第130話:大教会の白い影
霧の領域へ踏み込んだ瞬間、ソータは空気の違いに気づいた。
昨日、ルシアに案内されながら歩いた時の霧は、もっと静かだった。
冷たく、深く、夜の匂いがしていたが、どこか城へ迎え入れるような柔らかさがあった。
黒薔薇の香りが遠くから漂い、羽の印が浮かぶ木々は、道を知る者を見守るように立っていた。
だが、今は違う。
霧が重い。
足元へ絡みつく冷たさの中に、鋭い白い気配が混ざっている。
夜の布地に、無理やり針を刺したような違和感だった。
ソータは足を止めずに進んだ。
隣ではアルベールが歩いている。
場違いなほど整った執事服のまま、ぬかるんだ森の道を平然と進む姿は、やはりただ者ではなかった。
白手袋には汚れひとつついていない。
黒い靴も、泥を避けているというより、泥の方が触れることを遠慮しているように見える。
「アルベールさん。」
「はい、ソータ様。」
「この霧、変ですよね。」
「お気づきになりましたか。」
「昨日通った時と違います。」
「なんというか、白いものが混ざっている感じがします。」
アルベールはわずかに目を細めた。
その視線は霧の奥を見ている。
ただの視力ではない。
魔力の流れや、術式の歪みを見ているのだとソータにも分かった。
「聖気でございます。」
「それも、自然な聖気ではございません。」
「外部から押し込まれたものです。」
「もう、結界が?」
「可能性は高うございます。」
「まだ外縁部にまで強く及んではおりませんが、夜の領域そのものが削られ始めております。」
ソータは奥歯を噛んだ。
ルシアの城。
黒い石の壁。
大広間の骸骨劇団。
涙をこぼして眠っていた薄紫の姫。
彼女が今、この白い気配に囲まれているかもしれない。
「急ぎましょう。」
「はい。」
「ただし、焦りすぎて道を見失われませんように。」
「ルシア様より教わった印を、順に確認してくださいませ。」
アルベールの言葉は冷静だった。
ソータは頷き、前方の木を見た。
羽の印。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
昨日と同じだ。
だが、印の光が少し弱い。
紫だった羽の模様に、白いひびのようなものが走っている。
「印が……。」
「聖気に侵食されております。」
「まだ消えてはおりませんが、長くは保たないかもしれません。」
「大教会って、そんなに強いんですか?」
「組織としては、決して侮れません。」
「個々の祈祷師よりも、儀式、結界、封鎖、集団術式を得意とします。」
「戦場で正面から魔法を撃ち合うよりも、土地を囲み、対象を弱らせ、逃げ道を断つことに長けております。」
「まさに包囲戦ですね。」
「はい。」
「祈りの形をした包囲戦でございます。」
アルベールの声に、わずかな冷たさが混ざった。
普段の穏やかな執事口調の奥に、古い戦いを知る者の気配が見えた。
ソータは横目でアルベールを見た。
「アルベールさんは、大教会のことをよく知ってるんですね。」
「多少は。」
「多少って顔じゃないですよ。」
「昔、仕事で関わったことがございます。」
「執事の仕事ですか?」
「広義では。」
「絶対違うやつだ。」
アルベールは涼しい顔で微笑んだ。
「詳細は、ミレイユ様のお許しを得てからお話しいたしましょう。」
「ミレイユの許可がいるんですか?」
「私はミレイユ様の執事でございますので。」
「便利ですね、その肩書き。」
「大変便利でございます。」
こんな状況なのに、ソータは少しだけ笑いそうになった。
アルベールの淡々とした物言いには、不思議な安心感がある。
ただ、それは安心して任せればいいという意味ではない。
彼は強い。
知識もある。
だが、今から向かうのはルシアの城だ。
ルシアとの約束を運ぶのは、自分だ。
根が二つに分かれた木が見えた。
ソータは右へ曲がる。
昨日、ルシアが教えてくれた通りだった。
その瞬間、霧の奥から、かすかな音が聞こえた。
歌だった。
人の声が幾重にも重なり、一定の調子で響いている。
美しいはずの聖歌。
だが、この霧の中で聞くと、どこか冷たい刃のようだった。
音が空気を震わせるたびに、夜の霧が少しずつ裂かれていくように感じる。
ソータは立ち止まりかけた。
「聞こえますか?」
「はい。」
「聖歌式の結界詠唱でございます。」
「大教会の祈祷隊が展開しているのでしょう。」
「もう城を囲んでるんですか?」
「この距離で聞こえるならば、かなり近いところまで進んでいるはずです。」
ソータは拳を握った。
胸の奥で焦りが膨らむ。
しかし、アルベールが静かに手を上げた。
「ソータ様。」
「ここから先は、むやみに駆け込まないでくださいませ。」
「でも。」
「急ぐことと、無策に飛び込むことは違います。」
「ルシア様を助けたいのであれば、まず相手の配置を見極め、どこへ何を届けるべきか判断する必要がございます。」
その言葉に、ソータは息を呑んだ。
そうだ。
自分は勇者ではない。
剣を抜いて突撃する者ではない。
運ぶ者だ。
必要な場所へ、必要なものを届ける。
それが自分の戦い方だ。
ソータは深く息を吸った。
「分かりました。」
「まず見る。」
「必要なものを判断する。」
「はい。」
「そして、必要であれば私が結界の構造を読みます。」
「ソータ様は、物資と道を見てくださいませ。」
「はい。」
ソータは頷き、再び歩き出した。
◆◇◆
霧が薄くなるにつれて、白い光は強くなっていった。
夜の領域の中に、昼とは違う白さが差し込んでいる。
それは太陽の光ではなかった。
もっと冷たく、もっと硬い。
まるで祈りを金属に変えて磨き上げたような光だった。
黒い木々の幹には、白い文字のようなものが浮かび始めていた。
地面には銀色の杭が打ち込まれている。
その杭から細い光の糸が伸び、霧の中で見えない円を描いていた。
ソータはそれを見て、すぐに補給線のようだと思った。
杭と杭をつなぎ、外側から内側へ圧をかける。
どこか一つだけを見れば小さな道具だが、全体で見れば包囲網になる。
(物流路の逆だ。)
(運び込むんじゃなくて、閉じ込めて削るための線。)
(こいつら、かなり組織的に動いてる。)
アルベールも同じものを見ていた。
「結界石ではなく、簡易杭を外縁に置いていますね。」
「本陣はさらに奥でしょう。」
「外側で夜の魔力を薄め、内側の主結界で対象を封じる形です。」
「壊せますか?」
「壊すだけなら容易です。」
「ですが、今ここで壊せば、外縁の異常に気づかれます。」
「まずは主結界の位置を把握した方がよろしいかと。」
「分かりました。」
ソータは杭の位置を目で追った。
頭の中で地図を作る。
線の向き。
杭の間隔。
白い光の流れ。
城へ向かう道がどこで遮られているか。
運送屋としての感覚が、自然に働き始めていた。
さらに進むと、森が開けた。
そこで、ソータは息を呑んだ。
ルシアの城が見えた。
昨日まで見た黒い城と同じはずだった。
だが、今はその姿がまるで違っていた。
黒い石の尖塔は、白い光の檻に囲まれている。
城壁の周りには、幾つもの結界石が置かれ、そこから伸びる光が半透明の壁を作っていた。
紫の灯は弱まり、黒薔薇の庭は一部が白く焼けたようにしおれている。
城門の前では、スケルトンたちが盾を持って並んでいたが、動きが鈍い。
骨の関節に白い光がまとわりつき、まるで錆びついた機械のようにぎこちなくなっていた。
城を囲むように、白い法衣の者たちがいた。
祈祷師。
聖印を刻んだ槍を持つ兵。
銀の杭を背負った従者。
結界石のそばで詠唱を続ける者たち。
その数は多い。
盗賊軍団ほど雑多ではない。
整っている。
訓練されている。
それが余計に厄介だった。
そして、城門の前に、ルシアがいた。
大きな紫の羽を広げている。
だが、その羽の端は白く焼けたように傷んでいた。
いつもなら夜を支配するように美しく広がる羽が、今は聖結界に押さえ込まれている。
ルシアは城門を背に立ち、白い光を睨んでいた。
顔色は悪い。
それでも、瞳には強い怒りが燃えている。
その少し後ろに、チャールズがいた。
黒い燕尾服はところどころ焦げ、白手袋の指先にはひびが入っている。
それでも、彼は背筋を伸ばしていた。
片手に杖を持ち、もう片方の手で動きの鈍いスケルトンたちへ指示を出している。
普段の余裕は薄い。
だが、ルシアの前に立つ執事としての威厳は失っていなかった。
白い法衣の集団の前に、一人の男が立っていた。
年は四十ほどだろうか。
銀の刺繍が入った長い法衣をまとい、胸には大きな聖印を下げている。
片手には白木の杖。
もう片方の手には、巻物を持っていた。
彼が指揮官らしい。
男の声が、聖歌の間を縫って響いた。
「滅び残りの吸血鬼よ。」
「この地に潜み、死者を弄び、人の世に災いを撒く夜の残滓よ。」
「大教会の名において告げる。」
「速やかにその城門を開き、浄化を受けよ。」
ルシアは唇を吊り上げた。
怒りを抑えた声で返す。
「私の城に勝手に来て、勝手に囲んで、勝手に浄化と言うのね。」
「人間は礼儀を知らないの?」
「不浄に対し、礼は不要。」
「私は、人間の血を吸ったことはないわ。」
「吸血鬼族であること自体が罪である。」
ルシアの羽が震えた。
怒りで広がろうとする。
しかし、白い結界の光が羽の端に絡み、焼けるような音がした。
「っ……。」
ルシアが顔を歪める。
ソータは思わず前へ出かけた。
だが、アルベールが手で制した。
「まだです。」
「でも!」
「今出れば、正面から捕捉されます。」
「ルシア様へ届く前に囲まれます。」
ソータは歯を食いしばった。
分かっている。
分かっているが、目の前でルシアが傷ついている。
それを見ているだけなのは、きつかった。
アルベールは白い結界を観察していた。
目の奥が鋭い。
その横顔は、いつもの穏やかな執事ではなかった。
戦場を読む魔法使いの顔だった。
「主結界は四点。」
「城門前、黒薔薇の庭の西端、北塔の外、そして地下水路に近い南側。」
「外側の祈祷師が詠唱を維持し、結界石が夜の魔力を削っています。」
「なるほど。」
「純粋な聖結界ではございません。」
「やっぱり、隣国式ですか。」
「はい。」
「軍用封鎖術式が混ざっております。」
「大教会の祈りを表に出しながら、内側では逃走経路を絞る。」
「これは討伐ではなく、包囲です。」
「ルシア様を滅ぼすだけでなく、この城を接収する意図もあるでしょう。」
「接収。」
「吸血鬼族の古い城には、魔術資料、財宝、霧の領域に関する知識が眠っている可能性がございます。」
「大教会と隣国が欲しがらない理由はありません。」
ソータは拳を握った。
ルシアを不浄と罵りながら、その城を欲しがる。
祈りを掲げながら、封鎖術式を使う。
その矛盾に、腹の底が熱くなった。
「どうすればいいですか?」
「まずはルシア様へ遮光布と水を届ける必要がございます。」
「結界に焼かれた羽の保護、ならびに白い聖粉の洗浄。」
「次に、スケルトンたちの関節へ油布を。」
「動きを戻せば、城門の防衛線が少し保ちます。」
「その間に、私が主結界の弱点を探ります。」
「届けるなら、俺の仕事ですね。」
「はい。」
「ソータ様の出番でございます。」
ソータは《神速積載庫》を意識した。
中身を確認する。
遮光布。
水袋。
油布。
縄。
石灰袋。
予備盾。
補修材。
薬と包帯。
火消し用の砂。
男たちの村で追加した物資もある。
戦い方は見えてきた。
だが、どう届けるか。
正面から走れば狙われる。
結界の外側を回る必要がある。
城門の側面、黒薔薇の庭の焼け残った部分。
そこに少しだけ白い光が薄い場所がある。
「アルベールさん。」
「あの黒薔薇の庭の端。」
「光が少し薄くないですか。」
アルベールは微かに頷いた。
「よくお気づきに。」
「黒薔薇が夜の魔力を残しているのでしょう。」
「一時的な遮蔽物にはなります。」
「ただし、長くは保ちません。」
「そこを通って城門近くまで行きます。」
「私が外側の視線を逸らします。」
「そんなことできるんですか。」
「執事でございますので。」
「もう何でもありですね。」
「それほどでもございません。」
アルベールは白手袋を整えた。
その仕草は優雅だったが、周囲の空気が少し変わった。
霧が静かに震える。
ソータの肌に、細かな魔力の流れが触れた。
「ソータ様。」
「合図をしたら走ってくださいませ。」
「荷は小分けに。」
「一度で全てを届けようとなさらず、まずはルシア様とチャールズ様へ最低限を。」
「チャールズ様って呼ぶんですね?」
こんな時なのに、ソータはそこに引っかかった。
アルベールは一瞬だけ目を伏せた。
「誰に対しても敬称を用いるのが、執事の礼儀でございます。」
「そうですか。」
「はい。」
その返事はほんの少しだけ不自然だった。
ソータは気になったが、今は聞く時ではなかった。
◆◇◆
大教会の指揮官が杖を掲げた。
白い光が結界石から強まり、城門前へ押し寄せる。
スケルトンたちの盾が軋む。
何体かが膝をついた。
チャールズが杖で床を叩き、彼らを立て直す。
「陣形を崩してはなりません。」
「ルシア様の前で倒れるならば、せめて姿勢よく倒れなさい。」
こんな状況でも、チャールズの声は品を失っていなかった。
ソータは思わず胸が熱くなる。
ルシアが羽を広げ、結界の光を受け止める。
白い火花が散った。
「っ、しつこいわね!」
「夜の種よ。」
「抵抗は罪を重ねるだけだ。」
「罪、罪って。」
「あなたたちは、その言葉しか知らないの?」
ルシアの声には怒りがあった。
だが、弱っているのも分かった。
羽の端が震え、足元がわずかにふらつく。
その瞬間、アルベールが静かに指を鳴らした。
音は小さかった。
だが、霧の中で何かが弾けた。
大教会の包囲の西側で、突然黒い影が走る。
スケルトンのような影。
いや、実体はない。
ただの幻影だ。
だが、祈祷師たちは反応した。
「西側に動き!」
「アンデッドか!」
「結界外縁を強めろ!」
数人の兵と祈祷師が西側へ視線を向ける。
城門正面の監視が一瞬だけ薄くなった。
「今です。」
アルベールが言った。
ソータは走った。
黒薔薇の庭の端へ向かう。
足元の霧を蹴り、白い光の薄い場所を選ぶ。
《神速積載庫》から小分けにした遮光布と水袋を取り出し、腕に抱える。
背負うのではない。
すぐに渡せるように、手元へ出す。
白い法衣の兵が気づいた。
「人間だ!」
「何者だ!」
「止めろ!」
槍を持った兵が向かってくる。
ソータは石灰袋を取り出し、足元へ叩きつけた。
白い粉が霧と混ざって広がる。
兵たちの視界が一瞬白く濁った。
「うわっ!」
「目が!」
その間に、ソータは黒薔薇の焼け残りの間を抜けた。
薔薇の蔓が動いた。
まるでソータを知っているかのように、足元の邪魔にならないように少しだけ開く。
(通してくれるのか。)
(助かる!)
結界の光が肌を刺す。
ソータは歯を食いしばった。
人間である自分にも少し痛い。
なら、ルシアにはどれほどきついのか。
考えると足がさらに速くなった。
「ルシア!」
ソータは叫んだ。
城門前のルシアが、はっとこちらを向いた。
薄紫の瞳が大きく開く。
「ソータ!?」
その声は、驚きと喜びと怒りが全部混ざっていた。
「どうして戻ってきたの!」
「帰ったでしょう!」
ソータは走りながら叫んだ。
「帰るために出た!」
「でも、また来るって約束しただろ!」
ルシアの顔が歪んだ。
泣きそうになったのか、怒りそうになったのか分からない。
ただ、その羽が一瞬だけ強く広がった。
「馬鹿!」
「人間なのに、こんなところに戻ってきたら危ないでしょう!」
「危ないから戻ってきたんだよ!」
ソータは遮光布を投げた。
ルシアが受け取る。
羽の焼けた部分を覆うように、彼女は布を肩へかけた。
次に水袋を投げる。
チャールズがそれを受け取った。
骨の指が一瞬ぎこちなく動いたが、落とさなかった。
「ソータ様。」
チャールズの眼窩の青い火が揺れた。
「お戻りになるのが少々早すぎるのではございませんか。」
「俺もそう思ってます!」
「でも、放っておける状況じゃないでしょう!」
「まったくもって、その通りでございます。」
チャールズは水袋を開け、ルシアの羽に付着した白い粉を洗い流した。
白い煙のようなものが上がる。
ルシアが息を詰めたが、少しだけ表情が楽になった。
ソータは次に油布を取り出し、城門前のスケルトンたちへ投げた。
「関節に巻け!」
「動きが戻るはずだ!」
チャールズが即座に指示する。
「聞こえましたね。」
「ソータ様のご指示通りに。」
「膝、肘、肩を優先しなさい。」
「頭部は後で結構です。」
スケルトンたちはぎこちなく油布を受け取り、関節に巻き始めた。
少しずつ動きが戻る。
盾を構える列が立て直される。
大教会側が騒ぎ始めた。
「人間が吸血鬼に加担している!」
「不浄に与する者だ!」
「捕らえろ!」
ソータの背後から兵が迫る。
だが、その前に、アルベールが静かに現れた。
いつの間に移動したのか分からない。
彼は白手袋の指先を軽く振った。
兵たちの足元の霧が絡み、足を取る。
数人が転倒した。
「慌てると、足元をすくわれますよ。」
アルベールは穏やかに言った。
大教会の兵の一人が叫ぶ。
「何者だ、貴様!」
アルベールは一礼した。
「執事でございます。」
「執事だと!?」
「はい。」
あまりにも落ち着いた返答に、兵たちは一瞬戸惑った。
ソータはその隙に城門側へさらに近づく。
ルシアが結界の内側から手を伸ばした。
だが、白い光の壁が二人の間にある。
触れられない。
「ソータ!」
「大丈夫だ!」
「今、道を開ける!」
アルベールが結界石を見ていた。
そして、城門前のチャールズへ視線を向ける。
その瞬間だった。
チャールズの動きが止まった。
彼の眼窩の青い火が、大きく揺れた。
白い結界の光の中で、アルベールの魔力を見たのだろう。
その揺れは、驚きでは足りない。
もっと古い記憶に触れた者の反応だった。
「その魔力は……。」
チャールズの声がかすかに漏れた。
アルベールもまた、チャールズを見た。
ほんの一瞬だけ、表情が変わった。
懐かしさに似ていた。
驚きともとれた。
予想していたものが実際にそこにあったと確認するような目だった。
「まだ動いていたか。」
アルベールが小さく言った。
チャールズが膝をつきかけた。
だが、アルベールは即座に目だけでそれを止めた。
そして、結界の薄い隙間越しに、低く囁く。
「何も言うなよ。」
チャールズは一瞬だけ固まった。
それから、完璧な執事として姿勢を戻す。
「承知いたしました、アルベール大魔導士様。」
アルベールの目が細くなった。
「…大魔導士様はいらん。」
「……承知いたしました、アルベール殿。」
「それも目立つ。」
「では、ミレイユ様の執事殿。」
「それでよい。」
ソータは思わず二人を見比べた。
「今、何かありましたよね?」
アルベールは涼しい顔で答えた。
「何もございません、ソータ様。」
「古い骨に見覚えがあっただけでございます。」
チャールズもすぐに一礼した。
「私は骨でございますので、見覚えを持たれることはよくございます。」
「二人で同じ方向に誤魔化さないでください!」
ソータは思わず叫んだ。
だが、今は問い詰めている場合ではない。
大教会の詠唱が強まり、白い結界が再び圧を増してくる。
アルベールの表情が切り替わった。
「ソータ様。」
「後ほど、可能であればご説明いたします。」
「今は結界です。」
「絶対説明してくださいよ!」
「ミレイユ様のお許しがあれば。」
「またそれ!」
チャールズがすっと杖を構えた。
「ミレイユ様の執事殿。」
「結界の内側から、どこを崩せばよろしいでしょうか?」
その言い方には、表向きの丁寧さの奥に、古い従属の名残のようなものがあった。
アルベールはそれを聞き取り、ほんの少しだけ厳しい声で言った。
「チャールズ様。」
「今のお前の主はルシア様だ。」
「私ではない。」
「判断を誤るな。」
チャールズの眼窩の火が静かに揺れた。
そして、彼は深く一礼した。
「承知いたしました。」
「私は、ルシア様の執事でございます。」
ルシアが二人を見ていた。
何が起きたのか分からない顔だった。
だが、今は聞いている余裕がない。
結界の白い光が、再び羽へ迫っている。
アルベールは城門前の結界石を指した。
「内側からは、城門左の結界線を乱してくださいませ。」
「私は外側の三点を処理します。」
「ソータ様は、その間に遮光布を城門前へ広げ、ルシア様の移動路を作ってください。」
「分かりました!」
ソータは《神速積載庫》から大きな遮光布を取り出した。
荷を覆うための厚い布だ。
それを城門前へ広げ、スケルトンたちに端を持たせる。
「持ってろ!」
「光を遮る壁にする!」
スケルトンたちがぎこちなく布を掲げる。
白い光が少しだけ遮られ、ルシアの周囲の圧が弱まった。
ルシアは息を整え、羽を広げ直した。
傷んだ羽に遮光布がかかり、紫の光が少し戻る。
彼女はソータを見た。
「ソータ。」
「本当に戻ってきたのね。」
「ああ。」
「馬鹿ね。」
「それはもう聞いた。」
「でも、嬉しい。」
その声は小さかった。
聖歌と怒号の中でも、ソータには聞こえた。
大教会の指揮官が杖を振り上げる。
「不浄に与する者どもを排除せよ!」
「結界を強めろ!」
白い光が再び膨れ上がる。
霧が裂け、黒薔薇の庭がさらに焼ける。
ルシアが歯を食いしばる。
チャールズが杖を構える。
アルベールが白手袋を整える。
ソータは遮光布と縄を握り直した。
道はまだ開いていない。
だが、届けるべきものは届いた。
ルシアは立っている。
チャールズも立っている。
城門の前には、少しだけ夜が戻った。
アルベールが静かに告げた。
「ここからが本番でございます。」
ソータは頷いた。
今度は、自分で選んで戻ってきた。
ならば、この道を最後まで運びきるしかない。
(待ってろ。)
(今、道を開ける。)
白い結界の向こうで、長い夜の城が軋んでいた。




