第127話:城の外へ続く道
翌日という言葉が、この城でどれほど正しいのかは、やはりソータには分からなかった。
窓の外には、相変わらず長い夜が広がっている。
黒薔薇の庭には薄い霧が流れ、月光は尖塔の影を石畳へ細く落としていた。
ただ、燭火の色が少し淡くなり、遠くの森の向こうがほんのわずかに白んでいる。
ルシアが言うところの、短い昼が近づいている時間なのかもしれない。
ソータは客室の机の前に座り、昨日の夜に書いた整理表を見直していた。
男たちの村へ戻る道。
北の砦へつなぐ道。
グランデリアへ報告する道。
そして、ルシアの城へまた来るための道。
紙の上には、物資の名前と並んで、方角や注意点を書き込むための空白が残してある。
今日は、それを埋める日になる。
ルシアに城の外への道を聞く。
できれば、実際に城の外縁まで案内してもらう。
どこを抜ければ男たちの村へ向かえるのか。
北の砦とはどの位置関係になるのか。
この長い夜の領域はどれほど広いのか。
それを確かめなければならない。
(帰るための道を聞く。)
(それは、ルシアにとっては寂しい話だ。)
(でも、道を知らないままここにいる方が良くない。)
(戻るためにも、また来るためにも、まず道を知らないと。)
ソータは羽ペンを置き、立ち上がった。
体はかなり軽い。
昨日の湯浴みと睡眠で、消耗はほとんど抜けていた。
まだ全力で走る気にはならないが、普通に歩く分には問題ない。
荷物を運ぶ感覚も戻ってきている。
机の上には、水差しが置かれていた。
中には昨夜より多めの水が入っている。
横には小さな紙が置かれていた。
夜中に喉が渇いた時用。
その下に、少しぎこちない文字で、ルシア、と書いてある。
ソータは思わず笑った。
昨夜の出来事を思い出し、少しだけ顔が熱くなる。
とんでもない質問をされた。
できれば忘れたい。
だが、ルシアなりに反省した結果がこの水差しなのだろう。
喉が渇いて食堂へ来る必要がないように。
夜中に余計な質問会へ巻き込まれないように。
いや、もしかすると単純に、ソータが困らないように。
(こういうところは、本当に素直なんだよな。)
(だから困る。)
(怒りきれないし、突き放せない。)
扉が軽く叩かれた。
「ソータ、起きている?」
ルシアの声だった。
いつもより少し慎重に聞こえた。
ソータは水差しを見てから、扉の方へ向いた。
「ああ。」
「起きてる。」
扉が開いた。
ルシアが顔を出す。
今日は外へ出ることを意識しているのか、黒い外套を羽織っていた。
その下は動きやすい黒紫の服で、腰には細い飾り帯が巻かれている。
薄紫の髪は後ろでゆるくまとめられ、羽は隠されていた。
いつもの華やかさよりも、少しだけ旅支度に近い姿だった。
ただ、外套の隙間から見える首筋や、月明かりに透ける髪の色は、やはり普通の旅人とはまるで違う。
吸血鬼の姫だ。
どれほど人間らしく整えても、その事実は隠しきれない。
「水、置いてくれたのか?」
ソータが聞くと、ルシアは少しだけ胸を張った。
「ええ。」
「喉が渇いても、夜中に食堂へ来なくていいように。」
「助かる。」
「それと、変な質問会に巻き込まれないように。」
「自覚はあるんだな。」
「かなり進んだルシアだから。」
ルシアは真面目な顔で言った。
ソータは笑いそうになったが、なんとか堪えた。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
ルシアは嬉しそうにした。
そして、少しだけ表情を引き締める。
「今日は、外への道を教える日でしょう?」
「ああ。」
「嫌なら無理にとは言わない。」
「でも、俺は知っておきたい。」
「嫌よ。」
ルシアは正直に言った。
その声には、拗ねた響きも、寂しさもあった。
「でも、教えるわ。」
「ソータが帰る道を知らないままここにいるのは、尊重ではないもの。」
「チャールズもそう言った。」
「チャールズさんが?」
「ええ。」
「帰る道を隠すことは、優しさではなく檻でございます、って。」
「さすがだな。」
「檻は嫌。」
「私はソータを閉じ込める怖い吸血鬼になりたくない。」
ルシアはそう言ってから、少し目を伏せた。
「でも、少しだけ、なりかけていたのかもしれないわ。」
ソータはすぐには答えられなかった。
ルシアが自分でそれを言ったことが大きかったからだ。
以前なら、城に連れてきたから自分のもの、という感覚だった。
帰りたいと言っても、約束が違うと言って抱えて飛んだ。
それが今、自分の行動を檻と結びつけて考えている。
それは痛みを伴う進歩だった。
「気づいたなら、変えられると思う。」
ソータが言うと、ルシアは顔を上げた。
「間違えたら、直せばいい?」
「ああ。」
「ソータは、それを何度も言うわね。」
「自分にも言ってるのかもしれない。」
ルシアは少し不思議そうにソータを見た。
けれど、それ以上は聞かなかった。
聞きたい顔はしていたが、今日は我慢したらしい。
その小さな我慢に、ソータは気づいた。
◆◇◆
城の玄関広間に降りると、チャールズが待っていた。
黒い燕尾服に白手袋。
杖を持ち、いつものように背筋を伸ばしている。
玄関の巨大な扉の前には、外套を着たスケルトンが二体控えていた。
旅人というには怪しいが、遠目なら人間に見えなくもない。
少なくとも、北の砦に手紙を届けた使者たちと同じような装いだった。
「おはようございます、ソータ様。」
「ルシア様。」
「おはようございます。」
「この城でおはようが合ってるのか、まだ分かりませんけど。」
「お気になさらず。」
「ルシア様は時間帯にかかわらず、気分で朝と呼ばれることがございます。」
「チャールズ。」
ルシアが少し不満そうに言った。
「今日は朝の気分だったのよ。」
「左様でございますか。」
チャールズは優雅に一礼した。
その声音は丁寧だが、ほんの少しだけ面白がっているようにも聞こえた。
「本日は、城外への経路確認でございますね。」
「ああ。」
「一番近い人間の村が男たちの村なら、そこへ向かう方角を知っておきたいです。」
「そこから北の砦へも行けるし、グランデリアにも連絡できます。」
チャールズは頷いた。
「地理的には、その判断が最も合理的でございます。」
「ルシア様の城は、男たちの村から見て北東寄りの夜の領域にございます。」
「男たちの村、北の砦、ルシア様の城は、厳密には少しずれますが、大きく見ればほぼ一直線上に並んでおります。」
「一直線。」
ソータはその言葉に反応した。
「じゃあ、男たちの村を中継点にできるのか。」
「可能でございます。」
「ただし、人間側がルシア様の城の存在をどのように受け止めるかは、慎重に考える必要がございます。」
「それはそうですね。」
ルシアは少しだけ口を尖らせた。
「私は村を助けたわ。」
「助けた。」
「でも、みんなから見れば、地面からグールを出して盗賊を引きずり込んだ紫の羽の女だ。」
「言い方が怖いわ。」
「実際、怖かったと思うぞ。」
ルシアは考え込んだ。
自分では助けたつもり。
実際に助けた。
だが、その助け方が人間からどう見えるか。
そこを少しずつ考えられるようになってきている。
「では、私はまず、怖くないと説明しないといけないのね。」
「怖くないというか、危害を加えるつもりはないって説明かな。」
「でも、怖くない方がよくない?」
「それは時間がかかる。」
「時間。」
「信頼は一回で運べないからな。」
ルシアは瞬きをした。
「信頼も荷物?」
「似てるかもしれない。」
「少しずつ運んで、少しずつ積む。」
「重い?」
「軽くはない。」
「壊れやすい?」
「かなり。」
ルシアは真剣に頷いた。
「分かったわ。」
「信頼は壊れやすい荷物。」
「丁寧に運ぶ。」
「だいたい合ってる。」
チャールズが静かに言った。
「ソータ様の比喩は、ルシア様には非常に理解しやすいようでございますね。」
「俺が運送屋だからですかね。」
「おそらくは。」
ルシアは少し嬉しそうにした。
ソータの言葉で、自分が何かを学んでいる。
それが嬉しいのだろう。
チャールズは扉の前へ進み、重い玄関扉を開けるようスケルトンたちへ合図した。
黒い扉がゆっくり開く。
冷たい夜気が流れ込んだ。
外には黒い石の階段が続き、その先に霧の庭が広がっている。
空はまだ暗い。
だが、地平の奥がわずかに白い。
短い昼が近い。
ルシアは外套のフードを深く被った。
「行きましょう。」
「ソータが帰る道を教えるわ。」
その声は静かだった。
寂しさを隠しきれてはいない。
だが、逃げてもいなかった。
◆◇◆
城の外に出ると、夜の領域の空気が肌に触れた。
冷たい。
けれど、単なる寒さではない。
霧が魔力を含んでいるのか、皮膚の表面を薄い布で撫でられるような感覚がある。
黒薔薇の庭を抜けると、石畳の道が森へ伸びていた。
道はある。
ただ、人が通る道というより、城が自分のために作った通路のようだった。
両側には黒い木々が並び、枝には銀色の苔が垂れている。
足元には紫の小さな花が咲いていた。
その花は、ソータが近づくと閉じる。
ルシアが近づくと開く。
この土地全体が、吸血鬼の姫に従っているように見えた。
「この道をまっすぐ?」
ソータが聞くと、ルシアは頷いた。
「しばらくは。」
「でも、霧の流れが変わる場所で右に曲がる。」
「左へ行くと古い墓地。」
「まっすぐ行きすぎると、森の中を同じ場所に戻るわ。」
「迷いやすいな。」
「知らない人間なら、たぶん迷う。」
「でも、ソータなら私が印を教える。」
ルシアは少し得意そうに言った。
「印?」
「あれ。」
ルシアが指差した先に、黒い木の幹があった。
幹には、紫の羽に似た小さな模様が浮かんでいる。
自然の模様にも見えるが、よく見ると道標のようだった。
「あの羽の印がある木を三つ越える。」
「その次に、根が二つに分かれた木がある。」
「そこで右。」
「霧が足首より濃くなったら間違い。」
「膝まで濃くなったら、すぐ戻る。」
「胸まで来たら、たぶん戻れない。」
「最後が怖い。」
「でも、今日は私がいるから大丈夫。」
ルシアはそう言って、ソータの隣を歩いた。
手は繋がない。
昨日までなら自然に手を差し出したかもしれない。
今日は、外套の端を握ったまま歩いている。
たまにソータを見て、手を出したそうにして、やめる。
ソータはそれに気づいた。
少し迷ってから、自分から手を差し出した。
「道案内なら、手を繋いだ方がいいか?」
ルシアは大きく目を見開いた。
「いいの?」
「迷わないためなら。」
「迷わないため。」
「そうだ。」
ルシアは嬉しそうに手を取った。
冷たい指が、ソータの手を握る。
以前よりも力は弱い。
逃がさないためではなく、道を教えるための握り方だった。
「これは尊重?」
「たぶん。」
「では、私はかなり進んだルシア。」
「自分で言うの好きだな。」
「言うと進んだ気がするもの。」
ルシアは少し笑った。
ソータも笑う。
森の中を歩きながら、二人の足音が霧に吸われていく。
しばらく歩くと、周囲の空気が変わった。
夜の濃さが少し薄くなる。
霧の向こうが明るい。
森の枝の隙間から、白っぽい光が差し始めていた。
ルシアが少しだけ眉を寄せた。
「短い昼が近いわ。」
「大丈夫か?」
「少しなら平気。」
「でも、眩しいのは好きではない。」
ソータはルシアの外套を見た。
フードは深いが、薄い光でも彼女には負担なのだろう。
人間にとっては朝のような淡い光でも、吸血鬼には棘に近いのかもしれない。
ソータは《神速積載庫》を意識した。
中から厚手の黒い布を取り出す。
以前、荷を覆うために使っていた油布ではなく、少し柔らかい布だ。
北の砦へ運ぶ予定だった予備の布の一枚だった。
「これ、使うか?」
ルシアは目を丸くした。
「何?」
「日除け。」
「フードの上からかければ、少しはましだろ。」
ルシアは布を見た。
それからソータを見る。
「ソータの荷物?」
「予備だ。」
「あとで代わりを補充すればいい。」
「私のために出すの?」
「日差しがつらいんだろ。」
ルシアは黙った。
薄紫の瞳が揺れる。
ほんの少しの布。
ソータにとっては予備物資の一つ。
だが、ルシアにとってはそうではないようだった。
「嬉しい。」
「大げさだな。」
「大げさではないわ。」
「ソータが、私の苦手なものを考えてくれた。」
ルシアは布を受け取り、大事そうにフードの上へかけた。
少し不格好だった。
だが、日差しはかなり避けられそうだった。
「どうだ?」
「楽。」
「目がちりちりしない。」
「目もちりちりするのか?」
「するわ。」
「肌も、目も、気分も。」
「気分も。」
「日差しは失礼だから。」
「日差しに礼儀を求めるのか。」
ルシアは真剣だった。
ソータは笑った。
さらに歩くと、霧が急に薄くなった。
森の空気が変わる。
黒い木々の色が、少し普通の森に近づいていく。
紫の花は減り、代わりに枯葉や苔が増えた。
鳥の声がした。
この城に来てから、ほとんど聞かなかった普通の鳥の声だった。
ソータは立ち止まった。
「ここが境界か?」
ルシアも立ち止まった。
少しだけ寂しそうに頷く。
「そう。」
「ここから先は、夜が普通になる。」
「私の城の領域は、ここまで。」
ソータは振り返った。
来た道は、すでに霧に沈みかけている。
城そのものは見えない。
だが、道を覚えれば戻れる。
羽の印の木。
根が二つに分かれた木。
霧の濃さ。
右へ曲がる場所。
頭の中に積み込むように、ソータは一つずつ確認した。
(思ったより近い。)
(城の中では夜が長くて閉じ込められてる気がしたけど、領域そのものは抜けられる。)
(方角さえ分かれば、男たちの村まで行ける。)
(ここは本当に、つながる場所なんだ。)
ソータはさらに先を見た。
森の切れ間の向こうに、遠くの地形が見える。
まだはっきりしないが、低い丘の向こうに男たちの村がある方角だろう。
そのさらに先に、北の砦。
そして、道を下ればグランデリア。
「男たちの村は、あっちか?」
ソータが指差すと、ルシアは頷いた。
「ええ。」
「あの低い丘を越えて、右へ下る。」
「人間の道に出るわ。」
「そこから先は、私よりソータの方が詳しいでしょう。」
「たぶんな。」
「北の砦は?」
「男たちの村から見て、もっと北。」
「霧の道を上がる方。」
「私の城から見ると、ほぼ同じ線の先にあるわ。」
「なるほど。」
「本当に一直線に近いな。」
ソータは頭の中で地図を描いた。
ルシアの城。
男たちの村。
北の砦。
そして、そこからグランデリアへ下る物流路。
これなら、男たちの村を中継にして吸血鬼の城へ物資を運べる。
もちろん、問題は山積みだ。
村人がどう受け入れるか。
北の砦がどう判断するか。
ミレイユがどう段取りを組むか。
オルドアイがどう怒るか。
ルシアが人間社会とどう向き合うか。
だが、道はある。
道があるなら、運べる可能性がある。
ルシアはソータの横顔を見ていた。
「ソータ。」
「今、荷物のことを考えている?」
「分かるのか?」
「顔が運送屋になっている。」
「どんな顔だよ。」
「目が道を見て、頭の中で何かを積んでいる顔。」
「だいぶ正確だな。」
ルシアは少し嬉しそうにした。
ソータのことを見ている時間が長いだけあって、変なところで鋭い。
ソータは境界の先を見ながら、ふと思いついた。
本当に何気なく。
けれど、その一言は、ルシアにとって大きな意味を持つだろうと思った。
「ルシア。」
「なに?」
「次に来る時、何を持ってきてほしい?」
ルシアは動きを止めた。
手を繋いでいた指が、ぴくりと震える。
「次に来る時。」
「ああ。」
「方角も分かったし、道も覚えた。」
「すぐに何度も来られるとは言えないけど、来るなら空荷では来ない。」
「必要なものがあるなら、持ってくる。」
ルシアはじっとソータを見た。
薄紫の瞳が大きく開いている。
驚きと、疑いと、期待と、怖さが全部混ざっているようだった。
「ソータは、帰る話をしているのに。」
「次に来る時の話もするの?」
「帰らないと、次に来られないからな。」
「それは……。」
ルシアは言葉を失った。
ソータは続ける。
「帰るのは、終わりにするためじゃない。」
「約束を果たすためだ。」
「ミレイユにも、オルドアイにも、男たちの村にも、ちゃんと説明する。」
「それで、この城へ来る道を作る。」
「君が外とつながれるように。」
ルシアの手に力が入った。
今度は逃がさない力ではなかった。
何かを受け止めるような力だった。
「本当に?」
「本当に。」
「私が欲しいものを言ってもいいの?」
「ああ。」
「ただ、危ないものとか、人を困らせるものは駄目だぞ。」
「人間の血は?」
「絶対駄目。」
「冗談よ。」
「本当に冗談か?」
「少し試した。」
「やめろ。」
ルシアは小さく笑った。
その笑いは、少し震えていた。
「では、本。」
「人間の家族の本?」
「それも。」
「人間の恋人の本も。」
「贈り物の本も。」
「謝り方の本も。」
「謝り方の本なんてあるかな。」
「なければ、ミレイユに聞いて書いてもらって。」
「いきなり難易度が高いな。」
ルシアは少し考えた。
「それと、人間の食事の材料。」
「ソータが食べて、おいしいと言うもの。」
「チャールズにも作り方を覚えてもらうわ。」
「それはいいな。」
「それから、昼でも使える厚い布。」
「さっきのようなもの。」
「でも、もっときれいなものがいいわ。」
「遮光用の布か。」
「持ってこられると思う。」
「あと。」
ルシアはそこで少し迷った。
外套の下で、薄紫の瞳が揺れる。
「ミレイユとオルドアイが好きなもの。」
ソータは驚いた。
「二人が好きなもの?」
「ええ。」
「私は、二人のことを知らない。」
「でも、二人はソータの帰る場所でしょう。」
「なら、知りたい。」
「怒られるとしても、何を大事にしているのか知りたい。」
ソータはしばらくルシアを見ていた。
長い夜の中で、彼女は変わっている。
最初は、ミレイユとオルドアイをただの障害のように見ていた。
ソータが帰ってしまう場所。
自分からソータを奪う相手。
そんなふうにしか捉えられなかった。
だが、今は違う。
まだ嫉妬はある。
怖さもある。
でも、知ろうとしている。
相手の大事なものを知ろうとしている。
「分かった。」
「聞いてくる。」
「二人が何を好きか。」
「何を大事にしてるか。」
「それを、持ってきてくれる?」
「持てるものなら。」
「持てないものなら、言葉で運ぶ。」
ルシアはその言葉に、ゆっくり頷いた。
「言葉も運ぶ。」
「ソータは忙しいわね。」
「最近、荷物が増えすぎてる気はする。」
「私も荷物?」
「荷物というより、届け先かな。」
「届け先。」
ルシアは少し嬉しそうにした。
「それもいいわ。」
ソータは空を見た。
霧の向こうの白い光が、少しずつ強くなっている。
ルシアの外套越しにも、その光は気になるようだった。
彼女の眉が少し寄っている。
「そろそろ戻ろう。」
「日差しが強くなる前に。」
「ええ。」
ルシアは素直に頷いた。
そして、ソータの手を握ったまま、城の方へ向き直った。
◆◇◆
帰り道、ルシアは少し静かだった。
森の霧が濃くなるにつれて、彼女の表情は楽になっていく。
白い光が薄れ、紫の夜気が戻ってくる。
吸血鬼の領域に入るほど、ルシアの足取りは軽くなった。
ソータにとっては逆に、時間の感覚がまた曖昧になっていく。
羽の印の木を越える。
根が二つに分かれた木を曲がる。
霧が足首に絡む。
黒薔薇の香りが遠くから漂ってくる。
道順は頭に入った。
これなら、チャールズの地図と合わせれば一人でも行けるかもしれない。
もちろん、最初は慎重に動く必要がある。
「ソータ。」
ルシアが小さく呼んだ。
「何だ?」
「帰る時、一人で行くの?」
「たぶん。」
「いきなり君が一緒に行くと、村が大騒ぎになる。」
「私は大騒ぎを起こす?」
「起こす。」
ソータは即答した。
ルシアは少しむっとした。
「否定しないのね。」
「正直に言わないとな。」
「尊重?」
「そう。」
「便利ね、尊重。」
「便利にしすぎるな。」
ルシアは少し笑った。
それから、また真剣な顔になる。
「でも、いつか私も行く?」
「そのために準備する。」
「昼の対策。」
「人間に驚かれない服。」
「説明の順番。」
「ミレイユとオルドアイに会う段取り。」
「全部必要だ。」
「多いわ。」
「外に出るって、そういうことだと思う。」
ルシアは空を見上げた。
木々の隙間に、月が戻っている。
夜の領域の中では、さっきの短い日差しが嘘のようだった。
「私、ずっとこの城にいたわ。」
「外へ行く理由がなかった。」
「行きたい場所もなかった。」
「でも、今は少し違う。」
「どう違う?」
「怖い場所が増えた。」
「でも、知りたい場所も増えた。」
ソータは隣を歩きながら、その言葉を聞いていた。
「グランデリア。」
「北の砦。」
「男たちの村。」
「ミレイユがいる場所。」
「オルドアイがいる場所。」
「ソータが荷物を運ぶ道。」
「全部、少し怖い。」
「でも、少し見たい。」
「それなら、いつか見に行けるようにしよう。」
「いつか。」
「ああ。」
「いつかは、約束?」
「道を作る約束の中に入れておく。」
「また道。」
「俺は運送屋だからな。」
ルシアは嬉しそうに笑った。
その笑顔に、ソータは少しだけ安心した。
城の門が見えてきた。
黒い石の壁。
紫の灯。
大きな扉。
その前に、チャールズが立っていた。
まるで、二人が戻る時間を最初から分かっていたかのように。
「お帰りなさいませ、ルシア様、ソータ様。」
「ただいま、チャールズ。」
「ただいま戻りました。」
ソータも自然にそう言った。
言ってから、自分で少し驚いた。
ただいま。
この城に対して、その言葉が出た。
ルシアも気づいたらしい。
ぱっとソータを見る。
「今、ただいまって言った。」
「あ、いや。」
「言ったわ。」
「この城に、ただいまって。」
「言葉の流れで。」
「嬉しい。」
ルシアは本当に嬉しそうだった。
ソータは困ったように頭をかいた。
チャールズは何も言わず、ただ静かに一礼した。
その仕草が、どこか微笑ましそうに見えた。
◆◇◆
食堂に戻ると、チャールズが人間用の軽食を用意してくれた。
温かいスープと、柔らかいパン。
それから、薄めに淹れた黒薔薇のお茶。
ルシアは向かいに座り、またソータが食べる様子を見ていた。
ただし、今日は最初に聞いた。
「見てもいい?」
「少しなら。」
「少し見る。」
そう言って、ルシアは本当に少しだけ見て、すぐにお茶の湯気へ視線を移した。
またちらりと見る。
また逸らす。
努力が分かりやすい。
ソータは思わず笑った。
「笑った。」
「努力が見えたからな。」
「良い笑い?」
「良い笑い。」
ルシアは満足そうにした。
チャールズが地図を広げた。
古い羊皮紙の地図だ。
人間の地名とは違う文字も多いが、山や森、川の位置は分かる。
チャールズは細い骨の指で場所を示した。
「こちらがルシア様の城でございます。」
「この霧の帯が、夜の領域の外縁。」
「こちらが男たちの村に相当する位置。」
「北西寄りに北の砦。」
「そこから南西へ下る道が、グランデリア方面へ続きます。」
ソータは地図を覗き込んだ。
「やっぱり、男たちの村が一番近いですね。」
「はい。」
「ただし、村からこの城へ直接来る道は、人間側には認識されておりません。」
「霧に隠されておりますので。」
「そこをどうするかだな。」
「勝手に道を開けると、危険も増える。」
「おっしゃる通りでございます。」
「ルシア様を狙う者、城の財を狙う者、あるいは夜の領域そのものを恐れる者が来る可能性もございます。」
ルシアは少し首を傾げた。
「私を狙う者?」
「あり得ます。」
チャールズの声が、少しだけ硬くなった。
「吸血鬼族は滅んだものとされております。」
「しかし、もし生き残りがいると知れれば、恐怖や敵意を抱く者も出るでしょう。」
「特に、古い教会勢力や隣国の一部勢力は、夜に属する種族を忌避する傾向がございます。」
「私は、人間の血を吸ったことがないわ。」
「それでも、相手が信じるとは限りません。」
ルシアは黙った。
ソータも表情を引き締める。
「隣国……。」
男たちの村を襲った盗賊軍団。
隣国のせいにして村を潰し、その先の北の砦を狙おうとしていた連中。
あれで終わりとは限らない。
むしろ、その背後に誰かがいたなら、次の動きがあってもおかしくない。
「チャールズさん。」
「この城の存在は、外に知られているんですか?」
「ほとんど知られていないはずでございます。」
「少なくとも、ここ数十年は人間の軍勢が近づいた記録はございません。」
「ただし、先日の盗賊軍団の一件で、ルシア様が大きく力を使われました。」
「紫の羽、グールの召喚、夜の魔力。」
「遠くから感知できる者がいれば、気づかれた可能性は否定できません。」
ルシアは少し不安そうにソータを見た。
「私、目立った?」
「かなり。」
「また即答。」
「でも、あの時は助かった。」
「君が来なかったら、俺も村も危なかった。」
ルシアはその言葉に少しだけ安心したようだった。
だが、チャールズの表情は変わらない。
骨なので表情はないのだが、気配が少し重い。
「この件は、今後注意が必要でございます。」
「ソータ様が一度お戻りになり、人間側と調整されることは、やはり重要かと存じます。」
「そうですね。」
ソータは地図を見つめた。
ルシアの城。
男たちの村。
北の砦。
グランデリア。
道を作れば、物資も手紙も運べる。
だが、道を作ることは、危険も運び込むことになる。
物流路は命綱であり、同時に敵にとっての侵入口にもなる。
(道を作るなら、守る方法も考えないといけない。)
(ただ運ぶだけじゃ駄目だ。)
(誰を通すか、何を隠すか、どこを開けるか。)
(ミレイユなら、そこを考えるはずだ。)
(オルドアイなら、守る場所を考える。)
(アルベールさんなら、もっと嫌な可能性まで見るだろうな。)
ソータは少しだけ息を吐いた。
荷がまた増えた。
だが、それは必要な荷だった。
◆◇◆
食後、ルシアはソータを月光の回廊へ連れて行った。
今日は案内というより、ただ一緒に歩きたいだけのようだった。
回廊の銀模様が淡く光り、足元に月の道を作っている。
二人は並んで歩いた。
手は繋いでいない。
だが、距離は近い。
ルシアは時々、ソータの横顔を見る。
何かを言いたそうにして、言わない。
ソータはそれに気づいていた。
「聞きたいことがあるなら、聞いていいぞ。」
ソータが言うと、ルシアは少し驚いた。
「分かった?」
「分かりやすいから。」
「私はそんなに分かりやすい?」
「かなり。」
「そう。」
ルシアは少しだけ唇を尖らせたが、すぐに真面目な顔になった。
「ソータが帰ったら、私はまた一人になるの?」
静かな問いだった。
ソータは足を止めた。
回廊の光が二人の足元で揺れる。
「一人に戻るのが怖いのか?」
「怖い。」
ルシアは正直に答えた。
「前は、それが普通だった。」
「この城は静かで、チャールズがいて、スケルトンたちがいて、黒薔薇があった。」
「それで十分だと思っていた。」
「でも、ソータが来てから、食堂で誰かが食べる音を聞いた。」
「寝息を聞いた。」
「話して、笑って、困らせて、怒られて、謝った。」
「それを知ってしまったら、前の静けさが少し怖い。」
ソータは胸の奥が重くなるのを感じた。
ルシアは強い。
盗賊軍団を一人で蹴散らすほどの力を持つ。
矢の雨も防ぐ。
グールも呼べる。
だが、その強さと孤独は別のものだ。
「前と同じにはならないと思う。」
「どうして?」
「俺が道を覚えた。」
「手紙も出せる。」
「チャールズさんも使者を出せる。」
「それに、次に持ってくるものも決めた。」
「完全に前と同じには戻らない。」
ルシアは黙った。
その言葉を胸の中で確かめているようだった。
「でも、ソータはいない。」
「しばらくはな。」
「しばらく。」
「ずっと来ないとは言ってない。」
「来る道を作る。」
「ああ。」
ルシアはゆっくり息を吐いた。
吸血鬼も息を吐くのだと、ソータは妙なところで思った。
呼吸が必要なのかどうかは分からない。
だが、彼女は人間のように息を整え、胸の痛みを逃がそうとしているように見えた。
「ミレイユとオルドアイも、同じように待っているのね。」
「たぶん。」
「私より前から。」
「そうだな。」
「なら、私は順番を抜かしたのね。」
ルシアは自分でそう言った。
少し痛そうな顔だった。
「助けてくれたことは事実だ。」
「でも、順番を飛ばしたのも事実だと思う。」
「うん。」
ルシアは頷いた。
以前なら、そこで言い返したかもしれない。
私は助けたのに。
約束したのに。
ソータを連れてきたのは当然だと。
だが今は、違う。
「謝る練習をもっとするわ。」
「それがいい。」
「ミレイユには、まず心配させてごめんなさい。」
「オルドアイには、ソータを勝手に連れて行ってごめんなさい。」
「その後で、助けたことも本当だと言う。」
「それから、ソータを帰したくなかったことも……。」
「そこは、もっと後でいい。」
「順番。」
「そう、順番。」
ルシアは小さく頷いた。
「順番は大事。」
「かなり大事。」
「私は、順番が苦手。」
「少しずつ覚えればいい。」
「ソータは、待ってくれる?」
「俺も失敗するからな。」
「お互い様だ。」
ルシアはその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
「お互い様。」
「それは少し家族っぽい?」
「場合による。」
「また場合。」
「でも、少しは近いかもしれない。」
ルシアの顔がふわりと明るくなった。
ほんの一言で、こんなにも表情が変わる。
ソータはその危うさと愛しさを同時に感じた。
その時、回廊の奥からチャールズの杖の音が聞こえた。
かつん。
かつん。
かつん。
彼は静かに二人の前へ現れ、一礼した。
「ルシア様、ソータ様。」
「短い昼の時間が終わります。」
「本日は、城の外縁まで歩かれたこともございますので、ソータ様には休息をお取りいただくのがよろしいかと。」
「もう?」
ルシアが少し不満そうに言う。
「はい。」
「おもてなしも、道案内も、学習も、詰め込みすぎは禁物でございます。」
「詰め込みすぎると荷崩れする?」
「まさに。」
チャールズは即答した。
ソータは笑った。
「チャールズさんまで運送屋みたいなことを言い始めた。」
「ソータ様の影響でございます。」
「俺のせいですか。」
「大変分かりやすい比喩でございますので。」
ルシアは真剣に頷いた。
「荷崩れは駄目。」
「では、今日は休む。」
「ご立派でございます。」
チャールズが一礼した。
ルシアは少し得意そうにした。
◆◇◆
客室へ戻ると、ソータは少し疲れを感じた。
体力は戻っている。
だが、城の外縁まで歩いたこと、方角を頭に入れたこと、ルシアの気持ちを受け止めたこと。
それらは思ったよりも重かった。
肉体の疲れより、心の荷の方が重い。
机の上に地図を書き写す。
羽の印。
根が二つに分かれた木。
霧が濃くなる場所。
境界。
男たちの村の方角。
北の砦の位置。
簡単なものだが、これで忘れにくくなる。
ルシアは寝台の横に座り、それをじっと見ていた。
今日は枕を抱えていない。
その代わり、ソータが渡した黒い布を膝の上に置いている。
日除けに使った布だ。
ただの予備布なのに、彼女は妙に大事そうに撫でていた。
「それ、返してくれていいぞ。」
ソータが言うと、ルシアは布を抱え込んだ。
「嫌。」
「そんなに大事なものじゃないぞ。」
「ソータが出してくれた。」
「私の日差しのために。」
「だから、これは私の贈り物。」
「贈り物にするつもりはなかったんだけど。」
「でも、私は嬉しかった。」
「贈り物は、相手が嬉しければ贈り物になる?」
ソータは少し考えた。
「まあ、そういうこともあるかもな。」
「なら、これは贈り物。」
「分かった。」
「じゃあ、持ってていい。」
ルシアは嬉しそうに布を抱いた。
黒い外套に黒い布。
見た目としてはほとんど変わらない。
だが、彼女には大きな違いがあるらしい。
「次に来る時は、もっとちゃんとした遮光布を持ってくる。」
「本当?」
「ああ。」
「厚くて、軽くて、見た目も少しは良いやつ。」
「ミレイユに相談すれば、いい布を選んでくれると思う。」
「ミレイユが。」
ルシアは少し緊張したように言った。
「ミレイユは、私のために布を選んでくれるかしら。」
「最初から喜んではくれないと思う。」
「でしょうね。」
「でも、必要だと分かれば、ちゃんと考えてくれる。」
「そういう人だ。」
「強いのね。」
「強い。」
「オルドアイも?」
「強い。」
「別の意味で。」
「私は、二人に会うのが怖くなってきたわ。」
「怖くていいと思う。」
「怖いと思うなら、ちゃんと向き合おうとしてるってことだろ。」
ルシアは少し黙り、それから頷いた。
「そう思うことにする。」
ソータは地図を書き終えた。
羽ペンを置く。
これで、道は頭と紙の両方に入った。
帰る日は近い。
それをルシアも分かっている。
しばらく沈黙が流れた。
今夜の沈黙は、以前よりも重い。
けれど、逃げるための沈黙ではなかった。
互いに考えている沈黙だった。
やがてルシアが口を開いた。
「ソータ。」
「十日目が来たら、帰るの?」
ソータは手を止めた。
その問いが来ることは分かっていた。
城に来てからの日数。
手紙を出した日。
体力の回復。
道の確認。
すべてがその方向へ進んでいる。
「十日目には、ちゃんと決める。」
「帰るかどうかを?」
「帰る意思はもうある。」
「ただ、どう帰るかを決める。」
ルシアの顔が少し曇った。
だが、泣かなかった。
怒らなかった。
ただ、布を握った。
「そう。」
「ルシア。」
「分かっているわ。」
「私は、かなり進んだルシアだから。」
「でも、寂しいものは寂しい。」
「ああ。」
「だから、十日目の前に、もう一度だけ宴をしたい。」
「宴?」
「今度は、もう少し上手な宴。」
「ソータが帰る前の宴。」
「でも、引き止めるためだけではないわ。」
「道を作る約束の宴。」
ソータはルシアを見た。
彼女は真剣だった。
前のような、ソータを喜ばせてここにいたくさせるだけのおもてなしではない。
もちろん、その気持ちも少しはあるだろう。
だが、それだけではない。
帰る前に、ちゃんと向き合いたい。
楽しい時間を、閉じ込めるためではなく、次につなげるために置きたい。
そういう願いが見えた。
「分かった。」
「宴、しよう。」
ルシアの顔が明るくなった。
「本当?」
「ああ。」
「ただし、スケルトン楽団は少し練習してからな。」
「前の音楽、怖かった?」
「かなり。」
「でも、楽しかったでしょう?」
「それは認める。」
「では、怖さを少し減らして、楽しさを増やすわ。」
「できるのか?」
「チャールズが何とかするわ。」
「私でございますか。」
扉の外からチャールズの声がした。
いつからいたのかは、もう聞かないことにした。
「チャールズ。」
「楽団を練習させて。」
「怖さを少し減らして、楽しさを増やすの。」
「大変難度の高いご命令でございますが、承知いたしました。」
「さすがチャールズ。」
「恐れ入ります。」
ソータは笑った。
ルシアも笑った。
その笑い声は、長い夜の客室に柔らかく広がった。
だが、窓の外には相変わらず黒い夜がある。
十日目は近い。
帰る道は見えた。
また来る道も、少し見えた。
だからこそ、次に選ぶことから逃げることはできない。
(帰る。)
(でも、終わりじゃない。)
(道を作る。)
(ルシアにも、ミレイユにも、オルドアイにも、ちゃんと説明する。)
(荷崩れしないように、一つずつ。)
ソータは書き写した地図を畳んだ。
その地図は、小さな紙一枚に過ぎない。
だが、そこには長すぎる夜の城と、外の世界をつなぐ最初の線が引かれていた。
ルシアは膝の上の黒い布を抱きしめたまま、窓の外を見ていた。
彼女の横顔には、寂しさと期待が同時に浮かんでいる。
外へ続く道は、もう見えた。
あとは、その道を誰がどう歩くのかを決めるだけだった。




