第140話:教会の幼馴染と白い通達
王都の朝は、商人の足音で始まる。
荷車の車輪が石畳を鳴らし、店先の戸板が上げられ、まだ眠そうな見習いたちが桶を抱えて水を運ぶ。
王城へ向かう貴族の馬車と、下町へ向かう魚売りの荷車が同じ通りで行き交い、どこからか焼きたてのパンの匂いが流れてくる。
グランデリアの空気とは違う。
王都は人も物も多く、噂の足も速い。
ミレイユはその朝、クラウゼン本家の応接室ではなく、王都の北側にある小さな教会へ向かっていた。
白い石で造られたその教会は、大教会本部ほど壮麗ではない。
けれど、古くから王都の市民に親しまれている場所で、孤児や貧しい者への施しも多い。
クラウゼン商会も、表向きは寄付という形で何度か支援をしていた。
その縁もある。
だが、今日の目的は寄付ではなかった。
教会にいる幼馴染に会うためだった。
名をランパーニという。
ランパーニは、ミレイユより少し年上の女性だった。
幼い頃、クラウゼン家と付き合いのあった下級貴族の娘で、当時はよくミレイユの家へ遊びに来ていた。
気が強く、よく笑い、ミレイユが帳簿に興味を持ち始めた頃には「また数字と遊んでるの?」とからかってきた相手でもある。
今は教会に身を置き、神官補佐として施しや文書管理を手伝っている。
大教会の上層部に食い込んでいるわけではないが、王都教会の内部事情や、地方支部から届く通達の流れには詳しい。
つまり、噂を拾うにはちょうどよい相手だった。
教会の中庭に入ると、白い布を干していた若い修道女がミレイユに気づき、慌てて頭を下げた。
「クラウゼンのお嬢様。」
「ランパーニ様でしたら、記録室にいらっしゃいます。」
「ありがとう。」
「急ぎではないわ。」
「でも、先に取り次いでくれる?」
「はい。」
修道女が小走りで奥へ向かう。
ミレイユは中庭の端に立ち、教会の鐘楼を見上げた。
白い鐘楼。
朝の光を受けて静かに輝いている。
その清らかな姿を見ながら、ミレイユの胸の中には別の景色が浮かんでいた。
白銀の聖結界。
夜の城を包囲する教会の者たち。
傷つく紫の羽。
そして、その白い光を打ち破るであろうアルベールの姿。
(まだ確定したわけではないわ。)
(でも、アルベールがソータと一緒に向かった以上、何かが起きているはず。)
(大教会の動きを知る必要がある。)
(北方支部の独断か。)
(本部の意向か。)
(隣国とどこまでつながっているのか。)
ミレイユは紅い髪紐に触れた。
その仕草をした瞬間、後ろから聞き慣れた声がした。
「あら。」
「その髪紐に触る時の顔、昔と変わらないわね。」
「何か面倒なことを考えている時の顔よ。」
振り返ると、ランパーニが立っていた。
栗色の髪を肩の後ろでまとめ、白と淡い青の教会服をまとっている。
柔らかな雰囲気だが、目には昔と同じ茶目っ気があった。
神に仕える者らしい穏やかさと、幼馴染をからかう時の遠慮のなさが同居している。
「久しぶりね、ミレイユ。」
「久しぶり、ランパーニ。」
「王都に戻ったと思ったら、すぐ教会へ来るなんて。」
「懺悔?」
「違うわ。」
「恋の悩み?」
「それも違うわ。」
「その返事の速さは怪しいわね。」
「用件は教会の動向よ。」
「はいはい。」
「商会令嬢の顔に戻ったわ。」
「でも、目元は恋の悩みも混ざってる。」
「ランパーニ!」
「怒らないで。」
「記録室へどうぞ。」
「お茶くらいは出すわ。」
「教会のお茶だから、商会の最高級品には負けるけれど。」
「情報が良ければ、お茶の質には文句を言わないわ。」
「怖い商人になったわねえ。」
ランパーニは笑いながら、ミレイユを奥へ案内した。
◆◇◆
記録室は、羊皮紙と古い紙の匂いがした。
壁一面に棚が並び、地方支部から届いた報告書、寄付の記録、施しの名簿、儀式の予定表が分類されている。
窓は小さいが、光は十分に入る。
中央の卓には、すでに茶が用意されていた。
ランパーニは扉を閉め、少しだけ表情を改めた。
「さて。」
「教会の動向ということだけれど、北方の件ね?」
ミレイユは目を細めた。
「もう知っているの?」
「あなたが聞きに来るくらいだから、その辺りだろうと思っただけ。」
「最近、北方支部から妙な照会が増えていたの。」
「聖具の追加申請、聖香の大量発注、銀杭の補充。」
「それから、古い夜域に関する文献の閲覧申請。」
ミレイユは茶に手を伸ばさず、身を乗り出した。
「古い夜域。」
「ええ。」
「正式な地図には載っていないけれど、古い文献には時々出てくるわ。」
「夜が長く、霧が流れ、黒い城がある領域。」
「吸血鬼族の伝承と結びついている場所ね。」
「吸血鬼族は、教会ではどう扱われているの?」
「基本的には滅んだもの。」
「少なくとも、今世に生き残りがいると公に認めてはいないわ。」
「ただ、古い神学では、人間とも魔族とも異なる夜の種族として記録されている。」
「危険視はされているけれど、必ずしも単純な魔物扱いではないわ。」
ミレイユは少しだけ意外に思った。
「大教会は、見つけ次第滅ぼすという立場ではないのね。」
「表向きはね。」
「ただ、現場の支部や強硬派は別。」
「夜、アンデッド、血、羽。」
「そういう言葉だけで不浄と決めつける者はいるわ。」
「北方支部の大神官は?」
「ヨーダ猊下ね。」
「大神官ヨーダ。」
ミレイユはその名を静かに繰り返した。
ランパーニは頷く。
「北方支部の古株よ。」
「規律に厳しく、若い神官からは恐れられているわ。」
「ただし、愚かではない。」
「むしろ、慎重な人だと思っていたのだけれど……最近の北方支部の動きは少し荒い。」
「ヨーダ本人の指示ではない可能性がある?」
「あるわ。」
「地方支部は一枚岩ではないもの。」
「若い強硬派、隣国とのつながりを持つ寄進者、武装神官団の現場判断。」
「いろいろ混ざる。」
「特に北方は、隣国との境も近いでしょう?」
ミレイユは頷いた。
「隣国式の軍用封鎖術式が混ざっている可能性があるわ。」
ランパーニの目が鋭くなった。
「それ、どこで聞いたの?」
「信頼できる筋から。」
「便利な言い方ね。」
「あなたも使うでしょう。」
「使うわ。」
ランパーニは少し考え込み、声を落とした。
「もし本当に教会の聖結界に隣国式の軍用封鎖術式が混ざっているなら、かなりまずいわ。」
「祈りの術式と軍の封鎖は目的が違う。」
「前者は浄化や防護。」
「後者は包囲と遮断。」
「混ぜれば、聖なる名目で軍事行動ができてしまう。」
「まさに、それを心配しているの。」
「あなたの知る誰かが、その夜域にいるのね。」
ミレイユは少し沈黙した。
ランパーニは幼馴染だ。
だが、全てを話すわけにはいかない。
それでも、完全に隠せる相手でもなかった。
「ソータが関わっているわ。」
「噂の運送屋さん?」
「ええ。」
「ああ。」
「顔が怖い理由が分かった。」
「怖くない。」
「怖いわ。」
「恋人が吸血鬼の城にいる顔よ。」
「恋人とは言っていないわ。」
「では、恋人未満をそんな顔で心配するの?」
ミレイユは茶を飲んだ。
今度は熱くなかった。
それでも、喉に少し引っかかった。
「……話を戻しましょう。」
「逃げたわね。」
「戻しましょう。」
ランパーニは肩をすくめた。
「分かったわ。」
「ヨーダ猊下について調べておく。」
「北方支部から王都へ出ている通達も見られる範囲で確認するわ。」
「ただし、大教会本部の秘匿文書までは無理よ。」
「十分よ。」
「無理はしないで。」
「あなたに言われると説得力がないわね。」
「私は無理ではなく必要な行動をするだけ。」
「昔からそう言って無理をするのよ。」
ランパーニは苦笑しながら、棚から数枚の写しを取り出した。
「これは最近の物資照会の控え。」
「持ち出しはできないけれど、ここで見る分には構わないわ。」
ミレイユはすぐに目を通した。
聖香。
銀杭。
結界石。
祈祷布。
浄化用の白石灰。
確かに、北方支部からの申請量が通常より多い。
しかも時期が重なる。
誰かがかなり本格的に動いていた。
(やはり、夜の城を包囲するつもりだった。)
(アルベール、間に合っていればいいけれど。)
その時、ミレイユの胸に小さな不安が走った。
アルベールなら大丈夫。
そう思っている。
だが、アルベールは万能ではない。
ソータもいる。
ルシアもいる。
相手は大教会の聖術と、隣国の術式を混ぜた包囲かもしれない。
ミレイユは紅い髪紐に触れそうになり、途中で手を止めた。
ランパーニが見ている。
しかし、ランパーニはもう見ていた。
「触りかけたわね。」
「見ていないで、資料を出して。」
「はいはい。」
◆◇◆
その日から三日間、ミレイユは王都で情報を集め続けた。
クラウゼン本家の人脈を使い、香油商、銀細工商、馬車組合、教会へ納品する布商を当たった。
大教会北方支部へ確かに大量の物資が流れていた。
しかも、一部は隣国商人を経由している。
名目は浄化遠征の準備。
対象は不明。
だが、ミレイユには十分だった。
夜の城が狙われている。
それはほぼ確実だった。
苛立ちと不安は、日に日に積もった。
アルベールからの連絡はない。
ソータからの手紙も来ない。
骨の使者も現れない。
ただ、王都の噂だけが忙しく動いている。
母は毎朝、ミレイユを見ては余計なことを言った。
「今日も紅い髪紐が苦労しているわね。」
「髪紐は苦労しません。」
「あなたが触りすぎるから、きっと疲れているわ。」
「物に感情を与えないでください。」
「恋をしている娘は、物にも感情を与えるものよ。」
「お母様。」
「怒った顔で朝食を食べると、パンが硬くなるわよ。」
「なりません!」
そんなやり取りで少しは気が紛れたが、不安は消えなかった。
ミレイユは動ける。
情報を集められる。
命令も出せる。
だが、今すぐ夜の城へ行くことはできない。
その距離がもどかしかった。
三日目の夕方、ランパーニから使いが来た。
短い文には、ただ一言だけ書かれていた。
至急、記録室へ。
ミレイユはすぐに馬車を出させた。
教会へ着く頃には、空は茜色から薄紫へ変わり始めていた。
中庭の影が長く伸びている。
ランパーニは記録室の扉の前で待っていた。
その顔は、いつもの茶化す笑みを消していた。
「来て。」
ランパーニはそれだけ言い、ミレイユを中へ入れた。
扉を閉める。
卓の上には、新しい通達の写しが置かれていた。
白い紙に、大教会北方支部の印。
大神官ヨーダの名。
ミレイユはそれを見た瞬間、胸が静かに鳴った。
「何が出たの。」
ランパーニは紙を指で示した。
「北方支部から、全支部へ緊急通達。」
「夜の城への一切の接触を禁ずる。」
「該当する夜域への無断接近、調査、浄化、討伐、監視を禁止。」
「現存する吸血鬼族について、人間への直接加害が確認されるまで討伐対象としない。」
「聖具の無断展開、および隣国術式との混用を厳禁。」
「違反者は大神官ヨーダの名において処罰する。」
ミレイユは通達を手に取った。
文字を目で追う。
何度も追う。
間違いではない。
本当に、夜の城への接触が禁じられている。
しかも、吸血鬼族への独断討伐まで禁じられている。
あまりにも急な方針転換だった。
「三日前まで、浄化遠征の準備をしていたのに。」
「ええ。」
「何が起きたの。」
ランパーニは椅子に座り、声をさらに落とした。
「噂だけれど。」
「北方の浄化部隊が壊滅寸前で戻ったらしいわ。」
ミレイユの指が紙を握る。
「壊滅。」
「死者は出ていないらしい。」
「でも、聖具はほぼ全損。」
「結界石も破壊。」
「祈祷布も銀杭も使い物にならない。」
「部隊の者たちはひどく怯えていたとか。」
「吸血鬼にやられたの?」
「そこが妙なの。」
「噂では、吸血鬼族の方を持った人間がいたらしいわ。」
ミレイユはゆっくり顔を上げた。
「人間。」
「ええ。」
「老執事のような男だとか、黒服の魔法使いだとか、白手袋の怪物だとか、話がばらばら。」
「その人間が、非常識な大魔法で聖魔法をことごとく打ち破ったそうよ。」
「聖結界を逆流させたとも、聖具だけを狙って全て破壊したとも、空間を歩いたとも言われているわ。」
ミレイユは無言だった。
ランパーニはその顔を見て、少し眉を上げた。
「心当たりがある顔ね。」
ミレイユは通達を卓に置いた。
「ありすぎるわ。」
「誰?」
「うちの執事。」
ランパーニは一瞬、瞬きをした。
そして、ゆっくり繰り返した。
「うちの執事?」
「ええ。」
「あなたのところのアルベールさん?」
「ええ。」
「あの、お茶を淹れるのが上手くて、昔あなたが転んだ時に音もなく現れて手当てしてくれた、あの穏やかな老執事?」
「その人。」
「非常識な大魔法で聖魔法をことごとく打ち破った人間が?」
「おそらく、その人。」
ランパーニはしばらく黙った。
そして、額に手を当てた。
「クラウゼン家の執事って、どうなっているの?」
「私も時々そう思うわ。」
ミレイユは小さく息を吐いた。
緊張が解けたわけではない。
だが、胸の奥に溜まっていた重い不安が、少しだけ形を変えた。
アルベールが動いた。
それもかなり本気で。
そして、大教会は引いた。
大神官ヨーダの名で、夜の城への接触を禁じた。
(アルベール。)
(やりすぎていないでしょうね。)
(いいえ、やりすぎたからこうなったのね。)
(でも、ソータは無事。)
(少なくとも、城は守られた可能性が高い。)
(ルシアも、おそらく。)
ミレイユは紙の文面をもう一度見た。
現存する吸血鬼族について、人間への直接加害が確認されるまで討伐対象としない。
これは大きい。
ルシアの立場が、少なくとも大教会の一部からは一時的に守られる。
もちろん、全ての強硬派が従うとは限らない。
それでも、公式な通達が出た意味は重かった。
「ヨーダ猊下は、なぜここまで急に引いたのかしら。」
ランパーニが言った。
「噂では、その老執事が大神官ヨーダへ伝言を残したらしいわ。」
「内容までは分からないけれど、ヨーダ猊下が顔色を変えたとか。」
ミレイユは目を閉じた。
「アルベールね。」
「確信してるのね。」
「ええ。」
「どんな伝言だったと思う?」
ミレイユは少し考えた。
アルベールのことだ。
怒鳴りはしない。
脅しも露骨にはしない。
ただ、穏やかに、逃げ道を塞ぐように言う。
ミレイユの脳裏に、老執事の静かな声が浮かんだ。
「おそらく。」
「次はない、とでも言ったのでしょうね。」
ランパーニは目を丸くした。
「それは怖いわ。」
「本人は丁寧に言ったはずよ。」
「丁寧な方が怖いこともあるわ。」
「そうね。」
ミレイユは初めて少し笑った。
ランパーニはその笑顔を見て、少し安心したように肩を下ろす。
「とりあえず、夜の城の危険は回避されたと見ていいのかしら。」
「当面は。」
「少なくとも大教会が公式に再攻撃する可能性は下がったわ。」
「隣国絡みの問題は残るけれど、教会の名目で動くのは難しくなった。」
「あなたのソータさんも、少しは安全になった?」
ミレイユは反射的に言い返しかけた。
あなたの、ではない。
そう言おうとして、止める。
「そうだといいわ。」
ランパーニはにやりと笑う。
「否定しなかった。」
「今は疲れているの。」
「素直じゃないわね。」
「素直になる相手は選ぶわ。」
「では、ソータさんには?」
ミレイユは通達の写しを丁寧に折りたたんだ。
「戻ってきたら考えるわ。」
「怖い言い方。」
「怖くて結構。」
◆◇◆
教会を出る頃には、王都には夜が降りていた。
街灯に火が入り、石畳に淡い光が落ちている。
ミレイユは馬車へ乗り込む前に、一度だけ教会の白い鐘楼を振り返った。
大教会の名は大きい。
神の名はさらに大きい。
だが、その名を使う者がいつも正しいわけではない。
アルベールはそれを教会の者たちへ叩きつけたのだろう。
(神の名を、準備不足の言い訳にするな。)
(アルベールなら、そんなことを言いそうね。)
ミレイユは少しだけため息をついた。
(本当に、どこまでやったのかしら。)
(でも、よくやったわ。)
(あとで叱るけれど。)
馬車がクラウゼン本家へ向かって走り出す。
窓の外で王都の灯が流れていく。
ミレイユは膝の上で手を組んだ。
紅い髪紐には触れなかった。
今は、少しだけ心が落ち着いていた。
夜の城は守られた。
大教会は退いた。
大神官ヨーダは接触禁止を出した。
なら、あとは待つだけだ。
アルベールが戻ってくるのを。
ソータが戻ってくるのを。
そして、全てを報告させるのを。
(ソータ。)
(無事でいなさい。)
(それから、ちゃんと戻ってきなさい。)
(あなたがどれだけ荷を増やしていても、私は中身を確認してあげる。)
(ただし、勝手に積んだ分の説明は全部してもらうわ。)
クラウゼン本家に戻ると、玄関には母がいた。
なぜか待っていた。
薄い羽織を肩にかけ、にこにこと笑っている。
「お帰りなさい。」
「少し顔がましになったわね。」
「お母様。」
「なぜ玄関に?」
「娘の顔を見れば、北方の男が生きているかどうか分かるかと思って。」
「生きていると確定したわけではありません。」
「ただ、夜の城への危険は当面回避されたようです。」
「あら。」
「それは良かったわ。」
「では、あとは帰ってきた男をどう裁くかね。」
「裁くとは言っていません。」
「説教はするのでしょう?」
「します。」
「ほら、裁きだわ。」
「違います。」
母は笑いながら、ミレイユの横に並んだ。
「夕食は残してあるわ。」
「苛立ちが少し減った娘には、温かいものを食べさせないとね。」
「私は子供ではありません。」
「子供ではないけれど、娘よ。」
ミレイユは言い返せなかった。
母はこういうところで急に正面から来る。
ずるい。
そう思いながらも、ミレイユは少しだけ肩の力を抜いた。
「お母様。」
「何?」
「アルベールが帰ったら、少し叱ります。」
「少しで済むの?」
「内容次第です。」
「ソータさんは?」
「かなり叱ります。」
「あらまあ。」
母は楽しそうに目を細めた。
「帰ってくる人がいるって、いいことね。」
その言葉に、ミレイユは静かに足を止めた。
少しだけ胸が痛んだ。
怒れるのも、叱れるのも、帰ってくると信じているからだ。
戻らない相手には、説教もできない。
ミレイユは小さく頷いた。
「ええ。」
「だから、戻ってもらわないと困ります。」
母はそれ以上茶化さなかった。
二人は並んで廊下を歩いた。
王都本家の灯は暖かく、廊下の奥から食事の香りがしていた。
北方の夜とはまるで違う場所。
けれど、その灯の下で、ミレイユは確かにソータを待っていた。
あとは、アルベールとソータが戻ってくるのを待つだけだった。
そして戻ってきた時には、紅い髪紐の下で、笑顔ではない笑顔を用意しておく。
それがミレイユなりの愛情であり、怒りであり、覚悟だった。




