第133話:大神官ヨーダの沈黙
大教会の残党たちが大神官ヨーダのもとへ辿り着いたのは、夜明け前だった。
白い法衣は泥と煤で汚れ、聖印は砕け、銀杭は黒ずみ、祈祷布はただの布切れになっていた。
馬を走らせる余裕すらなく、途中で何度も転び、互いの肩を借りながら逃げ延びた者たちは、大教会北方支部の白い大扉の前で膝をついた。
彼らの顔には、恐怖と屈辱と、まだ信じられないという色が張りついていた。
大理石の床は朝の冷気を含んでいた。
高い天井には聖句が刻まれ、壁には金の燭台が並び、神の慈悲を描いた巨大な絵画が掲げられている。
その厳かな空間に、敗走した者たちの荒い息だけが響いていた。
誰も、最初の一言を言えなかった。
ただ一人、部隊を率いていた司祭だけが、折れた聖杖を抱えたまま、奥の扉の前で震える声を絞り出した。
「大神官猊下へ……。」
「至急、御報告を……。」
扉の前に立つ侍祭たちは、彼らの姿を見て目を見開いた。
出発した時は、整然とした浄化部隊だった。
白い法衣は清く、聖具は輝き、祈祷師たちは自信に満ちていた。
それが今は、まるで戦場から命だけを拾って帰ってきた敗残兵のようだった。
しばらくして、奥の扉が開いた。
重い白木の扉の向こうから、大神官ヨーダが姿を現した。
ヨーダは痩せた老人だった。
長い白髭を胸元まで垂らし、刺繍の施された法衣をまとっている。
年老いてはいるが、背筋はまだ伸びており、細い目には鋭い光があった。
大教会北方支部の実質的な長。
かつて多くの神官を教育し、聖術と規律を叩き込んだ人物でもある。
その威厳の前では、若い神官たちは普段なら声も荒げられない。
だが、そのヨーダは、敗走した部隊を見た瞬間、深く眉を寄せた。
「何事か?」
「聖具はどうした?」
「結界石は?」
「浄化部隊は、なぜこのような姿で戻った?」
司祭は床に膝をついたまま、震える声で答えた。
「申し訳、ございません……。」
「夜の領域にて、吸血鬼族の城を確認いたしました。」
「紫の羽を持つ女吸血鬼、アンデッドの群れ、黒い城……。」
「我らは聖結界を展開し、浄化を試みました。」
「それで?」
ヨーダの声は冷たかった。
「吸血鬼は滅ぼしたのか?」
司祭は顔を伏せた。
「失敗、いたしました。」
広間の空気が凍った。
侍祭たちが息を呑む。
ヨーダの目が細くなる。
「失敗。」
「はい……。」
「吸血鬼一体と、城のアンデッドを相手に、聖結界を展開しながら失敗したと。」
「は……はい。」
ヨーダは杖を床に突いた。
乾いた音が大理石に響く。
「情けない。」
「聖印を掲げながら夜の残滓一つ封じられぬとは。」
「近頃の祈祷師は、祈りの言葉ばかり覚えて肝心の胆力が足りぬ。」
敗走した者たちはさらに身を縮めた。
ヨーダは冷たい目で彼らを見下ろした。
「やむを得ん。」
「私が粛清に出ねばなるまいか。」
その一言に、部屋の空気が変わった。
侍祭たちは背筋を伸ばした。
残党たちも、恐怖とは別の緊張に震える。
大神官ヨーダが自ら動く。
それは、大教会の名誉回復と、夜の城への再浄化を意味していた。
彼らはそう思った。
少なくとも、次の名前が出るまでは。
司祭は額を床につけたまま、必死に続けた。
「しかし、猊下……。」
「問題は、吸血鬼ではございません……。」
「城に、別の者が……。」
「別の者?」
「はい。」
「人間の男が一人、吸血鬼の城を守る側におりました。」
「黒服の老執事のような姿で……。」
「彼は我らの聖具をすべて破壊し、結界を逆流させ、我らに伝言を……。」
ヨーダは苛立ったように杖を握った。
「名は。」
司祭は喉を鳴らした。
その名前を口にするだけで、またあの白い手袋の男の声が耳に蘇るようだった。
「アルベール、と。」
その瞬間、大神官ヨーダの顔が引きつった。
それは、はっきりと分かる変化だった。
先ほどまで怒りと威厳に満ちていた老人の顔から、血の気がすっと引いた。
細い目がわずかに開き、白髭の下の口元が硬直する。
杖を握る手が、ほんの少し震えた。
広間にいた者たちは、誰もすぐには理解できなかった。
大神官ヨーダが怯えた。
そう見えた。
しかし、そんなはずがない。
大神官が、ただの老執事の名を聞いて顔色を変えるなど、あり得ない。
だが、ヨーダの心には、遠い記憶がはっきり蘇っていた。
まだ彼が神官見習いだった頃。
若く、信仰に燃え、聖句さえ唱えれば不浄は消えると信じていた頃。
大教会に招かれた一人の大魔導士がいた。
名はアルベール。
勇者一行に加わる前か後か、時期は曖昧だ。
だが、その男は大教会の若い神官見習いたちに、魔術構造、結界理論、死霊術の危険性、聖術の限界、そして「見ただけで判断するな」という基礎を叩き込んだ。
叩き込んだ、などという優しい言葉では足りない。
ヨーダたちはしごかれた。
徹底的にしごかれた。
聖句を一字間違えれば、結界が足元だけ消えて泥水へ落とされた。
不浄と決めつけた骨人形が、実は祈祷式の練習用人形であり、罵倒した者だけ一晩中掃除を命じられた。
聖具の管理を怠った者は、祝福を抜かれたただの銀の匙を「聖剣」と思い込まされて半日振り回した。
ヨーダは特にしごかれた。
自信家で、理論を飛ばして断定する癖があったからだ。
若き日のアルベールは、穏やかな顔でその癖を何度も何度も叩き折った。
(見ただけで判断するな。)
(術式を読め。)
(相手を調べろ。)
(信仰を言い訳にするな。)
(準備不足を神の名で飾るな。)
その声が、年老いた今でも耳の奥に残っている。
ヨーダはしばらく黙っていた。
その沈黙が長すぎて、司祭は恐る恐る顔を上げた。
「猊下……?」
ヨーダの額に、薄く汗が滲んでいた。
「その男が……。」
「本当に、アルベールと名乗ったのか。」
「はい。」
「最後に、大神官であるヨーダに告げなさい、と……。」
ヨーダの肩がぴくりと動いた。
「何と。」
「アルベールが、次はないと言っていたと。」
広間の空気が完全に止まった。
ヨーダは目を閉じた。
深く、深く息を吸う。
そして、ゆっくりと吐いた。
次に目を開けた時、その顔には先ほどまでの怒りはなかった。
代わりに、かつて教師に見つかった悪童のような、いや、もっと深刻な、全力で危険を避けようとする老人の判断が浮かんでいた。
「今後、あのエリアへの接近は禁ずる。」
あまりにも早い判断だった。
司祭たちは呆気にとられた。
「は……?」
「聞こえなかったか。」
「あの夜の領域、ならびに吸血鬼族の城周辺への接近を禁ずる。」
「調査も、浄化も、討伐も、監視も不要。」
「いや、不要ではない。」
「禁止だ。」
司祭の顔が引きつる。
「し、しかし猊下。」
「吸血鬼族が……。」
「今世の吸血鬼族は、人間に害を加えぬようだから絶対に手出しをしないように。」
ヨーダはきっぱりと言った。
「人間の血を吸っていないのだろう。」
「そ、それは敵の側がそう申して……。」
「お前たちは確認したのか。」
「いえ……。」
「では、見ただけで判断したのだな。」
司祭は言葉を失った。
ヨーダは杖を床に突いた。
「愚か者。」
「見ただけで判断するなと、私は何度も教えたはずだ。」
「いや、私もかつて叩き込まれた。」
「その教えを忘れた者が、聖具を壊されて戻ってきた。」
「当然だ。」
司祭は床に額を擦りつけた。
「申し訳ございません……。」
「申し訳ないで済めば、結界石は割れぬ。」
「聖具をすべて失ったことについては、別途報告書を出せ。」
「隣国式の軍用封鎖術式を混ぜた件も、誰の指示か洗い出す。」
「大教会の祈りを、軍の道具にするなど言語道断だ。」
ヨーダの声に、今度は別の怒りが宿った。
それは吸血鬼への怒りではない。
大教会の名を、隣国の思惑に使わせたことへの怒りだった。
だが、その怒りも長くは続かなかった。
彼はふと扉の方を見た。
まるで、遠くからアルベールの白手袋がこちらを指している幻でも見たように、顔を強張らせる。
「とにかく。」
「あのエリアには近づくな。」
「吸血鬼族には手を出すな。」
「その城に関する一切の独断行動を禁ずる。」
「これは大神官ヨーダの名による新規律とする。」
周囲の神官たちは呆気にとられていた。
たった今まで粛清に出ると言っていた老人が、アルベールの名を聞いた途端に方針を百八十度変えたのだ。
誰もすぐには声を出せなかった。
ヨーダはそれ以上、何かを問われる前に踵を返した。
「私は祈りに入る。」
「誰も入れるな。」
「猊下?」
「誰もだ。」
そう言うと、ヨーダはそそくさと自室へ入っていった。
重い扉が閉まる。
鍵がかかる音がした。
さらに内側から、椅子か何かで扉を押さえる音まで聞こえた。
広間に残された神官たちは、しばらく沈黙していた。
やがて、侍祭の一人がぽつりと言った。
「大神官猊下の新規律……で、よろしいのでしょうか。」
別の神官が、まだ呆然としながらも頷いた。
「大神官猊下の御言葉だ。」
「正式な規律として記録する。」
「全支部へ通達せよ。」
「北方夜域への接近禁止。」
「吸血鬼族への独断討伐禁止。」
「該当地域における大教会部隊の展開には、大神官以上の許可を要する。」
「全世界へ?」
「全世界へ。」
こうして、大教会の新しい規律が整えられていった。
その理由を詳しく知る者は少なかった。
ただ、通達にはこう記されることとなる。
北方夜域に関する一切の軽率な断定を禁ずる。
現存する吸血鬼族については、人間への直接加害が確認されるまで、討伐対象としない。
聖具の無断展開、隣国術式との混用を厳禁とする。
違反者は大神官ヨーダの名において処罰する。
そして、その通達の余白に、一人の老書記が小さくこう書き添えた。
アルベールの名が関与する案件につき、慎重を期すこと。
◆◇◆
その頃、ルシアの城の食堂では、奇妙に穏やかな光景が広がっていた。
外では黒薔薇の庭の一部が焼け、城門の補修が進められ、スケルトンたちが焦げた布や壊れた盾を集めている。
だが、食堂の中だけは、いつもの紫の灯が戻り、長い卓の上には人間用の食材がいくつか並べられていた。
小麦粉。
干し肉。
乾燥野菜。
香草。
果実の砂糖漬け。
ソータが運んできた物資の残りと、城に元からあったものを合わせたものだった。
その卓の前に、チャールズとアルベールが並んで立っていた。
チャールズはいつになく楽しそうだった。
骨なので表情はない。
だが、眼窩の青い火が明るく、杖を持つ姿にも少し弾むような気配がある。
対するアルベールは、いつもの老執事然とした姿で、白手袋をはめ直し、まるで貴族の厨房を監督するように淡々としていた。
「つまり、人間用の粥において最も重要なのは、胃に負担をかけぬことなのですね。」
チャールズが真剣に尋ねる。
「はい、チャールズ様。」
「回復期の人間には、過度な油、強い香辛料、硬い肉は避けるべきでございます。」
「まずは水分、柔らかさ、温度。」
「そして、少量ずつ。」
「なるほど。」
「ルシア様は、ソータ様が美味しいと言うたびに大変喜ばれます。」
「しかし、喜ばせたいあまり、黒薔薇の蜜を多用なさる傾向がございます。」
「甘味は悪ではございません。」
「ただし、用途と量を誤れば、薬も毒となります。」
「おっしゃる通りでございます。」
チャールズは深く頷いた。
「では、黒薔薇の蜜を用いた菓子を作る場合、人間が一度に食してよい量は。」
「個人差はございますが、まずは小匙半分程度から。」
「小匙半分。」
「ルシア様へは、小匙一杯でも多いと申し上げるべきでしょうか。」
「ルシア様がソータ様を喜ばせようとして、小匙を大匙に持ち替える危険がございます。」
「必ず器具をこちらで管理なさいませ。」
「承知いたしました。」
チャールズは非常に真剣だった。
大教会の包囲からまだ半日も経っていない。
自分の骨にもひびが残っている。
それでも彼は、人間用の食事についてアルベールから教えを乞うている。
ソータが食べるもの。
ルシアが誰かをもてなすために必要なもの。
それが今のチャールズにとっては、城の防衛と同じくらい大事なのだろう。
アルベールは小麦粉の袋を軽く持ち上げた。
「こちらの保存状態は悪くありません。」
「ただ、湿気が少し多い。」
「食堂奥の棚ではなく、風通しのよい上段へ移すべきでございます。」
「湿気は私も苦手でございます。」
「存じております、チャールズ様。」
「なぜご存じで。」
チャールズが問うと、アルベールは一瞬だけ沈黙した。
「観察によるものです。」
「左様でございますか。」
「はい。」
「では、私が浴場から逃げる傾向についても。」
「観察によるものです。」
「なるほど。」
二人は静かに見つめ合った。
そこには、説明していない過去が明らかに横たわっていた。
だが、今は互いにそれを避けている。
アルベールはミレイユの執事として。
チャールズはルシアの執事として。
互いの現在の主を優先しながら、食材の保存方法について真剣に話していた。
「ところで、アルベール殿。」
チャールズが言いかけ、すぐに言い直した。
「ミレイユ様の執事殿。」
「はい、チャールズ様。」
「人間の朝食として、最も無難で、かつルシア様がソータ様に出して喜ばれるものは何でしょうか。」
「卵料理でございます。」
「卵。」
「ただし、火加減が重要です。」
「焼きすぎれば硬くなり、半熟に過ぎれば好みが分かれます。」
「まずは柔らかな炒り卵がよろしいでしょう。」
「ルシア様に火加減を任せるのは。」
「危険でございます。」
「即答。」
「はい。」
チャールズは重々しく頷いた。
「では、火加減は私が管理いたします。」
「ルシア様には、盛りつけを。」
「黒薔薇を添えすぎないようご注意くださいませ。」
「承知いたしました。」
「一本まで。」
「花弁一枚までが無難でございます。」
「厳しい。」
「人間の皿に黒薔薇一本は、場合によっては儀式に見えます。」
「なるほど。」
「人間は場合が多い。」
「左様でございます。」
食堂の片隅で、数体のスケルトンがそのやり取りを聞きながら、なぜか頷いていた。
うち一体は、小さな黒薔薇を皿に置こうとして、チャールズに無言で止められていた。
◆◇◆
一方、ルシアの部屋では、ソータがルシアの介抱をしていた。
大きな寝台に、ルシアは横たわっている。
薄紫の帳が半分だけ下ろされ、部屋には柔らかな灯りが満ちていた。
窓の外は長い夜。
しかし、先ほどまでの白い圧はない。
霧は静かに流れ、黒薔薇の香りも少しずつ戻っている。
ルシアは上半身を少し起こし、羽を畳んでいた。
羽の端には、まだ白く焼けた傷が残っている。
アルベールが城内の魔力を戻したおかげで回復は進んでいるが、傷はそんなに軽いものではなかった。
羽の膜には細かな裂け目があり、根元に近い部分には痛々しい焦げ跡がある。
肌にも、聖気に触れた痕が赤く残っていた。
ソータは濡らした布を絞り、傷の周りを慎重に拭いた。
ルシアは少しくすぐったそうに笑う。
「今度は私が介抱されてるなんてね。」
「楽しそうに言うことじゃないだろ。」
「少し楽しいわ。」
「ソータが真剣な顔で私を見ているもの。」
「傷を見てるんだよ。」
「私も見ているでしょう?」
「そういう言い方をするな。」
ルシアはくすくす笑った。
けれど、笑った拍子に羽の傷が痛んだのか、少し顔をしかめた。
ソータはすぐに手を止める。
「痛むか?」
「少し。」
「少しじゃない顔だぞ。」
「なら、かなり。」
「正直でよろしい。」
「私はかなり進んだルシアだから。」
そう言って胸を張ろうとして、また痛そうに止まる。
ソータは小さく息を吐いた。
「動くな。」
「本当に傷は軽くないんだから。」
「分かっているわ。」
「でも、ソータが心配してくれるのは嬉しい。」
「心配するに決まってるだろ。」
「どうして?」
「どうしてって……。」
ソータは布を水に浸し直した。
ルシアの問いは、まだ時々まっすぐすぎる。
危険で、無邪気で、恋を知り始めた吸血鬼の姫。
彼女は「心配されること」そのものに、まだ驚いているのかもしれない。
「君が大事だからだよ。」
ソータが言うと、ルシアは一瞬、完全に黙った。
薄紫の瞳が大きく開く。
それから、頬にほんのり色が差したように見えた。
「今の、もう一度言って。」
「治療中だ。」
「治療に必要かもしれないわ。」
「絶対関係ない。」
「心の傷には効くわ。」
ソータは少しだけ笑った。
その笑いで、張り詰めていた空気が少し緩む。
「君が大事だから、心配する。」
ルシアは目を閉じた。
今度は茶化さなかった。
ただ、胸の前で指をそっと組み、言葉を抱くように小さく頷いた。
「嬉しい。」
「痛いけど、嬉しい。」
「痛い方は減らしていこう。」
「ええ。」
ソータは傷の周りを拭き、アルベールが用意した軟膏を薄く塗った。
吸血鬼に人間用の薬が効くのか分からなかったが、アルベールは「傷口の保護にはなります」と言っていた。
チャールズも「聖気の残滓を防ぐ油膜として有効でございます」と説明していた。
なので、今はそれを信じるしかない。
ルシアはソータの手元をじっと見ていた。
「ソータは手つきが優しいわ。」
「怪我人を何度も運んだからな。」
「乱暴に触ると痛いのは分かる。」
「私も、ソータを介抱した時、優しくできていた?」
「ああ。」
「できてたよ。」
「本当?」
「水も持ってきてくれたし、休ませてくれたし、黒薔薇も見せてくれた。」
「湯浴みも。」
「それは少し方向が違う。」
「でも、元気になったでしょう?」
「それは否定しない。」
ルシアは楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、ソータは少し安心した。
だが、傷は現実だ。
白い聖結界がルシアに与えた負担は大きい。
彼女が強いから立っていただけで、普通なら倒れていてもおかしくなかった。
(やっぱり、放っておけなかった。)
(戻ってよかった。)
(でも、これで終わりじゃない。)
ソータは包帯代わりの柔らかい布を取り出し、羽の根元を締めつけないように巻いた。
ルシアは大人しくしている。
以前なら、じっとしていられずに質問攻めにしていただろう。
今も聞きたいことは山ほどある顔だったが、ソータが手当てしている間は我慢していた。
「聞きたいことがある顔だな。」
ソータが言うと、ルシアは目を瞬かせた。
「分かる?」
「分かる。」
「では、一つだけ。」
「本当に一つだけか?」
「まず一つ。」
「増える前提だな。」
ルシアは少し考え、それから言った。
「アルベールは、どうしてあんなに強いの?」
ソータは布を巻く手を止めかけた。
「俺も知りたい。」
「ソータも知らないの?」
「知ってることは少しある。」
「元勇者一行の大魔法使いだったらしい、くらいは。」
「勇者一行。」
「今はミレイユの執事だけどな。」
「人間は、経歴が変わるのね。」
「変わる人もいる。」
「チャールズは、アルベールを知っていたわ。」
「たぶんな。」
「チャールズは私に隠し事をしている。」
「してるな。」
「私は主なのに。」
「でも、たぶん君を裏切ってるわけじゃない。」
ルシアは黙った。
少しだけ考える顔になる。
「分かっているわ。」
「チャールズは私を守ってくれている。」
「でも、知らないことがあるのは少し寂しい。」
「後で聞けばいい。」
「きっと全部じゃなくても、話してくれる。」
「アルベールが止めなければ?」
「そこは難しい。」
「やっぱりミレイユに聞く必要がある?」
「なぜかそうなるらしい。」
ルシアは真剣な顔になった。
「ミレイユは本当に強いのね。」
「だから、別の意味で強いんだって。」
ソータは苦笑した。
その時、扉が静かに叩かれた。
「失礼いたします。」
アルベールの声だった。
ソータが返事をすると、扉が開き、アルベールが入ってきた。
手には小さな盆を持っている。
盆の上には、温かい飲み物と、薄い粥のようなものが乗っていた。
老紳士らしい穏やかな表情。
さっき外で大教会を叩き潰した人物と同じとは思えない落ち着きだった。
「ルシア様。」
「魔力の回復には時間がかかります。」
「食事は不要とのことですが、温かい香草湯だけでもお飲みくださいませ。」
「人間用に調整したものですが、吸血鬼族にも害はございません。」
「ありがとう。」
ルシアは素直に受け取った。
アルベールはソータの手当てを見て、軽く頷く。
「良い処置でございます、ソータ様。」
「ただし、その結び目は少々強うございます。」
「羽の血流、もしくは魔力流を妨げる可能性がございます。」
「すみません。」
「いえ。」
「すぐに直せます。」
アルベールは指先で布を少し緩めた。
動きは速く、正確だった。
ルシアが驚いたように羽を動かす。
「楽になった。」
「それは何よりでございます。」
ソータはアルベールを見た。
「アルベールさん。」
「ミレイユは、あなたがこっちに残ってることを許してるんですか。」
アルベールは静かに頷いた。
「はい。」
「ミレイユ様より、きちんと事が終わるまで帰ってこなくても大丈夫、と申しつかっております。」
「ミレイユが……。」
「もちろん、帰還後のソータ様への説教が軽減されるとは申されておりません。」
「そこは別なんですね。」
「はい。」
「完全に別でございます。」
ルシアは香草湯を持ったまま、不安そうに聞いた。
「ミレイユは、怒っている?」
「はい、ルシア様。」
「即答。」
「ただし、状況を理解した上で、必要な協力はなさるお方でございます。」
「ミレイユ様は、感情で判断を誤る方ではございません。」
「怖いわ。」
「大変聡明でいらっしゃいます。」
「それ、怖いという意味もあるでしょう?」
ソータが言うと、アルベールは微笑んだ。
「ご想像にお任せいたします。」
ルシアは香草湯を両手で持ち、少し緊張した顔になった。
「私、謝る練習をもっとするわ。」
「それがよろしいかと存じます。」
アルベールは一礼した。
「また、城の修復につきましては、私も全面的に協力いたします。」
「黒薔薇の庭、城門、外周結界、食材庫、ならびに骸骨劇団の舞台備品まで、可能な範囲で整えましょう。」
「舞台備品も?」
ルシアの顔が少し明るくなる。
「はい。」
「ただし、聖具の破片を小道具に使うのはお控えくださいませ。」
「もうチャールズに止められたわ。」
「賢明でございます。」
ソータは思わず笑った。
戦いの後なのに、こんな話ができる。
それは、この城がまだ生きている証だった。
アルベールは窓の外を見た。
長い夜が戻っている。
だが、彼の表情は少しだけ厳しい。
「大教会は、少なくとも当面は手を出さないでしょう。」
「私の名を大神官ヨーダ様へ伝えさせましたので。」
「ヨーダって、どんな人なんですか。」
ソータが聞くと、アルベールは少しだけ目を細めた。
「昔、少々教育した神官見習いの一人でございます。」
「教育。」
「はい。」
ルシアが聞いた。
「優しく?」
アルベールは微笑んだ。
「必要に応じて。」
ソータはその言葉の裏を察した。
「絶対しごいたんだ。」
「教育でございます。」
「ヨーダさん、今ごろ震えてるんじゃないですか。」
「まさか。」
「大神官ともあろう方が、そのような。」
アルベールは穏やかに言った。
だが、その微笑みには、すべて分かった上でとぼけている気配があった。
ルシアは小さく息を吐いた。
「アルベール。」
「あなたが味方でよかったわ。」
アルベールは深く一礼した。
「私はミレイユ様の執事でございます。」
「そして現在、ミレイユ様のご命令により、ソータ様とルシア様の安全、およびこの城の状況収拾を補佐しております。」
「つまり、味方?」
「業務上、そのように解釈していただいて差し支えございません。」
「人間の執事は難しいわ。」
「執事にも色々ございますので。」
ソータは笑った。
ルシアも少し笑った。
アルベールも静かに微笑む。
部屋の外では、チャールズが食堂で人間用の料理についてさらに熱心に質問している声がかすかに聞こえた。
スケルトンたちが城門を補修する骨の音も響いている。
黒薔薇の庭は傷ついたが、根は生きている。
城は壊れたが、直せる。
ルシアは傷ついたが、笑っている。
ソータはルシアの包帯を整えながら、静かに思った。
(まだ帰れない。)
(でも、ミレイユは分かって送り出してくれてる。)
(オルドアイには、バルクが伝えてくれているはずだ。)
(俺はここで、ちゃんと終わらせる。)
(そして、今度こそ戻る。)
運ぶものはまだ多い。
大教会への新しい規律。
ルシアの謝罪。
チャールズとアルベールの過去。
城の修復。
ミレイユへの報告。
オルドアイへの説明。
どれも軽くはない。
けれど、ソータはもう荷の重さだけを見てはいなかった。
それをどう積み、どう運び、誰と分け合うかを考えていた。
ルシアが香草湯を一口飲み、少しだけ顔をしかめた。
「苦いわ。」
アルベールが即座に答える。
「薬効を優先しております。」
「ソータが飲んでいた黒薔薇の蜜入りの方がいい。」
「今はお控えくださいませ。」
「少しだけ。」
「花弁一枚程度なら。」
「蜜は?」
「小匙半分以下でございます。」
扉の向こうから、チャールズの声がした。
「ルシア様。」
「小匙半分以下でございます。」
ルシアはむっとした。
「チャールズまで。」
ソータは笑った。
その笑い声が、ルシアの部屋に柔らかく響いた。
長すぎる夜の城は、まだ傷だらけだった。
だが、その夜の中には、もう孤独だけではない音があった。
手当てをする音。
食事を学ぶ声。
骨たちが働く音。
そして、次に外へつながる道を整える者たちの気配があった。




