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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第137話:湯気の向こうの距離

 浴場へ向かう廊下には、いつもより多くのスケルトンが立っていた。

 手には湯桶。

 肩には布。

 壁際には替えの水差し。

 まるで城の大事な儀式でも始まるかのような厳重さだった。

 その中心を、ソータとルシアが並んで歩いている。


 ルシアはいつもより少し口数が少なかった。

 さっきまでは、湯浴みを楽しみにしていることを隠しきれず、紫の瞳を輝かせていた。

 けれど、いざ浴場が近づくにつれて、少しずつ様子が変わっている。

 手は外套の端をつまみ、視線は前を向いたり、ソータの横顔へ向いたり、また慌てて逸れたりしていた。

 大胆だったはずのルシアが、今はなぜか落ち着かない少女のように見える。


 ソータはその横顔を見て、胸の奥が柔らかくなるのを感じた。


(前なら、何のためらいもなく腕を引っ張って浴場へ連れていったのにな。)

(今は、ちゃんと意識してる。)

(恥ずかしさを覚えたってことか。)

(いや、それはそれでこっちが困るんだけど。)


 浴場の入口には、チャールズが立っていた。

 今日は逃げていない。

 湿気が苦手なはずなのに、背筋を伸ばし、杖を手にしている。

 その横にはアルベールもいた。

 アルベールは香料棚の鍵を持ち、実に厳粛な顔をしていた。


「浴場内の確認は完了しております。」


 チャールズが告げた。


「香料は一切なし。」

「湯の温度は人間基準で少し温め。」

「ルシア様の羽に響かぬよう、湯船の端に支え布を設置。」

「過度な湯気を避けるため、窓は上部のみ開放。」

「以上でございます。」


 アルベールも静かに頷いた。


「追加で、黒薔薇の蜜、夜露草、活性薬、その他誤解を招きうる調合物はすべて別室へ移しております。」

「ご安心くださいませ、ソータ様。」


「誤解じゃなくて実害だった気がしますけど。」


「反省しております。」


「本当にお願いしますよ。」


「はい。」


 ルシアは少しむっとした顔で二人を見た。


「私、そんなに危険?」


 チャールズとアルベールは同時に沈黙した。

 その沈黙が答えだった。


「二人とも、何か言いなさい。」


「ルシア様は大変魅力的でございます。」


 チャールズが丁寧に言った。


「はい。」

「そのため、状況管理が重要になります。」


 アルベールも続けた。


 ルシアは一瞬、意味を理解できずに瞬きをした。

 それから、頬を少し赤らめたように見えた。

 吸血鬼の肌は人間ほど分かりやすく赤くはならない。

 それでも、表情だけで照れているのは分かった。


「魅力的……。」


 ルシアは小さく繰り返した。

 そして、ちらりとソータを見る。


「ソータも、そう思う?」


 いきなり来た。

 ソータは逃げ場のない廊下で、二人の執事と数体のスケルトンに見守られながら、固まった。


「……思う。」


 ルシアの瞳が一気に輝いた。


「本当?」


「ああ。」


「かわいい?」


「かわいい。」


「きれい?」


「きれい。」


 チャールズが静かに咳払いした。


「ルシア様。」

「浴場前での確認はその程度に。」


「分かったわ。」

「でも、今のは大事だった。」


「存じております。」


 チャールズは一礼した。

 アルベールは扉の脇へ下がる。


「では、私どもは外で待機しております。」

「何かございましたらお声がけくださいませ。」


「何もないようにしたいです。」


 ソータが言うと、アルベールは穏やかに微笑んだ。


「それは、お二人次第でございます。」


「そういう言い方、やめてください。」


「失礼いたしました。」


 ルシアは少し緊張した顔で、浴場の扉を見た。

 それから、ソータの袖を軽くつまむ。


「ソータ。」


「何だ?」


「入る?」


「入る。」


「一緒に?」


「……一緒に。」


 ルシアは小さく息を吸った。

 それだけのやり取りなのに、まるで大きな約束を交わしたような顔をしていた。


◆◇◆


 浴場には、柔らかな湯気が満ちていた。

 壁は黒い石でできており、紫の灯が低く揺れている。

 いつもより灯りは抑えられ、月明かりが高い窓から細く差し込んでいた。

 湯船の水面には、淡い銀色の光が揺れている。

 香料はない。

 ただ、温かな湯の匂いと、石の湿った匂いだけがあった。

 その静けさが、逆に二人の鼓動を際立たせるようだった。


 ソータは背を向けて着替えた。

 ルシアも少し離れた場所で衣を解いている。

 布の擦れる音が小さく響く。

 以前なら、ルシアは何のためらいもなく近づいてきただろう。

 むしろ、見ていることを隠そうともしなかった。

 だが、今日は違った。


「ソータ。」


「何だ?」


「振り向いてもいい時は、私が言うわ。」


「分かった。」


「でも、私もソータを見ないようにするわ。」


「助かる。」


「でも、少し見たいわ。」


「正直だな。」


「尊重は嘘をつかないことも含むのでしょう?」


「便利に使いすぎだ。」


 ルシアは小さく笑った。

 その笑い声は、湯気の中で少し震えている。

 いつもの自信満々な笑いではない。

 照れ隠しの笑いだった。


 しばらくして、ルシアが小さく言った。


「いいわ。」


 ソータはゆっくり振り返った。

 湯気の向こうに、ルシアがいた。

 肩から薄い布をかけている。

 傷ついた羽は小さく畳まれ、月明かりを受けて紫の影を落としていた。

 細い首筋。

 月光に透ける薄紫の髪。

 湯気の向こうで淡く浮かぶ肌。

 傷跡は痛々しい。

 けれど、それすら彼女が戦い、耐え、ここに立っている証のように見えた。


 ソータは言葉を失った。

 見つめすぎてはいけない。

 そう思っているのに、視線が離れない。

 ルシアは綺麗だった。

 ただ妖艶なだけではない。

 壊れそうなほど繊細で、それでもどこか誇り高い。

 長すぎる夜の城そのもののような美しさだった。


 ルシアはソータの視線に気づき、最初は嬉しそうにした。

 だが、次第にその顔が変わっていく。

 見られることが嬉しい。

 でも、恥ずかしい。

 その二つが胸の中でぶつかっているようだった。


「ソータ……。」

「あまり見られると、変な気持ちになるわ。」


「ごめん。」


「嫌ではないの。」

「でも……。」

「前は、見てほしいと思っただけだった。」

「今は、見られると胸がきゅっとする。」


 ルシアは布の端を握った。


「これは何?」


 ソータは少し考えた。


「たぶん、恥ずかしいってことだと思う。」


「恥ずかしい。」

「これが。」


「嫌なものか?」


「嫌ではない。」

「でも、落ち着かない。」

「ソータにきれいだと思われたいのに、見られると逃げたくなる。」

「でも、逃げたくない。」

「難しいわ。」


「人間もだいたいそんなものだと思う。」


「人間はいつも難しいのね。」


「吸血鬼も難しくなってきたな。」


 ルシアは少し笑った。

 それから、湯船の縁へ慎重に近づく。

 ソータも隣へ行き、手を差し出した。

 ルシアはその手を見て、少し嬉しそうにした。


「支えてくれる?」


「怪我人だからな。」


「怪我人じゃなくなっても?」


「場合による。」


「今は?」


「今は支える。」


 ルシアは手を取った。

 冷たい指が、湯気の中で少しだけ温まっていく。

 ソータは彼女が羽を湯船の縁にぶつけないよう、ゆっくり支えた。

 湯に足を入れたルシアは、少しだけ息を吸う。


「温かい。」


「熱すぎないか?」


「大丈夫。」

「ソータと同じ温度?」


「たぶん。」


「同じ温度に入るのね。」


「そうだな。」


「それだけで、少し嬉しい。」


 ルシアは湯船の中へゆっくり入った。

 湯が肩の近くまで満ちる。

 傷ついた羽は湯につけないよう、支え布の上にそっと置かれていた。

 チャールズの準備は完璧だった。

 ソータも続いて湯に入る。

 温かさが体へ染みていく。

 疲れが少しずつ解け、重かった肩が軽くなる。


 湯船の中で、二人は少し離れて座った。

 最初は。

 ルシアは距離を見ながら、そっと聞く。


「近づいてもいい?」


「少しなら。」


「少し。」


 ルシアは湯を揺らしながら、ほんの少し近づいた。

 肩が触れそうで触れない距離。

 以前なら一気に密着してきただろう。

 そのぎりぎりの距離が、かえって胸を騒がせた。


 ルシアも同じらしい。

 指先を湯の中で動かし、ソータの手に触れるか触れないかの場所で止まる。


「手、握ってもいい?」


「ああ。」


 ソータが答えると、ルシアはそっと手を握った。

 湯の中で絡む指。

 それだけなのに、ルシアの肩が小さく震えた。


「どうした?」


「前より、ドキドキする。」


「前より?」


「ええ。」

「前は、知りたいとか、触れたいとか、そういう気持ちが先だった。」

「今は……ソータがどう思うかが気になる。」

「嫌じゃないか。」

「困っていないか。」

「私を、ちゃんと見ているか。」

「私だけを見ている時間なのか。」

「そんなことばかり考える。」


 ルシアは少し恥ずかしそうに目を伏せた。


「私、本気でソータが好きなのね。」


 湯気の中で、その言葉は静かに落ちた。

 ソータは息を止めた。

 ルシアは自分で言ってから、さらに恥ずかしくなったのか、顔を半分湯気の方へ向けた。


「今のは、聞こえた?」


「聞こえた。」


「消せない?」


「消さない。」


「恥ずかしいわ。」


「でも、嬉しい。」


 ルシアがゆっくりソータを見る。

 薄紫の瞳が濡れている。

 湯気のせいだけではない。


「嬉しい?」


「ああ。」

「嬉しい。」


「ソータは?」


 その問いは、震えていた。

 大胆な吸血鬼の姫ではなく、答えを待つ一人の女の声だった。


 ソータはすぐには答えられなかった。

 好きだと言えば、重くなる。

 言わなければ、傷つける。

 ミレイユがいる。

 オルドアイがいる。

 ルシアもいる。

 逃げてはいけない。

 適当に甘い言葉で誤魔化してもいけない。


「ルシアを、大事に思ってる。」

「かわいいと思う。」

「綺麗だと思う。」

「放っておけないと思う。」

「それだけじゃなくて……。」

「一緒にいると、胸が苦しくなる時がある。」


 ルシアは目を見開いた。


「それは、好きに近い?」


「近いと思う。」


「好きではないの?」


「好きだよ。」


 言ってから、ソータは自分の胸が大きく鳴るのを感じた。

 ルシアはしばらく固まっていた。

 それから、湯の中で両手を口元に当てた。


「言った。」


「言ったな。」


「もう一度。」


「好きだ。」


 ルシアの目に涙が浮かんだ。

 今度は悲しみではない。

 嬉しさが溢れすぎて、目からこぼれそうになっている。


「私、今、すごく嬉しい。」

「でも、どうしたらいいか分からない。」


「何もしなくていい。」


「でも、近づきたい。」


「近づいていい。」


「抱きついても?」


「羽に響かないなら。」


 ルシアは慎重に体を動かした。

 湯が静かに揺れる。

 ソータの隣へ寄り、肩をそっと預ける。

 それだけで、彼女は満足そうに息を吐いた。


「ソータ、温かい。」


「湯のせいだろ。」


「違うわ。」

「ソータの温かさ。」


 ソータは黙って、ルシアの濡れた髪を指先で整えた。

 髪が頬に張りついている。

 それをかき分けると、ルシアは目を閉じた。

 触れられるのを待っている顔だった。

 大胆なのに、恥ずかしがっている。

 その矛盾がたまらなく愛しくて、ソータは胸が苦しくなった。


◆◇◆


 湯の中で、二人はしばらく何も言わなかった。

 ただ手を握り、肩を寄せ、呼吸を合わせていた。

 窓から入る月光が、湯気を白く照らしている。

 浴場の黒い石は静かで、紫の灯だけが遠く揺れていた。


 ルシアは時折、ソータを見上げる。

 見つめるたびに、少し照れて目を逸らす。

 それが何度も繰り返される。

 ソータはそのたびに笑いそうになり、でも笑うとルシアが拗ねそうなので、そっと髪を撫でるだけにした。


「笑っている?」


「少し。」


「どうして?」


「かわいいから。」


 ルシアは湯の中で小さく体を丸めた。


「それ、ずるいわ。」

「言われると、何も返せない。」


「いつもはたくさん返してくるのにな。」


「今日は難しいの。」

「好きって言われた後だから。」


 ソータも少し照れた。

 自分で言った言葉なのに、後から熱が戻ってくる。


「俺も、けっこう恥ずかしい。」


「ソータも?」


「ああ。」


「同じ?」


「同じ。」


 ルシアはそれを聞いて、少し安心したように笑った。


「同じなら、嬉しい。」


 湯船の中で、ルシアは少し体勢を変えた。

 羽に響かないように、ソータが自然に支える。

 すると、彼女の背中がソータの胸元に近づいた。

 ルシアはそこで止まり、振り返らずに聞いた。


「ソータ。」

「後ろから、抱きしめて欲しい…」


「俺が?」


「ええ。」

「今なら、羽に当たらないと思う。」

「それに……。」

「少し、そうしてほしい。」


 声が小さかった。

 さっきまでの大胆な誘いではない。

 お願いだった。

 ソータはゆっくり腕を回した。

 傷に触れないように、羽の根元を避けて、ルシアの肩と胸元を包むように抱きしめる。

 湯の温かさと、ルシアの体の冷たさと、その奥にある不思議な熱が混ざった。


 ルシアが小さく息を吐いた。


「これ……。」

「すごく、安心する。」


「痛くないか?」


「痛くない。」

「もっと、少しだけ。」


 ソータは少しだけ腕に力を込めた。

 ルシアは目を閉じ、ソータの腕に頬を寄せる。

 胸元で、彼女の呼吸がゆっくりになる。

 けれど、鼓動は速い。

 吸血鬼の鼓動がどれほど人間と同じなのかは分からない。

 それでも、ソータには伝わってきた。

 ルシアが緊張している。

 喜んでいる。

 そして、怖がっている。


「怖いか?」


「少し。」

「幸せすぎると、怖いのね。」


「そうだな。」


「ソータも?」


「少し。」


「なら、同じ。」


 ルシアはそう言って、首を少しだけ後ろへ傾けた。

 ソータと目が合う。

 湯気の向こうで、薄紫の瞳が濡れている。

 月明かりがその瞳に映り、ゆらりと揺れた。


「キスしたい…」


 ルシアが聞いた。


 ソータは答えなかった。

 代わりに、少し身を屈めた。

 ルシアの唇に、そっと触れる。

 最初は短く。

 離れようとすると、ルシアの手がソータの腕を掴んだ。

 今度は逃がさないためではなく、もう少しだけと願うような力だった。


 ソータはもう一度、彼女へ唇を寄せた。

 長いキスになった。

 湯の音が遠くなる。

 月明かりも、紫の灯も、湯気も、全部が薄く溶けていく。

 ルシアの唇は冷たいはずなのに、触れるたびに熱を持つ。

 彼女は不慣れに、けれど一生懸命に応えた。

 時々息を忘れそうになり、ソータが少し離れると、ルシアは浅く息を吸った。

 それでも、また求めるように見上げてくる。


 ソータは彼女を後ろから抱きしめたまま、もう一度キスをした。

 甘い。

 切ない。

 けれど、焦らない。

 今夜は、それ以上へ進むためではなく、互いの気持ちを確かめるための時間だった。


 ルシアの指が、ソータの腕に触れる。

 強く握りすぎないようにしているのが分かる。

 ソータも、彼女の傷に触れないように、ずっと気をつけていた。

 その慎重さが、かえって二人の心を近づけた。


(好きだ。)

(本当に、好きになってる。)

(これは、放っておけないとか、責任とかだけじゃない。)

(俺は、ルシアを好きになってる。)


 そう思った瞬間、胸が少し痛んだ。

 ミレイユ。

 オルドアイ。

 その名前も消えない。

 消してはいけない。

 だからこそ、この気持ちも逃げずに持たなければならない。


 ルシアはキスの合間に小さく呟いた。


「ソータ……。」

「私、幸せ。」


「ああ。」


「でも、苦しい。」


「のぼせてるのもあるかもしれない。」


「のぼせる?」


「湯に入りすぎると、ふらふらするやつだ。」


「今、ふらふらするわ。」


「そろそろ出た方がいいな。」


「でも、もう少し。」


「もう少しだけ。」


 もう少しだけ。

 それが何度か続いた。

 抱きしめる腕。

 長いキス。

 湯気。

 月明かり。

 ルシアの甘い吐息。

 ソータの鼓動。

 そのすべてが、二人から時間の感覚を奪っていった。


◆◇◆


「ルシア様。」

「ソータ様。」


 浴場の外から、チャールズの声がした。

 控えめだが、はっきりしている。


「そろそろお時間でございます。」

「お二人とも、のぼせる寸前である可能性が高うございます。」


 ソータは我に返った。

 確かに、頭が少しぼんやりしている。

 ルシアもソータの腕の中で、とろんとした顔をしていた。


「……もう?」


 ルシアが名残惜しそうに呟く。


「もう、だと思う。」


 ソータは苦笑しながら腕を緩めた。

 ルシアは少し残念そうにしたが、今回は駄々をこねなかった。

 ただ、振り返ってソータを見上げる。


「最後に、もう一回だけ。」


「本当に最後な。」


「本当に。」


 短いキスを一つ。

 それで終わりにした。

 いや、終わらせた。

 そうでなければ、チャールズの言う通り、二人とも湯船の中で倒れていただろう。


 浴場を出る時、ルシアの足元は少しふらついていた。

 傷のせいもある。

 湯のせいもある。

 それ以上に、気持ちがいっぱいになりすぎているようだった。

 ソータも軽く頭が熱い。

 チャールズが扉の外で待っており、すぐに大きな布を差し出した。


「お二人とも、ご無事で何よりでございます。」


「ご無事って言い方、やめてくれ。」


「実際、少々危うかったかと。」


 チャールズはルシアの様子を確認し、ほっとしたように頷いた。


「ルシア様、羽の傷は開いておりません。」

「ただし、お顔が非常に緩んでおられます。」


「緩んでいる?」


「大変幸せそうでございます。」


 ルシアは布に顔を半分隠した。


「言わないで。」


「失礼いたしました。」


 ソータも別の布で髪を拭きながら、視線を逸らした。

 チャールズは何も言わない。

 だが、何も言わないことが逆にすべてを分かっているようで困る。


 廊下を歩く間、ルシアはソータの袖をつまんでいた。

 以前のように腕に飛びつくほどではない。

 けれど、離れたくない気持ちは隠せていない。

 ソータもそれを振り払わなかった。

 ゆっくり歩き、彼女の歩幅に合わせる。

 それだけで、ルシアは嬉しそうにした。


◆◇◆


 ルシアの寝室へ戻っても、ルシアはまだ甘えたままだった。

 寝台の端に座ると、すぐにソータの手を握る。

 ソータが髪を拭いてやると、目を細めて大人しくしている。

 普段なら何か質問するところだが、今は言葉よりも触れていることの方が大事らしい。


「ソータ。」


「うん。」


「湯浴み、好きになった?」


「もともと嫌いじゃない。」


「私との湯浴みは?」


「……好きになった。」


 ルシアは布を抱きしめて、幸せそうに笑った。


「私も。」

「ソータとの湯浴み、好き。」

「でも、心臓が大変だったわ。」


「俺もだ。」


「同じ?」


「同じ。」


「同じがたくさん増えるわね。」


 ルシアはそう言って、ソータの肩へそっと額を寄せた。

 その仕草があまりにも自然で、ソータは胸の奥がまた熱くなる。


 そこへ、扉が叩かれた。


「失礼いたします。」


 アルベールの声だった。

 ソータとルシアは同時に少し離れた。

 離れたと言っても、手はまだ繋いでいる。

 アルベールは扉を開け、銀の盆を持って入ってきた。

 盆の上には、氷を浮かべた冷たいレモン水が二杯置かれている。


「のぼせ防止でございます。」


「ありがとうございます。」


 ソータは照れを隠すように受け取った。

 ルシアも両手で杯を受け取る。

 冷たいグラスに触れた瞬間、彼女は少し目を丸くした。


「冷たい。」


「湯浴み後には、体を冷まし、水分を補う必要がございます。」

「特に本日は、少々長うございましたので。」


 アルベールの声はいつも通りだった。

 だが、少しだけ含みがある。

 ソータは視線を逸らした。


「時間、そんなに経ってましたか。」


「はい。」

「チャールズ様が三度ほど声をかけるべきか迷っておられました。」


「三度。」


「四度目で声をかけた次第です。」


 ルシアはレモン水を口にし、少し酸っぱそうに顔をしかめた。

 でもすぐにもう一口飲む。


「おいしい。」

「冷たくて、少し酸っぱい。」


「人間界ではよくある飲み物だ。」


「ソータも好き?」


「好きだな。」


「なら私も好き。」


「それは早い。」


「いいの。」


 ルシアは照れながらも、レモン水を飲み干した。

 ソータも一気に飲む。

 冷たさが喉を通り、湯で火照った体が少しずつ落ち着いていく。

 それでも、胸の熱は消えなかった。

 それは湯のせいではない。


 アルベールは空になった杯を受け取り、静かに一礼した。


「では、今夜はゆっくりお休みくださいませ。」

「なお、香料棚は引き続き封印しておりますので、ご安心を。」


「本当にお願いします。」


「はい、ソータ様。」


 ルシアが少し恥ずかしそうに言った。


「アルベール。」


「はい、ルシア様。」


「今日の湯浴みは、良い湯浴みだったと思うわ。」


「それは何よりでございます。」


「香がなくても、すごくドキドキした。」


 ソータが咳き込んだ。


「ルシア。」


「何?」


「それはアルベールさんに報告しなくていい。」


「そうなの?」


「そうだ。」


 アルベールは穏やかに微笑んだ。


「報告としては受領いたしましたが、記録には残さないでおきます。」


「記録しないでください。」


「承知いたしました。」


 アルベールが去ると、部屋には再び二人だけの静けさが戻った。

 ルシアは寝台に座り、まだ少し濡れた髪を指で触っている。

 ソータはその隣に座った。

 さっきよりも自然に近い距離だった。


 ルシアがそっと言った。


「ソータ。」

「今日、私はちゃんと尊重できた?」


「できたよ。」


「本当?」


「ああ。」

「聞いてくれたし、待ってくれたし、止まれた。」


「キスは長かったけれど。」


「それは俺も止まれなかった。」


 ルシアは嬉しそうに笑った。


「同じ。」


「ああ。」

「同じ。」


 ルシアはそっとソータの肩へ寄りかかる。

 今夜の彼女は、もう無邪気なだけではない。

 大胆で、恥ずかしがりで、好きという気持ちに戸惑っていて、それでも逃げずに近づいてくる。

 ソータも、その気持ちから目を逸らせなくなっていた。


「好きよ、ソータ。」


 ルシアは小さく言った。


「うん。」


「もう一度言ってもいい?」


「ああ。」


「好き。」


 ソータは彼女の手を握った。


「俺も、好きだ。」


 ルシアは目を閉じた。

 満足そうに、けれど少し泣きそうに笑う。


「次にミレイユとオルドアイに会うのが、もっと怖くなったわ。」


「どうして?」


「だって、好きが本物になってしまったから。」

「怒られるのが、前より怖い。」

「でも、逃げたくない。」


 ソータはルシアの髪に触れた。


「一緒に話そう。」


「うん。」


「逃げずに。」


「逃げずに。」


 長すぎる夜の城の寝室で、二人はしばらく寄り添っていた。

 湯の余韻。

 レモン水の冷たさ。

 長いキスの記憶。

 そして、言葉にした好きという気持ち。

 それらが、静かに胸の奥で重なっていく。


 外では、骸骨劇団のどこかの腕がまた落ちたのか、遠くでかろんという音がした。

 チャールズの小さな叱責が続く。

 ルシアがくすりと笑う。

 ソータも笑った。


 甘く、切なく、じれったい夜だった。

 何かを越えたわけではない。

 けれど、確かに二人の距離は変わっていた。

 触れるだけで胸が鳴り、言葉一つで頬が熱くなる距離。

 ルシアが本気で恋を知り、ソータもまた、その恋を受け止め始めた夜だった。

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