第144話:紅い髪紐、北へ向かう
アルベールが王都のクラウゼン本家へ戻ったのは、その日の夕方だった。
正門の見張りは、最初その姿を見て言葉を失った。
白髪の老執事が、いつもの黒い執事服に白手袋という隙のない姿で、まるで近所の庭を散歩して戻ってきたかのように門前に立っていたからだ。
馬車はない。
馬もない。
旅装らしい乱れもない。
靴に泥もついていない。
朝まで北方にいた者の姿ではなかった。
「アルベール様……で、ございますよね?」
門番の若い男が、恐る恐る言った。
「はい。」
「ミレイユ様はご在宅でございますか。」
「は、はい。」
「お戻りをお待ちです。」
「では、取り次ぎをお願いいたします。」
アルベールは静かに一礼した。
その礼の角度も、声の落ち着きも、王都の夕暮れの中で少しも乱れていない。
門番は慌てて奥へ走った。
彼は後で仲間にこう語ることになる。
アルベール様は道から歩いてこられたのではなく、気づいた時には門の前におられた、と。
クラウゼン本家の使用人たちも、アルベールの帰還に少しだけざわめいた。
ミレイユの執事が戻った。
つまり、北方の件に何らかの進展があったということだ。
その空気は屋敷中へ広がり、やがて執務室の扉へ辿り着いた。
ミレイユはその時、王都の教会から届いた通達の写しと、香油商からの納品記録を見比べていた。
大神官ヨーダの名で夜の城への接触が禁じられたことは、すでに把握している。
だが、実際に何が起きたのかはまだ聞いていない。
噂では、吸血鬼族の側についた人間が非常識な大魔法で聖魔法をことごとく打ち破ったという。
その人間が誰かなど、考えるまでもなかった。
扉が叩かれる。
「ミレイユ様。」
「アルベール様がご帰還なさいました。」
ミレイユの手が止まった。
視線だけが扉へ向く。
紅い髪紐が、灯りの下で静かに揺れた。
「通しなさい。」
声は冷静だった。
だが、部屋の空気は一段階冷えた。
使用人は一礼して下がる。
少しして、アルベールが入室した。
「ただいま戻りました、ミレイユ様。」
アルベールは深く一礼した。
ミレイユは椅子に座ったまま、しばらく彼を見た。
「早かったわね。」
「急ぎました。」
「どうやって?」
「少々、近道を。」
「その少々を聞いているのだけれど。」
「ご説明いたしますと、夕食のお時間に差し障りがございます。」
「便利な逃げ方ね。」
「恐れ入ります。」
ミレイユは目を細めた。
いつものやり取りだった。
しかし、今日はいつもよりも多く聞くべきことがある。
「ソータは。」
「ご無事でございます。」
アルベールは即答した。
ミレイユの肩から、わずかに力が抜けた。
それは本人ですら気づかないほど小さな変化だったが、アルベールは当然のように気づいていた。
「今は北の砦におられます。」
「オルドアイ様と合流済みでございます。」
「ルシア様も、昨夜、北の砦へ直接ご挨拶と謝罪に向かわれました。」
ミレイユの表情が止まった。
「待ちなさい。」
「今、何と言ったの?」
「ルシア様も、昨夜、北の砦へ直接ご挨拶と謝罪に向かわれました。」
「誰の許可で?」
「恐らく、どなたの許可も得ておられません。」
「でしょうね。」
ミレイユは額に指を当てた。
吸血鬼族の姫が、自分の判断で北の砦へ飛んで行った。
傷が残っているはずなのに。
ソータにも知らせず。
アルベールにも知らせず。
オルドアイの前へ直接謝罪に行った。
「無謀ね。」
「はい。」
「でも、逃げなかったのね。」
「はい。」
その返事に、ミレイユは少し黙った。
腹立たしい。
危なっかしい。
非常識。
しかし、逃げなかったという一点だけは、認めざるを得ない。
「オルドアイは?」
「ルシア様を砦へお入れになりました。」
「昨夜は対話の場が設けられ、本日は砦内の案内もなさっておいででした。」
「警戒と怒りは残っておりますが、現時点で衝突には至っておりません。」
「……そう。」
ミレイユは低く息を吐いた。
自分がいない場所で、緑と紫が先に向き合った。
それは少し面白くない。
だが、同時にほっとしてもいる。
ソータが無事。
オルドアイも無事。
ルシアも斬られていない。
まずはそれで十分だと、理性は判断した。
だが、感情は別だった。
(私抜きで話を進めないでほしいのだけれど。)
(いいえ、状況としては進んでくれて助かった。)
(でも、私抜きで。)
(ソータもオルドアイもルシアも、どうしてこう予定外に動くの。)
(アルベールまで勝手に近道で帰ってくるし。)
ミレイユは手元の書類を揃えた。
その音は少しだけ強かった。
「大教会の件は?」
「大神官ヨーダ様より、夜の城への一切の接触を禁ずる通達が出たかと存じます。」
「出たわ。」
「あなたの仕業ね。」
「必要な対応を少々。」
「聖具を全て壊したと噂されているけれど。」
「全てではございません。」
「重要なものを中心に、再使用不能な程度へ。」
「それを全てと言うのよ。」
「恐れ入ります。」
ミレイユは深く息を吐いた。
叱るべきだ。
叱るべきなのだが、結果として夜の城は守られ、大教会は公式に手を引いた。
アルベールの行動がなければ、被害はもっと大きかっただろう。
だからこそ厄介だった。
この執事は、だいたい正しい結果を持って帰ってくる。
その過程が問題だとしても。
「あとで細かく聞くわ。」
「今は全体を報告しなさい。」
「承知いたしました、ミレイユ様。」
アルベールは静かに頷いた。
◆◇◆
報告は長くなった。
ルシアの城が白銀の聖結界に囲まれていたこと。
聖結界には隣国式の軍用封鎖術式が混ざっていたこと。
ルシアが羽を傷つけながら城門前で耐えていたこと。
チャールズとスケルトンたちも聖気で弱っていたこと。
ソータが《神速積載庫》から油布、盾、縄、遮光布を出し、即席の退避路を作ったこと。
スケルトンたちが盾を構えて滑って城内へ退避したこと。
その話では、ミレイユもさすがに一瞬だけ眉を動かした。
「骨が滑ったの?」
「はい。」
「大変整然と。」
「整然と滑る骨……。」
「チャールズ様の指揮が見事でございました。」
「そう。」
ミレイユはそれ以上聞かないことにした。
今は本筋から逸れる。
ただし、後で詳しく聞く価値はあるかもしれないと、商会令嬢としての妙な判断が頭の隅に残った。
アルベールは続けた。
自分が城の魔力線を利用して結界を逆流させたこと。
聖具を破壊し、教会の者たちへ説教したこと。
大神官ヨーダへ「次はない」と伝言したこと。
そして、ヨーダがその後、接触禁止の通達を出したこと。
ミレイユはその部分を聞きながら、指で机を軽く叩いた。
「ヨーダは、あなたを知っていたのね。」
「昔、少々教育を。」
「その少々の内容は?」
「基礎教育でございます。」
「泥水に落とした?」
アルベールは穏やかに微笑んだ。
「若い頃の記憶は、細部まで覚えておりません。」
「やったのね。」
「教育でございます。」
ミレイユは目を細める。
深追いはしなかった。
おそらく聞けば聞くほど頭が痛くなる。
「それで。」
「ルシアから私宛の手紙は?」
アルベールは自然な動きで懐から一通の手紙を取り出した。
紅い封蝋が押されている。
ミレイユは眉を上げた。
「なぜあなたが持っているの。」
「ソータ様のお荷物より、王都へ急ぐ必要があると判断し、預かってまいりました。」
「ソータは知っているの?」
「恐らく、まだ。」
「恐らく。」
「はい。」
「いつの間に抜き取ったの。」
「抜き取ったのではございません。」
「移送管理を最適化いたしました。」
「言い方を変えても同じよ。」
「恐れ入ります。」
ミレイユは手紙を受け取った。
封を見つめる。
不器用だが、丁寧な気配のある文字で「ミレイユへ」と書かれている。
呼び捨て。
その距離感も、少し面白くない。
けれど、ルシアが人間社会の礼法を完全に知らないことも分かっている。
封を開けた。
手紙には、こう書かれていた。
ミレイユへ。
私はソータを勝手に連れて行きました。
あなたが怒るのは当然です。
心配させて、ごめんなさい。
私はソータが笑うと嬉しくて、帰したくありませんでした。
でも、ソータはあなたに戻ると言いました。
私は、あなたがソータの帰る場所だと知りました。
その場所を壊したいわけではありません。
私はソータが好きです。
でも、奪うだけは嫌です。
だから、いつか話を聞いてください。
私は怖いけれど逃げません。
それから、人間の謝り方の本があれば、持ってきてほしいです。
ルシア。
ミレイユは読み終えた。
しばらく黙った。
もう一度読んだ。
そして、静かに手紙を机へ置いた。
「何なの、この子。」
「大変素直なお方でございます、ミレイユ様。」
「素直すぎるのよ。」
「はい。」
「ソータが笑うと嬉しくて、帰したくなかった。」
「私はソータが好きです。」
「あなたがソータの帰る場所だと知りました。」
「その場所を壊したいわけではありません。」
「……本当に全部書くのね。」
「おそらく、チャールズ様と私の添削後でございます。」
「これで添削後なの?」
「はい。」
ミレイユは額を押さえた。
怒る準備はしていた。
いや、今でも怒っている。
ソータを勝手に連れて行ったこと。
帰したくなかったこと。
好きだと真っ直ぐ書いてきたこと。
どれも腹立たしい。
だが、この手紙は嘘がない。
下手で、不器用で、あまりにも正面から来る。
だからこそ、単純に切り捨てられない。
「オルドアイにも同じような手紙を?」
「はい。」
「オルドアイ様宛のものは、ソータ様がお渡しになりました。」
「そして本人が先に飛んで行った。」
「はい。」
「順番が滅茶苦茶ね。」
「ルシア様は現在、順番を学んでおられます。」
「学んでいる途中で飛んで行ったのね。」
「はい。」
ミレイユは少しだけ笑いそうになり、すぐに顔を引き締めた。
笑ってはいけない。
笑うと負けた気がする。
だが、手紙の最後の「人間の謝り方の本があれば、持ってきてほしいです」がじわじわ効いてくる。
「お母様に見せたら、絶対に茶化されるわ。」
「おそらく。」
「見せない。」
「賢明かと。」
その時、扉の外から声がした。
「見せないの?」
ミレイユの肩がわずかに跳ねた。
扉の向こうに、母がいる。
「お母様。」
「入らないでください。」
「入っていないわ。」
「扉の外で、娘がまた面白そうな手紙を読んでいる気配を感じただけよ。」
「気配で分からないでください。」
「母ですもの。」
「理由になっていません。」
アルベールは静かに一礼した。
「奥様、ご無沙汰しております。」
「お帰りなさい、アルベール。」
「あなた、また普通ではない戻り方をしたでしょう。」
「少々、急ぎました。」
「ほら、急いだ人の靴ではないわ。」
「恐れ入ります。」
扉の向こうで、母が楽しそうに笑った。
「ミレイユ。」
「その紫の子に会いに行くのでしょう?」
ミレイユは返事をしなかった。
だが、返事をしないことが答えになった。
「顔が見えなくても分かるわ。」
「あなた、もう行く気になっているもの。」
「……準備をしてからです。」
「ええ。」
「あなたは準備をする子だものね。」
母の足音が遠ざかる。
ミレイユは扉を睨んだ。
「本当に、どうして分かるのかしら。」
「奥様でございますので。」
「あなたまで同じことを言わない。」
「失礼いたしました。」
◆◇◆
ミレイユは北の砦へ向かうと決めた。
ただし、感情だけで動くつもりはない。
行くなら、持っていくべきものがある。
ルシアの城は大教会の攻撃を受け、傷ついている。
黒薔薇の庭も、城門も、スケルトンたちも、完全には戻っていない。
ルシア自身も傷を負っている。
ならば、ただ説教に行くだけでは足りない。
「アルベール。」
「取り急ぎ、夜の城に必要なものは何。」
アルベールはすぐに答えた。
「まず、遮光布でございます。」
「聖気に傷ついた黒薔薇の庭、城門、ルシア様の休息場所に用います。」
「次に、薬草と軟膏。」
「人間用の薬そのものが効くわけではございませんが、傷口の保護と魔力流の安定には有効でございます。」
「油布、縄、釘、軽量の補修板。」
「城門と外壁の応急補修に役立ちます。」
「水袋も多めに。」
「聖粉や石灰の洗い流しに必要でございます。」
「食料は。」
「ソータ様用、ならびに今後の客人用に必要です。」
「ルシア様は食さずとも問題ございませんが、人間用の食事を学ぼうとしておいでです。」
「小麦粉、卵の保存品、干し肉、乾燥野菜、香草。」
「また、黒薔薇の蜜と混ぜても危険の少ない甘味の検証も必要でしょう。」
「黒薔薇の蜜は要注意ね。」
「はい。」
「摂取量、香り、加工法について記録が必要です。」
「香料は?」
「刺激の強いものは避けるべきです。」
「特に活性系、滋養系、夜露草との混合は厳禁でございます。」
ミレイユはじっとアルベールを見た。
「なぜそんなに具体的なの。」
「経験に基づく判断でございます。」
「その経験についても後で聞くわ。」
「承知しております、ミレイユ様。」
アルベールの声は少しも乱れない。
ミレイユは帳面を開き、必要物資を書き出していった。
遮光布。
補修材。
薬草。
軟膏。
水袋。
洗浄用の布。
食材。
人間用の簡単な食器。
記録帳。
契約書の雛形。
商会印。
謝罪の作法に関する初歩の本。
子供向けの人間社会の本。
家族の絵本。
街の暮らしを描いた本。
恋愛の本は、いったん保留にした。
(恋愛の本は駄目。)
(今渡したら、余計な方向へ学びそうだわ。)
(まず謝罪と生活と取引。)
(恋愛は後。)
(後にできるのかは分からないけれど。)
「人間の謝り方の本はあるかしら。」
「本家の書庫には、礼法書が何冊か。」
「初歩でいいわ。」
「相手が吸血鬼族でも読めるように、難しすぎないもの。」
「子供向けでも構わない。」
「では、若い商人向けの謝罪文例集もお持ちしましょう。」
「それが一番実用的ね。」
ミレイユは頷いた。
そして、ふと手を止める。
「オルドアイにも何か持っていくべきね。」
「北の砦へ、でございますか。」
「ええ。」
「ハーブ、塩、針、布、保存の利く甘味。」
「それから、訓練用の革紐も。」
「ルシアだけに荷を持っていくと、あの子は拗ねるわ。」
「オルドアイ様でございますか。」
「ええ。」
「大変、よくご理解で。」
「当然よ。」
ミレイユは少しだけ紅い髪紐に触れた。
オルドアイが今、ルシアを砦に入れている。
それは簡単なことではなかったはずだ。
怒りながらも、話を聞く場を作った。
そのことにも、ミレイユは応えなければならないと思った。
「ソータには。」
「ソータ様に、でございますか。」
「説教。」
「物資ではございませんね。」
「十分な重さがあるわ。」
「確かに。」
アルベールは静かに頷いた。
◆◇◆
その夜、クラウゼン本家は少し慌ただしかった。
ミレイユの指示で、北方行きの馬車に荷が積まれていく。
布問屋から取り寄せた厚手の遮光布。
防水処理した油布。
木箱に詰めた薬草。
小瓶に分けた軟膏。
干し肉と乾燥野菜。
釘、縄、補修板、金具。
商会の記録帳。
そして、数冊の本。
荷の一覧はミレイユ自ら確認した。
母はその様子を廊下から眺めていた。
「ずいぶん大荷物ね。」
「説教に行くのか、商談に行くのか、引っ越しに行くのか分からないわ。」
「全部少しずつです。」
「あら、正直。」
「夜の城は実際に被害を受けています。」
「手ぶらで行って感情だけぶつけるのは非効率です。」
「本当は、心配もしているのでしょう。」
ミレイユは帳面から顔を上げなかった。
「状況確認が必要なだけです。」
「はいはい。」
「お母様。」
「はいはいと言われると腹が立つ?」
「少し。」
「なら、あなたもソータさんに言わないようにね。」
「言いません。」
「顔に出るわよ。」
「出しません。」
母は楽しそうに笑った。
それから、少しだけ真面目な声になる。
「行くなら、ちゃんと自分の目で見てきなさい。」
「手紙だけでは分からないことがあるわ。」
「怒りも、心配も、相手の顔を見てから形が変わるものよ。」
ミレイユは手を止めた。
母を見る。
母は柔らかく笑っていた。
「それから、帰ってきたら話を聞かせてね。」
「紅と緑と紫がどう並んだのか、お母様とても興味があるわ。」
「やはり茶化すのですね。」
「半分は本気よ。」
「残り半分が問題です。」
「それも母の役目。」
「違います。」
ミレイユはため息をついた。
だが、少しだけ表情は緩んでいた。
出発は翌朝、朝食後と決まった。
夜のうちに出てもよかったが、王都を出る馬車を整え、護衛と物資を揃えるには朝が良い。
それに、途中でグランデリアの自分の家にも寄る必要がある。
支部の状況確認。
北方への追加物資の手配。
男たちの村への連絡。
そして、ソータが普段使っていた物資の補充。
グランデリアを飛ばすことはできなかった。
その夜、ミレイユは自室でルシアの手紙をもう一度読んだ。
文字は整っているとは言えない。
ところどころ筆圧が強い。
迷ったような跡もある。
それでも、一つ一つの言葉が正面から来る。
私はソータが好きです。
ミレイユはその一文で手を止めた。
(本当に、真っ直ぐ書くのね。)
(腹が立つわ。)
(でも、逃げていない。)
(オルドアイにも会った。)
(なら、私も逃げるわけにはいかない。)
ミレイユは手紙を畳んだ。
机の上には、紅い髪紐と同じ色の小さなリボンが置かれている。
荷札用に使うものだった。
彼女はそれを指先でなぞり、静かに息を吐いた。
「ソータ。」
「戻る前に、こちらから行くことになったわね。」
誰もいない部屋で、そう呟いた。
◆◇◆
翌朝、クラウゼン本家の食堂では、いつもより早い時間に朝食が用意された。
パン、卵料理、温かいスープ、果物、香草入りの茶。
ミレイユは必要な分だけ食べ、すぐに席を立とうとした。
だが、母がそれを見逃すはずもない。
「もう少し食べなさい。」
「十分です。」
「足りないわ。」
「北へ行くのでしょう。」
「怒るにも体力がいるのよ。」
「怒る前提で食事量を決めないでください。」
「説教も長くなるのでしょう?」
「……少し増やします。」
ミレイユは卵料理を一口追加で食べた。
母は満足そうに頷く。
「アルベールも食べた?」
「はい、奥様。」
「あなたは食べなくても平気そうな顔をしているけれど、食べておきなさい。」
「また変な近道をするのでしょうから。」
「恐れ入ります。」
「褒めていないわよ。」
「心得ております。」
ミレイユはそのやり取りを聞きながら、少しだけ頭を抱えたくなった。
母とアルベールが同じ空間にいると、こちらの調子が崩される。
だが、そのおかげで、北へ向かう緊張も少し和らいでいた。
朝食後、正門前に馬車が並んだ。
一台目はミレイユとアルベールが乗る馬車。
二台目は物資を積んだ荷馬車。
三台目は護衛と追加物資。
クラウゼン商会の紋章が掲げられ、御者も護衛も出発の準備を整えている。
母は玄関先まで見送りに出た。
「行ってらっしゃい、ミレイユ。」
「行ってまいります。」
「ソータさんに会ったら、最初に何と言うの?」
「報告を聞くわ。」
「その前に?」
「……無事でよかった、と。」
母はにっこり笑った。
「よろしい。」
「お母様に採点される筋合いはありません。」
「母ですもの。」
「それは理由ではありません。」
「理由よ。」
ミレイユは諦めて馬車へ乗った。
アルベールが続いて乗り込む。
扉が閉まる直前、母が少し声を落とした。
「怒ってもいいわ。」
「でも、抱きしめる時は逃さないようにね。」
ミレイユは一瞬だけ固まった。
「お母様。」
「行ってらっしゃい。」
母は何もなかったように手を振った。
馬車が動き出す。
王都の石畳を車輪が鳴らし、クラウゼン本家が少しずつ遠ざかる。
ミレイユは窓の外を見ていた。
隣にはアルベール。
向かう先は北。
途中でグランデリアへ寄り、自分の家と商会支部を確認する。
そこからさらに男たちの村、北の砦へ。
そして、ソータとオルドアイとルシアが待つ場所へ。
「アルベール。」
「はい、ミレイユ様。」
「あなたにも説教はあります。」
「承知しております。」
「先に帰ってきた判断は正しいわ。」
「けれど、ソータの荷から手紙を抜いた件は別。」
「移送管理の最適化でございます。」
「言い訳の名前を長くしない。」
「失礼いたしました。」
ミレイユは窓の外へ視線を戻した。
王都の門が近づいている。
朝の光が、馬車の中へ差し込んだ。
「急ぐわよ。」
「はい、ミレイユ様。」
「まずはグランデリア。」
「それから北の砦。」
「ルシアには直接会う。」
「オルドアイにも礼を言う。」
「ソータには報告させる。」
「そして、夜の城との道を作るかどうか、私が判断する。」
「かしこまりました。」
アルベールは静かに一礼した。
ミレイユは紅い髪紐に触れた。
苛立ちもある。
不安もある。
嫉妬もある。
だが、それだけではもうない。
ルシアの手紙を読んだ。
アルベールの報告を聞いた。
オルドアイが砦へ入れたことも知った。
なら、次は自分の番だった。
(逃げないと言うなら、見てあげるわ。)
(ルシア。)
(オルドアイ。)
(そして、ソータ。)
(全員、私の前でちゃんと話してもらう。)
馬車は王都を出て、北へ続く街道へ進んだ。
紅い髪紐の令嬢と老執事を乗せて、クラウゼン商会の一行は静かに速度を上げていく。
荷台には、布と薬と食料と本が積まれている。
説教と商談と救援が、一つの馬車列になって北へ向かっていた。




