第129話:男たちの村へ帰る
霧の中を進みながら、ソータは何度も後ろを振り返りそうになった。
背後には、ルシアの城がある。
黒い石の壁。
紫の灯。
長すぎる夜。
黒薔薇の庭。
骸骨楽団と、ぎこちない演劇。
そして、玄関広間で見送っていた薄紫の瞳。
振り返れば、まだ見える気がした。
だが、実際にはもう城の姿は霧に隠れていた。
足元を流れる霧は静かで、羽の印が浮かぶ黒い木々が道の両脇に並んでいる。
ルシアが教えてくれた通り、最初の羽の印を越え、二つ目の羽の印を越え、三つ目の羽の印を越える。
根が二つに分かれた木のところで右へ曲がる。
霧が足首より濃くならないように確認する。
昨日聞いた言葉を一つずつ思い出しながら、ソータは歩いた。
(大丈夫だ。)
(道は覚えてる。)
(戻れる。)
(帰れる。)
(そして、また来られる。)
そう考えると、胸の中の重さが少しだけ形を変えた。
ルシアを置いてきた。
だが、置き去りにしたわけではない。
約束を積んで出てきたのだ。
ミレイユへの約束。
オルドアイへの約束。
男たちの村と北の砦への責任。
そして、ルシアへ戻るという約束。
荷物は目に見えない。
だが、今のソータの胸には、見えない荷が山ほど積まれていた。
どれも乱暴に扱えば崩れる。
一つだけを優先しすぎれば、別の荷が落ちる。
だから、丁寧に運ばなければならない。
しばらく歩くと、霧の質が変わった。
足元に絡んでいた紫がかった霧が薄くなり、冷たい夜気の中に普通の森の匂いが混ざり始める。
黒い木々の色が少しずつ褪せ、枝に垂れていた銀色の苔が普通の苔へ変わっていく。
遠くで鳥の声がした。
小さな声だった。
だが、その声を聞いた瞬間、ソータは深く息を吸った。
普通の朝の匂いだった。
湿った土。
枯葉。
薄い日差し。
どこかで流れる水の音。
それらが、胸の奥に染み込んでくる。
(戻ってきた。)
(本当に、外へ出たんだ。)
境界を抜けると、空の色が一気に変わった。
ルシアの城の周りでは、二十時間も夜が続く。
だが、領域の外では、朝がちゃんと朝として存在していた。
東の空は白み、薄い金色の光が木々の隙間から差し込んでいる。
まだ早い時間なのだろう。
森の空気は冷えているが、夜の領域の冷たさとは違う。
人間の世界の冷たさだった。
ソータは立ち止まり、振り返った。
背後には、濃い霧の壁がある。
その向こうにルシアの城があるはずだった。
だが、もう見えない。
見えないのに、道は分かる。
それが今は大事だった。
「また来る。」
ソータは小さく呟いた。
誰に聞かせるわけでもない。
だが、言葉にしておきたかった。
「道を作るからな。」
それから、ソータは前を向いた。
低い丘を越えれば、男たちの村が見えるはずだ。
◆◇◆
男たちの村は、朝の光の中でまだ傷だらけだった。
遠くから見ただけでも、柵の一部が新しい木材で補修されているのが分かった。
見張り台には二人の男が立ち、弓を持って森の方を警戒している。
村の周囲には、盗賊軍団との戦いの名残がまだ残っていた。
踏み荒らされた土。
焼け焦げた柵。
急造された土嚢。
倒れた木を組み直した防壁。
そのすべてが、あの戦いが現実だったことを物語っている。
だが、村は生きていた。
煙突から細い煙が上がっている。
誰かが木槌を振る音が聞こえる。
柵を直す男たちの声がある。
水場へ向かう足音がある。
倉庫の前には荷を運ぶ者がいる。
傷ついた村が、それでも動いている。
ソータは胸の奥が熱くなるのを感じた。
(生きてる。)
(村が、まだ動いてる。)
見張り台の男が、森から出てきたソータに気づいた。
最初は弓を構える。
次の瞬間、目を見開いた。
「ソータだ!」
声が村中へ響いた。
「ソータが戻ったぞ!」
その声に、村のあちこちから人が顔を出した。
木材を担いでいた男が足を止める。
包帯を巻いた男が広場の方から振り返る。
倉庫の前にいた老人が目を細める。
そして、村の中央から一人の大柄な男が駆け出してきた。
バルクだった。
「ソータ!」
バルクは大股で駆け寄ると、ソータの前で止まった。
その顔には、怒りと安堵が同時に浮かんでいる。
目の下には疲れがあり、髭も少し伸びていた。
だが、体はしっかりしている。
ガルナが世話をしているのだろうと、ソータは少しだけ思った。
「お前……。」
「お前、本当に……。」
バルクは言葉を詰まらせた。
そして次の瞬間、ソータの肩を思い切り叩いた。
「痛っ!」
「どれだけ心配かけたと思ってるんだ!」
「悪かった。」
「本当に悪かったって。」
「謝って済むか!」
バルクはもう一度叩こうとして、ソータが少しよろけたのを見て手を止めた。
慌てて腕を支える。
「おい、大丈夫か。」
「大丈夫だ。」
「だいぶ回復してる。」
「ただ、いきなり叩かれると痛い。」
「お前が無事か確かめただけだ。」
「確かめ方が戦士なんだよ。」
バルクは顔をしかめた。
だが、その目は潤んでいるようにも見えた。
ソータはそれを見て、また胸が少し重くなった。
心配をかけた。
それは手紙を出しても消えるわけではない。
こうして目の前に戻るまで、彼らはずっと気を揉んでいたのだ。
バルクはソータの肩を掴んだまま、ぐっと力を込めた。
「生きてたんだな。」
「ああ。」
「生きてる。」
「紫の羽の女に、何かされたのか。」
「いろいろされたけど、命に関わることはされてない。」
「むしろ介抱された。」
「いろいろって何だ。」
「その話は、順番にする。」
バルクは眉を寄せた。
「また面倒な顔をしてやがる。」
「面倒な話だからな。」
「女の話か。」
「……それもある。」
バルクは天を仰いだ。
「お前は、どうして運ぶ荷だけじゃなくて女の問題まで増やして帰ってくるんだ。」
「俺が聞きたい。」
「自覚はあるんだな。」
ソータは苦笑した。
そこへ、杖をついたメバドスがゆっくり歩いてきた。
村長は相変わらず厳しい顔をしていたが、その目には深い安堵があった。
「戻ったか、運び屋。」
「はい。」
「心配をかけました。」
ソータは頭を下げた。
メバドスはしばらく黙ってソータを見ていた。
それから、短く息を吐いた。
「生きて戻ったなら、まずはよい。」
「死んだ者に説教はできんが、生きておる者には説教ができる。」
「それは、後でですか?」
「後でじゃ。」
「今は確認が先だ。」
メバドスは村の方へ視線を向けた。
「村は持った。」
「お前が置いていった物資のおかげでな。」
その言葉に、ソータは顔を上げた。
「物資は?」
「食料は三か所に分けたままじゃ。」
「水袋は各通りに置いてある。」
「薬と包帯は広場奥。」
「柵の補修材は東と南に分けた。」
「お前の手紙に書いてあった通り、動かす時は必ず記録をつけさせておる。」
ソータは驚いた。
思わず村の中を見る。
確かに、倉庫の前には札がかかっている。
広場の端には、簡単な帳面を持った男がいる。
水袋の置き場には見張りが一人ついていた。
自分がいない間も、物資の流れは乱れきっていない。
「ちゃんと、回ってる。」
「お前が回るようにしていったからじゃ。」
メバドスは静かに言った。
「戦いは腕の強い者だけで勝つものではない。」
「腹が減れば動けん。」
「水がなければ立てん。」
「包帯がなければ傷が腐る。」
「柵を直せねば、次の夜を越せん。」
「お前は、それを分けて置いていった。」
「だから、村はまだ動いておる。」
ソータは言葉に詰まった。
ただ、荷を出しただけではない。
分けて置いた。
使う順番を考えた。
誰がどこで取り出せるかを考えた。
それが、自分がいない間も村を支えていた。
(俺がいなくても、回る仕組み。)
(そうか。)
(それを作れたんだ。)
今までは、自分が運ぶことばかり考えていた。
だが、本当に大事なのは、自分がいない時でも流れが止まらないことなのかもしれない。
物資を置く。
場所を決める。
人に伝える。
帳面をつける。
それだけで、荷物はただの荷物ではなく、村を支える仕組みになる。
「ありがとうございます。」
「守ってくれて。」
ソータが言うと、メバドスは鼻を鳴らした。
「礼を言うのはこっちじゃ。」
「だが、礼だけで済むと思うな。」
「聞くことは山ほどある。」
「分かってます。」
バルクが腕を組んだ。
「まず、その紫の羽の女だ。」
「あいつは何者なんだ。」
「名前はルシア。」
「吸血鬼族だ。」
その場の空気が一瞬止まった。
近くにいた村人たちが息を呑む。
吸血鬼族。
滅んだものと思われていた種。
人間にとって、古い恐怖の名。
バルクも目を細めた。
「吸血鬼……。」
「ああ。」
「ただし、人間の血を吸ったことはないらしい。」
「少なくとも、俺を襲うつもりはなかった。」
「強引だったのは事実だ。」
「でも、村を救ったのも事実だ。」
メバドスは黙って聞いている。
ソータは言葉を選びながら続けた。
「彼女の城に連れていかれた。」
「そこで介抱された。」
「四日くらい経ってから手紙を出した。」
「それから、体力が戻るまで城にいた。」
「昨日、男たちの村へ戻る道を教えてもらった。」
「帰ることも、最後には認めてくれた。」
「最後には、か。」
バルクが低く言った。
「ああ。」
「最初は違った。」
「でも、少しずつ変わろうとしてる。」
「人間のことを知らないんだ。」
「かなり危なっかしいけど、悪意だけの相手じゃない。」
「お前は、またそういう顔をする。」
バルクは溜息をついた。
「助けられた相手を、簡単に切り捨てられない顔だ。」
「切り捨てられない。」
「村を助けてくれた。」
「俺を守ってくれた。」
「それは事実だ。」
「連れて行ったのも事実だろ。」
「そうだ。」
「だから、なかったことにはしない。」
「彼女にも、それは伝えてる。」
メバドスはしばらく考えていた。
そして、村人たちへ手を振った。
「集まりすぎるな。」
「仕事へ戻れ。」
「話は村長の家で聞く。」
村人たちは不安そうにしながらも散っていく。
バルクはまだソータの横に立っていた。
メバドスはソータへ顔を向ける。
「来い。」
「水と飯を出す。」
「それから話を聞く。」
「助かります。」
ソータは頷いた。
喉は乾いていたし、腹も減っていた。
ルシアの城で食べた料理はしっかりしていたが、普通の村の匂いがする食事が妙に恋しかった。
◆◇◆
村長の家の中は、戦いの前より少し雑然としていた。
壁には新しい地図が貼られ、簡単な物資の配置図が机に置かれている。
怪我人の名前を書いた板もあった。
村全体がまだ戦いの後始末の途中なのだと分かる。
ソータは椅子に座り、出された水を飲んだ。
普通の井戸水だった。
天使の泉の水のような不思議な清らかさはない。
黒薔薇の蜜の甘さもない。
だが、土と木の匂いが混じったその水は、ソータにとってひどく現実的で、ありがたいものだった。
「うまい。」
ソータが呟くと、バルクが少し笑った。
「吸血鬼の城の水よりか?」
「種類が違う。」
「でも、今はこれがうまい。」
「そうか。」
バルクは少し安心したようだった。
メバドスは机の前に座り、手を組んだ。
「さて。」
「順に話せ。」
ソータはルシアの城で起きたことを話した。
夜が二十時間ほど続く領域。
短い昼。
黒薔薇の温室。
チャールズという話せるスケルトンの執事。
ルシアが人間のことをよく知らないこと。
家族に憧れていること。
ソータを喜ばせたいと一生懸命になっていたこと。
そして、自分が帰る道を教えてくれたこと。
もちろん、話せないこともあった。
湯浴みの細かい出来事や、夜更けのとんでもない質問会のことは省いた。
骸骨劇団のことは少し話したが、バルクは途中で妙な顔をした。
「骸骨が劇をした?」
「ああ。」
「これが、ものすごく面白かったんだ。」
「吸血鬼の城で、骸骨が劇をして、お前が笑った。」
「そうだ。」
「お前、疲れてたんじゃないのか。」
「疲れてたけど、本当に面白かった。」
バルクは頭を抱えた。
メバドスは眉間に皺を寄せていたが、どこか興味もありそうだった。
「恐怖を芸に変える、か。」
「村の者にすぐ見せるわけにはいかんが、面白い発想ではある。」
「そう思います。」
「いきなりは無理です。」
「でも、ちゃんと安全だと分かれば、いつか交流のきっかけになるかもしれない。」
「吸血鬼の城と交流か。」
メバドスは重く言った。
「簡単ではないぞ。」
「分かってます。」
「だから、まずは手紙と物資からだと思ってます。」
「道を知ってる人間を限って、必要なものだけ運ぶ。」
「向こうからも、霧や夜の魔物の情報をもらう。」
「いきなり村人を行き来させるんじゃなくて、少しずつ。」
メバドスはソータをじっと見た。
そして、小さく頷いた。
「考えは分かる。」
「だが、村だけで決める話ではない。」
「北の砦も、グランデリアも関わる。」
「それに、隣国の動きもある。」
「隣国……。」
ソータは表情を引き締めた。
盗賊軍団。
どくろ旗。
隣国の仕業に見せかけ、男たちの村を潰し、北の砦を狙った連中。
あの戦いが終わっても、不穏さは消えていない。
その時、家の外で軽い声がした。
「村長。」
「お客人をお連れしました。」
ソータは顔を上げた。
メバドスが扉の方を見る。
「入れ。」
扉が開いた。
入ってきたのは、村の若い男だった。
その後ろから、黒い服を着た人物が静かに現れる。
背筋はまっすぐ。
白い手袋。
整えられた髪。
涼しい顔。
この傷だらけの男たちの村には、あまりにも場違いなほど完璧な執事姿だった。
アルベールだった。
「ご無事で何よりでございます、ソータ様。」
アルベールはいつも通り、深く一礼した。
ソータは思わず立ち上がった。
「アルベールさん!?」
「なんでここに!」
「ミレイユ様のご命令でございます。」
「ソータ様の帰還経路の確認、男たちの村の状況把握、北の砦との連絡調整、ならびに吸血鬼族に関する情報収集を兼ねて参りました。」
「仕事が多いですね。」
「執事でございますので。」
アルベールは当然のように答えた。
バルクがぽかんとしている。
メバドスは、すでに一度会っていたのか、あまり驚いていない。
ただ、アルベールを見る目には警戒と敬意が混ざっていた。
「この男、妙に有能でな。」
「来て早々、村の物資帳を半分整理しおった。」
メバドスが言うと、アルベールは静かに一礼した。
「恐れ入ります。」
「ミレイユ様より、無駄なく確認するよう命じられておりますので。」
「ミレイユは……。」
ソータは言いかけて、少し言葉を詰まらせた。
手紙は届いたはずだ。
ミレイユは読んだはずだ。
怒っているに違いない。
心配もしているだろう。
そして、ただ待つ女ではないから、すぐにアルベールを動かしたのだ。
「ミレイユは、怒ってますか。」
アルベールは少しだけ目を細めた。
「はい。」
「即答。」
「ただし、心配もなさっておいでです。」
「そして、怒りながらも状況を整理なさっております。」
「ミレイユ様は、ソータ様が戻る道を整えるべきだと判断されました。」
「ミレイユらしいな。」
「ええ。」
「大変ミレイユ様らしいご判断でございます。」
ソータは胸が締めつけられるような気がした。
帰らなければならない。
ミレイユのもとへ。
オルドアイのもとへ。
だが、アルベールの表情は、再会を喜ぶだけで終わるものではなかった。
アルベールは椅子の横へ静かに立ち、声を落とした。
「ソータ様。」
「まずはご帰還を喜ぶべきところでございますが、悠長にしている時間はあまりございません。」
部屋の空気が変わった。
バルクが腕を組み直す。
メバドスも表情を引き締めた。
ソータはアルベールを見る。
「何かあったんですか?」
「隣国が再び動いております。」
アルベールは淡々と言った。
「それも、今回は盗賊の類ではございません。」
「大教会の名を掲げた一団が、北方の霧の領域へ向けて動いております。」
「大教会……。」
ソータはその言葉を繰り返した。
ルシアの城で、チャールズが言っていたことを思い出す。
古い教会勢力。
夜に属する種族を忌避する者たち。
吸血鬼族が生きていると知られれば、恐怖と敵意を向ける者がいる。
アルベールは続けた。
「表向きの名目は、不浄の浄化。」
「北方に残る夜の魔力、死者を操る存在、吸血鬼族の痕跡を調査し、必要ならば討伐するというものです。」
バルクが低く唸った。
「吸血鬼族を狙ってるのか?」
「その可能性が高うございます。」
「先日の戦闘で、ルシア様は大きく力を使われたのでしょう。」
「紫の羽、アンデッドの召喚、地中からのグール。」
「隠れていた夜の城の位置を、感知された可能性がございます。」
ソータの背筋が冷たくなった。
ルシア。
黒い城。
骸骨劇団。
涙を流して眠った顔。
玄関で「行ってらっしゃい」と言った声。
それらが一気に頭をよぎる。
「ルシアが危ない。」
ソータが呟くと、アルベールは静かに頷いた。
「はい。」
「大教会が聖結界を用いるならば、吸血鬼族にとっては極めて不利でございます。」
「まして、隣国式の封鎖術式が組み込まれている場合、城そのものを包囲される可能性もございます。」
「封鎖術式?」
「簡単に申しますと、祈りの形をした包囲戦でございます。」
「不浄を閉じ込めるという名目で、実際には逃げ道を塞ぎ、領域を削り、力を弱める。」
「吸血鬼族の城に対しては、非常に効果的でございましょう。」
ソータは立ち上がった。
椅子が音を立てる。
バルクがすぐに反応した。
「おい、ソータ。」
「戻る。」
ソータは言った。
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「ルシアの城へ戻る。」
バルクは険しい顔になった。
「お前、戻ってきたばかりだぞ。」
「ミレイユも、オルドアイも待ってる。」
「村だって、お前が無事に帰ったって伝えなきゃならん。」
「分かってる。」
「分かってて言ってるのか。」
「分かってるから言ってる。」
ソータはバルクを見た。
「俺は帰るって約束した。」
「ミレイユにも、オルドアイにも。」
「だから、ここまで戻ってきた。」
「でも、ルシアにも戻るって約束した。」
「それに、あいつはこの村を助けた。」
「俺も助けられた。」
「このまま、危ないと分かって見捨てて帰るのは違う。」
バルクは歯を食いしばった。
言いたいことはあるのだろう。
だが、何も言えない顔だった。
村を救われたのは事実。
ルシアがいなければ、盗賊軍団の矢の雨でソータは死んでいたかもしれない。
村も持たなかったかもしれない。
それを知っているから、バルクは簡単に止められない。
メバドスが低く言った。
「行くなら、急げ。」
「ただし、無策では行くな。」
ソータは頷く。
「はい。」
アルベールは白手袋を整えた。
「私も参ります。」
「アルベールさんも?」
「当然でございます。」
「ミレイユ様より、吸血鬼族に関する情報を得るよう命じられております。」
「また、ソータ様を単独で再び夜の領域へ向かわせたとなれば、私はミレイユ様より極めて厳しい叱責を受けることになります。」
「そこなんですか。」
「重要事項でございます。」
アルベールは涼しい顔で言った。
だが、その目は真剣だった。
ただの執事としてではない。
もっと深い何かを知る者の目だった。
ソータはふと思った。
アルベールは吸血鬼族について、まだ何か知っている。
チャールズのような高位のスケルトンを見たら、きっと何かを察するのではないか。
いや、それどころではない。
今は急がなければならない。
バルクが立ち上がった。
「俺も行く。」
「駄目だ。」
メバドスが即座に言った。
「村の守りがいる。」
「北の砦へも知らせねばならん。」
「お前はオルドアイ様のところへ走れ。」
「だが!」
「ソータはアルベール殿と行く。」
「お前は砦へ行け。」
「紫の羽の女の城が狙われている。」
「大教会が動いている。」
「隣国が絡んでいるかもしれん。」
「この情報を、オルドアイ様へ伝えるのがお前の役目じゃ。」
バルクは拳を握った。
悔しそうだった。
だが、役割を理解していた。
「分かった。」
「俺は砦へ行く。」
「だが、ソータ。」
「何だ?」
「また消えたままになるな。」
「今度こそ、戻ってこい。」
「ああ。」
「戻る。」
ソータははっきり答えた。
アルベールは小さく頷き、村長へ向いた。
「メバドス様。」
「村の備蓄より、油布、予備の縄、石灰袋、補修材を少々お借りしてもよろしいでしょうか。」
「後ほどクラウゼン商会より補填いたします。」
「持っていけ。」
「命の方が高い。」
「感謝いたします。」
アルベールは一礼した。
その動きは優雅だったが、すでに頭の中では必要な物資を計算しているのが分かった。
ソータも《神速積載庫》の中身を確認する。
遮光布。
水袋。
薬。
包帯。
補修材。
予備盾。
縄。
火消し用の砂袋。
まだある。
運べるものはある。
(戦うためじゃない。)
(まず届けるためだ。)
(ルシアへ。)
(チャールズへ。)
(あの城へ。)
ソータは深く息を吸った。
◆◇◆
村の外へ出ると、朝の光は少し強くなっていた。
男たちが慌ただしく動き始めている。
バルクはすでに北の砦へ向かう準備をしていた。
バルクも背負っている。
自分だけではない。
みんな、それぞれに荷を背負って動いている。
アルベールは村の入口で待っていた。
いつの間にか、必要な物資が小分けにまとめられている。
完璧な手際だった。
「準備はよろしいでしょうか、ソータ様。」
「はい。」
「行けます。」
「では、参りましょう。」
「今度は、あなた様が選んで戻る番でございます。」
その言葉に、ソータは少しだけ息を止めた。
選んで戻る。
ルシアに連れ去られた時とは違う。
流されたわけではない。
約束に縛られているだけでもない。
自分で決めた。
危ないと知って、戻ると決めた。
「はい。」
ソータは頷いた。
「行きましょう。」
メバドスが村の入口で見送っていた。
バルクは北の砦へ向かう道へ走り出す寸前に、こちらを見た。
「ソータ!」
「死ぬなよ!」
「死なない!」
「約束だぞ!」
「ああ!」
約束がまた一つ増えた。
だが、ソータはもう怖がるだけではなかった。
約束は荷だ。
重い。
だが、運ぶと決めたなら、その重さごと前へ進む。
ソータとアルベールは、村を出た。
向かう先は、再び霧の領域。
さっき抜けてきたばかりの道。
ルシアが教えてくれた道。
今度は帰るためではなく、助けるために進む道だった。
森へ近づくにつれ、空気が変わっていく。
朝の光の中に、冷たい霧の気配が混ざり始める。
そして、その霧の奥で、ほんのわずかに白い光が走った気がした。
アルベールの表情が、わずかに鋭くなる。
「急ぎましょう、ソータ様。」
「始まっているかもしれません。」
ソータは拳を握った。
ルシアの涙。
チャールズの一礼。
骸骨劇団の滑稽な動き。
黒薔薇の庭。
それらを思い浮かべながら、ソータは霧の中へ踏み込んだ。
(待ってろ、ルシア。)
(今度は、俺が戻る番だ。)
長い夜へ続く道が、二人の前に開いていた。




