回るな。」
「え?」
「私の縄も見てくれるか?」
「結びが緩い気がしてな。」
「ああ、もちろん。」
「縄は強く結べばいいってものじゃない。」
「ほどく時のことまで考えて結ぶと、扱う人が楽になる。」
ソータは手早く縄を結び直した。
その動きに、女戦士たちが感心したように見ている。
いつもならただの作業だ。
しかし今日のソータは、なぜか相手の目を見て、少し低めの声で言ってしまう。
「こうすると、君の手でもすぐ外せる。」
「戦う時、余計な手間は減らしたいだろ。」
「……なるほど。」
また一人、女戦士の顔が赤い。
ソータは背中に汗を感じた。
(何だ?)
(俺、今何を言ってる?)
(いや、内容は普通だ。)
(普通だけど、言い方が何かおかしい。)
(何かこう、無駄に格好つけてないか?)
倉庫を出ると、今度は水場で桶を運んでいるアマゾネスに声をかけてしまった。
「重いだろ。」
「半分持つよ。」
「平気だ。」
「これくらい、いつも運んでいる。」
「強いのは分かる。」
「でも、強い人ほど休む時を間違えない方がいい。」
また言った。
ソータは自分の口を押さえたくなった。
相手は一瞬だけ目を丸くし、それから少し照れたように桶を渡してきた。
「では、半分だけ頼む。」
「ああ。」
桶を持ちながら、ソータは内心で叫んでいた。
(何なんだ、これは。)
(俺、そこらじゅうのアマゾネスを口説いてるみたいになってないか?)
(いや、口説いてるつもりはない。)
(でも、言い方が口説いてる。)
(まずい。)
(これは本当にまずい。)
その後も、妙な調子は続いた。
食堂で肉を切っている女に「刃物の扱いが綺麗だ」と言う。
見張り台から降りてきた女に「風を読む目がいい」と言う。
矢を束ねている若い戦士に「君の手は丁寧だな」と言う。
全部、本心ではあった。
だが、言い方がいちいち近い。
相手の顔を見すぎる。
声が低くなる。
相手が照れる。
周囲がざわつく。
そしてついに、ガルナに見つかった。
「ソータさん。」
「はい。」
ガルナの声は穏やかだった。
だが、目は笑っていなかった。
「今日はどうしたんですか。」
「どう、とは。」
「砦中の女性に、やたら優しく声をかけて回っているように見えます。」
「それは……。」
「荷の確認をしていて。」
「荷の確認で、手が綺麗だとか、強い人ほど休めだとか言います?」
「言いましたね。」
「言いましたね、ではなく。」
ガルナは腕を組んだ。
バルクが少し後ろで、不安そうにこちらを見ている。
いや、不安そうなのはソータではなく、ガルナの機嫌の方を見ているのだろう。
「ソータさん。」
「オルドアイ様が戻る前に、自分で原因を確認した方がいいと思います。」
「はい。」
「ルシアさんもいるのですから。」
「はい。」
「下手をすると、砦の空気が大変面倒になります。」
「本当にそう思います。」
ソータは素直に頷いた。
ガルナは少し呆れながらも、心配そうに見た。
「体調がおかしいのですか?」
「たぶん、体調というか……。」
「ちょっと確認します。」
ソータは人の少ない倉庫裏へ向かった。
久しぶりに、自分の内側へ意識を向ける。
ステータス画面。
最近は忙しすぎて、確認する余裕がなかった。
大教会の戦い、ルシアの城、北の砦、謝罪と説教。
自分の状態を見ている場合ではなかったのだ。
視界の端に、淡い文字が浮かび上がる。
いつもの項目。
《神速積載庫》。
《馬力増強》。
《車体爆裂突進》。
そして、その下に見慣れない文字が増えていた。
《男気》。
ソータは固まった。
(男気?)
(何だそれ。)
(いつ増えた?)
(いや、名前だけならいい。)
(問題は効果だ。)
意識を向けると、説明が浮かぶ。
《男気》
男としての威厳、胆力、魅力、押し出しが増す。
守るべき相手や好意を抱く相手の前で効果が高まる。
欲求や鬱屈が溜まると、制御しきれず周囲へ溢れやすくなる。
未解消状態が続くほど、言動が過剰に男らしくなる場合がある。
ソータは無言で空を見上げた。
(やばい。)
(これ、やばいやつだ。)
(男らしくなるのは悪くない。)
(でも、制御しきれず周囲へ溢れるって何だ。)
(言動が過剰に男らしくなる場合があるって、まさに今じゃないか。)
さらに小さな注記があった。
一定期間、親密な接触や情緒的充足が不足した場合、欲求不満として蓄積される。
成人男性において自然な反応であるが、当該スキルにより外部表現が増幅される。
ソータは頭を抱えた。
(自然な反応って言われても困る。)
(いや、確かに成年男子ならそういうものかもしれない。)
(でもスキルで増幅するな。)
(俺は砦中のアマゾネスを口説きたいわけじゃない。)
(このままだと本当にまずい。)
(オルドアイに見つかったら死ぬ。)
(ルシアに見つかっても面倒なことになる。)
(ミレイユに聞かれたら、帰る前に終わる。)
ソータは深呼吸した。
原因は分かった。
ではどうする。
欲求不満。
親密な接触や情緒的充足の不足。
つまり、安心できる相手とちゃんと向き合えということなのだろう。
だが、それをどう解決するかが問題だった。
砦の中で下手なことはできない。
いや、するつもりもない。
ただ、この妙な男気の漏れを止めなければならない。
その時、森の方から笑い声が聞こえた。
オルドアイとルシアが戻ってきたのだ。
狩りの成果なのか、小さな獣と山菜らしいものを持っている。
ルシアは疲れているが楽しそうで、オルドアイは少し得意げだった。
二人の間には、昨日よりも明らかに柔らかい空気がある。
ソータはその二人を見た瞬間、胸の奥で別の熱が動くのを感じた。
オルドアイ。
ルシア。
どちらにも、ちゃんと向き合わなければならない。
そして今の自分は、どう考えても制御が怪しい。
(これは……湯浴みだ。)
(いや、何でそうなる。)
(でも、落ち着ける場所がいる。)
(ちゃんと話せる場所。)
(触れてもいいか聞いて、変なスキルに流されないよう確認できる場所。)
(湯で体を温めて、頭を冷やす。)
(いや、頭を冷やすなら水の方がいいけど。)
(とにかく、このまま広間にいるのは駄目だ。)
ソータは覚悟を決めた。
◆◇◆
オルドアイとルシアが中庭に戻ると、ソータはすぐに声をかけた。
「オルドアイ。」
「ルシア。」
「少し話がある。」
オルドアイは獲物を肩から下ろし、眉を上げた。
「何だ。」
「また何か荷が増えたのか。」
「ある意味、増えた。」
「嫌な言い方だな。」
ルシアはソータの顔を見て首を傾げた。
「ソータ、少し変よ。」
「目が熱いわ。」
「分かる?」
「分かるわ。」
「夜の城で看病していた時とも、湯浴みの時とも少し違う。」
オルドアイの視線が鋭くなった。
「湯浴み?」
ソータは内心で失敗したと思った。
ルシアは悪気なく言う。
それは分かっていたが、今この場で出す単語ではなかった。
「その話も含めて、ちゃんと説明する。」
「だから……。」
「二人とも、一緒に湯浴みに来てくれないか。」
中庭の空気が止まった。
近くにいたアマゾネスが数人、完全に動きを止めた。
バルクは水を飲みかけてむせた。
ガルナは額に手を当てた。
オルドアイはゆっくり言った。
「ソータ。」
「今、何と言った?」
「一緒に湯浴みに来てほしい。」
「私と、ルシアが?」
「うん。」
「お前も?」
「うん。」
ルシアは少し目を輝かせた。
「三人で湯浴み?」
「そうなる。」
「それは、かなり進んでいるわ。」
「変な方向に進めたいわけじゃない。」
ソータは慌てて言った。
「俺の様子がおかしいんだ。」
「変なスキルが増えてた。」
「たぶん、欲求不満とか、そういうのが溜まると男気が漏れるらしい。」
「そのせいで、砦の女たちに妙な言い方をしてしまってる。」
「だから、このままだとまずい。」
「二人にちゃんと話して、落ち着きたい。」
「変なことをしたいんじゃなくて、ちゃんと制御したい。」
オルドアイはしばらく無言だった。
ルシアは真剣に聞いている。
周囲は聞いてはいけない話を聞いてしまった顔をしている。
ガルナがそっと周囲の者たちを下がらせ始めた。
できる女だった。
「男気。」
オルドアイが低く繰り返した。
「そんなスキルがあるのか。」
「あった。」
「欲求不満で漏れるのか。」
「説明にはそう書いてあった。」
「厄介だな。」
「本当に。」
ルシアは少し考え込んだ。
「つまり、ソータは今、男として溢れているの?」
「言い方。」
「違うの?」
「大体合ってるのが嫌だ。」
ルシアは頷いた。
「私は嫌ではないわ。」
「ソータが私を見てくれるのは嬉しい。」
「でも、砦中の女を見るのは少し嫌。」
オルドアイも腕を組む。
「私も嫌だ。」
「だから制御する必要があるという点は分かる。」
「湯浴みで制御できるのか。」
オルドアイの声はまだ疑っている。
ソータは正直に答えた。
「分からない。」
「でも、二人とちゃんと向き合って話す時間がほしい。」
「それに、広間や中庭だと、また変なことを言いそうで怖い。」
「湯浴みなら人払いできるし、落ち着いて話せると思った。」
「湯浴みは落ち着く場所なのか?」
オルドアイが問う。
ルシアが小さく言う。
「場合によるわ。」
「お前は黙っていろ、ルシア。」
「はい。」
ルシアは素直に黙った。
しかし、少し嬉しそうだった。
オルドアイはそれを見て、ため息をつく。
「よく分からん。」
「だが、放っておいて砦中に口説き文句を撒かれるよりはましだ。」
「本当にすみません。」
「謝る相手が多すぎる。」
「はい。」
「ルシアはどうする。」
オルドアイが聞くと、ルシアは即答した。
「行くわ。」
「よく分からないけれど、嫌ではないもの。」
「それに、ソータが困っているなら一緒にいたい。」
オルドアイは少しだけルシアを見た。
その答えに、何か思うところがあったようだった。
そして、ソータへ向き直る。
「分かった。」
「ただし、条件がある。」
「何でも。」
「香は使わない。」
「薬も使わない。」
「湯浴みの場に誰も近づけない。」
「それから、変なスキルのせいでおかしくなりそうなら、すぐ言え。」
「我慢して暴走される方が面倒だ。」
「分かった。」
「ルシアもだ。」
「勝手に煽るな。」
「煽るとは何?」
「ソータを余計に熱くするなという意味だ。」
ルシアは真剣に考えた。
「難しいわ。」
「私は何もしなくてもソータが熱くなる時があるもの。」
オルドアイが固まった。
ソータは顔を覆った。
「ルシア。」
「今はその説明を深めないでくれ。」
「分かったわ。」
「深めない。」
オルドアイは低く言った。
「本当に大丈夫なのか、これは。」
「俺が一番不安だ。」
ソータが正直に言うと、オルドアイは少しだけ呆れたように笑った。
「なら、見張ってやる。」
その言葉は乱暴だったが、どこか優しかった。
◆◇◆
湯浴みの支度は、砦の奥にある湯屋で整えられることになった。
北の砦には、戦士たちが汗と泥を落とすための大きな浴場がある。
ルシアの城のような黒石と紫灯の幻想的な浴場ではない。
木と石で作られた実用的な湯屋で、湯気は熱く、床は少し粗く、壁には乾いた布や桶が並んでいる。
それでも、広さは十分だった。
三人で入っても、窮屈ではない。
ガルナが手早く準備を進めていた。
彼女は事情を聞いたわけではない。
だが、聞かなくても何となく察している顔だった。
「香はなし。」
「薬湯もなし。」
「普通のお湯。」
「冷たい水も用意しておきます。」
「のぼせそうになったらすぐ出てください。」
「ありがとう、ガルナ。」
ソータが礼を言うと、ガルナはじっと見た。
「ソータさん。」
「はい。」
「本当に、ちゃんとしてくださいね。」
「はい。」
「オルドアイ様もルシアさんも、あなたを信じて来るのですから。」
その言葉は重かった。
ソータは真剣に頷いた。
「分かってる。」
「ならいいです。」
ガルナは少しだけ表情を緩めた。
そして、ルシアへ向く。
「ルシアさん。」
「羽は濡らしすぎないように。」
「痛んだらすぐ言ってください。」
「分かったわ。」
「ガルナも本当にお姉さんみたい。」
「私はお姉さんではありません。」
「北の砦の人はみんなそう言うわ。」
「それは、あなたが誰にでも言うからです。」
ルシアは小さく笑った。
オルドアイは腕を組んでその様子を見ていた。
「支度ができたなら入るぞ。」
「はい。」
ソータは頷いた。
その瞬間、湯屋の入口近くに、何の前触れもなく声がした。
「皆様、お揃いでございますか。」
ソータの背筋が凍った。
振り返る。
そこに、アルベールが立っていた。
白髪の老執事。
黒い執事服。
白手袋。
朝に北の砦を出たはずの男が、まるで廊下の角から普通に現れたかのように、湯屋の入口にいた。
服は乱れていない。
靴も汚れていない。
夕方の光を背に、穏やかな顔で一礼している。
「アルベールさん!?」
ソータが叫ぶ。
「はい、ソータ様。」
「王都に帰ったんじゃないんですか!?」
「はい。」
「一度、王都に戻りました。」
「一度!?」
オルドアイも目を見開いた。
「戻って、また来たのか。」
「はい、オルドアイ様。」
「ミレイユ様より、先に北の砦へ知らせに向かうよう命じられましたので。」
ルシアがぱっと明るくなる。
「アルベール。」
「また近道?」
「少々。」
「すごいわ。」
「恐れ入ります、ルシア様。」
ソータは頭を抱えた。
最悪ではない。
いや、むしろ連絡としては重要だ。
だが、今このタイミングで現れるのはあまりにも悪い。
湯浴みの支度をしている。
しかも、自分の《男気》がどうとか、欲求不満がどうとか、非常に聞かれたくない話の直後である。
アルベールの視線が、湯屋、用意された桶、香のない棚、冷水、そして三人の顔を順番に見た。
「なるほど。」
ソータは嫌な予感がした。
「何がなるほどなんですか。」
「状況を概ね理解いたしました。」
「理解しなくていいです。」
「ソータ様。」
「もしや、何らかの新しいスキルが発現なさいましたか。」
ソータは沈黙した。
オルドアイとルシアが同時にソータを見る。
アルベールは穏やかなまま続ける。
「本日、砦内にてソータ様の言動に少々変化が見られたとのこと。」
「また、現在、湯浴みという形で情緒的安定を図ろうとしておられる。」
「加えて、香料を排除し、冷水を用意している。」
「以上から推測するに、身体能力系、もしくは魅力増幅系のスキルが関与している可能性がございます。」
「何で分かるんですか!」
「観察によるものです。」
「便利すぎる!」
アルベールは一礼した。
「ご安心くださいませ。」
「ミレイユ様には、必要な範囲でご報告いたします。」
「その必要な範囲が怖いんですよ!」
オルドアイが低く言う。
「ソータ。」
「この話、ミレイユにもすることになるな。」
「はい……。」
ルシアは少し不安そうに聞く。
「ミレイユは、男気にも怒る?」
アルベールが静かに答えた。
「おそらく、男気そのものではなく、男気によって生じた行動に対してご判断なさるかと。」
「難しいわ。」
「つまり、ソータが砦中の女を口説いていたら怒るということだ。」
オルドアイが言った。
「怒るわね。」
ルシアも頷いた。
「俺は口説いていたつもりは……。」
ソータが言いかけると、ガルナが遠くから静かに言った。
「つもりがなくても、言い方はだいぶ近かったです。」
逃げ場がなかった。
アルベールは白手袋を整えた。
「さて。」
「湯浴みの件でございますが、私は外で待機いたします。」
「香料、薬湯、活性系調合物の混入は一切ございません。」
「また、万一ソータ様の《男気》と思われる効果が過剰に高まった場合、鎮静用の冷水と説教を用意いたします。」
「説教?」
「はい。」
「ミレイユ様到着前の応急処置として。」
「やめてください。」
「では、湯浴み後に簡易報告書を。」
「もっとやめてください。」
オルドアイはため息をついた。
「もういい。」
「入るぞ。」
「ここまで来て引き返すと、余計に面倒だ。」
ルシアは少し嬉しそうに頷いた。
「ええ。」
「私はよく分からないけれど、ソータが困っているなら手伝うわ。」
「手伝い方を間違えるなよ。」
「頑張るわ。」
「頑張りすぎるな。」
「前にも言われたわ。」
ソータは深く息を吸った。
アルベールは外にいる。
香はない。
薬もない。
オルドアイとルシアは了承している。
自分は、自分のスキルを制御するために、ちゃんと向き合う。
それだけだ。
それだけのはずだ。
(本当に大丈夫か、これ。)
(いや、大丈夫にする。)
(逃げない。)
(男気だか何だか知らないけど、俺が俺を運べなくてどうする。)
湯屋の扉が開く。
湯気がふわりと流れ出た。
その向こうで、北の砦の湯が静かに揺れている。
そして扉の外には、老執事が涼しい顔で立っていた。
彼は一礼し、穏やかに言う。
「皆様。」
「どうぞ、ごゆっくり。」
「ただし、ほどほどに。」
ソータはその言葉に、心の底から不安を覚えながら、オルドアイとルシアと共に湯屋へ足を踏み入れた。




