第141話:夜の羽は砦に降りる
ソータがルシアの城を出たのは、長すぎる夜が少しだけ薄くなった頃だった。
空はまだ黒い。
けれど、霧の向こうに白い気配が混ざり、城の尖塔の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていた。
この領域では、朝という言葉がいつも少し頼りない。
夜が長すぎて、空が明るくなることそのものが、何かの気まぐれのように思える。
城門の前には、ルシアが立っていた。
羽はまだ大きく広げられない。
背中で小さく畳まれ、傷を庇うように黒い外套の下へ収まっている。
アルベールが仕立て直した遮光布の外套は、薄紫の刺繍を夜に溶かし、ルシアを以前より少しだけ大人びて見せていた。
その横にはチャールズがいる。
手には杖。
眼窩の青い火は穏やかで、しかしどこか寂しげだった。
「本当に、もう行くのね。」
ルシアはそう言った。
止める言葉ではなかった。
ただ、確認する言葉だった。
「ああ。」
「男たちの村に戻って、北の砦へ行く。」
「オルドアイにも直接話さないといけない。」
「それから、ミレイユにも。」
ルシアの指が、外套の端を握った。
以前なら、ここで「行かないで」と言ったかもしれない。
いや、言葉にする前に腕を掴んだかもしれない。
けれど今のルシアは、唇を少し噛んだだけで、ソータの前に立ち続けた。
「分かっているわ。」
「私はかなり進んだルシアだから。」
「うん。」
「分かってる。」
「でも、寂しいのは消えないわ。」
「消さなくていい。」
「寂しくても、待ってくれるんだろ。」
ルシアは小さく頷いた。
「待つわ。」
「でも、待っているだけじゃない。」
「謝る練習をする。」
「黒薔薇の訓練もする。」
「骸骨劇団の新作も考える。」
「それから、人間用の朝食も覚えるわ。」
「盛りだくさんだな。」
「寂しい時間を、全部準備にするの。」
その言葉に、ソータは少しだけ胸が熱くなった。
ルシアは本当に変わっている。
ただ自分の城に閉じこもり、欲しいものを掴もうとする吸血鬼の姫ではなくなっている。
誰かに会うために、怒られるために、謝るために、自分を整えようとしていた。
チャールズが一歩前に出た。
「ソータ様。」
「こちらをお持ちくださいませ。」
差し出されたのは、二通の手紙だった。
一通は紅い封蝋。
もう一通は緑に近い黒い糸で結ばれている。
ルシアがミレイユとオルドアイへ宛てたものだった。
何度も書き直し、チャールズに添削され、アルベールに表現を柔らかくされ、最後にまたルシアの素直すぎる言葉が戻された手紙である。
ソータは両手で受け取った。
「必ず届けます。」
「お願いいたします。」
チャールズは深く一礼した。
続いて、ルシアが小さく手を伸ばした。
ソータはその手を握る。
「落とさないでね。」
「落とさない。」
「言葉も。」
「言葉も。」
「私が怖がっていることも、少しだけ伝えて。」
「それも、必要なら。」
「全部言わなくていいわ。」
「でも、私は怖いの。」
「ミレイユに会うのも、オルドアイに会うのも。」
「でも、会いたい。」
「謝りたい。」
「ちゃんと、ソータが好きだって言いたい。」
ソータは言葉に詰まった。
アルベールが横で静かに咳払いする。
その咳払いには、今それを全て手紙に書くと大変なことになります、という含みがあった。
ソータは少し苦笑した。
「それは、順番を考えてな。」
「順番。」
「人間関係は順番が多いわ。」
「大事なんだよ。」
「分かったわ。」
「少しずつにする。」
ルシアは手を離した。
それから、少し迷ってソータを見る。
「頬に、してもいい?」
ソータは周囲を見た。
チャールズは視線を外している。
アルベールはいつものように何も見ていない顔をしているが、絶対に見ている。
スケルトンたちは整列している。
その中の一体は、なぜか小さな花束を持っていた。
「……頬なら。」
ルシアは嬉しそうに近づいた。
外套の裾が揺れる。
背伸びをして、ソータの頬にそっと唇を触れさせる。
短い。
けれど、丁寧なキスだった。
以前のような衝動ではない。
聞いて、待って、許されてからのキスだった。
「行ってらっしゃい。」
ルシアが言った。
「行ってきます。」
ソータは答えた。
アルベールが一礼する。
「ルシア様。」
「チャールズ様。」
「しばしお暇をいただきます。」
「アルベール。」
ルシアが呼び止めた。
「はい、ルシア様。」
「ソータを、ちゃんと返してね。」
「承知いたしました。」
「それから、ミレイユにあまり怖く怒られないようにして。」
アルベールは少しだけ間を置いた。
「努力いたします。」
「その言い方、チャールズと同じで信用できないわ。」
「恐れ入ります。」
チャールズが横で静かに言った。
「ルシア様。」
「努力とは、時に限界を含む言葉でございます。」
「やっぱり信用できないわ。」
ソータは笑った。
その笑いを最後に、二人は霧の道へ歩き出した。
◆◇◆
夜の領域を抜ける道は、来た時よりも静かだった。
ルシアが教えてくれた目印がある。
黒い苔のついた石。
白い霧が逆巻く細い谷。
枯れた木の根元に咲く小さな紫の花。
それらを辿ると、霧は少しずつ薄くなっていった。
ソータは背負った荷を確認した。
神速積載庫には補修材の残り、証拠品として分けた聖具の破片、ルシアの手紙、チャールズが用意した小さな保存食、そして黒薔薇の蜜を厳重に封じた小瓶が入っている。
黒薔薇の蜜は、ルシアが「ミレイユとオルドアイにも少し」と言って持たせようとしたものだ。
だが、アルベールが「初回の謝罪時に甘味を添えるのはよろしいですが、効果の強いものは量を厳格に」と言い、チャールズが三重に封をした。
ソータとしては、絶対に不用意に開けないと決めている。
隣を歩くアルベールは、まるで散歩でもしているようだった。
黒い執事服は霧に濡れず、白手袋も汚れていない。
あの城で大教会の聖具を全て破壊した後とは思えないほど、涼しい顔をしている。
「アルベールさん。」
「はい、ソータ様。」
「ヨーダって人、本当にこれで手を引きますか。」
「当面は。」
「当面。」
「はい。」
「大神官ヨーダ様は、愚かな方ではございません。」
「少なくとも、同じ失敗をすぐ繰り返すほど軽率ではないでしょう。」
「知り合いなんですよね。」
「昔、少々教育を。」
「少々。」
「はい。」
「その少々で、向こうが接触禁止を出すくらいには覚えてたんですね。」
アルベールは穏やかに微笑んだ。
「学びとは、長く残るものでございます。」
「何をしたんですか。」
「基礎教育でございます。」
「基礎教育の内容が怖いんですよ。」
「術式の確認、聖具の管理、状況判断、そして見た目だけで相手を断じぬこと。」
「いずれも基礎でございます。」
「泥水に落としたりは?」
アルベールは少しだけ目を細めた。
「若い頃のことは、細部まで覚えておりません。」
「絶対やってる。」
「ソータ様。」
「過去の教育方法より、今後の報告内容を整理なさる方が建設的でございます。」
「話を逸らした。」
「整理いたしましょう。」
ソータは苦笑した。
確かに、これから北の砦へ行く。
オルドアイに会う。
そこで何をどう話すかは、とても重要だった。
「まず、ルシアが俺を勝手に連れていったことは謝ります。」
「はい。」
「ただ、ルシアが男たちの村を救ったことも説明する。」
「人間の血を吸っていないこと。」
「大教会に襲われたこと。」
「アルベールさんが撃退したこと。」
「今は当面危険が退いたこと。」
「それから、ルシアの手紙を渡す。」
「よろしいかと。」
「……怒りますよね。」
「オルドアイ様が、でございますか。」
「はい。」
「お怒りになるでしょう。」
「ですよね。」
「ただし、怒りとは無関心ではございません。」
「無事を喜ぶ気持ちと、心配した怒りが混ざるものかと。」
「それが怖いんですよ。」
「受け止めるほかございません。」
ソータは深く息を吐いた。
逃げない。
そう決めた。
ミレイユにも、オルドアイにも、ルシアにも。
それでも、怖いものは怖い。
(オルドアイ、怒ってるだろうな。)
(でも、無事は伝わっているはずだ。)
(バルクが行ってくれてる。)
(その上で、俺が直接話す。)
(ちゃんと。)
霧がさらに薄くなった。
普通の森の匂いが戻ってくる。
湿った土。
木の葉。
朝に近い空気。
夜の領域の外へ出たのだ。
しばらく歩くと、男たちの村が見えてきた。
補修は以前より進んでいる。
外柵の割れた部分には新しい木材が組まれ、見張り台も仮の支柱で支えられていた。
村人たちはソータたちの姿を見ると、驚きと安堵の声を上げた。
「ソータだ!」
「戻ったぞ!」
「今度は本当に戻ったのか!」
最後の言葉に、ソータは苦笑した。
「今度は、北の砦へ行きます。」
「また行くのか!」
「今度は戻るために行くんです!」
村人たちは半ば呆れ、半ば笑った。
メバドスが杖を突いて出てくる。
老人の目は鋭かったが、ソータを見ると少しだけ緩んだ。
「戻ったか。」
「はい。」
「ルシアの城は守れました。」
「大教会も当面は手を引くと思います。」
「そうか。」
「なら、まずは生きて戻ったことを喜ぶべきじゃな。」
メバドスはアルベールを見る。
「執事殿。」
「どうやら相当なことをなされたようじゃな。」
「必要な対応を少々。」
「その少々が怖いのう。」
「恐れ入ります。」
メバドスは深く追及しなかった。
賢い老人だった。
知るべきことと、知らなくてもよいことを分けている。
ソータは村で水と簡単な食料を補給し、北の砦への道を確認した。
バルクはまだ戻っていない。
おそらく北の砦にいる。
ガルナと会っているのかもしれないと聞き、ソータは少しだけ笑った。
「バルク、報告できたかな。」
「できていなければ、ガルナに叱られておるじゃろう。」
メバドスが言う。
「それは確かに。」
ソータは荷を整えた。
アルベールも準備を終えている。
男たちの村の者たちに礼を言い、二人は北の砦へ向かった。
◆◇◆
北の砦へ着いたのは、夕暮れが深まり、空が藍色へ変わる頃だった。
見張り台の上で、アマゾネスの一人が声を上げる。
「ソータだ!」
「ソータが戻った!」
「アルベールも一緒だ!」
門の内側が一気に騒がしくなった。
木柵の向こうから何人もの足音が近づく。
門が開く。
その先に、オルドアイが立っていた。
褐色の肌。
長い髪。
戦士の装い。
左腕には緑の組み紐。
彼女は真正面からソータを見ていた。
怒っている。
心配していた。
安堵している。
その全部が顔に出ていた。
「ソータ。」
名前を呼ばれただけで、ソータの背筋が伸びた。
「ただいま、オルドアイ。」
次の瞬間、オルドアイが歩み寄った。
速い。
ほとんど突進だった。
ソータは身構えたが、殴られることはなかった。
代わりに、強く抱きしめられた。
「ぐっ……。」
力が強い。
かなり強い。
だが、ソータは逃げなかった。
オルドアイの腕が震えていたからだ。
「戻ったな。」
「ああ。」
「本当に戻ったな。」
「戻った。」
「また勝手に行ったな。」
「……ごめん。」
オルドアイはさらに力を込めた。
「痛い、オルドアイ、痛い。」
「痛いのは私もだ。」
その一言で、ソータは黙った。
謝罪の言葉を重ねるより、今は抱きしめ返す方がいい気がした。
ソータはゆっくり腕を回し、オルドアイを抱き返した。
彼女の体は熱い。
怒りも安堵も、全部がその熱に混ざっている。
少し離れたところで、ガルナがバルクの脇腹を肘で小突いた。
「見てる場合じゃないでしょう。」
「いや、これは見守るところだろ。」
「あなたはさっきから見守るの名目でずっと私を見てるわ。」
「それは別だ。」
「別じゃない。」
バルクが小声で痛がる。
そのやり取りが耳に入り、ソータは少しだけ笑いそうになったが、オルドアイの腕の力でそれどころではなかった。
やがて、オルドアイはソータを離した。
目元は赤くない。
泣いてはいない。
だが、声は低かった。
「説明してもらう。」
「うん。」
「全部だ。」
「全部話す。」
「言い訳は?」
「しない。」
「報告する。」
オルドアイは少しだけ目を細めた。
「少しは覚えたようだな。」
その言葉に、アルベールが穏やかに一礼した。
「ご無事で何よりでございます、オルドアイ様。」
オルドアイはアルベールを見た。
「アルベール。」
「お前は、どこを通って男たちの村へ来た。」
いきなりそこだった。
アルベールは涼しい顔で答える。
「少々、近道をいたしました。」
「その近道を聞いている。」
「霧と古い魔力線を少々。」
「少々で済ませるな。」
横からヤンガルドアイが現れた。
腕を組み、愉快そうにアルベールを見ている。
「よいではないか、オルドアイ。」
「アルベールなら容易いことよ。」
「母上はそれで済ませすぎです。」
「事実じゃ。」
ヤンガルドアイはアルベールに近づき、にやりと笑った。
「久しいのう、アルベール。」
「相変わらず涼しい顔をしておる。」
「ご無沙汰しております、ヤンガルドアイ様。」
「大教会を泣かせたと聞いたぞ。」
「必要な対応を少々。」
「ほれ、少々じゃ。」
オルドアイは額に手を当てた。
ソータも同じ気持ちだった。
「とにかく、中へ入れ。」
「広間で話を聞く。」
オルドアイの言葉で、ソータとアルベールは北の砦の広間へ通された。
◆◇◆
広間では、すでに人が集まっていた。
ヤンガルドアイ。
オルドアイ。
バルク。
ガルナ。
アマゾネスの戦士たち。
男たちの村との連絡役も数人いる。
中央に置かれた卓の上には、粗い地図と水袋、火の入った灯が置かれていた。
ソータは順を追って話した。
ルシアの城へ戻ったこと。
大教会が白銀の聖結界で城を囲んでいたこと。
ルシアが傷ついていたこと。
チャールズやスケルトンたちも苦しんでいたこと。
アルベールが結界を分析し、隣国式の軍用封鎖術式が混ざっていると見抜いたこと。
ソータが物資で城内への退避路を作ったこと。
アルベールが本気を出し、大教会の聖具を全て破壊したこと。
大神官ヨーダへ「次はない」と伝言を送ったこと。
その結果、当面は大教会が手を出さない可能性が高いこと。
話が進むたび、広間の空気は重くなったり、妙なところで軽くなったりした。
特に、スケルトンたちが油布の上を盾を構えて滑って城へ退避した話では、バルクが目を丸くした。
「骨が滑ったのか。」
「滑った。」
「盾を構えて?」
「盾を構えて。」
「見たかったな。」
ガルナが呆れたように言う。
「そこに食いつかないの。」
「いや、戦術としても興味がある。」
アルベールが静かに頷いた。
「非常時の退避方法としては有効でございました。」
「有効なのか。」
ヤンガルドアイが愉快そうに笑った。
「ソータらしい。」
「荷と布で道を作るか。」
オルドアイは黙って聞いていた。
時折、指先が緑の組み紐に触れる。
怒りは消えていない。
しかし、話を聞くほどに、ソータが戻った理由も分かってしまう。
ルシアが城を守り、男たちの村を救い、大教会に襲われていた。
それを知れば、ソータが放っておけるはずがない。
分かってしまうから、余計に腹が立つのだろう。
ソータは最後に、懐から手紙を出した。
「これを、ルシアから預かってきた。」
広間が静かになった。
オルドアイの目が手紙に向かう。
緑に近い黒い糸で結ばれた封。
そこには、不器用だが丁寧な文字で「オルドアイへ」と書かれていた。
オルドアイはゆっくり受け取った。
「私に。」
「ああ。」
「謝りたいって。」
「心配させたことも、勝手に連れていったことも。」
オルドアイは封を見つめた。
すぐには開けなかった。
その指に力が入っている。
今ここで読めば、感情が揺れる。
それが分かっているのかもしれない。
「読む。」
オルドアイは短く言った。
「ただし、今ではない。」
「まず、話を全て聞いてからだ。」
「分かった。」
ソータは頷いた。
「ルシアは、オルドアイにも会いたいと言っていた。」
「怖がってた。」
「怒られるのが怖いって。」
「でも、逃げないって。」
オルドアイの眉が動いた。
「逃げない、か。」
「うん。」
「勝手に連れ去っておいて、逃げないとは良い度胸だ。」
声は怖かった。
だが、完全な拒絶ではなかった。
ヤンガルドアイが笑う。
「よいではないか。」
「逃げる女よりは、話ができる。」
「母上。」
「斬る前に話を聞いてくれ、とでも言ってきそうじゃ。」
ソータは思わず目を逸らした。
オルドアイがそれを見逃さなかった。
「言ったのか。」
「手紙に……たぶん。」
広間に微妙な沈黙が落ちた。
オルドアイは手紙を見下ろす。
それから、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「斬る前に、か。」
怒りの中に、わずかな笑いが混ざった。
ソータは少しだけ安心した。
その時、見張り台から大きな声が響いた。
「空!」
「北東の空に何かいる!」
広間の空気が一変した。
アマゾネスたちが一斉に立ち上がる。
弓を取る者。
槍を掴む者。
オルドアイも即座に立ち上がった。
「何だ。」
見張りの声が続く。
「羽だ!」
「大きな紫の羽!」
「こちらへ来る!」
ソータの血の気が引いた。
「まさか。」
アルベールも眉を動かした。
「これは……。」
「知っていたのか、ソータ。」
オルドアイの声が低くなる。
「知らない。」
「本当に知らない。」
「ルシアには、城で待つように言ったはずだ。」
「アルベール。」
「私も存じません、オルドアイ様。」
その答えに、広間がさらにざわめく。
ルシアが来た。
しかも夜に。
北の砦へ。
オルドアイに会いに。
ソータは頭を抱えたくなった。
(ルシア。)
(今じゃない。)
(いや、逃げないのは偉い。)
(偉いけど、今じゃないだろ!)
オルドアイは剣に手をかけた。
だが、抜かない。
そのまま門の方へ歩き出す。
「行くぞ。」
ソータも続いた。
アルベールも静かに後ろへつく。
ヤンガルドアイは面白そうに笑い、バルクとガルナも慌ててついてくる。
広間の者たちは一斉に外へ出た。
◆◇◆
北の砦の中庭には、夜風が吹いていた。
空は濃い藍色。
星がいくつも瞬き、砦の灯が木柵を赤く照らしている。
その上空から、紫の羽を広げた影がゆっくり降りてきた。
ルシアだった。
黒い外套をまとい、傷ついた羽を庇いながら飛んでいる。
飛び方は少し不安定だった。
まだ全快ではない。
それでも、彼女は一人で来た。
チャールズの姿はない。
スケルトンの護衛もいない。
ただ一人、夜を越えて北の砦へ降り立とうとしている。
アマゾネスたちは弓を構えた。
緊張が走る。
ルシアはそれに気づき、少し高い位置で止まった。
そして、ゆっくりと両手を上げた。
「攻撃しないわ!」
「私は、話をしに来たの!」
その声は砦の中庭に響いた。
ソータは一歩前へ出た。
「ルシア!」
ルシアの顔がぱっと明るくなった。
「ソータ!」
次の瞬間、彼女は嬉しそうに降りようとした。
だが、オルドアイが前へ出た。
その気配に、ルシアは空中でぴたりと止まった。
オルドアイは見上げた。
紫の羽の吸血鬼姫と、褐色のアマゾネス姫の視線がぶつかる。
中庭の空気が張り詰めた。
誰も笑わない。
バルクでさえ、ガルナを見る余裕を失っていた。
「お前が、ルシアか。」
オルドアイが言った。
ルシアは少しだけ喉を動かした。
怖いのだろう。
だが、逃げなかった。
ゆっくりと地面へ降りる。
羽を畳み、数歩離れた位置で立つ。
そして、深く頭を下げた。
「ええ。」
「私がルシアよ。」
「オルドアイ。」
「あなたに謝りに来たわ。」
ソータは息を呑んだ。
ルシアの声は震えていた。
それでも、はっきりしていた。
「ソータを勝手に連れて行って、ごめんなさい。」
「あなたが待っていることを、後から知ったわ。」
「心配させて、ごめんなさい。」
「私は寂しくて、ソータを帰したくなかった。」
「でも、ソータはあなたにも戻ると言った。」
「だから……。」
「私は、あなたに会って謝りたかったの。」
オルドアイは黙っている。
その手は剣に触れている。
だが、まだ抜かれていない。
「本来は、手紙を先に読んでもらうつもりだったわ。」
「でも、待てなかった。」
「待つ練習をすると言ったのに、少し失敗したわ。」
「それも、ごめんなさい。」
ルシアはさらに頭を下げた。
「斬る前に、話を聞いてください。」
ソータは額に手を当てた。
言った。
やはり言った。
チャールズがいないと止められなかったのだろう。
中庭に微妙な空気が流れる。
ガルナが小さく口元を押さえた。
バルクは目を丸くしている。
ヤンガルドアイは完全に面白がっていた。
オルドアイはしばらくルシアを見ていた。
そして、ゆっくりと剣から手を離した。
「今は斬らん。」
ルシアが顔を上げた。
「本当?」
「話を聞くと言ったわけではない。」
「今は斬らんと言っただけだ。」
「それでも、ありがとう。」
「礼を言うところか?」
「よく分からないけれど、斬られないのは嬉しいわ。」
オルドアイの眉が少し動いた。
怒りたいのに、相手の素直さが妙な方向から来る。
ソータには、その顔が少しミレイユに似て見えた。
何なの、この子。
きっとミレイユならそう言う。
オルドアイは一歩近づいた。
「なぜ来た。」
「ソータもアルベールも知らなかったと言った。」
「お前は傷ついているのだろう。」
「城で待つべきではなかったのか。」
ルシアは外套を握った。
「待とうと思ったわ。」
「でも、ソータがあなたに会いに行くと言った。」
「私は、手紙だけで謝るのが急に怖くなった。」
「ソータの後ろに隠れて謝るのも嫌だった。」
「だから、私だけで来た。」
「怖かったけれど。」
「無謀だな。」
「ええ。」
「チャールズがいたら止めたと思うわ。」
「止められると分かっていて来たのか。」
「ええ。」
オルドアイは深く息を吐いた。
「馬鹿だな。」
「よく言われるわ。」
ソータは小さく呟いた。
「本当に最近よく言われてるな。」
ルシアがちらりとソータを見る。
「ソータにも言われたわ。」
「言った。」
「でも、来たかったの。」
ルシアの瞳がオルドアイへ戻る。
「私は、ソータが好き。」
「それはもう、本当になってしまったわ。」
「だから、あなたに会うのが怖かった。」
「あなたがソータを待っていたことを知ったから。」
「あなたが怒るのは当然だから。」
「でも、怖いから行かないのは、逃げることだと思ったの。」
オルドアイの表情がわずかに変わった。
好きという言葉に反応したのか。
逃げないという言葉に反応したのか。
おそらく、その両方だった。
「私も、ソータが好きだ。」
オルドアイははっきりと言った。
中庭の空気がまた張り詰める。
「だから怒っている。」
「お前がソータを勝手に連れて行ったことも。」
「ソータが戻ったのに、またお前の城へ行ったことも。」
「全部、腹が立つ。」
ルシアは頷いた。
「分かるわ。」
「本当に分かるのか。」
「全部は分からない。」
「でも、待つのが苦しいことは、少し分かった。」
「ソータが城を出た時、胸が痛かった。」
「だから、あなたがもっと痛かったのだと思った。」
オルドアイは黙った。
ルシアは言葉を探しながら続ける。
「私は、あなたの場所を壊したいわけではない。」
「ミレイユの場所も。」
「でも、ソータの隣にいたい。」
「それが悪いことなのか、まだよく分からない。」
「でも、奪うだけは嫌。」
「だから、話したいの。」
オルドアイは左腕の緑の組み紐に触れた。
夜風が吹く。
ルシアの紫の羽が小さく揺れた。
砦の灯が、二人の影を地面に落としている。
長い沈黙の後、オルドアイが言った。
「今夜は、砦に入れ。」
広間の者たちがざわめいた。
ソータも驚いた。
「オルドアイ。」
「黙れ、ソータ。」
「お前の説教は後だ。」
「はい。」
ルシアは目を丸くした。
「入っていいの?」
「外で立ち話をして、傷を悪化させられても困る。」
「それでソータがまたお前の看病に行くと言い出したら、余計に腹が立つ。」
「なるほど。」
「それは困るわね。」
「お前が納得するな。」
オルドアイは少しだけ苛立ったように言ったが、剣には触れなかった。
「ただし。」
「私はまだ許していない。」
「話を聞くだけだ。」
「それから、勝手にソータへ近づきすぎるな。」
ルシアはすぐに頷いた。
「分かったわ。」
「近づく時は聞く。」
「私に聞け。」
「あなたに?」
「そうだ。」
ルシアは真剣に頷いた。
「分かった。」
「オルドアイ、ソータに近づいてもいい?」
「今すぐ聞くな!」
中庭に一瞬の沈黙が落ち、その後、誰かが吹き出した。
バルクだった。
すぐにガルナに脇腹を小突かれる。
「笑わない。」
「無理だ。」
ヤンガルドアイは堂々と笑った。
「面白い女じゃのう。」
「紫の羽の姫か。」
「よい、よい。」
「今夜は退屈せずに済みそうじゃ。」
オルドアイは頭を抱えた。
ソータも同じように頭を抱えた。
アルベールだけが、穏やかに微笑んでいる。
「ソータ様。」
「何ですか、アルベールさん。」
「事態は予定より少々早く進んでおりますが、対話の機会が生まれたことは悪いことではございません。」
「少々早いですか、これ。」
「はい。」
「少々。」
「絶対かなりです。」
アルベールは答えず、一礼した。
ルシアは砦の門の前で、少し不安そうにソータを見た。
ソータは頷いた。
大丈夫だと、言葉にせず伝える。
ルシアは小さく頷き返した。
そして、オルドアイの後について北の砦へ足を踏み入れた。
紫の羽の吸血鬼姫が、緑の組み紐をつけたアマゾネス姫の砦に入る。
それは誰も予想していなかった夜だった。
ソータも知らなかった。
アルベールですら知らなかった。
だが、ルシアは来た。
怖がりながら。
傷ついた羽を畳みながら。
それでも、逃げずに謝るために。
北の砦の灯は、いつもより明るく揺れていた。
そしてその夜、紅い髪紐の持ち主がいない場所で、緑と紫の対話が始まろうとしていた。




