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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第139話:紅い髪紐と王都の母

 ミレイユがグランデリアを出たのは、アルベールを男たちの村へ送り出した後だった。

 正確には、送り出したというより、命じた。

 ソータの行方を確認し、必要なら保護し、状況次第ではその場で判断して動くこと。

 北方の霧、吸血鬼族、骨の使者、紫の羽。

 あまりにも不確定な要素が多すぎる。

 ミレイユはそれらを机の上に並べるように整理し、最も確実に動ける駒を一つ選んだ。


 アルベールだった。


「ソータを見つけなさい。」

「無事を確認するだけでなく、危険があるならその場で動いて。」

「私への報告は後でいいわ。」

「ただし、勝手な余計事は最低限にしなさい。」


 執務室でそう告げた時、アルベールはいつものように静かに一礼した。


「承知いたしました、ミレイユ様。」

「ソータ様の安全を第一とし、北方の状況を確認してまいります。」


「第一よ。」

「第二でも第三でもなく、第一。」


「心得ております。」


「あと、ソータに変な薬を飲ませない。」


「……心得ております。」


「今、間があったわね。」


「ミレイユ様のご命令を胸に刻んでおりました。」


「便利な言い訳ね。」


 ミレイユは目を細めた。

 アルベールは何食わぬ顔で微笑む。

 この老執事が有能なのは疑いようがない。

 だが、有能だからこそ余計なこともできてしまう。

 ミレイユはそこを一番警戒していた。


「いい?」

「今回はソータを探すの。」

「北方の状況を確認するの。」

「女の城に入って、妙な香を焚いたり、滋養だの回復だのを理由に変なことをしない。」


「ミレイユ様。」

「私を何だと思っておいででございますか。」


「有能な問題児。」


「恐れ入ります。」


「褒めてないわ。」


 それでも、アルベールを送るしかなかった。

 ミレイユ自身がすぐ北へ向かうには、情報が少なすぎた。

 グランデリア支部には商会の仕事も残っている。

 しかも、ソータがいない。

 アルベールもいない。

 この二人が同時に不在になると、普段ならかなり不便になる。

 だが、ミレイユには別の手があった。


 王都の実家へ移動することだった。


 王都のクラウゼン本家。

 そこには人も物も情報も揃っている。

 商会の者たちにはすでに伝言を残してある。

 北方からの使者、骨の使い、アルベールからの連絡、ソータからの手紙。

 どれが来ても、王都本家へ転送するよう命じた。

 グランデリア支部の実務も、代理の番頭と支配人に任せられる。

 何より、本家にいれば、アルベールがいなくても身の回りに困らない。


 だから合理的には正しい。

 ミレイユはそう判断した。

 判断したのだが。


(正しいのよ。)

(今、王都へ移動するのは正しい。)

(情報を集めるにも、家の力を使うにも、王都の方がいい。)

(アルベールがいない間、支部に残るより安全で効率的。)

(分かっているわ。)

(分かっているけれど。)


 馬車の揺れの中で、ミレイユは何度も紅い髪紐に触れていた。

 指先が無意識に結び目をなぞる。

 そのたびに、ソータの顔が浮かぶ。

 困ったように笑う顔。

 荷を背負って走る背中。

 何かを選ぶ時、少しだけ目つきが変わる瞬間。

 そして今は、紫の羽の女の城へいるかもしれないという事実。


(あの人は、また誰かを助けようとしている。)

(きっとそう。)

(それは分かる。)

(分かるから腹が立つのよ。)


 ミレイユは窓の外を見た。

 王都へ続く道は整っている。

 クラウゼン商会の馬車は揺れも少なく、護衛も優秀だった。

 道中で何かが起きる気配はない。

 だからこそ、考える時間がありすぎた。


(ソータ。)

(戻ってきたら、まず座らせる。)

(言い訳から聞く。)

(いいえ、報告から聞くと言ったら少しは成長を認めてあげてもいい。)

(でも説教はする。)

(絶対にする。)

(それから、紫の羽の女。)

(ルシアと言ったかしら。)

(手紙の文面は素直だった。)

(素直すぎた。)

(ああいう子は面倒なのよ。)

(悪気がない分、余計に。)


 ミレイユは深く息を吐いた。

 商会令嬢としての理性は、状況を冷静に見ている。

 ルシアは敵と決めつけるべきではない。

 ソータを救った可能性が高い。

 男たちの村も救ったらしい。

 吸血鬼族という存在は危険だが、交渉の余地はある。

 むしろ、夜の領域との連絡路を確保できれば、北方物流網に大きな意味を持つ。


 だが、女としてのミレイユは別のことを考えていた。


(勝手に連れて行った。)

(ソータを。)

(私のソータを。)


 その瞬間、ミレイユは自分で眉間を押さえた。


(私の、って何よ。)

(いいえ、私のよ。)

(でも、オルドアイもいる。)

(そこはもう認めた。)

(認めたからといって、何人でも増えていいわけじゃないのよ。)

(ソータもソータよ。)

(どうして行く先々で面倒な女を拾ってくるの。)

(荷物だけ運んでいればいいのに。)


 馬車の中で、ミレイユは静かに苛立っていた。

 表情は崩していない。

 護衛や御者から見れば、いつも通りの若き商会令嬢だろう。

 しかし、膝の上で組まれた指は、少しだけ強く握られていた。


◆◇◆


 王都のクラウゼン本家は、相変わらず大きかった。

 商会本店と屋敷が半ば一体となった建物で、正門にはクラウゼン家の紋章が掲げられている。

 石造りの立派な門。

 磨かれた広い玄関。

 荷馬車の出入りする裏門。

 使用人、番頭、帳簿係、護衛、取引先の使者。

 すべてが忙しく動いていた。


 ミレイユが馬車から降りると、使用人たちが一斉に頭を下げた。


「お帰りなさいませ、ミレイユお嬢様。」


「ええ。」

「北方からの伝令が来た場合は、最優先で私へ。」

「グランデリア支部からの文も同じ。」

「アルベールからの連絡は封を開けずにそのまま。」

「骨の使いが来ても騒がないこと。」

「逃げる前に、まず私へ知らせなさい。」


 使用人たちが一瞬固まった。


「骨の、使いでございますか。」


「ええ。」

「帽子を被った外套姿なら、おそらく使者よ。」

「門前で斬ったり、塩を撒いたりしないこと。」


「承知いたしました。」


 屋敷の執事代理が真剣に頷く。

 王都本家の使用人は鍛えられている。

 お嬢様が骨の使いと言えば、骨の使いなのだ。

 動揺はするが、仕事はする。

 それがクラウゼン本家だった。


 ミレイユは玄関を上がり、手袋を外した。

 その瞬間、奥の階段から明るい声がした。


「あらあら。」

「ずいぶん物騒なお帰りね、ミレイユ。」


 ミレイユの肩が微かに強張った。


 階段の上に立っていたのは、母だった。

 クラウゼン夫人。

 柔らかな金茶色の髪を上品にまとめ、落ち着いた深緑のドレスをまとっている。

 目元は優しげだが、その奥には商会の幹部たちですら油断できない鋭さがある。

 笑顔は美しい。

 だが、ミレイユはその笑顔が一番厄介だと知っていた。


「お母様。」


「ええ、お帰りなさい。」

「まずは無事で何よりね。」

「それで、骨の使いとは何かしら。」

「それから、あなたの執事はどこへ行ったのかしら。」

「ついでに、ソータさんはなぜ一緒ではないのかしら。」


 畳みかけるような問いだった。

 ミレイユは一瞬だけ目を閉じた。


「順番に説明します。」


「あら、助かるわ。」

「でもその前にお茶にしましょう。」

「あなた、顔が怖いもの。」


「怖くありません。」


「怖いわ。」

「帳簿を三冊同時に燃やされた時より怖い顔をしているわ。」


「そんなことはありません。」


「では、婚約者でもない男性がまた別の女性に関わっていて、それを理性で処理しようとしている娘の顔ね。」


 ミレイユは返事に詰まった。

 母はにこにこと微笑んでいる。

 何もかも見透かしているようだった。


「お母様。」

「まだ何も話していません。」


「顔に書いてあるわ。」


「皆、それを言えばいいと思っていませんか。」


「実際に書いてあるのだもの。」

「赤い髪紐を触る回数が多すぎるわよ。」


 ミレイユは無意識に髪紐へ触れていた手を止めた。

 母はそれを見て、さらに笑みを深める。


「ほら。」


「……お茶にしましょう。」


「そうしましょう。」


◆◇◆


 王都本家の応接室は、グランデリア支部の執務室よりもずっと華やかだった。

 淡いクリーム色の壁紙。

 磨かれた木の卓。

 季節の花。

 大きな窓から入る昼の光。

 ミレイユは窓際の席に座り、母は向かいに座った。

 使用人が茶と焼き菓子を並べ、静かに下がる。


 母は優雅に茶を一口飲んだ。


「では、説明をどうぞ。」


 ミレイユは姿勢を正した。


「ソータが北方で行方不明になりました。」


「いきなり重いわね。」


「紫の羽を持つ女性に連れ去られたとの報告がありました。」

「後に手紙が届き、彼が無事であることは確認しました。」

「その女性はルシアと名乗り、吸血鬼族です。」


 母は茶器を置いた。


「吸血鬼族。」


「はい。」

「人間の血は吸っていないと手紙にはありました。」

「ソータは介抱され、城に留められていたようです。」

「ただし、本人は戻る意思を示しており、手紙も送ってきました。」


「ふうん。」


 母は少し考えるように目を細めた。


「それで、アルベールは?」


「ソータの帰還経路を確認するため、男たちの村へ向かわせました。」

「同時に、北方の情勢確認も。」

「大教会と隣国の動きが気になったためです。」


「あなた、アルベールなしで支部に残るより、本家へ戻った方が効率的だと判断したのね。」


「その通りです。」

「商会の者には全て伝言済みです。」

「北方からの連絡は本家へ転送されます。」

「ここなら、アルベール不在でも実務に支障はありません。」


「合理的ね。」


「はい。」


「でも、苛立っているわね。」


 ミレイユは茶を飲んだ。

 少し熱かった。

 それでも顔には出さない。


「状況が不安定ですので。」


「違うわ。」

「ソータさんがまた女性を増やしてきそうだからでしょう。」


 ミレイユは咳き込みかけた。


「増やしてきそう、という言い方はやめてください。」


「あら、違うの?」


「状況は恋愛問題だけではありません。」

「北方物流路、吸血鬼族、大教会、隣国の軍事的関与。」

「全てが絡んでいます。」


「ええ、そうね。」

「でも恋愛問題もあるわ。」


「……否定はしません。」


 母は楽しそうに笑った。


「あなた、昔からそういうところがあるわね。」

「机の上に書類を並べるみたいに気持ちまで整理しようとする。」

「でも、恋は帳簿みたいには合わないわよ。」


「合わないからこそ、管理が必要です。」


「出たわ。」

「管理。」


 母は焼き菓子を一つ取った。


「ソータさん、管理できているの?」


 ミレイユは黙った。


「できていないのね。」


「本人に自覚が足りません。」


「娘がついに男の自覚不足を嘆く年になったのね。」

「お母様、感慨深いわ。」


「茶化さないでください。」


「茶化していないわ。」

「半分くらいは本気よ。」


「半分は茶化しているのですね。」


「ええ。」


 ミレイユは眉間を押さえた。

 母と話すと、どうしても調子が狂う。

 商会の取引先なら、相手の出方を読んで主導権を握れる。

 貴族相手でも、数字と条件で押し返せる。

 だが母は違う。

 ミレイユの理屈の隙間に、平然と感情の指を差し込んでくる。


「それで。」

「オルドアイさんは、この件を知っているの?」


「手紙は届いているはずです。」

「ソータの無事については。」

「ただし、今回の大教会の動きまでは分かりません。」

「北の砦からの報告を待つ必要があります。」


「大変ね。」

「紅い方と緑の方と紫の方。」


「色で呼ばないでください。」


「分かりやすいじゃない。」

「あなたが紅。」

「オルドアイさんが緑。」

「ルシアさんが紫。」

「ソータさんは荷車色かしら。」


「荷車色とは何ですか?」


「よく働く色よ。」


 ミレイユは思わず笑いそうになり、すぐに表情を引き締めた。

 笑ってはいけない気がした。

 母に流される。

 だが、母はそれを見逃さない。


「あら、今ちょっと笑いそうになったわね。」


「なっていません。」


「なったわ。」


「なっていません。」


「意地っ張り。」


「お母様ほどではありません。」


「そこは似たのね。」


 母は満足そうに頷いた。


◆◇◆


 やがて話は、より具体的な方針へ移った。

 ミレイユは北方の地図を広げ、男たちの村、北の砦、グランデリア、王都、そしてルシアの城と思われる方角を指で示した。


「問題は、夜の領域が正式な地図に載っていないことです。」

「ソータの手紙によれば、城の内側では夜が長く感じられるものの、領域そのものは広大ではない。」

「方向さえ誤らなければ徒歩でも抜けられるようです。」

「ただし、霧の条件が分かりません。」

「連絡手段も骨の使者頼みです。」


 母は地図を覗き込んだ。


「骨の使者を商会の伝令網に組み込む時代が来るとは思わなかったわ。」


「まだ組み込みません。」


「いずれ組み込む顔をしているわよ。」


「必要なら検討します。」


「ほら。」


 ミレイユは無視して続けた。


「大教会が絡むなら、王都でも情報を取る必要があります。」

「北方支部だけの動きなのか、本部の指示なのか。」

「隣国式の軍用封鎖術式が混ざっているなら、軍事的意図もある。」

「アルベールが確認してくれるはずですが、こちらでも裏を取ります。」


「その辺りは、お父様の人脈を使いなさい。」

「大教会に出入りする商人もいるわ。」

「それから、香油商にも当たりなさい。」


「香油商?」


「教会の儀式には香が使われるでしょう。」

「大量の聖香、封鎖用の粉、銀具の注文があれば痕跡が残るわ。」


 ミレイユは目を細めた。


「なるほど。」

「物資の流れから追うのですね。」


「あなたの得意分野でしょう。」


「はい。」

「すぐ手配します。」


 母はにっこり笑った。


「こういう時のあなたは本当に頼もしいわ。」

「恋で苛立っている娘とは思えないほど。」


「最後の一言が余計です。」


「余計なことを言うのが母の役目よ。」


「違います。」


「違わないわ。」


 ミレイユは諦めて茶を飲んだ。

 冷めてちょうど飲みやすくなっていた。


 母はふと声を柔らかくした。


「でもね、ミレイユ。」

「苛立つのは悪いことではないわ。」


 ミレイユは母を見た。


「怒りも、嫉妬も、不安も。」

「全部、あなたが本気でその人を大事に思っている証でしょう。」

「商売では邪魔になることもあるけれど、人生ではそういうものも必要よ。」


「必要だからといって、振り回されるつもりはありません。」


「ええ。」

「だからあなたは強いの。」

「でも、強いからといって、痛くないふりばかりしなくていいわ。」


 ミレイユは言葉を失った。

 母の声は茶化していなかった。

 そこには、本当に娘を案じる響きがあった。


「あなたは待つのが苦手ね。」


「待つのが苦手なのではなく、状況が見えないのが嫌いなのです。」


「ほら、苦手じゃない。」


「違います。」


「同じようなものよ。」


 母は微笑んだ。


「ソータさんは、きっとまた荷を増やして帰ってくるわ。」

「あなたは怒るでしょうね。」

「それでいいのよ。」

「でも、その荷を見てから判断しなさい。」

「開ける前の荷箱を蹴飛ばす商人はいないでしょう?」


 ミレイユは少し黙った。

 それから、ゆっくり頷いた。


「中身を確認してから、必要なら返品します。」


 母が吹き出した。


「返品できるの?」


「返品不可の場合は、保管条件を厳しくします。」


「あら怖い。」


「怖くて結構です。」


 母は楽しそうに笑った。


「やっぱりあなた、良い商人だわ。」


◆◇◆


 その後、ミレイユはすぐに動き始めた。

 王都本家の番頭を呼び、北方支部、大教会周辺、香油商、銀細工商、馬車組合への照会を命じる。

 グランデリア支部には、北方からの骨の使者が来た場合の対応を再通達した。

 門番へは、帽子を被った無口な旅人が手紙を見せたら、絶対に追い返さないよう念押しする。

 ただし、屋敷内へ入れる前に必ず責任者を呼ぶこと。

 骸骨であっても礼を欠かないこと。

 怖くても叫ばないこと。

 この三つを特に強調した。


 その通達を聞いた若い書記は、真剣な顔で確認した。


「お嬢様。」

「骸骨であっても、お茶はお出ししますか。」


 ミレイユは少し考えた。


「飲めるか分からないけれど、礼として用意はしなさい。」


「菓子は。」


「骨なら食べないでしょう。」


「では飾りとして。」


「そうね。」

「失礼のない程度に。」


 書記は真面目に頷き、帳面に書き込んだ。

 ミレイユはその様子を見て、自分が何を指示しているのか少し分からなくなった。


(骨の使者への茶菓子対応。)

(商会の業務も広がったものね。)


 そこへ母が通りかかった。


「あら、もう骨のお客様への接客手順を作っているの?」


「必要に迫られてです。」


「いずれ『アンデッド対応標準規定』ができそうね。」


「作るなら私が監修します。」


「ほら、やる気じゃない。」


「必要なら、です。」


 母はまた笑った。


 ミレイユは少しだけ顔を背けた。

 母の前では、どれだけ取り繕っても見透かされる。

 腹が立つ。

 でも、少しだけ気が楽になるのも事実だった。


 夜になり、ミレイユは本家の自室へ入った。

 久しぶりの部屋だった。

 幼い頃から使っていた机。

 壁の本棚。

 商会の帳簿を初めて読んだ時に使った小さな椅子。

 窓の外には王都の灯が広がっている。

 グランデリアとは違う賑わい。

 遠く、王城の塔も見えた。


 ミレイユは机に座り、手紙用の紙を出した。

 宛先はまだ書かない。

 ソータへなのか、アルベールへなのか、オルドアイへなのか。

 あるいは、まだ見ぬルシアへなのか。

 自分でも分からなかった。


 ただ、筆を持つと、言葉が一つ浮かんだ。


 戻りなさい。


 ミレイユはそれを書きかけて、止めた。

 強すぎる。

 命令ではあるが、今のソータには届かないかもしれない。

 彼はきっと、戻るべき理由と同じくらい、戻れない理由を抱えている。


 次に浮かんだ言葉。


 無事でいなさい。


 ミレイユはそれなら書けると思った。

 けれど、まだ紙には落とさない。

 代わりに紅い髪紐へ触れた。


(ソータ。)

(あなたはまた、私の予定にない荷を積んでくるのでしょうね。)

(いいわ。)

(見てあげる。)

(でも、勝手に積んだ分の説明はしてもらう。)

(そして、ルシア。)

(あなたも逃がさない。)

(話を聞く。)

(怒る。)

(条件を出す。)

(それから判断する。)


 窓の外の王都の灯が揺れている。

 ミレイユは深く息を吸い、吐いた。

 苛立ちは消えない。

 嫉妬もある。

 不安もある。

 それでも、動ける場所に来た。

 情報を集め、道を作り、待つための準備をする。

 それがミレイユのやり方だった。


 扉の外から母の声がした。


「ミレイユ。」

「夜更かししすぎると、怖い顔がさらに怖くなるわよ。」


 ミレイユは目を閉じた。


「お母様。」

「入ってこないでください。」


「あら、入っていないわ。」

「扉の外から娘を心配しているだけよ。」


「心配の形が騒がしいです。」


「それも母の役目よ。」


「違います。」


「おやすみなさい、紅い怖い顔のお嬢さん。」


「お母様!」


 廊下の向こうで、母の楽しそうな笑い声が遠ざかった。

 ミレイユはしばらく扉を睨んでいたが、やがて肩の力を抜いた。

 そして、ほんの少しだけ笑った。


「まったく……。」


 王都の夜は静かに更けていく。

 北の砦ではオルドアイが霧を見つめている。

 男たちの村では補修が続いている。

 夜の城では、ソータとルシアがまだ何かを抱えている。

 そして王都では、ミレイユが苛立ちと理性を並べ、次に動くための準備を始めていた。


 紅い髪紐は、灯の下で静かに揺れていた。

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