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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第134話:甘い香と、越えなかった夜

 ルシアが突然泣き出したのは、夜が深く沈んだ頃だった。

 それは声を上げる泣き方ではなかった。

 最初は、ただ睫毛が濡れただけに見えた。

 薄紫の帳の内側で、ルシアは寝台に横たわり、浅い呼吸を繰り返している。

 羽の傷はアルベールの処置と城の魔力の回復でいくらか落ち着いていたが、それでも痛みが完全に引いたわけではない。

 羽の端にはまだ白く焼けた痕が残り、肌にも聖気に触れた赤い筋が薄く走っていた。

 月明かりが窓から差し込み、その傷跡を青白く照らしている。


 ソータは寝台の横の椅子に座っていた。

 手には濡らした布。

 水差しはすぐ届く場所に置いてある。

 アルベールから渡された軟膏も、チャールズが用意した香草湯も、枕元にきちんと並べられていた。

 ルシアが少しでも身じろぎすれば、すぐに気づけるようにしている。


 そのルシアの目尻から、涙が一筋落ちた。

 頬を伝い、枕に染みる。

 彼女は眠っているようだった。

 目は閉じたまま。

 眉だけが少し苦しそうに寄っている。


「ルシア?」


 ソータは小さく声をかけた。

 返事はない。

 ただ、唇がかすかに動いた。


「ソータ……。」


 小さな声だった。

 夢の中で誰かを探すような声。

 もう一度、彼女は呟いた。


「ソータ……。」


 ソータの胸が締めつけられた。

 普段のルシアは強い。

 無邪気で、強引で、好奇心の塊で、時にはこちらが困るほど真っ直ぐに迫ってくる。

 けれど今は、傷ついた羽を畳み、寝台の上で小さく泣いている。

 あの大教会の白い光に囲まれて、必死に城を守っていた姿とは違う。

 ただ、誰かに置いていかれることを怖がる少女のように見えた。


(戻ってきてよかった。)

(本当に、戻ってきてよかった。)


 ソータは椅子から腰を浮かせ、そっと寝台の縁へ寄った。

 それ以上のつもりはなかった。

 ただ、涙を拭って、少し安心させてやりたかった。

 ルシアの髪が頬にかかっていたので、指先でそっとかき分ける。

 薄紫の髪は柔らかく、月の光を含んだ糸のようだった。


 ルシアはまだ眠っている。

 それでも、また唇が動く。


「ソータ……行かないで……。」


 ソータは息を止めた。

 その言葉は、夢の中の言葉だ。

 起きていれば、彼女はきっと言わないように努力するだろう。

 尊重を覚えたルシアは、帰る道を塞いではいけないと知っている。

 でも、夢の中では寂しさがそのまま出てしまうのかもしれない。


 ソータは彼女の頬に残る涙を親指で拭った。

 それでも、また一筋落ちる。

 胸の奥に、どうしようもない愛しさが湧いた。


 気づけば、ソータはルシアの頬へ軽く唇を寄せていた。

 ほんの短いキスだった。

 涙の味がした。

 塩辛くて、冷たくて、少しだけ甘い香草湯の匂いが混じっていた。


 ルシアの手が、寝ぼけたように宙へ伸びた。


「ソータ……。」


「ああ。」

「ここにいる。」


 ソータはその手を取った。

 ルシアの指は冷たい。

 けれど、握り返す力は確かにあった。

 彼女は目を閉じたまま、何かを探すように身じろぎする。

 そのたびに羽の傷に響くのか、少し苦しそうに顔を歪めた。


 ソータは迷った。

 椅子に戻るべきだと思った。

 だが、ルシアの手が離れない。

 無理に外せば、また不安にさせるかもしれない。

 それに、彼女の体はまだ熱を持っている。

 人間の熱とは違う。

 魔力が乱れている熱だ。


(少しだけ。)

(本当に、少しだけだ。)


 ソータは上着を脱ぎ、寝台の端へ静かに横になった。

 ルシアの羽を圧迫しないように、慎重に体の位置を整える。

 そして、ゆっくりと彼女の頭を持ち上げ、自分の右腕の上に乗せた。

 腕枕の形になる。

 ルシアは安心したように息を吐いた。


 次の瞬間、彼女はソータの体へしがみついた。

 両腕を回し、頬を胸元に寄せ、まるで失くしたものを取り戻した子供のように離れない。

 傷ついた羽が少し動いたので、ソータは慌てて手を添えた。


「動くな。」

「傷に響く。」


「ソータ……。」


 返事になっていない声。

 まだ寝ぼけているのだろう。

 ソータは彼女の髪を撫でた。

 呼吸が少しずつ落ち着いていく。

 ルシアの涙は止まり、代わりに静かな寝息が聞こえ始めた。


 部屋の灯りは薄く落とされていた。

 月だけが窓の外から二人を照らしている。

 長すぎる夜の城。

 傷ついた吸血鬼の姫。

 その横で、ただ寄り添う運送屋。

 奇妙な取り合わせだとソータは思った。

 だが、不思議とその時間は穏やかだった。


(ミレイユに見られたら、間違いなく怒られるな。)

(オルドアイにも、きっと胸倉を掴まれる。)

(でも、今だけは。)

(今だけは、こいつを一人で泣かせたくない。)


 ソータは目を閉じた。

 数時間が経ったのかもしれない。

 それとも、この城特有の長い夜のせいで、時間の感覚が曖昧になっていただけかもしれない。

 ただ、いつの間にかソータも眠っていた。


◆◇◆


 息苦しさで目を覚ました。

 最初に感じたのは、胸の上の重みだった。

 次に、甘い香り。

 黒薔薇の蜜に似ているが、もっと濃い。

 香草湯の匂いではない。

 湯浴みの時の香油とも違う。

 鼻の奥から胸の内側へ入り込み、体をじわじわと熱くするような匂いだった。


 ソータは目を開けた。

 月明かりだけの薄暗い部屋。

 その中で、ルシアがソータの上へ半ば乗るように体を預けていた。

 彼女の髪が滝のように垂れ、薄紫の瞳は夢と熱の間で揺れている。

 寝間着の肩は乱れ、肌が月光に淡く浮かんでいた。

 傷ついた羽は背後で小さく震えている。

 その姿は痛々しく、同時に目を逸らせないほど妖艶だった。


 唇が触れていた。

 さっきとは違う。

 ルシアが寝ぼけながら、ソータへ縋りつくようにキスをしている。

 甘い声が喉の奥で小さく漏れた。


(なんだ?)

(どうした?!)


 ソータの頭が一気に覚醒する。

 だが、体の方はすぐには追いつかなかった。

 甘い香りが強い。

 胸の奥が熱くなる。

 呼吸が浅くなり、腕に力が入りそうになる。

 ルシアは意識がはっきりしているようで、はっきりしていない。

 夢の続きの中でソータを求めているようにも見えた。


(この香り……。)

(まさか。)


「アルベール!!」


 声にならない叫びだった。

 喉が掠れた。

 それでも、扉の外には届いたらしい。


 扉の向こうから、小さく落ち着いた声がした。


「今夜のことは他言無用にいたしますゆえ、ご安心を。」


「まさか!?」


 ソータは上体を起こそうとした。

 だが、ルシアがしがみついている。

 力任せに退かせば、傷に響く。

 それに、彼女の瞳があまりにも潤んでいた。


「ソータ……。」

「ソータが来てくれて……嬉しかったの……。」


 ルシアは夢の中のような声で言った。


「やっぱり……。」

「ソータと、家族になりたいの……。」


 その言葉が、胸の一番柔らかい場所を掴んだ。

 同時に、甘い香りが体を煽る。

 ソータの脳裏に、北の砦で甘い香に反応した時のことがよぎった。

 そして、昨夜まで気づかないふりをしていた自分のスキルのことも。


(っていうか、なんかドーピングでそうなってばっかじゃないか!!)

(いや、落ち着け。)

(今は絶対に流されるな。)

(ルシアは怪我人だ。)

(しかも、この香り、普通じゃない。)

(ここで進んだら駄目だ。)


 ソータは必死に呼吸を整えた。

 体は素直だった。

 理性を置いて走り出したがっている。

 だが、その体を押さえ込むのも、自分の役目だった。

 選ぶ。

 背負う。

 逃げない。

 それは、欲望に流されないことも含むはずだ。


「ルシア。」

「聞こえるか。」


「ソータ……。」


「俺を見るんだ。」

「今、君は怪我をしてる。」

「それに、この匂いが変だ。」

「このままじゃ駄目だ。」


 ルシアはぼんやりとソータを見る。

 瞳の奥に熱が揺れていた。

 けれど、その奥で、かすかに意識が戻りかけているのが分かった。


「駄目……?」


「駄目じゃない。」

「君が俺を欲しいって言ってくれるのは、嬉しい。」

「でも、今みたいな状態で進んだら、君を大事にしたことにならない。」


 ルシアは理解しきれない顔で、少しだけ眉を寄せた。


「ソータは……私が嫌?」


「嫌じゃない。」

「だから止めてる。」


 その言葉に、ルシアの瞳が少しだけ揺れた。

 ソータは自分の上着を手探りで取り、彼女の肩へそっとかけた。

 月光に浮かぶ肌を覆うように。

 欲望から目を逸らすためだけではない。

 ルシアが後で我に返った時、少しでも傷つかないように。


 扉の外へ向かって、ソータは低い声で言った。


「アルベールさん。」

「入ってください。」

「今すぐ。」


 少しだけ間があった。

 それから扉が開いた。

 アルベールが入ってくる。

 いつも通りの老執事姿。

 手には小さな香炉を持っていた。

 その香炉から、甘い香りが立ち上っている。


 ソータは睨んだ。


「これですか。」


「はい。」


「何を焚いたんですか。」


「吸血鬼族の魔力循環を促進するための香でございます。」

「黒薔薇の蜜、夜露草、古い月桂樹の樹脂、少量の活性薬を調合いたしました。」


「少量?」


「人間基準では少量でございます。」


「俺にも効いてますよね。」


「そのようでございます。」


「そのようでございます、じゃないですよ!」


 ルシアがぼんやりした顔でアルベールを見る。


「アルベール……?」

「私、変?」


「回復反応でございます、ルシア様。」

「ただし、少々強く出すぎました。」


「少々じゃない!」


 ソータは叫びそうになったが、ルシアがびくっとしたので声を抑えた。

 アルベールは香炉の蓋を閉じ、窓の方へ歩く。

 片手で窓を開けると、夜風が部屋へ流れ込んだ。

 甘い香りが少しずつ薄まっていく。


「後から聞けば、チャールズ様のたっての願いもございました。」

「ルシア様の回復を一刻も早めたいと。」

「私としては、強硬手段に出たに過ぎません。」


「それはミレイユに対する反逆行為ではないんですか?」


 ソータは低く問い詰めた。

 アルベールは少しも動じなかった。


「吸血鬼族の回復には一番効果がありましたゆえ。」


「切り捨てないでください!」


「もちろん、ミレイユ様へは必要事項としてご報告いたします。」


「報告したら俺が死ぬんですけど。」


「ご安心ください。」

「詳細はぼかします。」


「ぼかしても死にます!」


 アルベールは香炉を完全に閉じ、懐から別の小瓶を取り出した。

 蓋を開けると、爽やかな苦い香りが広がる。

 甘い香りが押し流されていく。


「こちらは鎮静用でございます。」

「深く呼吸を。」


 ソータはルシアを抱えたまま、言われた通り息を吸った。

 苦い香りが肺に入る。

 熱が少しずつ引いていく。

 体の奥で暴れかけていたものが、ようやく落ち着きを取り戻し始めた。


 ルシアも目を閉じ、何度か呼吸した。

 しがみついていた手の力が少し緩む。

 瞳の焦点が戻ってくる。

 自分がソータの上にいること、上着をかけられていること、アルベールが部屋にいることを順番に理解したらしい。

 顔が一気に赤くなったように見えた。


「私……何を……。」


「大丈夫。」

「何も進んでない。」


 ソータはすぐに言った。


「君が怪我をしてるから、止めた。」


 ルシアはしばらくソータを見つめた。

 それから、両手で上着を握りしめた。


「私、ソータに……変なことをした?」


「少し。」


「少し?」


「かなり少しじゃない。」


 ルシアは枕に顔を埋めたくなるような顔をした。

 けれど、羽が痛むので動けない。

 その様子に、ソータは少しだけ笑いそうになったが、我慢した。


 アルベールは一礼した。


「私の判断が行き過ぎた点につきましては、お詫び申し上げます。」


「行き過ぎたって自覚はあるんですね。」


「はい。」

「ただし、回復効果そのものは出ております。」


 確かに、ルシアの羽の傷は少し良くなっていた。

 白く焼けた痕が薄まり、魔力の流れも戻っている。

 顔色もさっきよりは良い。

 それが腹立たしいほど事実だった。


「効果があるからって、やっていいことと悪いことがあります。」


「ごもっともでございます。」


「チャールズさんにも言っておいてください。」


「チャールズ様は、扉の外で反省中でございます。」


 扉の向こうから、かすかに声がした。


「申し訳ございません、ソータ様。」

「ルシア様の回復を優先するあまり、判断を誤りました。」


 ソータは額を押さえた。


「二人とも、有能なのに時々本当に危ない。」


「恐れ入ります。」


「褒めてません。」


◆◇◆


 アルベールが香炉を片づけ、鎮静の香を残して部屋を出ると、寝室には静けさが戻った。

 甘い香りはほとんど消え、代わりに少し苦い草の匂いが漂っている。

 月明かりは相変わらず柔らかい。

 ただ、さっきまでの危うい熱は薄れていた。


 ルシアはソータの横で、上着を肩にかけたまま小さくなっていた。

 いつもの無邪気な勢いはない。

 恥ずかしさと、申し訳なさと、それでも離れたくない気持ちが混ざった顔だった。


「ソータ。」


「何だ?」


「怒っている?」


「アルベールさんとチャールズさんには怒ってる。」


「私には?」


「君には……。」

「心配してる。」


 ルシアは目を伏せた。


「私、ソータが来てくれて、本当に嬉しかったの。」

「城が怖くて、白い光が痛くて、チャールズも傷ついて、スケルトンたちも動けなくて。」

「そこにソータが戻ってきてくれた。」

「帰ったはずなのに。」

「約束したからって。」

「それが嬉しくて……。」

「夢の中でも、ソータを探していたの。」


「ああ。」


「それで、家族になりたいって思ったの。」

「前よりも、もっと。」

「でも、今の私は怪我をしていて、香にも少し変にされていて。」

「だから、ちゃんとした言葉じゃなかった?」


 ソータはルシアの髪をそっと撫でた。


「言葉は、ちゃんと届いた。」

「でも、今すぐ答えを出す話じゃない。」

「君が元気になって、香も何もなくて、ちゃんと自分で選べる時に話そう。」


「それは、逃げている?」


「逃げてない。」

「大事にしてる。」


 ルシアはじっとソータを見た。

 その瞳の熱は、もう香によるものではなかった。

 もっと静かで、もっと深いものだった。


「大事にされるのは、少し苦しいのね。」


「そうか?」


「すぐに欲しいって言えなくなるから。」

「でも、嬉しい。」


「難しいな。」


「人間関係は難しいのでしょう?」


「よく覚えてる。」


 ルシアは小さく笑った。

 そして、恐る恐る手を伸ばす。


「手を握ってもいい?」


「ああ。」


 ソータはその手を握った。

 今度は、ルシアも強くしがみつかなかった。

 ただ、指を絡めるように握る。

 それだけで、彼女は少し安心したようだった。


「添い寝は?」


「怪我に響かないなら。」


「さっきみたいに、ソータの腕に頭を乗せてもいい?」


「それくらいなら。」


「キスは?」


 ソータは少しだけ困った顔をした。

 ルシアはすぐに慌てる。


「駄目なら、駄目と言って。」

「尊重するから。」


 その一言で、ソータの胸の奥が柔らかくなった。

 さっきの危うさとは違う。

 ちゃんと聞いている。

 待っている。

 それが彼女の成長だった。


「頬なら。」


 ルシアは目を輝かせた。


「頬。」


「それ以上は、今日は駄目。」


「分かったわ。」

「今日は頬。」


 ルシアは嬉しそうに頷いた。

 ソータは彼女の頭をもう一度、自分の右腕へ乗せた。

 ルシアは慎重に体を寄せる。

 羽に響かない角度を探しながら、ソータの胸元へ頬を寄せた。

 さっきのようにしがみつくのではなく、そっと寄り添う形だった。


 ソータは彼女の額に触れ、熱を確かめる。

 まだ少し高い。

 でも、落ち着いている。


 ルシアが小さく言った。


「ソータ。」


「うん。」


「私、待つわ。」

「でも、待っている間に、もっとちゃんとする。」

「謝る言葉も、家族のことも、恋のことも、尊重も。」

「それから、香を焚く時は、先に聞く。」


「それは絶対だな。」


「アルベールとチャールズにも言う。」


「頼む。」


 ルシアは頬をソータの腕に押しつけ、小さく笑った。


「でも、少しだけ嬉しかったの。」

「ソータが、私を止めてくれたこと。」


「嬉しいのか?」


「ええ。」

「私を欲しがらなかったからじゃない。」

「私を大事にしたからでしょう?」


 ソータはしばらく黙った。

 それから、静かに頷いた。


「ああ。」

「そうだ。」


 ルシアは満足そうに目を閉じた。


「なら、今日はそれでいいわ。」

「頬だけで。」


 ソータはルシアの髪を少しかき分け、今度は彼女が起きていることを確認してから、頬へ軽くキスをした。

 ルシアは目を閉じたまま、幸せそうに息を吐いた。


「涙の味、した?」


「今はしない。」


「よかった。」


「さっきはした。」


「恥ずかしいわ。」


「泣いていいんだよ。」


「泣いたら、またキスしてくれる?」


「それは取引にするな。」


「難しいわ。」


 ソータは小さく笑った。

 ルシアも笑った。

 その笑いは弱々しかったが、確かに二人の間にあった。


 やがて、ルシアの呼吸がゆっくりになっていく。

 今度は香に煽られた眠りではない。

 疲れと安心が混ざった眠りだった。

 彼女はソータの腕を枕にしたまま、静かに眠った。


 ソータはしばらく起きていた。

 窓の外の月を見ながら、胸の奥でまだ少し残る熱を深い呼吸で鎮める。

 自分の体に残る反応も、怒りも、愛しさも、全部まとめて抱えていた。


(危なかった。)

(本当に危なかった。)

(でも、越えなかった。)

(越えなかったことも、たぶん大事なんだ。)


 ミレイユなら、きっと怒る。

 オルドアイも、きっと怒る。

 けれど、今夜のことをきちんと話せるかは分からない。

 ただ一つだけ、ソータは自分に言い聞かせた。

 ルシアを大事にした。

 それだけは、嘘にしない。


 扉の外で、チャールズの小さな声が聞こえた。


「……反省しております。」


 続いて、アルベールの声。


「私もでございます。」


「二人とも、明日ちゃんと謝ってください。」


 ソータが低く言うと、扉の向こうで二人の声が揃った。


「承知いたしました。」


 ソータは苦笑した。

 ルシアは眠っている。

 城は修復の途中。

 大教会は退いた。

 けれど、まだ終わっていない。


 長すぎる夜は続いている。

 ただ、その夜の中で、ソータはまた一つ、運ぶべきものの重さを知った。

 欲しいものを欲しいままに奪うのではなく、相手が自分で選べる朝まで守ること。

 それもまた、道を作ることなのだと。


 ルシアの寝息を聞きながら、ソータは静かに目を閉じた。

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