第136話:黒薔薇の訓練と骸骨劇団の改良
ルシアの城は、少しずつ日常を取り戻していた。
大教会の聖結界に焼かれた黒薔薇の庭は、まだところどころ白く枯れている。
城門の石には傷が残り、外壁の一部には補修材が組まれたままだった。
それでも、紫の灯は戻り、長い廊下にはスケルトンたちの足音が響き、食堂では人間用の料理の試作が続いている。
傷だらけの城は、ただ壊れた場所を塞ぐだけではなく、以前とは違う何かへ変わろうとしていた。
その変化の中心に、妙な音があった。
ぎい。
ぎこ。
かたん。
ぽこん。
何かの弦が不器用に鳴り、骨の指が太鼓を叩き、笛が少しだけ外れた音を出す。
以前なら不気味なだけだった音は、今ではどこか努力の音に聞こえた。
大広間の片隅で、チャールズが骸骨楽団と骸骨劇団を同時に指導しているのだ。
「違います。」
「そこで右足を出すのではなく、まず左足でございます。」
「騎士役が右足を出すと、姫役と衝突いたします。」
「前回、姫役の布を踏んだ反省を忘れてはなりません。」
チャールズは杖を持ち、舞台代わりの敷物の前に立っていた。
その前では、王冠を被ったスケルトン、木剣を持ったスケルトン、長い布を被った姫役のスケルトン、そしてなぜか木の役をするために両腕を広げたスケルトンが整列している。
全員真剣だった。
骨なので表情はない。
けれど、姿勢から真剣さは伝わってくる。
木の役のスケルトンが、腕を広げたまま左右に揺れた。
チャールズがすぐに杖を鳴らす。
「揺れすぎです。」
「森が荒れている場面ではございません。」
「穏やかな森です。」
「以前ソータ様に笑っていただいたのは偶然の成功であり、毎回倒れかかればよいというものではありません。」
木の役のスケルトンは、少しだけ揺れを小さくした。
だが、今度は動きが固すぎた。
ただの棒である。
「今度は静かすぎます。」
「木にも風情が必要でございます。」
スケルトンは困ったように首を傾げた。
その首が少し傾きすぎて、頭蓋が落ちかける。
隣の騎士役が慌てて支えた。
支えた拍子に木剣が床へ落ちる。
かたん。
チャールズは深く息を吐いたような気配を出した。
「……大変結構です。」
「事故への即応は上達しております。」
食堂から様子を見に来ていたソータは、その場で笑いを堪えた。
いや、少し漏れていた。
「相変わらず、すごい稽古ですね。」
ソータが声をかけると、チャールズは振り返って一礼した。
「ソータ様。」
「お見苦しいところを。」
「いや、めちゃくちゃ面白いです。」
「前よりさらに完成度が上がってますよ。」
「ありがとうございます。」
「ただ、笑いを狙った部分と事故による笑いの比率が、いまだ安定しておりません。」
「芸とは難しいものでございます。」
「そこまで分析してるんですね。」
「人間界で披露する可能性がある以上、品質管理は不可欠でございます。」
チャールズは真剣だった。
ソータは思わず頷く。
骸骨劇団の品質管理。
聞くだけなら完全に奇妙だが、チャールズが言うと妙に正しい気がしてしまう。
そこへ、アルベールが静かに現れた。
黒い執事服に白手袋。
白髪の老紳士は、いつものように背筋を伸ばし、舞台の様子をしばらく眺めていた。
その目は、戦場の術式を見る時とは違う。
しかし、観察する鋭さは同じだった。
「なるほど。」
アルベールが小さく言った。
チャールズが姿勢を正す。
「アルベール様。」
「チャールズ様。」
「大変興味深い訓練でございます。」
「恐れ入ります。」
「しかし、まだ人間界での上演には課題が多く。」
「確かに。」
「音楽、動作、間、照明、舞台装置、観客の心理誘導。」
「すべて改善の余地がございます。」
ソータは嫌な予感がした。
アルベールが何かに興味を持った時、それは大抵とんでもない方向へ進む。
大教会の結界を見て「粗い」と言った時と似た気配があった。
ただし、今回は相手が聖結界ではなく骸骨劇団である。
「アルベールさん。」
「まさか、手伝うんですか?」
アルベールは穏やかに微笑んだ。
「チャールズ様が骸骨たちへ楽器や演劇を教えておられる姿を拝見し、私も何か力になれればと考えた次第でございます。」
「骸骨劇団に、大魔導士の手が入るんですか。」
「私はあくまでミレイユ様の執事でございます。」
「いや、その説明はもういいです。」
チャールズは少しだけ眼窩の火を揺らした。
嬉しそうにも見えた。
「アルベール様の助言をいただけるなら、大変心強うございます。」
「では、まずは照明から。」
「紫の灯は美しいのですが、姫役の顔が骨であることが強調されすぎております。」
「骨でございますので。」
「それはそうなのですが、観客に一度恐怖を与え、その直後に動作で笑いへ転じさせるなら、初見の照明はもう少し柔らかい方がよろしい。」
「怖さを入口にし、可笑しさへ流す。」
「逆に、最初から怖すぎると、笑いに移る前に逃げられます。」
チャールズは深く頷いた。
「なるほど。」
「恐怖を芸へ転化するための導線でございますね。」
「はい。」
「また、木の役の揺れについてですが。」
木の役のスケルトンがびくりとした。
「揺れ幅を三段階に分けるとよろしいでしょう。」
「静かな森、少し怪しい森、荒れすぎた森。」
「最後は意図的に隣へ倒れかける。」
「そうすれば事故ではなく演出になります。」
木の役のスケルトンが、感動したように両腕を上げた。
しかし上げすぎて片腕の骨が外れ、床へ落ちた。
かろん。
ソータはとうとう吹き出した。
「もう駄目だ。」
「それも演出にした方がいいです。」
アルベールは床の腕を見て、真剣に頷いた。
「確かに。」
「腕が落ちる演出は、骸骨劇団ならではでございます。」
「ただし、落とすタイミングは固定しましょう。」
「毎回予期せず落ちるのは、品質管理上問題です。」
「腕が落ちる品質管理って何ですか。」
「重要でございます。」
チャールズも頷いた。
「重要でございます。」
「二人とも真面目なのが一番面白いんですよ。」
ソータは腹を押さえた。
大教会との戦いの後、こんなふうに笑える時間が来るとは思っていなかった。
けれど、笑いは必要だった。
城の傷も、ルシアの傷も、すぐには消えない。
だからこそ、笑えるものを作ることも、立派な修復なのかもしれない。
◆◇◆
その頃、ルシアは黒薔薇の庭にいた。
ソータも、骸骨劇団の稽古を見た後で庭へ出てきていた。
ルシアは無理をしない範囲で歩く許可を得ており、黒薔薇たちの間をゆっくり進んでいる。
羽はまだ完全には広げられない。
肩にはソータが以前渡した黒い布を少し改良した遮光布がかけられていた。
アルベールが仕立て直したもので、見た目はただの美しい外套に近い。
黒地に薄紫の刺繍が入り、内側には日差しや聖気を弱める簡単な防護が施されている。
ルシアはその外套を気に入っているようだった。
何度も裾を見て、少し得意そうにしている。
「似合う?」
「似合うよ。」
「かわいい?」
「かわいい。」
「きれい?」
「きれい。」
「ソータ、最近答えるのが早くなったわ。」
「慣れた。」
「慣れるのは良いこと?」
「場合による。」
「また場合。」
ルシアは楽しそうに笑った。
その笑いに反応するように、黒薔薇の蔓がそっと揺れる。
白く焼けていた枝の一部にも、わずかに黒い芽が戻り始めていた。
城の魔力が巡り直したおかげだろう。
けれど、それだけではない。
ルシア自身が、城の魔力の流れを制御する訓練をしているのだ。
アルベールが教えた訓練だった。
力を外へ放つのではなく、内側へ巡らせる。
怒りに任せて羽を広げるのではなく、黒薔薇の根へ、庭の石畳へ、城壁の紋様へ、細く均等に流す。
それは、ルシアにとってかなり難しいらしい。
「うう……。」
ルシアは黒薔薇の前で両手を広げ、真剣な顔をしていた。
足元の蔓がゆっくり動く。
しかし、途中で勢いがつきすぎたのか、黒薔薇の蔓がソータの足首へ絡みついた。
「おっと。」
「あっ。」
「違うわ。」
「ソータを捕まえるつもりではなかったの。」
「本当に?」
「本当よ。」
「少しだけ、捕まえたい気持ちはあったかもしれないけれど。」
「混ざってるじゃないか。」
ルシアは慌てて魔力を引いた。
黒薔薇の蔓は名残惜しそうにソータの足首から離れる。
その動きが妙に人間くさく、ソータは苦笑した。
「黒薔薇までルシアに似てきたな。」
「どういう意味?」
「寂しがりで、近づきたがる。」
ルシアは少し頬を膨らませた。
「失礼ね。」
「でも、少し当たっているわ。」
彼女は黒薔薇の花にそっと触れた。
以前なら、力を注ぐ時に花を一気に咲かせようとしていただろう。
今は違う。
指先から少しずつ、細い紫の光が流れる。
黒薔薇の葉が震え、白く焼けた縁がゆっくり黒へ戻っていく。
一輪の花が、慎重に開いた。
ルシアの顔が明るくなる。
「できた?」
「ああ。」
「今のは綺麗だった。」
「本当?」
「本当。」
「かわいい?」
「花が?」
「私も。」
「ルシアも。」
「よし。」
ルシアは満足そうに頷いた。
しかし、集中が切れた瞬間、隣の蔓がまた伸びてソータの腰のあたりへ近づいた。
ソータはそっと手で押さえる。
「だから捕まえるなって。」
「今のは黒薔薇が勝手に。」
「主に似るんだよ。」
「黒薔薇が私に似ているなら、ソータの近くに行きたがるのは仕方ないわ。」
「開き直ったな。」
ルシアはくすくす笑った。
その笑顔は、まだ少し疲れを含んでいたが、以前より穏やかだった。
ただ求めるだけではなく、力を制御しようとしている。
それはルシアにとって、恋の学びと同じくらい大事な訓練だった。
少し離れた場所で、アルベールが二人を見ていた。
チャールズも隣にいる。
大広間での稽古を一段落させたらしい。
二人の執事は、黒薔薇の庭の端で並んで立っていた。
「ルシア様は、筋がよろしいですね。」
アルベールが言った。
「昔から、力そのものは強うございました。」
「ただし、加減というものをあまりご存じなかったのです。」
チャールズが答える。
「それは恋も魔力も同じですね。」
「おっしゃる通りでございます。」
二人がしみじみ頷いた。
それを聞いたルシアが振り返る。
「聞こえているわ。」
「失礼いたしました、ルシア様。」
チャールズが一礼する。
「ただし、事実でございます。」
「チャールズまで最近厳しいわ。」
「ルシア様のご成長に必要でございます。」
「アルベールもそう思う?」
ルシアが聞くと、アルベールは穏やかに頷いた。
「はい、ルシア様。」
「力ある者ほど、細い流れを学ぶ必要がございます。」
「強く押せば相手は倒れます。」
「しかし、支えたいなら、相手の姿勢を見なければなりません。」
ルシアは少し黙った。
その言葉が魔力の話だけではないと分かったのだろう。
「ソータにも?」
「はい。」
「ソータ様にも、ミレイユ様にも、オルドアイ様にも。」
ルシアは黒薔薇の花を見つめた。
「強く欲しがるだけでは、倒してしまう。」
「場合によっては。」
「だから、細く流す。」
「はい。」
ルシアは小さく頷いた。
そして、もう一度黒薔薇へ手を伸ばす。
今度は蔓はソータへ向かわなかった。
花の根元へ、静かに魔力が流れる。
黒薔薇が一輪、また一輪と目を覚ました。
ソータはその横顔を見ていた。
危なっかしくて、寂しがりで、時々とんでもないことを言い出す吸血鬼の姫。
けれど、彼女は確かに変わっている。
押しつける力ではなく、支える力を覚えようとしている。
(本当に、進んでるな。)
(俺も、ちゃんと進まないと。)
◆◇◆
午後、という表現がこの城で正しいのかは分からないが、長い夜の中で何度目かの休憩時間になると、大広間からまた騒がしい音が聞こえてきた。
アルベールが骸骨劇団に本格的な助言を始めた結果、稽古は妙な方向へ進化していた。
舞台の上では、騎士役のスケルトンが剣を掲げる。
その背後で、木の役のスケルトンが三段階の揺れを披露する。
静かな森。
少し怪しい森。
荒れすぎた森。
最後の「荒れすぎた森」では、計算通り隣のスケルトンへ倒れかかる。
隣のスケルトンはそれを支え、支えた瞬間に片腕が外れる。
かろん。
ソータは大広間の入口で腹を抱えた。
「駄目だ。」
「完成度が上がってるのに、さらに面白い。」
アルベールは真剣に頷いた。
「腕の脱落タイミングが安定してまいりました。」
「その言葉がもう面白いんですけど。」
チャールズは手元の板に記録をつけている。
「次回は、腕が落ちた後に騎士役がそれを剣と間違える動きを検討いたします。」
「やめてください。」
「絶対笑います。」
「笑っていただくのが目的でございます。」
「そうでした。」
ルシアも椅子に座ったまま、肩を震わせて笑っていた。
笑いすぎると羽に響くため、ソータがすぐに注意する。
「ルシア、笑いすぎるな。」
「無理よ。」
「あの木、すごく荒れているわ。」
「確かに荒れてるけど。」
木の役のスケルトンは、ルシアに褒められたと思ったのか、誇らしげに両腕を広げた。
しかし片腕は先ほど落ちているので、片腕だけである。
それがまたおかしい。
ルシアは口元を押さえた。
「羽に響くわ……。」
「だから言っただろ。」
ソータは苦笑しながら、ルシアの椅子の背に手を添えた。
彼女が笑って体を揺らしすぎないように支える。
ルシアはそれに気づき、少し嬉しそうにソータへ寄った。
「支えてくれるの?」
「怪我人だからな。」
「怪我人じゃなくなっても?」
「場合による。」
「また場合。」
ルシアは笑った。
その表情は明るかった。
傷はまだ痛む。
けれど、笑える。
それだけで、城の中の空気が少し軽くなっていた。
アルベールは劇団の動きを見ながら、さらに指示を出した。
「王様役は、王冠を落とす動作を最初から組み込みましょう。」
「偶然落ちるより、落ちた後に自分で拾おうとして拾えない方が、観客は安心して笑えます。」
「なるほど。」
「不安な事故ではなく、予定された滑稽さですね。」
チャールズが書き取る。
「また、姫役の布は長すぎます。」
「足元の布を二寸短く。」
「ただし、完全に歩きやすくすると面白みが減るため、少しだけ踏みそうな長さを残します。」
「絶妙な不便さでございますね。」
「はい。」
ソータはもう笑うしかなかった。
アルベールは本気で骸骨劇団を人間界仕様に改良するつもりらしい。
そしてチャールズはそれを完全に受け入れている。
スケルトンたちも懸命だ。
舞台芸術というものは、ここまで妙な方向に広がるのか。
ルシアがぽつりと言った。
「ソータ。」
「何だ?」
「私の城、怖いだけじゃなくなってきたわね。」
ソータは大広間を見た。
骸骨たちが稽古し、チャールズが記録をつけ、アルベールが照明を調整している。
紫の灯の下で、骨の腕が計算通りに落ちる。
怖い。
だが、同時に楽しい。
「ああ。」
「怖いだけじゃない。」
「嬉しい。」
ルシアは小さく微笑んだ。
「いつか、ミレイユとオルドアイにも見せたいわ。」
「その前に謝罪だな。」
「分かっているわ。」
「斬る前に……。」
「それは手紙で使ったから、対面ではもう少し丁寧に。」
「チャールズにも言われたわ。」
ルシアは少し不満そうにしたが、すぐに笑った。
◆◇◆
その日の終わり、ソータは自分の体がかなり疲れていることに気づいた。
大教会との戦い。
城の修復。
ルシアの看病。
黒薔薇の訓練。
骸骨劇団の稽古見学。
どれも一つ一つは違う種類の疲れだった。
戦闘の緊張は抜けたが、代わりに体の奥に鈍い重さが残っている。
食堂で夕食にあたる軽い食事を終えた後、ソータは肩を回した。
少し凝っている。
腕も重い。
ルシアはそれを見逃さなかった。
「ソータ、疲れている?」
「少しな。」
「休む?」
「休むけど、その前に体を温めたいな。」
そう言ってから、ソータは自分で少し驚いた。
以前なら、湯浴みという言葉を出す時は警戒していた。
ルシアが絡むと、どうしても何かが起こる。
実際、何度も起こった。
だが、今のソータは自分からその言葉を口にしかけている。
ルシアも気づいた。
薄紫の瞳がぱっと輝く。
「湯浴み?」
ソータは一瞬だけ固まった。
「……ああ。」
「湯浴み。」
ルシアは椅子から身を乗り出しかけ、羽の傷で止まった。
その顔は嬉しさと期待でいっぱいだった。
「ソータから言ったわ。」
「言ったな。」
「聞き間違いではないわね?」
「違う。」
「チャールズ!」
「ソータが湯浴みと言ったわ!」
食堂の端で食器を片づけていたチャールズが、すっと姿勢を正した。
「聞こえております、ルシア様。」
アルベールも紅茶の支度をしながら、静かに頷いた。
「確かに、ソータ様よりお申し出がございました。」
「記録しなくていいですから。」
ソータは即座に言った。
チャールズは少し残念そうに板を下ろした。
「では、記録は控えます。」
「記録するつもりだったんですか。」
「重要な進展かと。」
「何の進展ですか。」
「人間関係の。」
ルシアは嬉しそうに両手を握った。
「私は尊重するわ。」
「一緒に入ってもいいか聞く。」
「まだ何も言ってない。」
「では聞くわ。」
「ソータ、一緒に湯浴みしてもいい?」
食堂の空気が一瞬止まった。
スケルトンたちまで動きを止めた気がした。
ソータは額を押さえた。
分かっていた。
こうなることは分かっていた。
だが、自分から湯浴みと言った以上、完全に逃げるのも違う。
アルベールが穏やかに言った。
「ルシア様。」
「本日は羽の傷もございます。」
「過度な接近、過度な刺激、過度な香料の使用は厳禁でございます。」
「分かっているわ。」
「香は焚かない。」
「絶対に。」
ルシアは真剣に言った。
ソータはアルベールとチャールズを見た。
「本当にお願いしますよ。」
チャールズが深く一礼する。
「先日の件は、深く反省しております。」
「本日は無香でございます。」
アルベールも一礼した。
「鎮静用の香すら控えましょう。」
「湯気のみでございます。」
「湯気のみ。」
「その言葉、信じます。」
「恐れ入ります。」
ルシアは少しそわそわしていた。
けれど、以前のように腕を引っ張って浴場へ向かうことはしなかった。
ちゃんと待っている。
ソータが答えるのを、目を輝かせながら待っている。
ソータは深く息を吐いた。
「傷に響かない範囲で。」
「近づきすぎない。」
「変な質問は控えめ。」
「香はなし。」
「それでいいなら。」
ルシアの顔がぱっと明るくなった。
「いいわ。」
「私はかなり進んだルシアだから。」
「本当に頼むぞ。」
「頑張る。」
「頑張りすぎるな。」
「頑張りすぎないように頑張る。」
「また難しい言い方になってる。」
チャールズが静かに言った。
「浴場の準備をいたします。」
「湿気は苦手でございますが、本日は責任を持って点検いたします。」
「チャールズが逃げない。」
ルシアが驚いた顔をする。
「先日の反省がございますので。」
「進んだチャールズね。」
「恐れ入ります。」
アルベールは白手袋を整えた。
「私は外で待機いたします。」
「万一、魔力の乱れや香料の混入があれば即座に対処いたします。」
「混入前提みたいに言わないでください。」
「念のためでございます、ソータ様。」
ソータは疲れたように笑った。
湯浴み一つで、ここまで厳戒態勢になるのはどうなのか。
だが、この城ではそれくらいがちょうどいいのかもしれない。
ルシアはそっとソータの袖をつまんだ。
以前のように引っ張るのではなく、少しだけつまむ。
その仕草が、彼女なりの尊重だった。
「ソータ。」
「何だ?」
「湯浴み、楽しみ?」
ソータは少し迷った。
それから正直に答えた。
「少し。」
ルシアの瞳が輝いた。
「少しでも嬉しいわ。」
「不安もかなりある。」
「それは、私が頑張るわ。」
「だから頑張りすぎるな。」
ルシアは笑った。
その笑顔は、黒薔薇の庭で魔力を細く流せた時と同じように、少し誇らしげで、少し照れていた。
湯浴みは、次の時間に持ち越された。
チャールズが浴場の安全確認をし、アルベールが香料の棚を封印し、スケルトンたちが湯を運び始める。
その様子は大げさすぎて、まるで王国の重要儀式の準備のようだった。
ソータはその光景を見て、思わず呟いた。
「ただの湯浴みのはずなんだけどな。」
アルベールが静かに答える。
「この城においては、ただの湯浴みが最も油断ならぬ事態を招く可能性がございます。」
「否定できないのが嫌ですね。」
ルシアは楽しそうに笑い、ソータの隣で足取り軽く歩き出した。
黒薔薇の庭で学んだばかりの細い流れのように、彼女の期待は抑えられている。
しかし、完全には抑えきれていない。
その揺れが、かえって可愛らしかった。
長すぎる夜の城は、今夜も賑やかだった。
骸骨劇団は腕の落下タイミングを練習し、黒薔薇は少しずつ傷を癒やし、ルシアは魔力の制御を覚え、アルベールはどこまでも有能に余計な方向へ力を貸している。
そしてソータは、また一つ騒がしい夜へ足を踏み入れようとしていた。




