第132話:次はない
黒い城の内側で、空気が変わっていった。
白い聖結界に押し潰されかけていた夜の魔力が、床の奥から、壁の隙間から、天井に刻まれた古い紋様から、ゆっくりと息を吹き返していく。
紫の灯が一つ、また一つと明るさを取り戻した。
弱っていた燭火が揺れ、黒い石の壁に深い影を作る。
その影は先ほどまでのように怯えてはいなかった。
むしろ、城そのものが長い眠りから目を覚まし、外の白い光を睨み返しているようだった。
ソータは城門の内側で、肩を押さえながらアルベールを見ていた。
アルベールは白手袋を外したまま、城門へ向かって立っている。
足元には銀色の魔法陣が広がり、その線が城の古い紫の紋様と絡み合っていた。
まるで、外から押し込まれていた聖結界を逆に利用し、城の魔力を巡らせ直しているようだった。
ルシアはソータの隣で息を呑んでいた。
白く焼けかけていた羽の端に、少しずつ紫の色が戻っている。
完全に治ったわけではない。
けれど、さっきまでの痛々しさは薄れ、羽の筋に夜の光が流れ始めていた。
彼女自身も驚いているようで、自分の羽を見てから、アルベールを見た。
「私の魔力が……戻ってる。」
「いえ、戻ってるだけじゃないわ。」
「増えている?」
チャールズも杖を持つ手を見下ろしていた。
ひびの入っていた指先に、紫色の細い光が走っている。
骨の隙間に絡みついていた白い聖気が、煙のように剥がれていく。
関節の動きが滑らかになり、眼窩の青い火も明るさを取り戻していた。
「これは……。」
「城内の夜の魔力が、ルシア様を中心に再循環しております。」
「しかも、流れが整えられている。」
「ただ戻したのではございません。」
「増幅したうえで、無駄なく満たしている。」
チャールズの声には、隠しきれない驚きと敬意があった。
ソータはその横顔を見て、やはり思った。
チャールズはアルベールを知っている。
ただの知り合いではない。
その魔法を一目見て、過去の何かを思い出すほどの関係だ。
けれど、今は問い詰めている場合ではない。
外ではまだ大教会の聖歌が乱れながら続いている。
城門は閉じているが、白い光は黒い扉の隙間からまだ滲んでいた。
アルベールはそれを見つめ、静かに息を吐いた。
「ソータ様。」
「ルシア様。」
「チャールズ様。」
アルベールの声はいつも通り丁寧だった。
だが、そこに含まれる圧は、普段の執事のものではない。
「このまま結界を破るだけであれば、容易です。」
「しかし、それでは意味がございません。」
「意味がない?」
ソータが聞き返すと、アルベールは頷いた。
「はい。」
「彼らは、吸血鬼族を見た。」
「ルシア様の城を見た。」
「夜の領域を見た。」
「そして、こちらが抵抗できることも知った。」
「ただ退けるだけでは、必ず次を用意して参ります。」
ルシアの瞳が揺れた。
「次……。」
「大教会は、敗北を認めるより先に、名目を作る組織でございます。」
「不浄が抵抗した。」
「吸血鬼が人間を惑わした。」
「夜の城に危険な魔術が眠っている。」
「そのような言葉をいくらでも並べ、より大きな兵力と結界を連れて戻ってくるでしょう。」
ソータは顔をしかめた。
想像できた。
今回を退けても、それだけでは終わらない。
むしろ、ルシアの城が本当に存在すると証明されてしまった以上、大教会や隣国は次の手を打ってくる。
「じゃあ、どうするんですか。」
アルベールは城門の向こうを見たまま、静かに言った。
「教会が、もう襲う気力も無くなるほどの屈辱を与えなければなりません。」
ルシアが目を丸くした。
チャールズの眼窩の火がわずかに震えた。
ソータも一瞬、言葉を失う。
「屈辱……。」
「はい。」
「彼らに必要なのは、敗北だけではございません。」
「自分たちが見誤ったという事実を、骨の髄まで理解させることです。」
チャールズが小さく咳払いをした。
「骨の髄、でございますか。」
「比喩だ、チャールズ様。」
「承知いたしました。」
こんな時でも、そのやり取りは少しだけおかしかった。
だが、アルベールの視線は笑っていなかった。
「私は、このまま彼らと対峙します。」
「一人でですか?」
ソータが思わず聞く。
「はい。」
「でも、外にはかなりの人数がいます。」
「結界石も、祈祷師も、兵も……。」
「承知しております。」
「それでも?」
「それでも、でございます。」
アルベールは外した白手袋を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。
それから、ルシアへ一礼する。
「ルシア様。」
「しばし、城をお借りいたします。」
ルシアは戸惑いながらも頷いた。
「……許すわ。」
「でも、壊さないで。」
「善処いたします。」
「それは不安な言葉よ。」
「城の主要部は守ります。」
「主要部以外は?」
「状況次第でございます。」
ソータは思わず口を挟んだ。
「アルベールさん。」
「本当に大丈夫なんですか。」
アルベールはソータを見た。
その目は穏やかだった。
けれど、どこか遠い。
ミレイユの執事としての顔の奥に、かつて戦場を渡った者の目があった。
「ソータ様。」
「私はミレイユ様より、状況確認とソータ様の保護を命じられております。」
「そして、ミレイユ様の利益を損なう恐れのある外敵を放置することは、執事として看過できません。」
「それ、執事の範囲を超えてません?」
「執事の業務範囲は、主の必要に応じて拡張されます。」
「便利すぎる。」
「恐れ入ります。」
アルベールは微笑んだ。
そして、次の瞬間、姿が消えた。
音はなかった。
扉を開けたわけでもない。
床を蹴った気配すらない。
ただ、そこにいたはずのアルベールが、瞬きの間に消えた。
ソータは目を見開いた。
「消えた……。」
チャールズが静かに言った。
「転移ではございません。」
「城の魔力線を通じて、外側へ抜けられました。」
「そんなことできるの?」
ルシアが聞くと、チャールズは少し沈黙した。
「できる方は、限られます。」
「アルベールはできるのね。」
「はい。」
「昔から。」
言った瞬間、チャールズは自分で口を閉じた。
ソータとルシアが同時に見る。
「昔から?」
ルシアが低く聞いた。
チャールズは姿勢を正した。
「失礼いたしました。」
「骨は、時折古い記憶を……。」
「その言い訳、もう聞き飽きたわ。」
「では、後ほど。」
「みんな後ほどって言うわね。」
ルシアは不満そうだった。
だが、その視線はすぐに城門へ戻った。
外から怒号が聞こえ始めたからだ。
◆◇◆
最初に聞こえたのは、混乱の声だった。
「何者だ!」
「どこから出た!」
「結界の外側にいるぞ!」
「捕らえろ!」
次に、短い悲鳴。
金属が折れる音。
聖歌が崩れる。
祈祷師たちの声がばらばらになる。
城門の内側にいても、外の戦況が変わっていくのが分かった。
さっきまで城を押し潰すように一定だった白い圧が、急に乱れ始めた。
外側から流れ込んでいた聖気の帯が、ところどころで途切れる。
城壁を叩いていた白い光が弱まり、黒い石の軋みが少しずつ収まっていく。
代わりに、城内の紫の魔力が一気に濃くなった。
床の紋様がはっきりと光り、壁の古い文字が次々に浮かび上がる。
黒薔薇の香りが城内へ満ちていく。
外で焼かれていた庭の悲鳴が、城の中で癒やされるように、夜の香りが深まった。
ルシアの羽が震えた。
白く傷んでいた端が、少しずつ滑らかな紫へ戻っていく。
完全に元通りではない。
だが、羽の骨格に力が戻り、薄紫の光が流れ始めていた。
「すごい……。」
「痛みが引いていく。」
ルシアは自分の羽に触れ、信じられないという顔をした。
「私の魔力なのに、私が使う時より流れが綺麗。」
「悔しいわ。」
ソータは苦笑した。
「そこ悔しがるのか。」
「だって、私の城よ。」
「私の夜よ。」
「でも、アルベールの方が上手に使っている。」
チャールズが静かに言った。
「ルシア様。」
「あの方と比べてはなりません。」
「どうして?」
「昔から、比較対象にしてはいけない方でございました。」
また言った。
ソータはじっとチャールズを見た。
チャールズは今度こそ何も言わず、姿勢を正している。
だが、もう完全に何かある。
スケルトンたちにも変化が起きていた。
白い聖気で鈍っていた関節が動き出し、盾を持つ腕がしっかりと上がる。
ひびの入っていた骨に紫の光が走り、欠けた部分が細かな夜の粒で補われていく。
頭蓋が少しずれていたスケルトンは、自分で頭を直し、何事もなかったように整列した。
別のスケルトンは、先ほど落としかけた木剣を拾い、なぜか劇の時のように一礼した。
ソータは思わず笑いそうになった。
「元気になってるな。」
「はい。」
「城の防衛回路が正常に戻りつつあります。」
「アルベール……ミレイユ様の執事殿が、外の結界を逆に利用し、城内へ夜の魔力を押し戻しておられるのでしょう。」
「そんなこと、普通できますか?」
「できません。」
チャールズは即答した。
「本来、聖結界と夜の魔力は相性が悪うございます。」
「衝突すれば、互いに削り合う。」
「しかし、あの方は結界の外殻だけを剥がし、封鎖術式の流れを逆手に取り、夜の魔力だけを城内へ返している。」
「いわば、敵が張った網を使って、こちらの水路を補修しているようなものです。」
ソータは呆然とした。
「敵の結界を、補給路に変えてるってことですか。」
「ソータ様風に表現するならば、そうなります。」
「めちゃくちゃだ。」
「ええ。」
「昔から、少々めちゃくちゃなお方でございました。」
チャールズはまた言った。
今度は開き直ったようにも聞こえた。
ルシアが目を細める。
「チャールズ。」
「後ほどでございます、ルシア様。」
「もう絶対に聞くから。」
「承知いたしました。」
外の怒号はさらに大きくなった。
「聖杭が砕けた!」
「予備を出せ!」
「予備も割れています!」
「馬鹿な、触れられてもいないぞ!」
「結界石が沈黙しました!」
「祈祷線が逆流している!」
「神官長を守れ!」
金属が砕ける音。
何かが地面に落ちる音。
兵が慌てて走る足音。
そして、アルベールの声がかすかに聞こえた。
「遅い。」
その一言の直後、外で大きな破砕音が響いた。
城内の白い光が、ほとんど消える。
紫の灯が一斉に明るくなった。
ルシアは息を吸った。
その顔色はもうかなり戻っている。
羽も広げられる。
チャールズは杖を持ち直し、スケルトンたちへ指示を飛ばした。
「門内防衛線を再構築。」
「ただし、開門はまだです。」
「外の処理は、ミレイユ様の執事殿にお任せいたします。」
「見に行かなくていいの?」
ルシアが言うと、チャールズは首を横に振った。
「今出れば、邪魔になります。」
「邪魔。」
「はい。」
「大変不本意ながら、今の外は、あの方の作業場でございます。」
ソータは思わず城門を見た。
作業場。
この状況をそう呼ぶのか。
大教会の祈祷師と兵たちが囲む戦場を、アルベールは一人で作業場に変えている。
(本当に、何者なんだよ。)
(ミレイユの執事って言葉で済ませていい人じゃないだろ。)
外から、また悲鳴が聞こえた。
だが、殺される悲鳴ではない。
驚き、恐怖、屈辱。
そういうものが混ざった声だった。
「私の聖印が!」
「聖杯が割れた!」
「銀杭が黒く……いや、ただの鉄になっている!」
「祝福が抜けているぞ!」
「そんな馬鹿な!」
チャールズが低く呟いた。
「聖具を全て無力化しておられる。」
「全部?」
ソータは驚く。
「大教会の者たちが持ち込んだ聖具は、彼らの術式の核でございます。」
「聖印、聖杯、銀杭、結界石、祈祷布。」
「それらの祝福を抜かれれば、彼らはただの兵と祈祷師に戻ります。」
「そんなことできるんですか。」
「普通はできません。」
「また普通じゃない。」
「はい。」
ルシアは城門の前まで歩いた。
もう足取りはしっかりしていた。
だが、チャールズがそっと手を上げて止める。
「ルシア様。」
「まだお待ちください。」
「分かっているわ。」
「でも、見たいの。」
「あの執事が何をしているのか。」
「お気持ちは理解いたします。」
「ですが、今出ると、説教の巻き添えになります。」
「説教?」
その瞬間、外からアルベールの声がはっきりと聞こえた。
◆◇◆
「さて。」
アルベールの声は、城門越しでもよく通った。
怒鳴っているわけではない。
ただ、相手全員に聞こえるように、整えられた声だった。
「皆様。」
「随分とご立派な聖具をお持ちでしたが、扱いが雑でございましたね。」
外はしんと静まり返った。
先ほどまでの怒号と悲鳴が嘘のようだった。
おそらく、大教会の者たちは膝をついている。
あるいは、武器も聖具も失い、立ち尽くしているのだろう。
城内からは見えない。
だが、その沈黙だけで戦況は分かった。
アルベールの声が続く。
「聖具とは、ただ掲げれば力を発揮する道具ではございません。」
「信仰、術式、管理、浄化、補修。」
「すべてを正しく扱って初めて意味がございます。」
「それを、軍用封鎖術式などと雑に接続するから、このように簡単に綻びるのです。」
ソータは唖然とした。
「本当に説教してる……。」
チャールズが静かに頷いた。
「はい。」
「あの方は、相手が間違った術式を使うと大変厳しくなります。」
「昔から?」
ソータが聞くと、チャールズは沈黙した。
「後ほどでございます。」
「もう隠す気ないですよね。」
外では、教会側の誰かが苦しそうに声を出した。
「貴様……。」
「何者だ……。」
「吸血鬼に与する異端者め……。」
アルベールは少しも動じなかった。
「異端者。」
「便利な言葉でございますね。」
「理解できない相手を、調べもせず、ただその一言で処理できる。」
「ですが、何事も見ただけで判断するのは愚かなことだ。」
その声は低くなった。
穏やかだが、冷たい。
「紫の羽を見た。」
「アンデッドを見た。」
「夜の城を見た。」
「それだけで、滅ぼすべき不浄と決めた。」
「ならば、あなた方は何を見落としたのか。」
沈黙。
「この城の主が、人間の血を吸ったことがないという事実。」
「先の盗賊軍団から男たちの村を救ったという事実。」
「そして、この地の夜が、あなた方の思うほど単純な悪ではないという事実。」
「見えぬものを見ようともせず、ただ聖印を振りかざす。」
「それが信仰だとおっしゃるなら、随分と軽い信仰でございます。」
ルシアは城門の内側で、じっと立っていた。
薄紫の瞳が揺れている。
自分のために誰かが外でそう言っている。
それは、ルシアにとって初めてのことなのかもしれない。
チャールズは長く彼女を守ってきた。
ソータも戻ってきた。
そして今、アルベールは大教会の者たちに向かって、ルシアをただの不浄ではないと告げている。
ルシアは小さく呟いた。
「私のことを、知ろうともしなかった。」
ソータはその横顔を見た。
「そうだな。」
「でも、アルベールは、私のことを少し見た。」
「怖くないとは言わなかった。」
「でも、全部を見ずに決めるなと言った。」
「ああ。」
ルシアは胸に手を当てた。
「それは、少し嬉しいわ。」
外で、教会の指揮官らしき男が叫んだ。
「我らは大教会の命に従ったまでだ!」
「夜の眷属を滅ぼすは、神の御心!」
アルベールの返事は、ひどく静かだった。
「神の名を、あなた方の準備不足の言い訳に使うのはおやめなさい。」
外で誰かが息を呑む音がした。
「それに。」
「大教会の命とおっしゃいましたが、隣国式の軍用封鎖術式が混ざっておりましたね。」
「大教会の祈りは、いつから隣国軍の侵攻補助になったのでしょうか。」
沈黙が重くなる。
ソータは目を細めた。
やはり、そこを突いた。
大教会は表向きの顔。
中には隣国の思惑が混じっている。
アルベールはそれを見逃さなかった。
「答えられないのであれば、結構です。」
「あなた方の聖具はすべて破壊いたしました。」
「結界石も、聖印も、銀杭も、祈祷布も。」
「命までは取りません。」
「それは、こちらの慈悲ではなく、伝言を運ぶ者が必要だからでございます。」
外で、誰かが膝をついたような音がした。
金属の残骸が転がる音も聞こえる。
白い結界の気配は、もうほとんど残っていなかった。
城内は完全に夜の魔力を取り戻している。
紫の灯が明るく、黒薔薇の香りが深い。
アルベールの声が、最後に一段低くなった。
「このことを大神官であるヨーダ様に告げなさい。」
ヨーダ。
その名に、チャールズの眼窩の火がわずかに揺れた。
どうやら、ただの名ではないらしい。
ルシアも聞き慣れない名に眉を寄せる。
ソータは覚えるように、心の中で繰り返した。
(大神官ヨーダ。)
(大教会の上の人物か。)
(この先、必ず関わる名前だ。)
アルベールは続けた。
「アルベールが、次はないと言っていたと。」
その瞬間、外の空気が完全に凍りついた。
教会の者たちが息を呑む気配が、城内にまで伝わった。
ソータは思わず呟いた。
「名前、出した……。」
チャールズが静かに言った。
「それは、非常に重いことでございます。」
「そんなに?」
「はい。」
「あの名を聞いて、古い者ほど震えるでしょう。」
「アルベールさん、昔どれだけやらかしてるんですか。」
「後ほど。」
「もうそれ禁止にしたい。」
外で、足音が乱れた。
誰かが逃げ出す。
それに続いて、別の者たちも走り始める。
金属の破片を拾う余裕もないのだろう。
白い法衣が擦れる音。
倒れた者を引きずる音。
恐怖に乱れた命令。
「撤退!」
「撤退だ!」
「聖具は捨てろ!」
「持っていても使えん!」
「早くしろ!」
「大神官猊下へ報告を!」
彼らは逃げるように去っていく。
先ほどまで城を囲み、ルシアを不浄と断じ、浄化を叫んでいた者たちが、今は壊れた聖具を残し、足音も乱して遠ざかっていく。
聖歌はもうない。
白い光もない。
残ったのは、焼け焦げた黒薔薇の匂いと、夜の領域へ戻っていく紫の霧だけだった。
◆◇◆
城門の内側に、深い静けさが戻った。
それは、最初にソータが来た時の寂しい静けさとは違っていた。
傷ついた城が、ようやく息を整えている静けさだった。
チャールズが杖を鳴らした。
「外周警戒を維持。」
「ただし、追撃は不要です。」
「倒れた者がいれば、城門外には出ず、門上から確認しなさい。」
「頭部が外れた者は、後でまとめて回収いたします。」
スケルトンたちが一斉に動き出す。
さっきまで白い聖気に苦しんでいたとは思えないほど、動きは戻っていた。
中には妙に張り切っている者もいる。
劇団で木の役をしていたスケルトンらしき個体が、なぜか門の横で両腕を広げ、通路を守るように立った。
ソータは肩の痛みを押さえながら、少し笑った。
「元気になったな、みんな。」
「ソータ様のおかげでもございます。」
チャールズが言った。
「最初に物資を届けていただかなければ、アルベール……ミレイユ様の執事殿が動く前に、防衛線が崩れていた可能性がございます。」
「俺は、できることをしただけです。」
「それが大事なのでございます。」
チャールズの声は穏やかだった。
ルシアは城門へ近づいた。
白い光はもう消えている。
黒い扉の隙間から、紫の霧が戻ってきていた。
彼女は扉に手を触れ、目を閉じる。
「城が、戻ってる。」
「傷はあるけど、息ができている。」
「よかった。」
ソータが言うと、ルシアは振り返った。
その目には、まだ怒りも不安も残っている。
けれど、何より強いのは安堵だった。
「ソータ。」
「あなたが戻ってきたからよ。」
「俺だけじゃない。」
「アルベールさんがほとんど持っていった。」
「でも、あなたが戻ってきた。」
「それが先。」
ルシアはそう言って、そっとソータの焼けた肩に触れた。
指先は慎重だった。
触れてもいいか聞く前に手が伸びたことに気づいたのか、途中で一度止まり、それから改めて聞いた。
「触ってもいい?」
ソータは少し驚いた。
そして、頷いた。
「ああ。」
ルシアはそっと触れた。
冷たい指先が、焼けた肌の近くに触れる。
少しひんやりして、痛みが和らいだ気がした。
「痛い?」
「少し。」
「ごめんなさい。」
「ルシアのせいじゃない。」
「でも、私の城に戻ってきたから。」
「俺が選んで戻った。」
ルシアはその言葉に、少しだけ目を伏せた。
それから、静かに頷いた。
「そうだったわ。」
「ソータは選んで戻ってきた。」
「ああ。」
「なら、ありがとう。」
「どういたしまして。」
その時、城門の外から足音が近づいてきた。
落ち着いた足音。
かつん、という靴音ではない。
だが、その歩き方だけで誰か分かった。
城門の黒い扉が、内側から開けられる前に、扉のすぐ向こうから声がした。
「開けていただいて結構です。」
アルベールだった。
チャールズが合図すると、スケルトンたちが支柱を外し、城門を少しだけ開いた。
外の霧が流れ込む。
白い光はない。
代わりに、割れた聖具の破片が地面に散らばっているのが見えた。
銀だったはずの杭は黒ずみ、聖印は真っ二つに割れ、結界石はただの白い砂になっていた。
その中を、アルベールが歩いてきた。
服は乱れていない。
髪も乱れていない。
白手袋を外していたはずの手には、いつの間にか新しい白手袋がはめられている。
まるで、少し外の様子を見てきただけのような顔だった。
ソータは思わず言った。
「本当に、何をしたんですか。」
アルベールは一礼した。
「少々、注意を促してまいりました。」
「注意の規模じゃないです。」
「聖具の扱いがあまりに杜撰でしたので、つい。」
「ついで全部壊したんですか。」
「再発防止のためでございます。」
ルシアがアルベールを見つめた。
「あなた、怖いわね。」
アルベールは穏やかに微笑んだ。
「恐れ入ります、ルシア様。」
「褒めてないわ。」
「存じております。」
チャールズは深く頭を下げた。
「ご帰還、お見事でございました。」
アルベールはチャールズを見た。
「城の防衛維持、ご苦労でした、チャールズ様。」
チャールズの眼窩の火が少し揺れる。
その呼び方には、微妙な距離があった。
表向きは敬称をつける。
しかし、その奥にあるものは隠しきれない。
ルシアは二人を交互に見た。
「後で聞くから。」
「はい、ルシア様。」
チャールズが答える。
アルベールは涼しい顔で、
「可能な範囲で。」
と言った。
「全部聞くわ。」
「それは、ミレイユ様のご判断を仰いでから。」
「ミレイユって、そんなに強いの?」
ルシアが真顔で聞いた。
ソータは疲れたように笑った。
「強いよ。」
「別の意味で。」
アルベールは深く頷いた。
「はい。」
「大変お強い方でございます。」
ルシアは少し緊張した顔になった。
「私、やっぱり怒られるのね。」
「かなり。」
ソータが答えると、ルシアはむっとした。
「即答。」
「尊重だ。」
「便利ね、尊重。」
そのやり取りに、チャールズが小さく笑ったような気配を見せた。
骨なので表情は変わらない。
だが、空気が少し柔らかくなった。
城はまだ傷ついている。
黒薔薇の庭も焼けた。
聖結界の残滓も残っている。
大教会は逃げたが、終わったわけではない。
大神官ヨーダという名も出た。
隣国の影も濃くなった。
それでも、今この瞬間、ルシアの城は守られた。
白い光に閉じ込められた夜は、再び息を吹き返した。
ソータは城門の外に散らばる壊れた聖具を見た。
そして、その向こうへ消えていった教会の者たちの足跡を見る。
(次はない、か。)
(アルベールさんが言うと、本当に洒落にならないな。)
その言葉は、きっと大教会へ届く。
大神官ヨーダへ届く。
そして、次の大きな流れを呼ぶ。
だが今は、城を立て直すことが先だ。
負傷した者を見て、物資を整理し、焼けた場所を補修する。
戦いの後に必要なのは、勝利の余韻ではなく、後始末だ。
ソータは息を吐き、立ち上がった。
「アルベールさん。」
「ルシア。」
「チャールズさん。」
「まず、城の被害を確認しましょう。」
「使える物資を出します。」
ルシアは少し驚いたようにソータを見た。
それから、柔らかく笑った。
「本当に、ソータは運ぶ人ね。」
「戦いが終わった後こそ、運ぶものが多いんだよ。」
アルベールが満足そうに頷いた。
「ごもっともでございます、ソータ様。」
チャールズも深く一礼した。
「では、後片付けと参りましょう。」
スケルトンたちが一斉に動き出す。
壊れた盾を集める者。
焦げた布を運ぶ者。
門の破損を確認する者。
そして、なぜか壊れた聖印を拾って劇の小道具に使えないか検分している者もいた。
ソータはそれを見て、思わず笑った。
「それはさすがにやめておいた方がいい。」
ルシアも笑った。
チャールズがそのスケルトンへ静かに注意する。
「それは小道具ではございません。」
「証拠品でございます。」
「丁寧に扱いなさい。」
長すぎる夜の城に、少しだけ日常の音が戻ってきた。
だが、その夜はもう以前のように閉じてはいなかった。
外へ続く道があり、守るべき約束があり、そして、今度は敵にもその存在が知られた。
ソータは壊れた城門を見上げた。
(まだ荷は増える。)
(でも、もう道は見えている。)
(運ぶだけじゃない。)
(守って、直して、つないでいく。)
黒い城の中で、紫の灯が静かに揺れていた。




