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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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128/149

第128話:帰る前の宴

 帰る前の宴は、ルシアが思っていたよりもずっと賑やかなものになった。

 吸血鬼の城の大広間には、黒薔薇が飾られていた。

 長い卓には、ソータのために用意された人間用の料理が並び、銀の燭台には紫の火が揺れている。

 天井近くには月光を受けて淡く光る古い紋様が浮かび、黒い石の床には薄い霧のような光が流れていた。

 普通の人間が見れば、まず間違いなく足を止める光景だった。

 美しい。

 だが、少し怖い。

 豪華だ。

 だが、どこか異界の宴だった。


 それでも、今夜の広間には確かな温かさがあった。

 ソータが席に着くと、ルシアは嬉しそうに向かいの席へ座った。

 チャールズは卓の横に立ち、いつものように完璧な姿勢で控えている。

 そして、広間の端には、黒い布を肩にかけたスケルトンたちがずらりと並んでいた。

 前回の不気味な楽団を思い出し、ソータは少しだけ身構えた。


「今日は練習したの。」


 ルシアが得意そうに言った。


「怖さを少し減らして、楽しさを増やしたわ。」


「それは期待していいのか?」


「ええ。」

「チャールズがすごく頑張ったもの。」


 ソータはチャールズを見た。

 チャールズは深く一礼する。


「恐れ入ります。」

「前回の反省を踏まえ、拍子、間、音量、ならびに観客の心拍に与える影響を調整いたしました。」


「観客の心拍に与える影響。」


「はい。」

「不必要に恐怖を煽る音階を三割ほど削減しております。」


「三割なんですね。」


「急激な変更は演奏者の混乱を招きますので。」


 ソータは思わず笑った。

 演奏者は骨である。

 混乱するのかどうか分からないが、チャールズの真剣な言い方が妙におかしかった。


 ルシアが手を上げた。

 スケルトン楽団が一斉に楽器を構える。

 前回と同じように、古い弦楽器、小さな太鼓、細長い笛が並んでいる。

 だが、今回は少し違った。

 全員の動きが揃っている。

 指の位置も、首の角度も、妙にきっちりしていた。


 演奏が始まった。

 ぎい、と弦が鳴る。

 しかし、前回のように耳の奥をひっかくような音ではない。

 太鼓は少し遅れたが、前よりはずっと拍子が合っている。

 笛はまだどこか不安になる高さだったが、曲としては成立していた。

 明るい宴というより、古い城の祭りの音楽だった。

 不気味さは残っている。

 だが、その不気味さが逆に味になっている。


 ソータは目を丸くした。


「おお。」

「前よりずっといい。」


 ルシアの顔がぱっと明るくなった。


「本当?」


「ああ。」

「怖いけど、ちゃんと楽しい。」

「こういう雰囲気なら、むしろ売りになるかもしれない。」


「売り?」


「人間界でも、怖いもの見たさってあるからな。」

「祭りとか、劇場とかでやれば受けるかもしれない。」


 チャールズの眼窩の青い火が、わずかに揺れた。


「劇場。」


「そうです。」

「骸骨楽団なんて、普通は見られないですから。」

「ちゃんと安全だって分かれば、絶対に話題になりますよ。」


 チャールズは少しだけ顎に手を添えた。


「なるほど。」

「恐怖を芸へ転化するわけでございますね。」


「たぶん、そういうことです。」


「興味深い発想でございます。」


 ルシアは少し不安そうに聞いた。


「人間たちに怖がられない?」


「最初は怖がると思う。」

「でも、うちの商会で斡旋すれば大丈夫だろう。」


「うちの商会?」


 ルシアがその言葉を繰り返した。

 ソータは少しだけ照れたように頭をかいた。


「クラウゼン商会のことだよ。」

「ミレイユが許せば、だけどな。」

「ちゃんと段取りを組んで、安全で、見世物として成立するって説明できれば、意外といけると思う。」


 チャールズが静かに一礼した。


「その際は、演目の品質向上に努めましょう。」


「チャールズさん、やる気ですね。」


「ルシア様の城に新たな交流の道が開けるのであれば、検討に値いたします。」


 ルシアは少しだけ目を輝かせた。

 人間の街。

 商会。

 劇場。

 骸骨楽団。

 彼女にとっては、どれも遠い世界の言葉だった。

 だが、ソータの口から出ると、それは少し現実味を帯びる。

 怖がられるだけではないかもしれない。

 閉じこもるだけではないかもしれない。

 自分の城の不気味ささえ、誰かを楽しませるものに変えられるかもしれない。


「それは、私も見に行ける?」


「すぐには難しい。」

「でも、いつかはな。」


「いつか。」


「そのための道を作るんだろ。」


 ルシアは嬉しそうに頷いた。


「ええ。」

「道を作る。」


 演奏が一区切りつくと、チャールズが杖を軽く鳴らした。

 すると、広間の奥から別のスケルトンたちが現れた。

 彼らは楽器を持っていなかった。

 代わりに、布で作った簡単な衣装をまとっている。

 一体は王冠らしきものを被り、一体は木剣を持ち、一体は長い布を頭に被っている。

 その姿を見て、ソータは思わず首を傾げた。


「今度は何ですか?」


 チャールズはどこか誇らしげに胸を張った。


「演劇でございます。」


「演劇?」


「はい。」

「ルシア様が、人間の宴には余興があるとお聞きになりましたので、僭越ながら骸骨たちに短い劇を覚えさせました。」


「骸骨たちに演劇を?」


「はい。」


 ルシアが嬉しそうに言った。


「チャールズが、三日で覚えさせたの。」


「三日で。」


 ソータはもう笑いそうになっていた。

 スケルトンたちは広間の中央に並び、ぎこちなく一礼する。

 王冠役のスケルトンは礼をしすぎて王冠を落とし、木剣役のスケルトンがそれを拾おうとして自分の剣を落とした。

 その時点で、ソータはもう肩を震わせていた。


 劇が始まった。

 どうやら、迷子の騎士が夜の城で姫を探す話らしい。

 王様らしきスケルトンが両手を広げる。

 口は動かない。

 代わりに、横に立ったチャールズが淡々と台詞を読んだ。


「おお、勇敢なる騎士よ。」

「我が娘を探し出すのだ。」


 木剣役のスケルトンが剣を掲げた。

 しかし、勢い余って剣が手からすっぽ抜け、床を滑っていった。

 ルシアが「あ」と声を上げる。

 ソータはとうとう吹き出した。


「ははっ。」

「いや、待って。」

「これ、もう面白い。」


 チャールズは動じず続けた。


「騎士は勇敢に剣を掲げました。」

「ただし、剣は少々先に旅立ちました。」


「ナレーションで拾うんですね!」


「舞台上の事故には即応が必要でございます。」


 ソータは腹を抱えて笑った。

 スケルトン騎士は慌てて剣を拾い、今度は慎重に掲げる。

 すると、姫役のスケルトンが布を被ったまましずしずと歩いてくる。

 だが、布が長すぎたのか、自分で踏んで前のめりになる。

 転びはしなかった。

 だが、両手をばたつかせて必死に耐える姿が滑稽すぎた。


 ソータはもう声を出して笑っていた。


「だめだ。」

「これ、絶対に受ける。」

「人間界でも絶対に受けますよ、チャールズさん!」


 チャールズは深く一礼した。


「お褒めに預かり光栄でございます。」


「いや、本当に。」

「不気味なのに面白い。」

「不気味なのにかわいい。」

「これはすごいです。」


 ルシアはソータの笑い声を見て、胸の前で手を握った。

 心から嬉しそうだった。


「ソータがたくさん笑ってる。」


「ああ。」

「笑うしかない。」

「これはすごい。」


 劇はさらに続いた。

 騎士が森を抜ける場面では、木の役のスケルトンが両腕を広げて立った。

 風の表現なのか、左右にゆらゆら揺れる。

 だが、一体だけ揺れすぎて隣のスケルトンにぶつかり、二体まとめてぎこちなく体勢を立て直した。

 チャールズは当然のように補足する。


「森は大変荒れておりました。」


「荒れすぎです!」


 ソータは笑いながら突っ込んだ。

 ルシアもつられて笑っている。

 チャールズは真面目な顔で劇を進行する。

 骨たちは一生懸命に動く。

 それがさらにおかしい。


 やがて、騎士が姫を見つける場面になった。

 姫役のスケルトンが布を少し持ち上げる。

 顔は骨である。

 ロマンチックな場面のはずなのに、どう見ても骨である。

 騎士役のスケルトンが膝をつき、木剣を捧げた。

 その瞬間、膝の骨がかくんと鳴り、少し斜めに沈んだ。


 ソータはまた大笑いした。


「これ、本当に最高だ。」

「チャールズさん、あなた才能ありますよ。」


「恐れ入ります。」

「まだ改良の余地は多分にございます。」


「改良したらもっとすごくなりますって。」

「うちの商会で舞台を組めば、子供も大人も喜ぶと思います。」


「子供も?」


 ルシアが目を丸くした。


「怖がって泣かない?」


「最初は泣く子もいるかもしれないけど。」

「ちゃんと明るくして、怖くない紹介をして、楽しい劇だって分かれば大丈夫だと思う。」

「むしろ、人気になるかもしれない。」


 ルシアは嬉しそうに、けれど少し不安そうに劇を見た。


「私の城のものが、人間に喜ばれるかもしれないのね。」


「ああ。」

「怖いだけじゃない。」

「見せ方次第だ。」


 チャールズが静かに言った。


「見せ方と、信頼でございますね。」


「そうですね。」

「信頼がないと、ただの怪物扱いになる。」

「でも、信頼があれば、芸にもなる。」


 ルシアはその言葉を胸の中にしまうように頷いた。


「信頼は壊れやすい荷物。」

「でも、運べる荷物。」


「そうだな。」


 ソータは微笑んだ。

 彼女は覚えている。

 少しずつ、自分なりに。


◆◇◆


 宴は続いた。

 スケルトン楽団がまた演奏し、骸骨劇団が二本目の短い劇を披露した。

 二本目は、どうやら商人が荷物を届ける話だった。

 明らかにソータを意識している。

 荷車役のスケルトンが四つん這いになり、その上に小箱を載せていた。

 商人役のスケルトンがそれを押そうとするが、荷車役が自分で歩いてしまうため、荷物が勝手に進んでいく。

 チャールズの淡々としたナレーションが入った。


「この荷車は、大変自主性に富んでおりました。」


「自主性のある荷車って何ですか!」


 ソータは笑いすぎて涙が出そうだった。

 ルシアも肩を揺らして笑っている。

 最初はソータを喜ばせたい一心で始まった宴だった。

 だが、いつの間にかルシア自身も楽しんでいた。

 チャールズも、口調こそ真面目なままだが、どこか誇らしげだった。

 スケルトンたちも感情があるのかは分からない。

 それでも、何度も動きを間違えながら、懸命に演じているように見えた。


 食事も進んだ。

 ソータ用の料理は、前よりずっと人間らしくなっていた。

 温かいスープ。

 柔らかく焼いた肉。

 黒薔薇の蜜をほんの少し使った甘い菓子。

 天使の泉の水で割った果実水。

 どれも、チャールズの監修が入っているだけあって危険はなかった。

 ルシアは食べないが、ソータが一口ごとに反応するのを楽しそうに見ている。

 ただし、見すぎないように、時々自分で目を逸らす。


「見てもいい?」


「もう見てる。」


「少しだけ見ている。」


「まあ、今日はいいよ。」


「宴だから?」


「宴だから。」


 ルシアは満足そうに笑った。

 その笑顔が、燭火の光を受けて柔らかく揺れる。


 ソータは何度も笑った。

 この城に来てから、こんなに笑ったのは初めてだった。

 ルシアに振り回されて苦笑したことはある。

 チャールズの返しに笑ったこともある。

 だが、腹の底から声を出して笑うのは初めてだった。


 それがルシアには嬉しかったらしい。

 彼女は何度もソータの顔を見た。

 そして、そのたびに自分も笑った。

 まるで、ソータの笑い声が自分の胸を温める火のように。


 宴の途中、ルシアはふと呟いた。


「人間の宴は、こんな感じ?」


「本物の宴とは違うかもしれないけど。」

「これはこれで、すごくいい宴だと思う。」


「本当?」


「ああ。」

「ルシアの城にしかできない宴だ。」


 ルシアはその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。

 嬉しい時の顔だった。


「私の城にしかできない宴。」


「そう。」


「怖いだけじゃない?」


「怖いだけじゃない。」


「寂しいだけでもない?」


「ない。」


 ルシアは胸に手を当てた。

 何かを確かめるように、ゆっくり息を吸う。


「よかった。」


 その一言は小さかった。

 だが、ソータにはよく聞こえた。


◆◇◆


 宴が進むにつれて、ルシアは少しずつはしゃぎ疲れていった。

 吸血鬼が疲れるのかは分からない。

 少なくとも肉体的には、人間よりずっと強いはずだ。

 だが、今夜のルシアはずっと笑っていた。

 緊張もしていた。

 ソータが喜ぶかどうか、劇がうまくいくかどうか、人間界でも受けると言われたこと、城が怖いだけではないと分かったこと。

 感情が次々に動き、胸の中が忙しかったのだろう。


 最後の演奏が終わる頃、ルシアはソータの隣へ移動していた。

 最初は、劇を近くで見たいと言って椅子を寄せただけだった。

 それが少しずつ近づき、いつの間にか肩が触れていた。

 ソータも、今夜だけは強く離れなかった。

 宴だから。

 帰る前の宴だから。

 そう自分に言い訳していた。


 チャールズが締めの一礼をした。


「本日の余興は以上でございます。」


 スケルトンたちが一斉に頭を下げる。

 数体は勢いよく下げすぎて、頭蓋が少しずれた。

 ソータはまた笑った。


「最後までずるいな。」

「本当に最高でした。」


「ありがたきお言葉でございます。」


 チャールズが深く一礼する。

 ルシアも拍手をしようとした。

 だが、その手の動きが少し遅い。

 目がとろんとしている。


「ルシア?」

「眠いのか?」


「眠くないわ。」


「いや、眠そうだぞ。」


「私は吸血鬼だから、夜は眠くないの。」


 そう言いながら、ルシアの体がゆっくりソータの方へ傾いた。

 次の瞬間、彼女の頭がソータの肩にこつんと触れた。


「おい。」


「眠くない……。」


 声が小さい。

 それから、すぐに静かな寝息が聞こえ始めた。

 ソータは苦笑した。


「寝てるじゃないか。」


 ルシアは答えない。

 薄紫の髪がソータの肩にかかり、黒い外套の端が膝の上に落ちている。

 顔は安心しきったように穏やかだった。

 ソータは起こそうとして、少しだけ体を動かした。


「ルシア。」

「寝るなら部屋に……。」


 そこで、ソータは気づいた。

 ルシアの頬に、細い光が流れていた。

 紫の燭火を受けて、透明な線がきらりと光る。

 涙だった。

 眠っているはずのルシアの頬を、一筋の涙が伝っている。


 ソータは言葉を失った。

 今夜、彼女はずっと笑っていた。

 はしゃいでいた。

 嬉しそうだった。

 だが、その奥にあったものを、ソータは見ていなかったわけではない。

 帰る前の宴。

 楽しい時間。

 次につなげる約束。

 それでも、帰ることは寂しい。

 笑いながら、その寂しさを抱えていたのだ。


 チャールズが静かに近づいてきた。

 足音はほとんどない。

 彼はルシアの涙を見て、眼窩の青い火をわずかに伏せるように揺らした。


「ソータ様。」


 チャールズは低く、丁寧な声で言った。


「ルシア様に恋を教えてくださり、ありがとうございます。」


 ソータはチャールズを見た。

 骨の執事は、深く一礼していた。

 それは礼儀正しいだけの礼ではなかった。

 長い時間、孤独な姫を見守ってきた者の、心からの礼だった。


「俺は、そんな大したことは……。」


「いいえ。」

「ルシア様は、これまで寂しさを寂しさとして知らずにおられました。」

「欲しいものを欲しいと言うことはあっても、相手にも心があるのだと、深く考える機会は多くありませんでした。」

「ソータ様が来られてから、ルシア様は笑い、困り、迷い、謝り、待つことを学び始めておられます。」

「それは、私だけでは差し上げられなかったものでございます。」


 チャールズの声は穏やかだった。

 だが、どこか寂しそうでもあった。


「チャールズさんは、ずっとルシアを見てきたんですよね。」


「はい。」

「それが私の役目であり、私の望みでもございます。」


 チャールズは顔を上げた。


「後片付けは、私どもで行います。」

「ソータ様。」

「恐れ入りますが、ルシア様をお部屋までお願いできますでしょうか。」


「俺が?」


「はい。」

「今夜は、その方がよろしいかと。」


 ソータは肩に寄りかかるルシアを見た。

 眠っている。

 頬にはまだ涙の跡がある。

 こんな顔をしている彼女を、椅子に置いたままにするわけにはいかなかった。


「分かりました。」


 ソータはそっとルシアの体を支えた。

 片腕を背中に回し、もう片方の腕を膝の下へ入れる。

 抱き上げる。

 思ったより、ずっと軽かった。

 あれほど大きな羽を広げ、盗賊軍団を蹴散らし、矢の雨を防いだ吸血鬼の姫。

 その体は、腕の中では驚くほど軽い。

 まるで、長すぎる夜そのものが形になったような軽さだった。


(軽いな。)

(こんなに強いのに。)

(こんなに軽いのか。)


 ルシアはソータの胸に頬を寄せた。

 眠っているのか、眠っているふりなのか、その時のソータにはまだ分からなかった。

 ただ、彼女の手がほんの少しだけソータの服を掴んだ気がした。


 チャールズはもう一度一礼し、スケルトンたちへ静かに指示を出し始めた。

 広間では、骨たちがぎこちなく楽器を片づけ、劇の衣装を畳み、倒れた小道具を拾っている。

 その光景は滑稽で、少し温かかった。


 ソータはルシアを抱きかかえたまま、広間を出た。


◆◇◆


 ルシアの部屋へ向かう廊下は、静かだった。

 月光の回廊を通ると、壁の銀模様が淡く光った。

 ソータの腕の中で、ルシアの髪が揺れる。

 薄紫の髪からは、黒薔薇と湯気の残り香のような匂いがした。

 彼女の体は冷たいはずなのに、胸のあたりだけは少し温かい。

 それが鼓動なのか、魔力の揺れなのかは分からない。

 けれど、確かにそこに生きている重みがあった。


 ルシアの部屋の扉は開いていた。

 チャールズかスケルトンが先に整えていたのだろう。

 中には紫の灯が柔らかく灯っている。

 大きな寝台には、薄紫の帳がかかり、黒い布団が整えられていた。

 窓の外には、長い夜が広がっている。

 ここはルシアの城の中で、最も彼女の匂いがする場所だった。


 ソータは寝台へ近づいた。

 できるだけ静かに、ルシアを横たえる。

 思ったよりも小さな音で、布団が沈んだ。

 ルシアの髪を枕の上へ流し、外套の端を整える。

 そのまま離れようとした時だった。


 ルシアの腕が、するりとソータの首に回った。


「え?」


 ソータが声を出す前に、ルシアが目を開けた。

 薄紫の瞳が、すぐ近くで揺れている。

 眠っていたはずの瞳。

 涙の跡がまだ頬に残っている瞳。

 その瞳が、一瞬だけ迷い、それから決めたように近づいた。


 唇が触れた。

 短いキスだった。

 熱いというより、切ない触れ方だった。

 逃がさないためではなく、確かめるためのキス。

 ソータは驚いて固まった。

 ルシアはゆっくり離れ、少しだけ息を吐いた。


 ソータはしばらく黙っていた。

 それから、軽く笑った。


「起きてたな。」


 ルシアは目を逸らした。


「今、起きたの。」


「嘘だろ。」


「本当よ。」


「ルシアの激しい胸の鼓動が聞こえてたから分かってたよ。」


 ルシアは目を大きくした。

 それから、ほんの少し頬を染めたように見えた。


「聞こえていたの?」


「ああ。」

「寝てるにしては、だいぶ忙しそうだった。」


「吸血鬼の鼓動は、たまに忙しいの。」


「便利な言い訳だな。」


「チャールズに似たのかもしれないわ。」


 ソータは思わず笑った。

 ルシアも、涙の跡を残したまま少し笑った。

 その笑顔は、宴の時とは違う。

 もっと静かで、もっと弱くて、もっと本当の顔だった。


 ルシアは首に回した腕をすぐには離さなかった。

 ただ、力は入れていない。

 逃がさないためではない。

 少しでも長く、この距離を覚えておくための腕だった。


「ソータ。」


「何だ?」


「きっと帰ってきてね。」


 ソータはルシアを見た。

 軽く返してはいけない言葉だった。

 帰ってくる。

 それは、また一つ荷を積むことだった。

 ミレイユとの約束。

 オルドアイとの約束。

 男たちの村と北の砦の役割。

 そして、ルシアとの道。


 それでも、ソータは逃げなかった。


「約束するよ。」


 ソータは微笑んだ。


「帰るために出る。」

「また来るために、ちゃんと帰る。」

「ミレイユにも、オルドアイにも、君のことを話す。」

「君との道を作る。」

「だから、待っててくれ。」


 ルシアの瞳が揺れた。

 また涙が溢れそうになったが、今度はこぼれなかった。

 彼女は必死に頷いた。


「待つわ。」

「でも、ただ待つだけじゃない。」

「私も、謝る言葉を考える。」

「ミレイユとオルドアイに会う準備をする。」

「骸骨劇団も練習させる。」

「怖さを減らして、楽しさを増やす。」


「それは大事だな。」


「ええ。」

「人間界でも受けるのでしょう?」


「受けると思う。」


「なら、練習するわ。」

「ソータが帰ってきた時、もっと笑わせる。」


「ほどほどにな。」


「ほどほどに、たくさん笑わせる。」


「意味が崩れてる。」


 ルシアは小さく笑った。

 その笑いが少しずつ眠気に溶けていく。

 腕の力が緩む。

 ソータはそっと、その腕を外した。

 今度はルシアも引き止めなかった。


「ソータ。」


「うん。」


「明日の朝、見送るわ。」


「日差し、大丈夫か?」


「短い昼の前に出るのでしょう?」

「夜のうちなら大丈夫。」


「ああ。」

「男たちの村へ向かう。」

「方角は覚えた。」


「迷ったら?」


「戻る。」

「無理はしない。」


「約束?」


「約束。」


 ルシアは安心したように目を閉じた。

 今度は本当に眠りに落ちていくようだった。

 ソータは布団をかけ直し、頬の涙の跡を指でそっと拭った。

 ルシアは少しだけ身じろぎしたが、目は開けなかった。


 ソータは寝台の横に少しだけ立っていた。

 薄紫の帳。

 黒い布団。

 静かな寝息。

 長すぎる夜の中で、初めて恋を知った吸血鬼の姫。

 彼女を残して帰る。

 だが、それは捨てることではない。

 戻るために帰るのだ。


(また荷物が増えた。)

(でも、これは俺が選んだ荷だ。)

(ミレイユにも、オルドアイにも怒られるだろうな。)

(それでも、話さないといけない。)

(ルシアをただ怖い吸血鬼にしないために。)

(この城を、長すぎる夜だけで終わらせないために。)


 ソータは静かに息を吐いた。

 そして、ルシアの部屋を後にした。


◆◇◆


 次の朝は、夜の中に始まった。

 この城では、朝と言っても空はまだ暗い。

 ただ、霧の流れが少し変わり、黒薔薇の花弁が閉じかけている。

 短い昼が来る前の、わずかな静けさだった。


 ソータは客室で身支度を整えた。

 荷物は少ない。

 必要なものは《神速積載庫》に入っている。

 だが、机の上には地図の写しと、ルシアに頼まれた品のメモが置かれていた。

 人間の家族の本。

 恋人の本。

 贈り物の本。

 謝り方の本。

 人間用の食材。

 遮光布。

 ミレイユとオルドアイが好きなもの。

 そして、骸骨劇団を人間界へ出すために必要な段取り。


 最後の項目だけ、見返して少し笑った。


(本当にどう説明するんだ、これ。)

(ミレイユの顔が目に浮かぶ。)

(でも、意外と商機を見つけるかもしれないな。)

(アルベールさんは普通に受け入れそうで怖い。)


 扉が叩かれた。


「ソータ様。」

「ご準備はよろしいでしょうか。」


 チャールズの声だった。


「はい。」

「行けます。」


 扉を開けると、チャールズが立っていた。

 黒い燕尾服。

 白い手袋。

 いつも通り完璧な姿だった。

 だが、今朝の彼は少しだけ厳粛に見えた。


「ルシア様は玄関広間でお待ちでございます。」


「分かりました。」


 ソータは部屋を出た。

 廊下を歩く。

 昨日まで何度も通った道だ。

 黒い石の壁。

 紫の灯。

 月光の回廊。

 肖像画の間へ続く分かれ道。

 食堂への階段。

 それらが、もう知らない場所ではなくなっている。


 玄関広間には、ルシアが立っていた。

 黒い外套を羽織り、フードはまだ被っていない。

 薄紫の髪が肩に流れている。

 目元には少しだけ眠気が残っていたが、表情はしっかりしていた。

 昨夜の涙の跡はもうない。

 ただ、ソータを見た瞬間に、ほんの少しだけ唇が震えた。


「おはよう、ソータ。」


「おはよう、ルシア。」


「この城の朝でも?」


「ああ。」

「今日は朝でいい。」


 ルシアは嬉しそうに微笑んだ。


 チャールズが玄関扉の前へ進み、スケルトンたちに合図する。

 巨大な黒い扉がゆっくりと開いた。

 外には、夜の領域が広がっている。

 霧は深い。

 だが、ソータはもう道を知っている。

 羽の印の木。

 根が二つに分かれた木。

 境界。

 低い丘。

 男たちの村。


 ソータはルシアを見た。


「行ってくる。」


 ルシアは一瞬だけ、昔のように腕を伸ばしかけた。

 引き止めようとする手だった。

 だが、その手は途中で止まる。

 彼女は小さく息を吸い、手の形を変えた。

 掴むのではなく、見送るために、胸の前で握る。


「行ってらっしゃい。」


 その言葉は、少し震えていた。

 それでも、確かに見送る言葉だった。


「きっと帰ってきてね。」


「約束しただろ。」


「ええ。」

「約束した。」


 ルシアは頷いた。

 チャールズが静かに一礼する。


「ソータ様。」

「道中、お気をつけて。」

「男たちの村までは、昨日確認された通りでございます。」

「境界を抜けた後は、通常の昼夜に戻りますので、時間感覚の変化にご注意くださいませ。」


「ありがとうございます。」

「チャールズさんも、ルシアをお願いします。」


「もちろんでございます。」

「それが私の役目でございますので。」


 ソータは頷いた。

 そして、城の外へ一歩踏み出した。

 冷たい夜気が体を包む。

 霧が足元を流れる。

 黒薔薇の香りが背中から追いかけてくる。


 振り返ると、ルシアが玄関に立っていた。

 大きな扉の前で、小さく見えた。

 あれほど強い吸血鬼の姫なのに、今は長い夜に残される一人の少女のようだった。


 ソータは手を上げた。

 ルシアも手を上げる。

 チャールズはその隣で深く頭を下げている。


 ソータは前を向いた。

 男たちの村へ向かう。

 帰るために。

 そして、また来るために。


 長すぎる夜の領域を、ソータは歩き出した。

 背中には荷物は見えない。

 だが、胸の中にはいくつもの約束が積まれていた。

 崩さないように。

 落とさないように。

 届けるために。


 まずは、男たちの村へ。

 そこから、北の砦へ。

 そして、グランデリアへ。


 ソータは静かに息を吐き、霧の道を進んだ。


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