第142話:緑と紫の夜会
北の砦の大広間に、紫の羽を持つ吸血鬼の姫が入った。
その事実だけで、砦の空気は十分すぎるほど張り詰めていた。
壁際にはアマゾネスたちが並び、弓を下ろしてはいるものの、手はいつでも動ける位置にある。
広間の中央には大きな炉があり、赤い火が石床を照らしていた。
普段なら、戦士たちの笑い声や酒杯の音が響く場所だ。
だが今夜ばかりは、誰も気軽に声を出せない。
そこにいるのは、噂の紫の女だった。
ソータを連れ去った女。
男たちの村を救った女。
吸血鬼族の生き残り。
大教会に狙われた夜の城の主。
そして、ソータが再び戻ることを選んだ相手だった。
ルシアは大広間の入口で、少しだけ立ち止まった。
黒い外套の下で、紫の羽が小さく震えている。
傷はまだ完全には癒えていない。
白銀の聖結界に焼かれた羽の端には淡い痕が残り、飛んできた疲れもあるのか、いつもの妖しい余裕は薄かった。
それでも彼女は逃げなかった。
薄紫の瞳をまっすぐ前へ向け、炉の前に立つオルドアイを見ていた。
オルドアイは腕を組み、黙ってルシアを見返していた。
褐色の肌。
戦士として鍛えられた体。
左腕には緑の組み紐。
怒りも警戒も隠していないが、剣には手をかけていない。
それが今のオルドアイの最大限の譲歩なのだと、ソータには分かった。
ソータはルシアの少し前に立った。
完全に庇うほどではない。
だが、アマゾネスたちの視線が鋭くなりすぎた時、自然と半歩だけ前に出た。
その動きに、何人かの戦士が眉を動かした。
ソータ自身も、自分がそうしたことに少し遅れて気づいた。
(俺が連れてきたわけじゃない。)
(でも、ここに立たせた以上、放っておけるわけがない。)
(ルシアは謝りに来たんだ。)
(なら、まずは話を聞いてもらうところまで、俺が守る。)
ルシアはソータの背中を見上げた。
不安そうだった瞳が、一瞬だけ柔らかくなる。
だがすぐに、彼女は小さく首を振った。
「ソータ。」
「少しだけ横にいて。」
「後ろに隠れに来たわけではないの。」
その声は震えていた。
それでも、言葉ははっきりしていた。
ソータは頷き、半歩だけ横へ退いた。
ただし、完全には離れない。
ルシアが倒れた時にすぐ支えられる距離。
オルドアイにも、それは分かったはずだった。
「座れ。」
オルドアイが言った。
ルシアは少し目を瞬かせた。
「座っていいの?」
「立ったまま倒れられる方が面倒だ。」
「傷が残っているのだろう。」
「ええ。」
「でも、大丈夫よ。」
「大丈夫な者は、そんな顔をしていない。」
オルドアイの声は厳しい。
だが、ただ冷たいだけではなかった。
ルシアはその意味を考えるように一瞬黙り、それから小さく頭を下げた。
「ありがとう。」
「礼を言うな。」
「許したわけではない。」
「分かっているわ。」
「でも、座らせてくれるのは助かるから。」
ルシアは用意された椅子へ向かった。
だが、椅子の前で立ち止まった。
座面をじっと見る。
それから真剣な顔でオルドアイを見た。
「これは、斬られない椅子?」
広間が一瞬、完全に沈黙した。
オルドアイの眉間に深い皺が寄る。
「そんな椅子はない。」
「そうなの?」
「チャールズなら、交渉の席には安全な椅子と危険な椅子があるかもしれないと言いそうだったわ。」
「その骨の執事は、どんな教育をしている。」
アルベールが静かに一礼した。
「チャールズ様は大変慎重なお方でございます、オルドアイ様。」
「慎重の方向がおかしい。」
バルクが口元を押さえた。
ガルナが横から肘で小突く。
「笑わない。」
「無理だろ、今のは。」
「無理でもこらえなさい。」
ルシアはそのやり取りに少しだけ目を丸くした。
緊張していた広間に、ほんのわずかな隙間ができる。
ルシアはその隙間に助けられたように、ゆっくり椅子へ腰を下ろした。
羽が背もたれに当たらないよう、ソータがそっと椅子の角度を直す。
「痛まないか。」
「大丈夫。」
「少しだけ。」
「少しだけ痛いってことだな。」
「ええ。」
ソータが外套の位置を整えようとすると、オルドアイの視線が刺さった。
ソータは手を止める。
ルシアはそれに気づいて、慌てて自分で外套を直した。
「自分でできるわ。」
「たぶん。」
「たぶんか。」
「できるわ。」
ルシアは少しだけ胸を張った。
その仕草が痛みに響いたのか、すぐに小さく眉を寄せる。
ソータは反射的に手を出しかけ、今度はオルドアイが低く言った。
「手を出していい。」
「倒れられるよりましだ。」
「……ありがとう。」
ソータは短く礼を言い、ルシアの肩を支えた。
オルドアイは面白くなさそうにしていたが、それでも止めなかった。
ヤンガルドアイは炉のそばで腕を組み、愉快そうに三人を見ていた。
その目は戦士の目であり、母の目でもあり、退屈な夜に面白い火種を見つけた者の目でもあった。
「さて。」
「紫の姫よ。」
「せっかく飛んできたのじゃ。」
「話すことがあるのだろう。」
ルシアは背筋を伸ばした。
緊張のせいで指が外套を握っている。
それでも、彼女はオルドアイを見ることから逃げなかった。
「オルドアイ。」
「私は、あなたに謝りに来たわ。」
「ソータを勝手に連れて行って、ごめんなさい。」
「あなたが待っていることを、私は知らなかった。」
「でも、知らなかったから許されることではないと思う。」
「ソータがあなたにも戻ると言った時、初めて私は、私が奪おうとしたものの重さを少し知ったわ。」
オルドアイは黙って聞いていた。
広間の者たちも、先ほどの小さな笑いを忘れたように静まり返る。
「私は寂しかった。」
「城にはチャールズがいる。」
「スケルトンたちもいる。」
「黒薔薇もある。」
「でも、人間の家族も、街も、恋人も、私は本でしか知らなかった。」
「ソータが笑ってくれた時、帰したくないと思った。」
「私の城にいてほしいと思った。」
「だから、私は間違えたわ。」
ルシアの声は少し震えた。
それでも、彼女は続けた。
「私はソータが好き。」
「本当に好きになってしまった。」
「でも、好きだから閉じ込めていいわけではないと、少しずつ分かった。」
「オルドアイ、あなたが怒るのは当然よ。」
「あなたが私を許さないのも当然よ。」
「それでも、私は逃げずに謝りたかった。」
オルドアイの目が細くなる。
「好きになってしまった、か。」
「ええ。」
「随分とはっきり言うな。」
「隠した方がいいの?」
「隠したところで顔に出る。」
「それはソータにも言われたわ。」
ソータは小さく咳払いをした。
オルドアイの視線が横から来る。
「言ったのか。」
「似たようなことは。」
「楽しそうだな。」
「楽しそうではない。」
即答したつもりだったが、説得力があるかは分からなかった。
オルドアイは少しだけ目を細める。
ルシアが慌てて割って入った。
「ソータを責めないで。」
「私が勝手に来たの。」
「ソータもアルベールも知らなかったわ。」
「私は、城で待つべきだったのかもしれない。」
「でも、手紙だけでは足りないと思ってしまった。」
「謝るなら、自分で来なければいけないと思ったの。」
「だから一人で飛んできたのか。」
「ええ。」
「傷が残っているのに。」
「ええ。」
「馬鹿だな。」
「それも、よく言われるわ。」
ルシアは真面目に頷いた。
オルドアイは返す言葉を少し失ったように見えた。
腹を立てたい相手が、正面から馬鹿だと認める。
敵意を向けたい相手が、怖がりながらも逃げない。
扱いづらいことこの上ない。
壁際のアマゾネスの一人が小さく言った。
「吸血鬼というより、迷子の姫だな。」
別の者が肘で突く。
「聞こえるぞ。」
ルシアは聞こえていたらしい。
少し首を傾げた。
「迷子ではないわ。」
「ちゃんとここへ来られたもの。」
「そういう意味ではない。」
オルドアイが低く言った。
だが、その声にはほんの少しだけ疲れた笑いの気配が混じっていた。
ソータはその気配に気づいた。
まだ許されてはいない。
けれど、完全な拒絶でもない。
少しずつ、話の道ができ始めている。
その時、若いアマゾネスの一人が前に出た。
彼女はルシアを睨みつけている。
手には槍。
オルドアイが止める前に、彼女は鋭く言った。
「だが、ソータを連れ去ったことは事実だろう。」
「吸血鬼族だと言うなら、いつ人を襲うか分からない。」
「今ここで謝ったからといって、信じろというのか。」
ルシアの肩が小さく震えた。
ソータはその瞬間、彼女の前に立った。
「待ってくれ。」
声は自分でも驚くほど低く出た。
広間の視線がソータへ集まる。
若い戦士も、少し目を見開いた。
「ルシアがしたことは、間違ってる。」
「俺を勝手に連れて行ったことは、謝って済む話じゃない。」
「それは俺も分かってる。」
「でも、男たちの村を救ったのもルシアだ。」
「矢の雨から俺を守ったのもルシアだ。」
「大教会に囲まれて、傷つきながら城を守っていたのもルシアだ。」
「だから、危険かどうかを決めるなら、悪いところだけじゃなく、やったこと全部を見てからにしてほしい。」
ソータは一度息を吸った。
心臓が強く鳴っていた。
ルシアが後ろで息を呑む気配がある。
オルドアイも黙っている。
「俺はルシアを無条件で信じろって言ってるんじゃない。」
「警戒は必要だ。」
「約束も条件もいる。」
「でも、ここへ来たルシアは、襲いに来たわけじゃない。」
「謝りに来たんだ。」
「それだけは、聞いてやってほしい。」
若い戦士はまだ納得していない顔だった。
だが、ソータの言葉を受けて、槍を少し下げた。
「……ソータがそこまで言うなら。」
オルドアイが静かに言った。
「下がれ。」
若い戦士は一礼し、壁際へ戻った。
ルシアはソータの背中を見つめていた。
その目には、驚きと嬉しさと、少しの不安が混ざっている。
「ソータ。」
「大丈夫だ。」
「私を庇ったの?」
「今のは、話を聞いてほしかっただけだ。」
「でも、嬉しいわ。」
ルシアは小さく言った。
ソータは少し照れた。
だが、そこへオルドアイの声が飛ぶ。
「ソータ。」
「はい。」
「お前は後で話がある。」
「はい。」
ルシアが慌てて言う。
「私のせい?」
「主にソータのせいだ。」
「主に?」
「お前のせいもある。」
「分かったわ。」
ルシアは真剣に頷いた。
その素直さに、バルクがまた笑いそうになり、ガルナが今度は足を踏んだ。
「痛い。」
「静かに。」
◆◇◆
話し合いは、炉の火が少し小さくなる頃まで続いた。
オルドアイはルシアへ幾つもの確認をした。
人間の血を吸ったことがあるのか。
男たちの村の者へ何かしたのか。
ソータを城に留めた時、逃げ道を塞いだのか。
魅了を使ったのか。
大教会に狙われた理由は何か。
ルシアは一つ一つ答えた。
「人間の血は吸っていないわ。」
「吸うと、相手がしもべになると聞いているもの。」
「そうなると、対等に話せないでしょう。」
「私は、それは嫌。」
「魅了は。」
「使っていないわ。」
「使えば下僕になるとチャールズに教わった。」
「ソータには、下僕ではなく、家族になってほしいから。」
オルドアイの眉が跳ねた。
「家族。」
「ええ。」
「でも、人間の家族は難しいと知ったわ。」
「勝手に連れてきたら家族ではない。」
「助けたから家族でもない。」
「一緒にいることを、選んでもらわなければ駄目なのね。」
ルシアはオルドアイの左腕を見た。
緑の組み紐が炉の火を受けて暗く光っている。
「その紐は、ミレイユからもらったの?」
オルドアイの顔が少し変わった。
「なぜ分かる。」
「ソータが話してくれたわ。」
「ミレイユとオルドアイが、喧嘩しながらも、ソータを待っていると。」
「それから、あなたはただ奪う女ではないと言ったと。」
オルドアイは少しだけソータを見た。
ソータは頷くしかなかった。
「勝手に話したわけじゃない。」
「ルシアに分かってもらう必要があった。」
「そうか。」
オルドアイは組み紐に触れた。
その仕草は、いつもの強気な彼女にしては少し繊細だった。
「これは、ミレイユから渡された。」
「私がただ奪うだけの女ではないと、示すためのものだ。」
「ソータがミレイユに帰ることも、私のもとへ戻ることも、なかったことにしないためのものだ。」
ルシアはじっと聞いていた。
「羨ましいわ。」
「欲しいのか。」
「ええ。」
「私にも、そういう証がほしい。」
オルドアイは少し目を細めた。
「証は、欲しがるだけでは得られない。」
「行動で得るものだ。」
ルシアはその言葉を真剣に受け止めた。
「分かったわ。」
「私は、行動で得る。」
「今日は、その最初?」
「最初にしては無謀だ。」
「でも、逃げなかったわ。」
「それは認める。」
ルシアの顔が少し明るくなった。
「認められたわ。」
「少しだ。」
「少しでも嬉しい。」
オルドアイはまた困った顔をした。
怒るべき相手が、少しの承認でこんなに嬉しそうにする。
扱いづらい。
けれど、完全に嫌いにもなりきれない。
それが広間にいる者たちにも伝わり始めていた。
ヤンガルドアイが口を開いた。
「今夜のところは、ここまでにしてもよかろう。」
「紫の姫の羽は、そろそろ休ませねばならぬ。」
「話は一晩で終わるものではない。」
オルドアイは頷いた。
「ルシア。」
「今夜は砦に泊まれ。」
「ただし、勝手に飛び回るな。」
「武器庫に近づくな。」
「ソータの寝床へ勝手に入るな。」
ルシアは真剣な顔で聞いていた。
「分かったわ。」
「では、ソータの寝床へ行く時は、聞く。」
「行くなと言っている。」
「聞いても駄目?」
「今夜は駄目だ。」
「今夜は。」
「言葉尻を取るな。」
ソータは胃を押さえた。
アルベールは静かに目を伏せている。
たぶん笑いを堪えている。
「アルベールさん。」
「はい、ソータ様。」
「笑ってませんか。」
「いえ。」
「絶対笑ってますよね。」
「状況の進展を喜ばしく思っているだけでございます。」
「便利な言い方だ。」
ルシアは少ししょんぼりした顔をしたが、すぐに頷いた。
「分かったわ。」
「今夜は、ちゃんと客人の部屋で休む。」
「私はかなり進んだルシアだから。」
「それならまず、傷を悪化させないことだ。」
オルドアイが言う。
「ええ。」
「気をつけるわ。」
オルドアイはガルナを見る。
「ガルナ。」
「客室を一つ整えてくれ。」
「できれば窓が小さく、羽が引っかからない部屋だ。」
「分かりました。」
ガルナは頷いた。
それからルシアを見て、少しだけ柔らかく言う。
「歩ける?」
「歩けるわ。」
「たぶん。」
「たぶんは駄目。」
「支えるわ。」
ガルナが近づくと、ルシアは少し驚いたようにした。
「あなたは怒っていないの?」
「怒るほど、まだあなたを知らないわ。」
「でも、怪我人を放っておくほど冷たくもないの。」
「人間は難しいわ。」
「慣れなさい。」
ガルナはそう言って、ルシアの横へ立った。
ルシアは少し戸惑いながらも、支えを受け入れた。
その姿を見て、バルクが感心したように頷く。
「ガルナはやっぱり面倒見がいいな。」
「あなたも後で休むのよ。」
「はい。」
即答だった。
オルドアイはその様子を見届けると、ソータへ視線を向けた。
「ソータ。」
「少し来い。」
声は静かだった。
しかし、拒否できる声ではなかった。
「分かった。」
ソータは頷いた。
ルシアが不安そうに見る。
「怒られるの?」
「たぶん。」
「私も行く?」
「来なくていい。」
オルドアイとソータが同時に言った。
ルシアは少し驚き、それから素直に頷いた。
「分かったわ。」
「ソータ、無事で戻ってきてね。」
「説教で死なないから。」
「分からないわ。」
「オルドアイは強いもの。」
「そこは否定できないな。」
オルドアイが低く言う。
「早く来い。」
「はい。」
◆◇◆
オルドアイがソータを連れて行ったのは、広間の裏手にある狭い回廊だった。
戦士たちの声も、炉の音も遠くなる。
窓の外には北の夜が広がり、砦の灯が木柵を淡く照らしている。
誰もいない。
見張りの足音も遠い。
ここなら、二人の声は広間へ届かない。
オルドアイはしばらく黙っていた。
ソータも何も言わなかった。
言い訳をすれば余計に悪くなる気がした。
何より、今のオルドアイの背中には、怒りだけではないものが見えていた。
やがて、オルドアイが振り返った。
「無事でよかった。」
最初に出たのは、それだった。
ソータは胸を突かれたように息を止めた。
叱責を覚悟していた。
怒鳴られると思っていた。
だが、彼女は最初に、無事を喜んだ。
「……心配かけた。」
「ああ。」
「かけた。」
「ものすごくかけた。」
「ごめん。」
「謝れば済むと思うな。」
「思ってない。」
「ならいい。」
オルドアイは一歩近づいた。
ソータの胸元を掴む。
殴られるかと思った。
だが、違った。
彼女はそのまま、額をソータの胸に押しつけた。
「戻ったと聞いて、嬉しかった。」
「また行ったと聞いて、腹が立った。」
「でも、今こうしていると、やはり嬉しい。」
声が少しだけ震えていた。
ソータはゆっくり腕を上げた。
今度は自分から、オルドアイを抱きしめた。
力強い戦士の体が、腕の中で小さく揺れる。
誰もいない回廊で、ソータは彼女をしっかり抱いた。
「ただいま、オルドアイ。」
そう言うと、オルドアイの肩が少し跳ねた。
「遅い。」
「ああ。」
「遠回りしすぎだ。」
「ああ。」
「荷を増やしすぎだ。」
「ああ。」
「だが……。」
「戻った。」
「戻った。」
オルドアイはソータの服を握る指に力を込めた。
彼女の声は少し低くなる。
「ルシアを庇ったな。」
「うん。」
「私の前で。」
「うん。」
「腹が立つ。」
「ごめん。」
「だが、少し男らしかった。」
ソータは驚いて、オルドアイを見下ろした。
オルドアイは顔を伏せたまま言う。
「弱っている女を、皆の前で見捨てなかった。」
「相手が私の怒っている女でも、守るべき時は前に出た。」
「それは……嫌いではない。」
ソータの胸が熱くなった。
「オルドアイ。」
「勘違いするな。」
「腹は立っている。」
「分かってる。」
「でも、少し嬉しい。」
「お前が、逃げずに立ったから。」
ソータは腕に少し力を込めた。
オルドアイは抵抗しなかった。
むしろ、ほんの少しだけ身を預ける。
広間では決して見せない顔だった。
強いアマゾネスの姫ではなく、待っていた女の顔。
怒りながらも、無事を喜び、抱きしめられることを喜んでいる顔だった。
「オルドアイ。」
「俺は、ルシアのことも放っておけない。」
「でも、君のことを軽く見てるわけじゃない。」
「君が待ってくれていたことも、怒っていることも、ちゃんと受け止める。」
「本当に受け止めるのか。」
「ああ。」
「では、今夜は私の怒りも受け止めろ。」
「分かった。」
「説教は長いぞ。」
「覚悟してる。」
「それから、少しだけ甘える。」
その言葉は、かなり小さかった。
ソータは聞き逃さなかった。
「うん。」
「笑うな。」
「笑ってない。」
「顔が緩んでいる。」
「嬉しかったから。」
オルドアイは顔を上げた。
頬が少し赤い。
悔しそうで、照れていて、それでも嬉しそうだった。
「調子に乗るな。」
「乗らない。」
「乗っている顔だ。」
「少しだけ。」
オルドアイは軽くソータの胸を叩いた。
痛くはなかった。
それから、もう一度自分からソータに抱きついた。
今度は短く。
けれど、とても強く。
「戻ってきてよかった。」
「本当に。」
ソータはその言葉を胸の奥に受け止めた。
「俺も。」
「戻ってこられてよかった。」
しばらく二人はそのままでいた。
回廊の外を夜風が通り、遠くで砦の見張りが交代する声が聞こえる。
広間にはルシアがいる。
王都にはミレイユがいる。
ソータが背負うものは増え続けている。
それでも今だけは、オルドアイを抱きしめる腕の重さだけを感じていた。
◆◇◆
広間に戻ると、ルシアはガルナに支えられながら客室へ向かうところだった。
ソータとオルドアイが並んで戻ってきたのを見て、ルシアはすぐに顔を上げる。
「ソータ、生きているわ。」
「だから説教で死なないって言っただろ。」
「でも、オルドアイは強いわ。」
オルドアイが言う。
「今夜はまだ半分も説教していない。」
「半分も?」
ルシアが驚く。
ソータは少し遠い目をした。
「続きがあるらしい。」
「大変ね。」
「君も後であるぞ。」
「私も?」
ルシアは真剣に身構えた。
オルドアイは少しだけ口元を動かした。
「まずは休め。」
「傷ついたまま倒れられても困る。」
「分かったわ。」
「休んでから怒られる。」
「怒られる前提で寝るのか。」
「逃げないためよ。」
ルシアは胸を張ろうとして、また羽の傷で少しだけ顔をしかめた。
ガルナが支える。
「ほら、無理しない。」
「ありがとう、ガルナ。」
「名前を覚えたのね。」
「ええ。」
「ソータが、あなたはバルクを叱るのが上手だと言っていたわ。」
バルクが遠くでむせた。
「ソータ、何を話してるんだ。」
「事実だろ。」
「事実だけど。」
ガルナはにっこり笑った。
「バルク、あとで話しましょう。」
「俺もか。」
「あなたも。」
広間に今度こそ笑いが広がった。
警戒はまだ消えていない。
ルシアが完全に受け入れられたわけでもない。
だが、最初に入ってきた時の刺すような空気は、少しだけ柔らかくなっていた。
ルシアは客室へ向かう前に、オルドアイへ振り返った。
「オルドアイ。」
「何だ。」
「今夜、砦に入れてくれてありがとう。」
「まだ許されていないのは分かっているわ。」
「でも、話を聞く場所をくれて嬉しかった。」
オルドアイは少し黙った。
「礼を言うなら、明日も逃げずに話せ。」
「ええ。」
「逃げないわ。」
「それから、勝手にソータの部屋へ行くな。」
「聞いても?」
「駄目だ。」
「分かったわ。」
ルシアは少し残念そうにしたが、素直に頷いた。
その姿に、オルドアイは小さく息を吐く。
怒りはまだある。
だが、会話はできる。
それだけは確かだった。
ガルナに支えられてルシアが広間を出ていく。
紫の羽が扉の向こうへ消えるまで、オルドアイは黙って見送った。
ソータはその横顔を見た。
「ありがとう。」
「礼を言うな。」
「私はまだ怒っている。」
「それでも。」
「……なら、受け取っておく。」
オルドアイはそう言って、炉の火を見た。
その横顔は強く、少しだけ優しかった。
アルベールが静かに近づき、一礼した。
「オルドアイ様。」
「今夜のご判断、誠に見事でございました。」
「褒めても何も出んぞ。」
「恐れ入ります。」
「それよりアルベール。」
「お前にも聞きたいことが山ほどある。」
「はい、オルドアイ様。」
「まず、なぜ吸血鬼の姫が一人で飛んでくる事態を誰も予測できなかった。」
アルベールは穏やかに微笑んだ。
「ルシア様のご成長が、私どもの予想を上回ったためかと。」
「便利な言い方だ。」
「恐れ入ります。」
ソータはそのやり取りを聞きながら、深く息を吐いた。
今夜は終わっていない。
むしろ、始まったばかりだった。
緑と紫が同じ広間に立った。
怒りと謝罪が交わされた。
ソータはルシアを庇い、オルドアイを抱きしめた。
どちらか一方を選んで終わる話ではない。
選んだものを背負い、そのたびに話し、怒られ、許されるかもしれない道を作っていくしかない。
(また荷が増えた。)
(でも、今夜は少しだけ道ができた。)
(まだ細くて、危なっかしい道だけど。)
炉の火がぱちりと鳴った。
北の砦の夜は深まっていく。
その夜の中で、緑の組み紐と紫の羽は、まだ距離を残したまま、同じ屋根の下にあった。




