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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第143話:紫の羽と北の砦

 次の日、北の砦の朝はいつもより騒がしかった。

 いつもの朝でも、アマゾネスたちの掛け声や武器の音が響くため十分に賑やかではある。

 だが、その日は違う種類のざわめきが混じっていた。

 砦の客室に、紫の羽を持つ吸血鬼の姫が泊まっている。

 しかも昨夜、オルドアイの前で頭を下げ、斬られる前に話を聞いてくれと言った。

 その噂は、夜のうちに砦中へ広まっていた。


 ルシアは客室の寝台で目を覚ました。

 外套は椅子にかけられ、羽に負担がかからないよう、背の低い寝台が用意されている。

 窓は小さい。

 朝の光は厚い布で抑えられ、室内には薄紫の魔石灯が置かれていた。

 ガルナが気を利かせてくれたものだった。

 ルシアはしばらく天井を見つめ、それから自分が夜の城ではなく北の砦にいることを思い出した。


(来てしまったのね。)

(オルドアイに会った。)

(斬られなかった。)

(ソータも生きていた。)

(でも、説教はまだ残っていると言っていたわ。)


 ルシアは少しだけ布団を引き上げた。

 怖くないわけではない。

 むしろ、昨日より怖い気もする。

 勢いで飛んできた昨夜は、謝らなければという気持ちが強かった。

 だが一晩眠ると、自分がどれだけ無茶なことをしたのかが少しずつ分かってくる。

 傷の残る羽で一人飛んできた。

 チャールズに言えば止められると思って、何も告げずに来た。

 ソータにもアルベールにも知らせなかった。

 それは、逃げなかったと言えば聞こえはいいが、別の意味ではまた勝手な行動だった。


 扉が軽く叩かれた。


「起きているか?」


 オルドアイの声だった。

 ルシアは思わず寝台の上で背筋を伸ばした。


「起きているわ。」


「入るぞ。」


「ええ。」


 扉が開き、オルドアイが入ってきた。

 朝の訓練前なのか、軽い戦士装束を身につけている。

 左腕には緑の組み紐。

 髪は後ろで結ばれ、昨日よりも少しだけ柔らかな表情をしていた。

 もちろん、完全に優しい顔ではない。

 まだ怒っている。

 それでも、昨夜の張り詰めた敵意とは違う。


 ルシアは寝台から降りようとした。

 だが、羽が引っかかりかけて少し顔をしかめる。

 オルドアイはすぐに近づき、支えようとして、それから一瞬だけ手を止めた。


「触っていいか?」


 ルシアは目を丸くした。

 昨日、自分が何度も聞いた言葉を、今度はオルドアイが言ったからだ。


「ええ。」

「ありがとう。」


 オルドアイはルシアの肩を支え、羽が布に引っかからないようにして立たせた。

 手つきは意外なほど丁寧だった。

 強い戦士の手なのに、力加減を間違えない。

 ルシアは少し不思議そうに見上げた。


「オルドアイは、優しいのね。」


「勘違いするな。」

「傷を悪化させられると面倒だからだ。」


「面倒だから優しいの?」


「そういう時もある。」


「人間関係は難しいわ。」


「その言い方を便利に使うな。」


 オルドアイは少しだけため息をついた。

 そして、腕を組む。


「説教をするつもりだった。」


「ええ。」

「覚悟していたわ。」


「だが、朝から長々と説教しても、お前は途中で全部真面目に受け取りすぎて倒れそうだ。」


「倒れないわ。」

「たぶん。」


「たぶんは信用しない。」

「だから、説教はそこそこにする。」


 ルシアは少しだけ目を輝かせた。


「そこそこ。」


「喜ぶところではない。」

「残りはミレイユに任せる。」


 ルシアの顔が一気に不安になった。


「ミレイユは、そんなに怖いの?」


 オルドアイは少し考えた。


「怖い。」


「即答。」


「ただし、話は通じる。」

「感情で剣を抜く女ではない。」

「その代わり、言葉と条件で逃げ道を塞いでくる。」


 ルシアは両手で外套を握った。


「言葉で塞がれるのは、剣より怖いかもしれないわ。」


「分かってきたな。」


 オルドアイは少しだけ口元を緩めた。

 その表情を見て、ルシアも少し安心する。


「今日は砦の中を案内する。」

「勝手に歩き回られて騒ぎになるより、私が連れて回った方がいい。」


「案内してくれるの?」


「ああ。」


「私、オルドアイに案内してもらえるのね。」


「何をそんなに嬉しそうにしている。」


「だって、私は昨日まで斬られるかもしれなかったのに、今日は案内されるのよ。」

「すごく進んでいるわ。」


 オルドアイは返答に困った顔をした。


「……そうか。」


「ええ。」

「かなり進んでいるわ。」


 ルシアは嬉しそうに外套を羽織った。

 その様子は、吸血鬼族の姫というより、初めて他人の家へ招かれた少女のようだった。


◆◇◆


 砦の中を歩くと、ルシアは何にでも興味を示した。

 武器庫の前では目を丸くし、訓練場では足を止め、食糧庫では匂いに驚き、井戸では水を汲み上げる仕組みをじっと見つめた。

 オルドアイは最初こそ面倒そうにしていたが、ルシアがあまりにも真剣に反応するため、だんだん説明の言葉が増えていった。


「これは訓練場だ。」

「朝と夕方に、戦士たちが体を動かす。」


「人間は、朝から殴り合うのね。」


「訓練だ。」

「殴り合いではない。」


「でも、今あの二人は殴っているわ。」


「木剣だ。」

「本気ではない。」


「本気ではない殴り合い。」


「だから訓練だと言っている。」


 ルシアは真剣に頷いた。


「ソータもここで殴られるの?」


「殴らん。」


「よかった。」


 オルドアイは少しだけ目を細めた。


「必要なら鍛えるがな。」


「それは殴るの?」


「場合による。」


「ソータみたいな言い方をするわ。」


 オルドアイは一瞬だけ黙った。

 そして、少しだけ視線を逸らす。


「似たのかもしれん。」


「嬉しそう。」


「嬉しそうではない。」


「少し嬉しそう。」


「黙れ。」


 ルシアはくすくす笑った。

 周囲のアマゾネスたちも、昨夜よりは警戒が薄くなっている。

 もちろん、完全に気を許したわけではない。

 それでも、ルシアが訓練用の木剣を持とうとして重さに驚いたり、弓を見て羽で矢を防いだ時の話をしようとしてオルドアイに「今は自慢する場ではない」と止められたりするうちに、空気は少しずつ柔らかくなっていった。


 途中、ガルナが温かいハーブティーを持ってきた。

 砦の中庭に小さな卓が出され、ルシアとオルドアイ、ソータ、バルク、ガルナが一息つくことになった。

 アルベールの姿はその時には見えなかったが、ソータはどこかで見回りでもしているのだろうと思っていた。


「これは?」


 ルシアは湯気の立つ杯を両手で持ち、匂いを嗅いだ。


「ハーブティーよ。」

「砦で育てている薬草を使っているの。」


 ガルナが説明する。


「飲んでも大丈夫?」


「たぶん。」


「たぶん?」


 ルシアが不安そうにする。

 ガルナは笑った。


「吸血鬼に効くかどうかは分からないけれど、人間には大丈夫。」


「私は吸血鬼族だけれど、人間のものを知りたいわ。」

「飲む。」


 ルシアは慎重に一口飲んだ。

 そして、目を丸くした。


「草の味がするわ。」


「ハーブだからな。」


 オルドアイが言う。


「でも、苦いだけではないわ。」

「温かくて、喉の奥がすっとする。」

「これは、怪我をした時に飲むもの?」


「疲れた時にも飲む。」

「眠れない時にも。」


「眠れない時……。」


 ルシアは少しだけ杯を見つめた。

 夜の城で長く一人だった時間を思い出したのかもしれない。

 ソータはその横顔を見て、胸が少し締めつけられた。


「気に入ったなら、少し持って帰るといい。」


 オルドアイが言った。


 ルシアは驚いて顔を上げた。


「いいの?」


「大量ではない。」

「傷の回復にも使えるかもしれん。」

「ただし、チャールズとやらに確認してから飲め。」


「ありがとう、オルドアイ。」


 ルシアの顔が明るくなった。

 オルドアイは少しだけそっぽを向く。


「礼ばかり言うな。」


「嬉しい時は礼を言うのではないの?」


「間違ってはいないが、調子が狂う。」


 ガルナが小さく笑った。


「オルドアイ様、慕われていますね。」


「慕われてはいない。」


「慕っているわ。」


 ルシアが即答した。


 オルドアイが固まる。


「何だと。」


「オルドアイは怖いけれど、ちゃんと教えてくれるもの。」

「怒っているのに、座らせてくれた。」

「傷を見てくれた。」

「砦を案内してくれて、ハーブティーもくれた。」

「だから、少しお姉さんみたいだわ。」


 中庭の空気が止まった。


 バルクが吹き出しかけた。

 ガルナが即座に足を踏む。


「ぐっ。」


「こらえなさい。」


 ソータも口元を押さえた。

 オルドアイは顔を赤くし、目を吊り上げる。


「誰がお姉さんだ。」


「違うの?」


「違う。」


「では、怖い先生?」


「それも違う。」


「優しい敵?」


「敵と言うな。」


「では、怒っている案内人?」


「だんだんおかしくなっているぞ。」


 ルシアは真剣に考え込んだ。


「難しいわ。」

「でも、私はオルドアイのことが少し好きになったわ。」


 オルドアイは完全に言葉を失った。

 その横で、ガルナが少し楽しそうに微笑む。


「素直ですね。」


「素直すぎる。」


 オルドアイは低く言った。

 しかし、その声に昨日のような鋭さはなかった。

 むしろ、どう扱えばいいのか分からず困っている声だった。


 ソータはその様子を見て、少し安心した。

 ルシアは無防備すぎる。

 だが、その無防備さが、時に相手の怒りをずらす。

 敵として睨み続けるには、あまりにも真っ直ぐすぎるのだ。


◆◇◆


 昼を過ぎる頃には、砦の中庭で小さな肉の宴が始まっていた。

 宴と言っても、正式なものではない。

 狩りで得た肉を焼き、鍋に野菜と骨付き肉を煮込み、硬いパンと一緒に食べるだけのものだった。

 だが、ルシアにとっては十分すぎるほど珍しい光景だった。


 大きな鉄串に刺された肉が火の上で焼かれ、脂が落ちるたびに炎が跳ねる。

 香ばしい匂いが砦中に広がる。

 アマゾネスたちは杯を掲げ、笑い、肉を切り分ける。

 夜の城の食堂とはまるで違う。

 あちらは静かで広く、紫の灯に照らされた美しい空間だった。

 こちらは熱く、騒がしく、煙たく、誰もが生きている音を立てている。


 ルシアはその光景を見ながら、ぽつりと言った。


「すごいわ。」

「人間の食事は戦いみたいね。」


「肉の宴はこんなものだ。」


 オルドアイが肉を切り分けながら言った。


「ソータもこういうのを食べるの?」


「食べるぞ。」


 ソータは皿を受け取りながら答えた。


「うまい。」


「なら、私も食べるわ。」


 ルシアは差し出された肉を恐る恐る見つめた。

 吸血鬼族として、食べなくても生きていける。

 血の方が体に合う。

 それでも、ソータが美味しいと言うものを知りたいという気持ちは強かった。

 彼女は小さく切られた肉を口に運び、ゆっくり噛んだ。


 しばらく黙る。


 オルドアイが聞く。


「どうだ。」


「血ではないのに、力の味がするわ。」


 周囲のアマゾネスたちが少し笑った。

 オルドアイも口元を緩める。


「肉だからな。」


「温かい。」

「噛むと、じゅっとする。」

「人間は、これで元気になるのね。」


「そうだ。」


「ソータも元気になる?」


「なる。」


 ルシアは少し真剣な顔になった。


「なら、私も肉を覚えるわ。」

「私の城でもソータに食べさせたい。」


 ソータは少しだけ嫌な予感がした。


「ルシア、最初はチャールズさんとアルベールさんに火加減を聞いてからな。」


「アルベールはどこにいるの?」


 ルシアが首を傾げた。

 その一言で、ソータも周囲を見回した。


 確かに、アルベールがいない。

 朝の砦案内の最初の方では、少し離れて見守っていた気がする。

 ハーブティーの時には、姿を見なかった。

 肉の宴が始まってからも、白髪の老執事の姿はない。

 あの人は目立たない時ほど、どこにでもいるような気配がある。

 だから逆に、完全にいないと気づくのが遅れるのだ。


「そういえば、アルベールさんは?」


 ソータが言うと、オルドアイも眉を寄せた。


「朝から姿を見ていないな。」


 ヤンガルドアイが肉を片手に笑った。


「また近道でもしておるのではないか。」


「母上、それで済ませないでください。」


「アルベールなら済む。」


「済みません。」


 オルドアイが周囲へ声をかける。


「誰か、アルベールを見た者はいるか。」


 アマゾネスたちが顔を見合わせた。

 何人かが首を横に振る。

 バルクも知らない。

 ガルナも見ていない。

 ソータの胸に少し嫌な予感が広がる。

 アルベールが勝手に動く時は、大抵何かを済ませている。

 そして、その済ませ方が普通ではない。


 その時、砦の入口近くにいたアマゾネスの女性が手を上げた。


「オルドアイ様。」

「私が伝言を預かりました。」


 全員の視線が一斉に向かう。

 その女性は少し困ったような顔をしていた。


「いつだ。」


 オルドアイが問う。


「夜明け前です。」

「見張り台の下に、いつの間にか立っておられまして。」

「私が驚くより早く、一礼されました。」

「そして、これをオルドアイ様とソータ様へと。」


 女性は小さな封書を差し出した。

 封には、アルベールらしい整った字で「ソータ様、オルドアイ様」と書かれている。

 ソータはそれを受け取った。

 嫌な予感は、もはや確信に近い。


 封を開ける。

 中には短い文があった。


 ソータ様。

 オルドアイ様。

 此度の件、まずは無事に収まりつつあるものと判断いたしました。

 ルシア様も北の砦にて対話の機会を得られた以上、私がこれ以上こちらへ留まる必要は薄いかと存じます。

 ミレイユ様へのご報告が遅れますと、私への叱責が適切な範囲を超える恐れがございますため、先に王都へ戻らせていただきます。

 皆様によろしくお伝えくださいませ。

 なお、ルシア様の羽の処置については、別紙の通りでございます。

 アルベール。


 ソータは読み終えて、しばらく黙った。

 オルドアイが横から覗き込む。


「何と書いてある。」


「先にミレイユの元へ帰るそうです。」


「何?」


 オルドアイは文面を奪うように受け取った。

 読み進めるうちに、眉間の皺が深くなる。


「私への説明はどうした。」


「皆様によろしく、だそうです。」


「よろしくで済むと思っているのか。」


 ルシアはきょとんとしている。


「アルベールは帰ったの?」


「らしい。」


「どうやって?」


 広間の全員が周囲を見た。

 霧の森へ続く門には見張りがいた。

 砦の外柵にも見張りがいた。

 夜明け前に出ていったなら、誰かが気づくはずだった。

 だが、見張りたちは口々に首を横に振る。


「門は通っていません。」

「霧の森へ向かった形跡もありません。」

「足跡も残っていませんでした。」

「馬も使っていません。」


 沈黙が落ちた。

 そして、ヤンガルドアイが当然のように言った。


「アルベールなら容易かろう。」


 オルドアイが振り返る。


「母上。」


「何度でも言うが、あの男に普通の道を求める方が間違っておる。」


 バルクが真顔で頷いた。


「確かに、アルベール殿ならそういうものかと。」


 ガルナも少し困った顔で言う。


「納得していいのか分からないけれど、納得してしまいますね。」


 ソータは額を押さえた。


「いや、ミレイユに先に報告してくれるのは助かるんだけど……。」

「俺、置いていかれたってことですよね。」


 オルドアイが低く言う。


「私もだ。」


「ルシアもよ。」


 ルシアが手を上げる。


「私はアルベールに羽の診察をしてもらう予定だった気がするわ。」


 ソータは別紙を開いた。

 そこには、ルシアの羽の処置について事細かに書かれていた。

 湯で温めた布を当てる時間。

 ハーブティーに使ってよい薬草。

 避けるべき香。

 黒薔薇の蜜の摂取量。

 飛行は短距離のみ。

 長距離飛行は三日以上禁止。


「ルシア。」


「何?」


「長距離飛行、三日以上禁止って書いてある。」


 ルシアは目を逸らした。


「昨日は、これを読む前だったわ。」


「そういう問題か?」


「私は読んでいなかったから、まだ禁止されていなかったとも言えるわ。」


 オルドアイが低く言う。


「屁理屈を覚えるな。」


「ソータみたい?」


「ソータはもっと質が悪い時がある。」


「俺も巻き込まれた。」


 ソータが呟くと、周囲に笑いが広がった。


◆◇◆


 アルベールが消えた件は、その後しばらく砦の話題をさらった。

 見張りたちは自分たちが見逃したのではないかと不安がったが、ヤンガルドアイが一言で片づけた。


「見張りの問題ではない。」

「アルベールの問題じゃ。」


 それで誰もが妙に納得した。

 むしろ、普通の侵入者なら見逃さないという自信が戻ったらしい。

 アルベールは基準にしてはいけない。

 北の砦では、その認識が新しく共有された。


 ソータは肉の宴の隅で、アルベールの手紙をもう一度読み返していた。

 ミレイユへの報告が遅れると叱責が適切な範囲を超える恐れ。

 それはつまり、アルベール自身もミレイユに怒られる覚悟はしているということだ。

 ただ、先に戻ることで被害を最小限に抑えようとしている。

 実にアルベールらしい。

 そして、ソータとしては少し羨ましくもあった。


(俺も先に報告した方がよかったかな。)

(いや、俺が行かないと駄目だ。)

(ミレイユには直接話す。)

(逃げないって決めたんだから。)


 その横に、オルドアイが座った。

 手には肉の皿。

 もう片方の手にはハーブティーの杯がある。


「アルベールは、ミレイユのところへ戻った。」

「なら、あの女はすぐに事情を知るだろう。」


「うん。」


「そして、こちらへ来るかもしれない。」


「来るの?」


「怖いか。」


「怖い。」


 ソータは即答した。

 オルドアイは少しだけ笑った。


「正直だな。」


「嘘をついても仕方ない。」


「だが、逃げるな。」


「逃げない。」


 ルシアがその隣にやって来た。

 ガルナに羽を支えられながら歩いている。

 手には小さな皿。

 肉を少しだけ乗せている。


「私も逃げないわ。」

「ミレイユに会う。」

「怖いけれど。」


 オルドアイはルシアを見た。


「その前に、三日間は長距離飛行禁止だ。」


「読んだのね。」


「読んだ。」


「では、砦にいるしかないわ。」


「最初からそのつもりで来たのではないのか。」


「半分は。」


「半分?」


「半分は勢い。」


「正直すぎる。」


 オルドアイはため息をついた。

 だが、ルシアが隣に座っても追い払わなかった。

 ルシアはそれに気づき、少し嬉しそうにする。


「座ってもいいの?」


「もう座っているだろう。」


「聞く前に座ってしまったわ。」


「次から聞け。」


「分かったわ。」

「次から聞く。」


 ルシアは肉を一口食べた。

 そして、しみじみと言う。


「オルドアイの砦は、温かいわね。」


「火があるからだ。」


「それだけじゃないわ。」

「声がたくさんある。」

「誰かが誰かを叱っている。」

「誰かが笑っている。」

「肉の匂いがする。」

「ハーブティーの匂いもする。」

「夜の城とは違う。」

「少し、羨ましい。」


 オルドアイはしばらく黙った。

 その言葉には、茶化せない寂しさがあった。

 ルシアの城にはチャールズがいる。

 スケルトンたちもいる。

 黒薔薇もある。

 けれど、人の声で満ちる場所ではない。

 砦の騒がしさは、ルシアにとって眩しいものなのだろう。


「なら、覚えて帰れ。」


 オルドアイは言った。


「え?」


「全部持って帰ることはできん。」

「だが、見て、聞いて、覚えることはできる。」

「お前の城に合う形にすればいい。」


 ルシアは目を見開いた。

 それから、ゆっくり笑った。


「オルドアイ、本当にお姉さんみたい。」


「だから違うと言っている。」


「では、強い先生。」


「それも違う。」


「でも、教えてくれる。」


「……勝手にしろ。」


 オルドアイはそっぽを向いた。

 その耳が少し赤いように見えたのは、炉の火のせいだけではなかったかもしれない。


 ソータはその様子を見て、胸の奥で静かに息を吐いた。

 緑と紫の距離は、まだ近いとは言えない。

 怒りも残っている。

 警戒もある。

 ミレイユという紅い裁定者も、まだここにはいない。

 それでも、昨日よりは確かに近い。


 アルベールはもういない。

 霧の森を通った形跡もなく、足跡も残さず、ミレイユの元へ帰っていった。

 その老執事なら、今頃もう王都のどこかで涼しい顔をしているのかもしれない。

 そして、ミレイユへ全てを報告しているのだろう。

 それを思うと、ソータの胃は少し痛くなった。


 けれど今は、北の砦に肉の匂いが満ちている。

 ルシアはハーブティーを大事そうに飲み、オルドアイは文句を言いながらも隣に座らせている。

 バルクはガルナに叱られながら肉を食べ、ヤンガルドアイは面白そうに全員を眺めている。


(アルベールさんは先に戻った。)

(ミレイユはきっと動く。)

(なら、俺たちはここで準備をする。)

(ルシアが外を知るために。)

(オルドアイが怒りながらも話すために。)

(ミレイユにちゃんと説明するために。)


 ソータは手元の杯を見た。

 湯気の立つハーブティー。

 草の香り。

 砦の朝と昼と夜が混ざったような味。

 それを一口飲み、ゆっくり息を吐く。


 北の砦の中で、紫の羽の姫は少しずつ人の輪を知り始めていた。

 そして緑の組み紐の姫は、不本意そうな顔をしながらも、その隣に座る場所を少しだけ空けていた。

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