第138話:北の砦へ走る男
バルクは、男たちの村を出た瞬間から全力で走っていた。
朝の光はすでに森の上へ広がっている。
湿った土を蹴り、霧の残る道を抜け、北へ北へと足を進める。
肩には水袋。
腰には短剣。
背には小さな荷。
だが、走るために余計なものは持っていない。
男たちの村の守りを離れる以上、目的は一つだった。
北の砦へ報告すること。
ソータが戻ったこと。
しかし、すぐにまたルシアの城へ向かったこと。
隣国と大教会が動いていること。
吸血鬼族の城が狙われていること。
アルベールが男たちの村に現れ、ソータと共に霧の奥へ入ったこと。
その全てを、オルドアイへ伝えなければならなかった。
バルクは息を荒げながら、歯を食いしばる。
胸の奥には焦りがあった。
ソータのことも心配だ。
紫の羽の女、ルシアという吸血鬼のことも分からない。
大教会という言葉も不気味だった。
けれど、正直に言えば、それだけではなかった。
(ガルナに会える。)
その考えが、走る足を妙に軽くしていた。
ガルナは村が襲われる前から、女たちの砦の中で物資の整理や怪我人の世話を手伝っていた。
バルクにとっては、それが安心でもあり、寂しさでもあった。
村が危ない時、ガルナがそこにいないことは救いだった。
けれど、戦いが終わって、ソータが消えて、村の補修に追われる中で、顔を見られないことは思った以上に堪えた。
だから今、北の砦へ走っている理由の中には、確かに報告がある。
だが、同じくらい強く、ガルナの顔を見たいという気持ちがあった。
(いや、違う。)
(報告が先だ。)
(オルドアイ様に全部話して、それからだ。)
(それから少しだけ、ガルナの顔を見て……。)
(いや、少しだけじゃ足りん。)
(でも、まず報告だ。)
自分に言い聞かせながら走る。
霧の向こうに、北の砦の外壁が見えてきた。
高い木柵と石積みの門。
見張り台にはアマゾネスたちが立ち、弓を構えている。
男たちの村の荒々しい防壁とは違い、北の砦は女たちの力と規律で守られている場所だった。
見張りがバルクに気づいた。
「バルクだ!」
「男たちの村からの伝令!」
門が開く。
バルクは息を切らしながら、砦の中へ駆け込んだ。
足が少しもつれたが、倒れはしなかった。
中庭にはアマゾネスたちが集まり始めている。
その奥に、オルドアイが立っていた。
褐色の肌。
長い濃茶の髪。
戦士の装い。
左腕には、緑の組み紐。
その顔は厳しく、バルクを待っていた。
そして、その少し後ろにガルナがいた。
バルクの胸が跳ねた。
ガルナは腕を組んでいた。
心配そうで、怒っている。
バルクの姿を見るなり、一歩前へ出かけたが、すぐに踏みとどまった。
今は伝令の場だと分かっているのだろう。
その理性が、バルクにはありがたくもあり、少し寂しくもあった。
「バルク。」
オルドアイの声が広間へ響いた。
「ソータはどうなった。」
単刀直入だった。
バルクは息を整え、片膝をついた。
「戻りました。」
「男たちの村へ、ソータは一度戻りました。」
広間がざわめいた。
オルドアイの目が大きく開く。
ガルナも口元に手を当てた。
「生きていたのか。」
「はい。」
「疲れは残っていましたが、自分の足で戻りました。」
「話もできました。」
「怪我も、命に関わる様子ではありません。」
オルドアイの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
それは、彼女がどれほど心配していたかを示していた。
しかし、その安堵は長く続かなかった。
バルクが次の言葉を言わなければならないことを、彼女も察したのだろう。
「それで。」
オルドアイは低く言った。
「今、ソータはどこにいる。」
バルクは唾を飲み込んだ。
「また、紫の羽の女の城へ向かいました。」
広間の空気が一気に変わった。
ざわめきが怒気を帯びる。
オルドアイの目が細くなった。
緑の組み紐が、彼女の腕で揺れた。
「何だと。」
「その……。」
「事情があります。」
「事情。」
オルドアイは一歩前へ出た。
「戻ってきたのに、また行ったのか?」
「私たちのところへ来る前に。」
「ミレイユのところへ戻る前に。」
「あの紫の女の城へ。」
言葉の一つ一つが重かった。
バルクは背中に汗を感じた。
ソータの選択には理由がある。
だが、オルドアイの怒りも当然だった。
待つ者の痛みを、バルクも少し分かる。
ガルナの顔を見たいだけでここまでそわそわしている自分が、数日もソータを待ったオルドアイの気持ちを軽く扱うことはできない。
バルクは頭を下げた。
「大教会が動いています。」
「隣国の一部勢力と関係している可能性があると、アルベールが言っていました。」
「狙いは、吸血鬼族の城。」
「あの紫の羽の女、ルシアというらしいですが、その城が襲われる可能性が高いと。」
その名を聞いて、広間の女たちがさらにざわめいた。
「ルシア……。」
オルドアイが小さく繰り返した。
「名まで聞いてきたのか。」
「ソータが話しました。」
「彼女は吸血鬼族で、人間の血は吸っていないと言っていたそうです。」
「強引に連れていったのは事実だが、介抱もしていたと。」
「それから、男たちの村を救ったのも事実だと。」
オルドアイは黙った。
怒りの中に、複雑なものが混じる。
助けた。
奪った。
守った。
閉じ込めた。
その全てが一人の相手に重なっている。
単純に敵と言えれば楽だった。
だが、そうではない。
その時、広間の奥からヤンガルドアイが現れた。
大柄で強く、古い夜の匂いを知る女。
彼女は腕を組み、ゆっくりとバルクを見た。
「続けよ。」
「そのアルベールが何と言った?」
バルクは頷いた。
しかし、その瞬間、視線がちらりとガルナの方へ向いた。
ガルナはそれを見逃さなかった。
彼女は眉を吊り上げ、きつい声で言った。
「バルク。」
「な、何だ。」
「こっちを見なくていいから、ちゃんと説明しなさい。」
広間の何人かが小さく笑った。
バルクは顔を赤くした。
「見てない。」
「見てたわ。」
「少しだけだ。」
「少しでも今は駄目。」
ガルナは腕を組んだまま言った。
「あなたが無事で戻ってきたのは嬉しいわ。」
「でも、今はソータの話でしょう。」
「オルドアイ様も、みんなも聞いているの。」
「いちゃつくのは後。」
「いちゃつくとは言ってないだろ。」
「顔に書いてある。」
また広間に笑いが漏れた。
オルドアイですら、怒りの中でわずかに眉を動かした。
ヤンガルドアイは堂々と笑った。
「よい女じゃのう、ガルナ。」
「男を締める時を知っておる。」
「恐縮です。」
ガルナは軽く頭を下げた。
バルクはますます小さくなった。
「分かった。」
「ちゃんと話す。」
「最初からそうしなさい。」
ガルナの言葉に、バルクは咳払いをして姿勢を正した。
◆◇◆
広間には、アマゾネスたちが集まっていた。
壁際には見張りの女たち。
中央にはオルドアイとヤンガルドアイ。
少し後ろにガルナ。
バルクはその前で、男たちの村で起きたことを順に説明した。
ソータが長い夜の領域から戻ってきたこと。
紫の羽の女の名がルシアであること。
彼女が吸血鬼族であること。
城ではチャールズという話せるスケルトンが側近をしていること。
ソータは介抱され、帰る道を教えられたこと。
そして、男たちの村でアルベールと合流したこと。
その話の途中で、オルドアイが眉を寄せた。
「待て。」
「アルベールが男たちの村にいたのか?」
「はい。」
「北の砦には来ていない。」
オルドアイは周囲を見た。
砦の見張りたちも首を横に振る。
誰もアルベールを見ていない。
ガルナも首を傾げた。
「グランデリアから北へ来るなら、普通はどこかで砦の道にかかるはずよね。」
オルドアイはバルクを見る。
「だったら一体どこを通ってきたのだ。」
「俺にも分かりません。」
「村にいた時には、もう普通にいました。」
「まるで、前からそこにいたみたいに。」
広間がざわついた。
クラウゼン商会の執事。
元勇者一行の大魔法使いという噂。
北の砦にとっても、アルベールはただの老人ではない。
特にヤンガルドアイは、以前から彼に対して妙な好意と興味を抱いている。
彼女は腕を組んだまま、あっさりと言った。
「アルベールならば容易かろう。」
あまりにも簡単な結論だった。
オルドアイが振り返る。
「母上。」
「容易で済ませるのか。」
「済ませる。」
「あの男は、普通の道を通らねばならぬ者ではない。」
「霧を抜けようが、影を渡ろうが、古い魔法の道を歩こうが、まあ驚くほどではない。」
「驚くほどではないのか。」
「むしろ、普通に門を叩いて来る方が少し物足りぬ。」
ガルナが小さく呟いた。
「その評価もどうなのでしょう……。」
バルクも同感だった。
だが、ヤンガルドアイがそう言うと妙に納得させられてしまう。
アルベールなら仕方ない。
そんな空気が、広間に少しだけ広がった。
オルドアイは納得していなかったが、今はそこにこだわっている場合ではないと判断したようだった。
「続けろ。」
バルクは頷いた。
「アルベールは、大教会が北方の霧の領域へ向かっていると言いました。」
「表向きは不浄の浄化。」
「吸血鬼族を滅ぼす名目らしいです。」
「ただし、隣国式の軍用封鎖術式が混ざっているかもしれないとも。」
「つまり、祈りの形をした包囲戦だと。」
ヤンガルドアイの目が鋭くなった。
「大教会と隣国が絡むか。」
「はい。」
「ソータはそれを聞いて、すぐに戻ると言いました。」
「ルシアの城へ。」
「アルベールも同行しました。」
「ソータらしいな。」
ガルナが小さく言った。
その声には心配と諦めが混ざっていた。
「人を助けた相手が危ないと聞いて、放っておけないのね。」
オルドアイは唇を引き結んだ。
「だからと言って、私たちに顔も見せずに戻ることはないだろう。」
声は低かった。
怒っている。
ただ、そこには以前のような衝動的な怒りだけではなかった。
無事に戻ったらしいという安堵が土台にある。
それでも、また行ったことへの怒りが上に乗っている。
「戻った時、ソータは元気だったのか。」
オルドアイはバルクに問うた。
「完全ではないですが、歩いて、話して、物資の確認もしていました。」
「肩を叩いたら、痛がってました。」
「叩いたのか?」
「無事を確かめるために……。」
ガルナが横から鋭く言った。
「あなたは本当に、力加減というものを覚えなさい。」
「すまん。」
バルクは素直に謝った。
オルドアイは少しだけ息を吐いた。
「なら、体に対する心配はいらないのだろう。」
「少なくとも、倒れたまま運ばれていったわけではない。」
「自分の足で戻り、自分の意思でまた向かった。」
「はい。」
「余計に腹が立つな。」
オルドアイの声に、広間の空気が少し震えた。
バルクは黙る。
ガルナも口を閉じた。
ヤンガルドアイだけが、少しだけ笑っているようだった。
「良いではないか。」
「怒れるということは、ソータが生きておるということじゃ。」
「母上。」
「死んでおれば怒る相手もない。」
「戻って、また勝手に行った。」
「それは腹も立つ。」
「だが、腹を立てられるだけ、まだよい。」
オルドアイは目を伏せた。
その言葉は乱暴だが、真実だった。
ソータが生きている。
それを知ったからこそ怒れる。
怒りの奥には、深い安堵があった。
◆◇◆
それから広間では、夜の城へどう対処すべきかの話し合いが始まった。
だが、意見はすぐに割れた。
「すぐに向かうべきです!」
若いアマゾネスの一人が言った。
「ソータはまた危険な場所へ行きました。」
「大教会が相手なら、こちらも戦力を出すべきです。」
別の者が反論する。
「だが、場所が分からない。」
「霧の奥、吸血鬼族の領域だぞ。」
「行って迷えば、こちらが足手まといになる。」
「ソータを放っておくのか!」
「放っておくとは言っていない。」
「無策で動くなと言っている。」
さらに別の女が口を挟む。
「北の砦を空けるのも危険です。」
「隣国が動いているなら、こちらを狙う可能性もある。」
「男たちの村もまだ補修中だ。」
「バルクたちの村だけでは持たないかもしれない。」
「だが、ルシアという女は村を救ったのだろう。」
「なら、助ける義理はあるのではないか。」
「しかし、ソータを連れていった女でもある。」
「恩人であり、厄介者か。」
「一番面倒なやつだ。」
広間は混乱していった。
夜の城へ行くべきか。
待つべきか。
伝令を出すべきか。
戦士を送るべきか。
まずグランデリアのミレイユへ知らせるべきか。
男たちの村へ増援を出すべきか。
意見が次々に飛び交う。
バルクはその場で少し居心地悪そうにしていた。
重要な話だ。
だが、報告を終えたことで気が緩み、どうしてもガルナの方をちらちら見てしまう。
ガルナはそれに気づき、また睨んだ。
「バルク。」
「いや、今は何も。」
「見てた。」
「少しだけだ。」
「また少し。」
ガルナは呆れたように息を吐いた。
それでも、その目には安堵もあった。
バルクが無事に戻ってきたことを、彼女も本当に喜んでいる。
ただ、広間でそれを表に出すわけにはいかないだけだ。
ヤンガルドアイが二人を見て、にやりと笑った。
「報告が終わったら、少し外へ出てもよいぞ。」
「母上!」
オルドアイが鋭く言った。
「今は会議中です。」
「分かっておる。」
「じゃが、あの男は半分ほどガルナの方へ魂が飛んでおる。」
「魂の抜けた伝令を置いておいても、戦略にはならぬ。」
広間にまた笑いが起きた。
バルクは耳まで赤くなる。
「魂は抜けてません。」
「抜けかけておる。」
ガルナが低く言った。
「ほら見ろ。」
ヤンガルドアイは愉快そうだった。
オルドアイは頭を押さえた。
「まったく……。」
しかし、その小さな笑いのおかげで、広間の張り詰めた空気は少しだけ緩んだ。
混乱した議論の中で、オルドアイはゆっくりと息を整える。
そして、強く言った。
「静まれ。」
広間が静かになる。
オルドアイは中央に立ち、周囲を見回した。
「ソータが戻ったことは分かった。」
「そして、またルシアの城へ向かったことも分かった。」
「腹は立つ。」
「かなり腹が立つ。」
誰も否定しなかった。
「だが、ソータは自分の足で戻り、自分の意思で向かった。」
「ならば、今は体そのものを案じて飛び出す段階ではない。」
「それよりも、我らが無策で霧へ入り、足手まといになる方が危険だ。」
若い戦士が口を開きかけたが、オルドアイが視線で制した。
「だが、何もしないわけでもない。」
「まず、見張りを増やす。」
「霧の流れを見る者を置く。」
「男たちの村への連絡路を確保する。」
「バルクは少し休め。」
「休んだ後で、必要なら村へ戻るか、砦に残って次の伝令に備えろ。」
バルクは頷いた。
「はい。」
「ガルナ。」
「はい。」
「バルクが休むよう見張れ。」
「こいつは目を離すとすぐ走ろうとする。」
「承知しました。」
ガルナは即答した。
バルクは少し不満そうにしたが、ガルナに睨まれて黙った。
オルドアイは続けた。
「ミレイユへの連絡も必要だ。」
「あの女には、すでにソータの手紙が届いているはずだが、今回の件はまた別だ。」
「アルベールが男たちの村にいた以上、ミレイユもある程度は動いているのだろう。」
「だが、こちらからも知らせる。」
ヤンガルドアイが頷いた。
「よい判断じゃ。」
「霧の向こうへ斬り込みたい気持ちは分かるが、行き先も分からぬまま剣を振るっても、斬れるのは己の不安だけじゃ。」
「不安を斬れるなら斬りたいですが。」
オルドアイが低く言う。
「斬れぬ。」
「だから、抱えて立て。」
ヤンガルドアイの声は厳しくも温かかった。
オルドアイは左腕の緑の組み紐に触れた。
ミレイユから渡された証。
ただ奪う女ではない証。
ソータを待つと決めた時、その組み紐は彼女の腕で重くもあり、支えでもあった。
(戻ったのに、また行った。)
(ソータ、お前は本当に……。)
(だが、生きている。)
(自分で選んで動いている。)
(なら、私もここで選ばねばならない。)
今すぐ走ることは簡単だった。
剣を持ち、霧へ飛び込み、ルシアの城を探す。
だが、それはオルドアイの不安を満たすだけかもしれない。
ソータが作ろうとしている道を、逆に乱すかもしれない。
オルドアイは歯を食いしばった。
「私は待つ。」
「ただし、何もせずには待たぬ。」
広間の女たちが静かに頷いた。
「霧の監視を増やせ。」
「男たちの村への補給を整えろ。」
「矢と食料を確認する。」
「大教会が北へ来る可能性も考える。」
「そして、ソータが戻った時に、すぐ問い詰められるようにしておけ。」
最後の一言で、空気が少しだけ軽くなった。
バルクが思わず小声で言う。
「そこは準備するんですね。」
「当然だ。」
オルドアイは即答した。
「戻ったら、まず抱きしめる。」
「それから怒る。」
「順番はその時決める。」
ガルナが少し笑った。
「抱きしめる方が先なのですね。」
オルドアイは少しだけ顔を赤くした。
「うるさい。」
その反応に、広間のアマゾネスたちの緊張がさらに緩んだ。
だが、問題が消えたわけではない。
夜の城へ行くべきかどうか。
それはまだ結論が出ていない。
ただ、今すぐ無策で飛び込むことだけは避ける。
その方針が、ひとまず決まっただけだった。
◆◇◆
会議が一段落すると、バルクはようやく広間の隅へ下がることを許された。
ガルナが近づいてくる。
彼女は腕を組み、じっとバルクを見上げた。
「説明は終わった?」
「ああ。」
「たぶん。」
「たぶんじゃ困るわ。」
「終わった。」
「ちゃんと話した。」
「途中で何度もこっちを見たけどね。」
バルクは目を逸らした。
「それは……。」
「顔を見たかっただけだ。」
ガルナの表情が少しだけ緩んだ。
しかし、すぐにまた怒った顔を作る。
「そういうことは、会議が終わってから言いなさい。」
「今は終わっただろ。」
「まだ完全には終わってないわ。」
「でも……。」
ガルナは少しだけ声を落とした。
「無事でよかった。」
バルクはその一言で、胸の奥の力が抜けた。
走ってきた疲れも、報告の緊張も、ソータへの心配も、全部が少しだけ崩れる。
彼はガルナへ手を伸ばしかけたが、広間の中だと気づいて止めた。
ガルナはそれを見て、小さくため息をついた。
「少しだけなら。」
「いいのか。」
「少しだけ。」
バルクは遠慮がちに、ガルナの手を握った。
それだけだった。
それだけなのに、顔が緩む。
ガルナも呆れながら、手を離さなかった。
少し離れた場所で、ヤンガルドアイが面白そうに見ていた。
オルドアイはそれに気づき、顔を背けた。
「母上、見すぎです。」
「若いものは良いのう。」
「今はそれどころではありません。」
「そうじゃな。」
「だが、待つ力はこういうものからも生まれる。」
オルドアイは黙った。
ガルナとバルクの手。
自分の腕の緑の組み紐。
霧の向こうにいるソータ。
ルシアという知らない吸血鬼の姫。
そして、グランデリアにいるミレイユ。
戻る場所が一つではない男を待つ。
それは簡単ではない。
怒りもある。
不安もある。
嫉妬もある。
それでも、待つと決めたのなら、待つだけでなく準備しなければならない。
オルドアイは砦の外へ視線を向けた。
霧は静かに流れている。
その奥に、夜の城があるのだろう。
そこへ向かうべきか。
待つべきか。
答えはまだ揺れている。
(ソータ。)
(お前は戻ったら覚悟しておけ。)
(無事を喜ぶ。)
(だが、怒りもする。)
(それから、そのルシアという女の話を全部聞く。)
オルドアイは緑の組み紐に触れ、強く息を吐いた。
「見張りを増やせ。」
「霧の変化を逃すな。」
「そして、誰かが骨の使いを連れてきても、いきなり斬るな。」
アマゾネスたちが頷く。
北の砦は動き始めた。
剣を抜いて走るのではなく、待つために。
守るために。
そして、ソータがまた荷を増やして帰ってきた時、それを受け止め、問い詰め、必要なら共に背負うために。
霧の向こうから、まだ何の知らせもない。
だが、砦の灯は消えなかった。
オルドアイはその灯の下で、怒りと安堵と不安を抱えたまま、夜の城の方角を見つめ続けた。




